06/11/22 01:59:37 lesrA4j8
軍事にオカルトは不用
233:名無し三等兵
06/11/22 02:21:39
>>229
そのある日本兵がお婆ちゃんに話した時期によっては、その日本兵の評価は変わるな。
そもそも軍部は先に台湾が戦場になると考えてたし。
本土や種子島じゃなくて何故に台湾だったのか?
234:名無し三等兵
06/11/22 02:21:53
>>232
正論だな 神社に必勝祈願に行った時点で敗北必至だ
235:名無し三等兵
06/11/22 07:52:11 7tVkY5Mz
>>233
沖縄戦間近だったと思う
台湾も囁かれてたが沖縄に確定的だと分かった時期かも
店に来た、幹部から聞いたらしい
何故台湾かと言えば、まず本土への道のりが危険
そして台湾には親戚も多くいてどうせ行くなら台湾へと決めたらしい
まぁ沖縄人ってのもあって本土に行きづらいってのもあったかもしれない
236:名無し三等兵
06/11/22 09:47:40
>>214
必ずいるな、こーゆー軍オタ
当の話は作り話みたいで何だが、本人が任官時を思い出して士官
おじさんはその時すでに将校なら非常に正確(すぎる面もあり)だろ
任官後に付く兵科により、この話場合将校になるんだろう。
14年式もそうだが、以前 紫電ついて面白そうな話があったが
十一と書くからウソだなんてバカオタが書くから続きが聴けんかった
221も誰かから聞いた話を、おもろく書いてるのかもしれんし。
重箱の隅が好きな軍オタはこなくてよし。
237:名無し三等兵
06/11/22 10:27:18
興味深い話は、細かい予断ははさまずに
黙って聴いて上げてもよいのではと。
60年以上も昔のことなのだからね。
238:名無し三等兵
06/11/22 12:46:47
ある時、坂井三郎氏が誰かからもらったと言う零戦のV-103号機、しかし濃緑色の模型を嬉しそうに見せびらかしている。
記者:「飴色塗装じゃなくて残念ですね。」
坂井氏:「いいのいいの、一般人は飴色の零戦なんて見た事ないんだから。」
239:名無し三等兵
06/11/22 15:06:18 OvLPeC5H
おれのじいちゃんの話でもするかな。
最前線じゃないから銃弾の嵐かいくぐったとか、大量の死体見たとかそんな話はないけど。
面と構えて話してっていうのはお互いなんか気まずくない?
俺は毎年一回祖父母と旅行するんだが、宿で少し酔ったとき女性陣(祖母とか姉)がいないと自然と戦争時分の話をしてくれるようになる。
じいちゃんは満鉄で機関工として働いてた。満鉄で働くと勉強にもなるし、資格の面でもよかったらしい。戦後は国鉄に勤めてました。
で、満州にいる間に召集でそのままロシア国境近くの守備についたそうだ。
ここには約1年いたが、とにかく寒かったと。特に手が凍傷になるといけないので、真冬に集合がかかると、「またすり」というのをしたらしい。
両腿をくっつけてその間に手を挟んでこすり付ける様にして凍傷を防いだそうだ。もちろん、手が恐ろしく痛く、シモヤケっぽくなるけど凍傷防止のために命令されてやったそうだ。
あと、宿舎?で脱走者がいたら屋根裏なども徹底的に探したそうだ。過去に屋根裏に隠れてそのまま凍死した人もいた前例があったらしく、折檻より先ずは人名保護しなければと考えていたそうだ。
満州には約1年駐留し、その後、終戦2年前に南鮮(祖父の言い方)の守備に行くよう異動命令が下り、南鮮で終戦をむかえました。
朝鮮での話はまたこんど。
240:名無し三等兵
06/11/22 15:29:46
>233
なら、なぜ、沖縄に駐屯していた精鋭部隊1/3は台湾に移動したのか
やはり捨石か
241:名無し三等兵
06/11/22 16:38:21 6gx6cQUg
>>239
>俺は毎年一回祖父母と旅行するんだが
おまえ、イイヤツだな
w( ゚Д゚)⊃旦
242:名無し三等兵
06/11/22 20:22:39
>239
朝鮮での話もたのむよ。
243:名無し三等兵
06/11/22 22:03:34 oYjWrVoJ
そういやシベリアの寒さは【寒い】んじゃなくて【痛い】とか言ってたなぁ。
244:名無し三等兵
06/11/23 00:40:04
日本西部でも、バイク乗ったら痛い。
極厚手袋してても千切れそうなほど痛いよ
245:名無し三等兵
06/11/23 00:40:36
真冬の話だけど
246:名無し三等兵
06/11/23 06:33:29 2n4WUVX4
俺なんか未だに「バイクは危ないから」って祖父母が反対してて原チャ免許すら取れないorz 実際危険か?
