あなたのおじい様の戦争体験を教えて その13at ARMY
あなたのおじい様の戦争体験を教えて その13 - 暇つぶし2ch288:名無し三等兵
06/11/26 14:32:44
うちのジジィの口癖は「武田の赤備えは強かった苦労した」でした

289:名無し三等兵
06/11/26 14:36:47 t7ezlegj
俺のじいさんは仕事の関係で前線に行けなかった

悔しかったそうだ


290:名無し三等兵
06/11/26 14:43:59 kNAdukJn
子供の頃に聞いたきりなので、色々間違ってるかもしれないんだけど

うちの爺さんは中国で夜襲に合った時、機関銃(?)の弾が無くなってしまったので
仕方なくそこにあった石を投げて応戦してたたそうだ。
あと大戦末期、ガ島に行くように言われたとき、拒否して助かったって言う話も聞いた。
結構面白い人だったらしく、俺の幼い頃に亡くなったのが残念でならない。

291:名無し三等兵
06/11/26 14:48:51 kBRkKGdc
うちの爺さんの口癖は川中島の戦いは激戦だった苦労しただった

292:名無し三等兵
06/11/26 14:54:03 HCsCVWSp
うちの爺さんは横須賀で技術者をやってた関係で従軍はしなかったみたい。
従軍しなかったけど軍艦の技術改善で表彰されたことを誇っていました。
今となってはもっと詳しく聞いておけば良かった。

293:ドヴァ帝国国民
06/11/26 16:16:54
>>287
>ヘリ
大嘘決定(藁

294:名無し三等兵
06/11/26 17:52:55
大戦後ならあったんじゃない。ヘリ
日本だって戦中、萱場式オートジャイロ作ってるんだし。

295:名無し三等兵
06/11/26 19:00:14
以前中国戦線で副官として仕えていた上官(手記には「村井将軍」と書いてある)にフィリピンで再会したが、
その上官がペリリュー島守備隊に派遣される事になって
「大陸の作戦なら慣れてるが島嶼防御には全く自信がない」
と彼が言っていたので内地勤務時代に手に入れた島嶼防御研究資料を手渡して説明してあげたら喜んでくれた

といった内容(一部省略)がうちの祖父の手記に書いてあった

296:1(爺さん)
06/11/26 19:20:34
爺さんは学徒出陣で中国→満州と転戦。
曾爺さんは技術軍属で満鉄に居た。
と言う事で、うちの一家は全員満州に住んでた。

爺さんは当時の事は余り話さないが、それでもちらほらと語ってくれる。

部隊が大休止をとる際、湯を沸かす入れ物を探せと言われ
きれいな皿を見つけて喜び持って行くとそれは中国人たちが
使う便器だと言われ怒鳴られたとか。

空襲に対して高射砲を撃つが、爆撃機よりも下でポンポンと弾け届かず
同期の連中と呆然と空を見上げていた事とか。

塹壕に籠もって戦闘中、必死に防戦していた戦友が頭をや肩を打ち抜かれ
苦痛にのたうち回り、死んでいく姿をみて、震えながら敵兵を撃ち殺していた事とか。

つい2~3年前、小泉首相から当時の兵隊に対して証書か何かが出たらしく。
首相の名前が入った証書をうれしそうに眺め、やたらと自慢してきた。


297:名無し三等兵
06/11/26 19:32:30 5gD8SSjm
祖父は旧制中学の高学年での軍事教練で市街戦訓練をミッチリ受けたそうだ。

市街戦訓練の内容は日本軍らしく、奇襲による肉弾攻撃だ。
訓練は銃剣を装着した38式(訓練では木銃か竹槍)を持って物陰に潜んで、
合図の号令とともに物陰から素早く飛び出して10mくらい離れたところにある
米兵に見立てた「土のう」に駆け寄って突き刺し、そのまま全速力で走りつつ
別の物陰に隠れ直すという内容だったそうだ。走るのが遅い奴や、突きに気合が
入っていない奴は、がんがん鉄拳制裁をくらったそうだ。

298:2(曾爺さん)
06/11/26 19:38:35
曾爺さんは満州事変後から技術軍属として満州へ行っていたらしい。
らしいと言うのは曾爺さんはすでに俺が生まれたときには居なかったから。
この話は婆ちゃんから聞いた物でどれほど真実かは知らん。

曾爺さんは「おまえらは内地で暮らしていろ」と、曾婆ちゃんらに言ったが
曾婆ちゃんは「あんたが一人で行ってなにができるんや」
と言うような事を言って一緒について行ったそうだ。

