05/02/14 00:33:47 gpBAmBi60
江戸時代の処刑場の真上を現在も線路が通っています。そこから100mほど離れた
宿場町の裏手に昔大きな牢屋があってそこから役人と白い裃を来た首切り役人が
処刑される人と身内を刑場に連れて来ました。傍を流れる今は一級河川の手前で
打ち首にされました。その辺りは今は踏切になっていますが、少々怖いです。
山の上の寺院に首と遺体を埋めにいったそうですが、遺体の一部は身内が持ち
帰ることもあったそうです。今では廃寺になっています。首切り役人の一家は
その一族のお頭と呼ばれ苗字帯刀を許されていました。お頭は世襲でもあり
夜中でも罪人が出ればその身内のものが供をして今の裁判所のようなところに
出向き、刑が決まると連れ帰り、お頭が子供であってもその立会いの下で、
罪人の首をはねました。一族も昭和初期までは他の家に来るときは玄関先の
土間に正座し、端の欠けた茶碗を持参して申し訳なさそうに用を告げると
帰っていきました。最近まで老人の中には玄関に足を踏み入れていいか、
真顔で尋ねる方もいて、玄関先で裸足になろうとする方もいました。