247:名無し三等兵
06/11/23 07:16:06 skohUiGe
聞くまでもないだろ
剥き出しだから防御力0どころかマイナス(自分の速度もプラスされる)だぞ?
248:名無し三等兵
06/11/23 11:36:39 AY+sMUqX
>>240
そりゃ台湾>沖縄だろうよ
249:名無し三等兵
06/11/23 11:39:32
昭和20年4月1日、沖縄の米軍上陸地点は、がら空きだったんだよね。
エイプリルフールとおもったって。
250:名無し三等兵
06/11/23 12:04:18
私が生まれる前に死んだ父方のじーちゃんは満州に行ったそうだ。
大型車の免許を持ってて車を走らせてたらしい。(詳しくは知らん、スマソ)
日本に帰ってきて、大型車の運転ができれば高給取りになれたのに、
じーちゃんは絶対にハンドルを握ろうとしなかったそうだ。
ばーちゃんもそれに対して文句は言わなかったんだと。
よっぽど辛い事があったんだろうなあ、おかげで子供の頃は貧乏だったけど、と
父や伯父が話していた。
251:名無し三等兵
06/11/23 13:46:06 2n4WUVX4
俺の地元のじいさんの話だが。関東軍の倉庫に日露戦争に使った軍服が大量にあって、シベリア抑留ではそれを着ていたらしい。大正時代の詰襟の軍服は戦時中は大人気だったとか。
252:名無し三等兵
06/11/23 16:40:20
俺の一昨年に亡くなった、爺さん。
上海特別陸戦隊→マレー鉄道の警備→第9根拠地隊でスマトラの小サバン?島(名前をよく覚えてないみたい)だかに行ったて、言ってたけど、召集18年、最終階級兵長でこんなに回るもんなんかな?
253:名無し三等兵
06/11/23 16:43:47 u5xXk6o6
母方のじいちゃん
大富豪だった曾祖父のコネで近衛連隊へ配属
内地で終戦を迎える
父方のじいちゃん
猛勉強の末、士官候補正になる
しかし、内地で終戦を迎える
終戦時20歳
戦後は税務官として働く
母方のばあちゃんの弟
長岡連隊に配属
ビルマへ出征
4回死を覚悟したらしい
結局、命からがら生還
因みに彼の所属した大隊500名中生存者は12名
彼はその中のひとり
残念ながら、俺の生まれる前に癌により他界
全員陸軍です
254:名無し三等兵
06/11/23 17:25:58 eniyGtD5
当家の祖父は小牧長久手の戦いにて百五十石の加増を賜る。
255:名無し三等兵
06/11/23 17:46:37
俺の実家は熊本の田舎で周りは畑ばかり、でも昭和二十年の七月に町全体が凄い空襲にあったそうだ。
友人のばあちゃんによると、数日前にB29がやってきて大量のビラ(内容は不明)を撒いていったそうだが身重だったばあちゃんは空襲が終わるまでの数日間を怯えながら防空壕で過ごしたそうだ。
やって来たのは皆艦載機で空襲は駅、橋を銃爆撃するところから始まったそうだ。
その際は大量の薬筴が俺の母校にあたる小学校のグランド(芋畑として使っていた)に落ちてきたそうだ。
当時グランドで畑仕事をやってた伯母(父の姉)は落ちてくる薬筴を男の子達が拾うのを叱ったそうだが、案の定その後先生にブン殴られて瘤だらけなってたらしい。
別な友人のばあちゃんは橋の下で大根洗ってたら突然銃撃が始まり慌てて川に飛び込んで難を逃れたそうだ。
空襲の恐怖のせいか俺のばあちゃんは急に産気づき、そのまま壕内で俺の親父を産んだそうだ。
伯母は小学校から帰る途中、駅に停まっていた汽車から銃撃に頬を撃ち抜かれた兵隊さんをみたそうだが爆弾は一発も駅舎等を直撃してなくて、むしろ機銃による損害が大きかったそうだ。