満鉄の電気配線(車内の電気設備や計器)の業務に携わっていたという。
大戦末期には、婆ちゃんに「この戦争は負ける。今から内地に帰る用意しとけ」
と言って出かけていき、その日、工場が中国人に襲撃されで殉職したらしい。

当時天皇陛下の為に云々と言って命令していた上官に
「陛下の為にと言うのは、陛下にわしらを背負わせる行為だ。
自分の事は自分で背負わにゃならん。陛下に頼って良いもんではない。」
と曾爺ちゃんは言っていたらしいから、異端だったのかも知れん。


299:名無し三等兵
06/11/26 19:39:17
>>294
大戦後、移送中の捕虜を機銃掃射はしないと思うよ。

時系列逆になるが、降伏前の話で、ヘリってのは誤認では?
あるいは作り話か。

300:3(婆ちゃん達)
06/11/26 19:54:02
婆ちゃんがよく話すのは満州での事と、満州から引き上げる時のことだ。

満州の田舎に居を構えたが、近くには市場がなかったらしい。
そこで、婆ちゃんは荷車を押して町まで行き、物資を買い込んで
近所で売ると言う八百屋のようなものを経営していたそうだ。
経営と言っても、当時は14~16だったから、相当な物だと思う。

そんなこんなで、大戦末期、降伏。
日本人には内地への帰還命令が出て、兵隊が護衛についた。
集められたのはどこかの軍施設で鉄道と徒歩でプサンまで移動する物。
持ち物は食料と現金2000円のみ。それ以上は持って行けなかったらしい。
その現金二千円も中国人らの検閲で少しずつ取られ、減っていったそうだ。

兵隊の護衛も途中で終わり。
何でも兵隊が一緒にいると便衣兵にねらわれるのだとか。
最後は自分らが居る建物から駅までの大通りを駆け抜けたんだと。
その時兵隊はトラックを並べバリケードにし、トラックとトラックの間の
隙間に立ち、一般人が撃たれるのを防いでいたと言っていた。
それでも全部の弾を防げるはずもなく、何発も弾が耳元をかすめたと言う。

婆ちゃんらが一番驚いたと言っていたのは、朝鮮人。
終戦まで日本人と同じ様に付き合っていた朝鮮出身のご近所さんが
手のひらを返して冷たくなり、それまで共同で分け合っていた食料を
出し渋り、半島の検閲で自分は朝鮮人だと名乗り上げてさっさと
どこかに行ってしまったそうだ。

それ以来何となく朝鮮人が嫌いになったそうな。

以上、大戦期の曾祖父、祖父、曾祖母、祖母らの話でした。

301:名無し三等兵
06/11/26 20:08:57
俺がガキの頃近所の爺さんに聞いた話だが南京戦に参加したそうだ。
敵兵と民間人の区別がつかず、恐くてかなり乱暴なこともしたらしい。
敵が毒ガスを使ってきて、慌てて防毒面を被って難を逃れたこともあるそうだ。
今考えてみると捕虜の扱いもいい加減で、気が立ってる時は簡単に殺してたそうだ。
虐殺云々も聞いてみたけど現場はゲリラがいないか探したり、敵の反撃に備えたりで殺して廻る暇は無かったそうだ。
ただし、敵の居そうな市街地の家々を捜し回る過程で虐殺みたいなことが少なからず起きたのも事実だそうだ。


302:名無し三等兵
06/11/26 20:35:43
>>295
村井権治郎少将か・・・
あなたのおじい様の渡した資料のおかげで、
2~3日で終わる筈のペリリュー戦が2ヶ月半にも及ぶ激闘になった訳だ

303:256
06/11/26 21:49:35 3j5wigWh
俺の父方のじいちゃん(存命中)から聞いた話しをしよう。その3
じいちゃんから聞いた実戦の話。
じいちゃんは八幡製鉄所を守ってた高射砲部隊にいた。だから何度
となく空襲は経験してるんだろうけど、はっきりと聞いた空襲の話は
これだけ。
ある日B29の編隊が空襲に来た。じいちゃんたちは早速高射砲で迎撃
し始めた。じいちゃんは照準係だったので、照準用の望遠鏡?を覗いていた。
すると、狙っていたB29の機首(操縦席かな?)で火事が起こったのが見えたという。
とにかく火が出て敵兵が慌てふためいているのがものすごくはっきり見えたので、
「ただ今敵機内に火災発生!!」と怒鳴ると、周りの兵たちは命中したんだと思って
すごく盛り上がったらしい。しかしどうやらそれはB29が勝手に火事を起こしたらしく
その内に火も消えて何事もなかったように飛び去って言ったという。
「日本の高射砲はB29の飛んでる高度までとどかなかったんでしょ。」
と言うと、何機かは打ち落としたことがあると反論された。
長くなったのでいったん切る。