俺の実家の前にはデカイ煙突が何本も有る絹工場があったからそれを軍需工場と間違ったんじゃないかと思う。
ちなみに俺が生まれる随分前に死んだ爺ちゃん(叩き上げの海軍准尉、写真で見るとかなりのイケ面)は家族放り出して愛人宅に転がり込んでいたそうだw
罰が当たって戦後間もなく急死、字を書くことも出来なかったばあちゃんはセメント工場で肉体労働をしつつ女手一つで子供三人を育てたそうだ。
長男だと思ってた親父は爺ちゃんの葬式に腹の違う兄や姉が何人もいて驚いたそうだ。
256:名無し三等兵
06/11/25 01:03:13 fToCmQIY
俺の父方のじいちゃん(存命中)から聞いた話しをしよう。
大学生のとき色々聞いていっぱいあるから少しずつね。
じいちゃんの代までうちは坊主だった。だからじいちゃんが軍隊に入ったのは
赤紙だった。
配属されたのは小倉だか戸畑にあった高射砲部隊。八幡製鉄所を守ってたそうだ。
いろんな話を聞いたけど一番印象に残ってるのはやっぱり昭和20年8月9日の話だ。
その日は曇っていたそうだが、西の方から地鳴りのような音がしたらしい。隊の
みんなとそっちを見ると、西の空の雲が真っ赤になってたそうだ。当時上等兵の
じいちゃんが「あれなんじゃろ?」と周りの兵隊に聞いてもみんな不思議そうに
しているだけだったが、隊長(小隊長なのか分隊長なのか不明)だけが、
「あれはたぶん原爆だ。」と騒いでいたそうだ。
じいちゃんたち兵隊は原爆ってのがなんなのかはもちろん3日前に広島に落とされ
たこともよく知らなかったので、それを聞いても????だったそうだ。
しかし、終戦後数十年たってなんかの番組で8月9日の第一目標地が小倉だったと
初めて知ったときは腰が抜けそうになったという。
もし、8月9日の小倉の天気が晴れだったら俺はこの世にいなかったかもしれない。
他の話はまた今度。
257:名無し三等兵
06/11/25 02:02:41 9tPe2z5Q
オレの祖父の話を。
なんかオンボロ輸送船(日露戦争の戦利品だったらしい)の対空要員だったらしい。
で、夜間に空襲があってグラマンなんかがバリバリ撃ってきた。
しょぼい機銃じゃどうにもならんので秘密兵器を使用。
なんか筒に火薬入れて紙製の10センチ程度の紙の玉入れて火のついたこよりを入れ
るとどか~んと火の玉が上がった。
空中で高射砲の爆発なんかメじゃない位でかい爆発。
しかも、赤・青・黄色とかの派手で綺麗な爆発が。
ってそら花火じゃね~かと呆れていたのだが、敵機はビビッて逃げて行った。
次の日の空襲は昼間でどうにもならず、あえなく港で沈没して祖父唯一の戦闘
は終わりだって。
祖父曰く、「しょぼい軍隊生活だったなぁ~」ってのはよく聞いた。
258:名無し三等兵
06/11/25 02:57:23
ずっと前にちょっとだけ聞いた話なんだけど
祖父が、戦闘機のパイロットは結構口があんまりよくないそうな
試作機の試乗(?)で、不満に思ったところは容赦なく文句つけるって
その点、偵察機のパイロットは結構おとなしいらしい
259:名無し三等兵
06/11/25 11:55:50
〉〉256
小学校の頃、担任の先生が同じようなこと言ってたな。
先生は中学生だったそうだが長崎とは有明海を挟んだ対岸、熊本から見たそうだが長崎の空がピンク色に染まっていたそうだ。
260:名無し三等兵
06/11/25 14:29:01
太平洋戦争の戦死者達は犬死なのでしょうか?
よく「あなたがたの犠牲のおかげで今の日本があります。」と言われますが
日本が大敗しようがそうでなかろうが戦後のアメリカの方針に大差無かったと思うと
戦死者の方々が無駄死にしたと思えてならないのです。
261:名無し三等兵
06/11/25 15:06:32
>>60
うちの父方のじいちゃんもその回天ってやつに乗ってたらしい。
内容は殆んど同じなんだけど出撃の一日?前に終戦。
上官は独り出撃して故障か燃料切れで海上でピストル自殺してたって…
因みにじいちゃんは回天に乗る前、あの戦艦大和で電気技師やってたらしい。
下士官?か古参の精神棒とかいうやつで毎夜毎夜叩かれて、しまいには嫌になった新兵が夜中?海に飛込んで自殺したとか…
トラックに停泊している時に
「あら?あんなとこに島あったか?」
と思ったら空母大鳳だったとか
悲しくも面白い話をじいちゃんの手記で読んだ。
ちょうど10年前に亡くなったけど、本当にもっと話を聞いとけば良かったと思う。
じいちゃんが亡くなってから大和や回天に乗ってたことがわかって、あんだけ厳しかった(正月とかよく尻叩かれた)のはそういう理由があったのかと納得。
そういえばじいちゃんの手記の中じゃ瀬戸内海(多分広島近く)の訓練地か基地の事を「P基地」と呼ばれていたとなってるんですが何か意味あるんですか?
誰かご享受を。
262:256
06/11/25 16:19:57 cpQHlbkI
俺の父方のじいちゃん(存命中)から聞いた話しをしよう。その2
じいちゃんが赤紙で軍隊に入ったばっかりの新兵時代の話。
日本軍は(別に日本に限らんと思うが)新兵いじめが酷かったという
話をよく聞くので、本当かどうか聞いてみたことがある。
やっぱりすごかったそうだ。入隊初日はすごく丁寧に扱ってくれたそうだが
次の日からは、殴る蹴るは当たり前になったらしい。手で殴るのは珍しい方で
大体樫の棒か下駄だったそうだ。将校連中は見てみぬふりが基本だったが、陸士出
の奴らはたまに自ら参加したり、殴り方が悪いと逆に上等兵や下士官をぶん殴ったり
していたらしい。「陸士出の奴らは筋金入りだからそいつらの部下だったらもっと
苦労してた。」とのこと。
じいちゃんは何かヘマをしたときに殴られたりするのは(例え連帯責任であっても)
まあ納得できたそうだが、どう考えても新兵を辱めて楽しんでいるとしか思えない
ような仕打ちをされるのは納得できなかったと言っている。
退屈しのぎという理由で、褌一丁で「ミンミンゼミ」や「鶯の谷渡り」という芸を
やらされたときは悔しくて涙が出そうになったらしい。
また、初年兵だけが苛められるわけではなく、兵隊(兵長以下)はみんな何かしら
上官から苛められていたらしい。ただ苛められっぱなしではない様で、隊長だか
班長だかの飯当番(お膳に並べられた食事を頭の上に押戴いて持っていくらしい。)
の上等兵は苛められた腹いせに味噌汁の中に自分のフケや痰をまぜていたらしい。
じいちゃんも「お前もやったれ」と誘われたそうだ。
その話をしたときのじいちゃんの名言
「軍隊では『できません』とか『やりません』という言葉は存在せん。」
被害者の隊長だか班長は上手そうにその味噌汁を飲んでたそうだ。
じいちゃんが上等兵時代の話はまた今度。
263:名無し三等兵
06/11/25 19:52:43 eR+nX8HP
聞いたことあるなぁ>>フケ飯 なんでもフケ飯を食って急な腹痛を起こした古参兵は盲腸と診断されて手術されたとかw 自衛隊ではイジメとかどうなのかな?