304:256
06/11/26 21:50:09 3j5wigWh
303の続き
その後に第2次攻撃があったそうだが、今度はじいちゃんたちの高射砲陣地に猛爆撃を
仕掛けてきたそうだ。上官が「敵機を撃ち落す高射砲の兵が逃げたら誰が敵機を撃ち落すんだ!」
と檄を飛ばし、最期まで逃げずに応戦したそうだが、沢山の戦友が戦死してしまったらしい。
じいちゃんは覚悟を決めてずーっと照準器を除き続けていたそうだが、大爆音がするたびに
断末魔の叫びが聞こえてきてその恐怖はものすごかったらしい。ちなみに爆弾に吹っ飛ば
された人間の断末魔は「天皇陛下ばんざーい」なんてものじゃなくて「グギャー」とか
「ドゥブォワー」とか人間のものとは思えないようなものだったそうだ。
運よく最期まで爆弾の餌食にならなかったじいちゃんは、上官に肩を叩かれてようやく照準器
から目を放すことができたらしい。
そこから兵舎へ帰る道でじいちゃんは木の枝に引っかかって血をポタポタと垂らしている人間
の髪の毛(おそらく頭皮ごと吹っ飛んだのだろう。血まみれのカツラが木に引っかかっている
ようなものだったらしい。)を見たそうだ。それを見たじいちゃんは初めて
「わしらは一体何でこんなことをしとるんだろう。なんでこんなことをしなきゃならんのだろ
う。」と切なくなったと言っていた。
実戦の話はこれしかしてくれなかったが、兵舎での軍隊生活の話は辛かったこともあれば楽し
かったこともあったようで沢山してくれた。
その話はまた今度。


305:名無し三等兵
06/11/27 07:01:18 VkjX23JU
古いアルバム見つけた。ある人の0歳児から成長の記録が写真でしっかり整理されてたんだ(9歳学校ノ遠足ニテ)みたいに。で何故かアルバムは半分くらいで終わってたから最後のページ見たら【上海ニテ戦死】とか書いてある紙がはさまってた。見なければヨカタ(´Д`)=3

306:名無し三等兵
06/11/27 14:46:42
今年の一月に94歳で鬼籍に入った私の父。開戦時から戦車、トラックの整備兵として南方で従軍、敗戦時曹長、今は立派な空港のあるチャンギで二年の英軍捕虜暮らし、支給品のヒゲソリをその後永く愛用していた。

307:名無し三等兵
06/11/27 17:32:39
うちの祖父は、
27歳の頃に海軍の輸送艦の対空機関砲を担当してたのこと。
長崎から朝鮮半島に行く途中に敵の攻撃を受けて、足の指、腰に機銃の跳弾が当たり、かなり重体の怪我でしたが気を失う前に、
止血、自分の血液型(偶然、祖父を運搬してくれた人が同じ血液型だったとか)を言ったためか奇跡的に助かり、長崎の小浜療養所に入ったそうです。
その後、祖父の乗ってた船は修理のために長崎港のドッグに入り、修理中にあの長崎原爆に巻き込まれたそうです。
数日後、終戦になり重体の身ながら九州~東北間を
ほとんど徒歩(鉄道がやられたため汽車が使えなかったとか)で帰って来たとのことです。


余談ですが、輸送艦は敵に狙われ易いが食べ物は豊富にあった(何かあったときのために余分に食料を積載するため)らしく、
海軍に入って逆に太ったそうです。

308:名無し三等兵
06/11/27 17:43:24 DqjYW+um
話によるとうちのじいちゃんは準戦闘員ではなく他の兵隊に料理を作る仕事?だったらしい。
それがある日その日の戦闘が終わって数人で他の仲間より早く帰り、帰ってくる兵士の飯を作ろうとしたところ、
その煙で場所がばれて襲撃にあい応戦中に被弾幸いそのときは一命を取り留めたが、
本国送還その後傷からの感染症で山口の病院で死んだらしい
部隊名は分からないが広島の福山にある部隊だと思う


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