264:名無し三等兵
06/11/25 20:40:26
〉〉263
イジメと紙一重の‘指導’は日常茶飯事だよ。
前の勤務地で一人自殺したけど、彼を棺に入れる前、制服に着替えさせた時は本当に辛かった。
何で力になれなかったのか今でも悩むし、彼を助けれることが出来ず傍観していた俺はイジメた連中と同罪だと思う。
今、イジメがマスコミやらで話題になってるけどやっぱい良くないことだよ。
今の職場にもイジメられてる奴が一人いるが、影で慰めるくらいしか出来ない・・・無力な自分が情けない
265:名無し三等兵
06/11/25 21:36:48 w9ApndkE
老人ホームでの話し。
防災訓練で、防災頭巾をかぶせて避難の練習。
突然鳴った火災報知機のブザーで大パニックになったそうだ。
たとえボケていても、忘れられない空襲体験。
なんか理解できる。
266:名無し三等兵
06/11/25 22:07:47
うちの爺さんは幸運な部類だったんだな。
爺さんは開戦して少しして軍に行ったそうだが、終戦まで地元の沿岸で漁船に毛が生えた程度の船に乗ってたらしい。
最初は水平線を見てたそうだが、何時ごろからかそれが空に変わったとか。途中でボロイ機銃が積まれたそうだが敵に撃った事は無いらしい。無線機は意外に使えたとか。
これって洋上哨戒線でもやってたのかねえ?
267:名無し三等兵
06/11/25 22:46:26 p63Cwyts
志願兵で軍隊に入って少尉になるのは
陸軍と海軍ではどっちが難しかったの?
268:名無し三等兵
06/11/25 22:48:34
>>266
監視艇隊ですね。
凄まじい戦闘を経験していますよ。
よくぞ御無事で。
269:名無し三等兵
06/11/25 23:28:49
>>268
本当は戦闘してるってこと?
俺の祖父は当時、大学生(大阪帝大の理系学部)で、
大阪の空襲で落ちてきた焼夷弾の不発を分解して調べたことがあるらしい。
詳しいことは聞いてないが。
270:名無し三等兵
06/11/25 23:30:07
>>268
そうなの? ガキの頃に2度聞かされただけだったが、そんな凄い戦闘経験があるとは言ってなかったが。言いたくなかったのかな。
もう鬼籍に入ってしまったが、もう少し真面目に聞いておくべきだったかな。
271:名無し三等兵
06/11/25 23:51:08
〉〉270
監視艇隊って言うと正に縁の下の力持ち!
運の良い艇は本当に平和な、何もしてないように感じられる部隊かもしれんがかなり重要な隊だよ。
装備があまりに貧弱で、敵と遭遇すればかならず負ける、だからと言って左遷されたような情けない配置では決してない。
事実、監視艇隊から大和に転属になった人間もいる。
あなたのお爺さまは強運の持ち主だった、自分の仕事に誇りを持っていたからこそ、わざとそんな言い方をしたんだと思いますよ。
272:名無し三等兵
06/11/26 00:26:09 2YSOammv
俺の爺さんは海軍の兵卒だったらしい。
(艦の名前は聞いたが忘れた・・)
海南島に居てたから、食べ物には困らなかったらしい。
野生の猪とか捕まえて、丸焼きにして隊の人間で食べたって言ってた。そりゃ美味かったらしい。
陸戦隊の友人も多かったらしいが、シナ人との戦闘は悲惨だったらしい。
ジュネーブ条約なんて勿論知らないから、捕虜は殺した上に、更に死体から肝臓も取ってったらしい。
爺さん、涙目だった。爺さんの友人もやられたとの事。
あいつらは獣だと言ってたな。。
だから、こっちも仕返しで捕虜を取らずに、銃殺する事もあったらしい。
まぁ、奇麗事で済む世界じゃないという事は感じた。
俺も何も言えなかった。
273:名無し三等兵
06/11/26 00:31:21
>>269-271
監視艇隊は宮崎駿監督が「雑想ノート」という漫画の中で
秀逸な作品を描いてます。
「最貧戦線」と言いますが、本当に最貧だ・・・
274:名無し三等兵
06/11/26 00:46:44
>>268
まあ、機銃を撃ったことが無かったっていうからには、戦闘はしていないんだろう。
逆に言うと、だから生きてるのかもね。
275:名無し三等兵
06/11/26 02:05:22
監視艇隊で機銃を撃つということは・・・
終わりだ・・・
>>274
貴殿のお爺様は幸運であったかと。
276:名無し三等兵
06/11/26 02:15:21
「敵機発見、天皇陛下万歳」って感じだろうな。
277:名無し三等兵
06/11/26 02:26:31
無線の感度がいいのは後半は航空機用無線を積んだから
278:名無し三等兵
06/11/26 07:17:00 Tbqu2kkl
ウチの祖父は、召集されてからずっと内地で高射砲第3師団 独立第17中隊 指揮小隊 計算班所属で
鉛筆をもって戦ってました。
大阪を起点に駐屯する都市が空襲で焼けると、瀬戸内沿岸の都市に転進の日々で
昭和20年8月4~5日頃に広島市の己斐駅の裏にある茶臼山に移動して
原爆を体験しました。
279:名無し三等兵
06/11/26 09:52:55 vL3RSg6i
受け持ち患者さんで、今年80になる爺様がいたんだけど、横須賀の海軍陸戦隊で、高射砲の砲手だった人がいた。
横須賀の高射砲隊にいた時は、12,7mmの連装対空砲で、砲塔内に入って射撃管制を受けながら射撃してたそうだが
ある時、少し離れた部隊に転属になり(イクタだかイナダだか)そこは砲身むき出しの単装砲で、口径もずっと小さい(7,5cm?)
それが数門しかなく、そのくせに敵艦載機の空襲をよく受けたと。
だだっぴろく見晴らしが良いところで、ずっと遠くから飛んでくるのが見えるなら、当てようもあるが
あまり射界の良くないところで、撃たれにくいような飛び方で急速に接近してくるものだから、全く命中しなかったと。
高台にあったらしいが、俯角の取れない下からや、太陽を背にして来たり、二方向から挟み撃ちにされたりと苦戦したそうだ。
敵機の射撃音は「パラン、パラパラン」と別に恐ろしくもなく、「あんなの当たっても死なないんじゃないか?」と思える
ものだったそうだけど、機銃弾が砲座の中に飛び込むとエライ事になったらしい。円形のコンクリートの台座の中をガラガラと
恐ろしい音を立てて跳弾し、当たった兵士は重傷を負ったが、戦死者は幸運にも出なかったと言う。
あと、日頃威張っていた隊長が対空射撃の際に一人で逃げ出して、行方不明になってしまい、副隊長が指揮を継続したと。
その隊長はそれっきり行方不明になり、探したが見つからなかったと言う。「脱走したのか、戦死したのか」と笑っていた。
280:名無し三等兵
06/11/26 10:47:59 khym8x+D
今は亡きじいちゃんの話。
小学校のころ、学校の授業の国語の授業の一環で、お年寄りに戦争の話を聞いて来いっていうのがあって、じいちゃんに聞いてみた。
で、B-29の話をしたら、じいちゃんは
「日本にはもっと大きい飛行機がいた」と自慢げに話していた。
戦争中、じいちゃんは航空母艦か何かの機銃員をやっていたらしい。
その船で燃料を補給するために、デカイ飛行機が何ども飛んできていて、それを見るたびに日本は強いんだな思ったそうだ。
その後、トラック島(で良かったはず、違うかもしれない)で敵に襲われて、機銃の弾を運ぶために機銃から出た途端、爆弾が近くで爆発して、破片で背中を大きく切った。
その傷を見せてもらったけど、背中にばっさりと30センチぐらいの傷があった。
戦闘が終わった後、船から降ろされて、病院で治療を受けてそのまま、ずっと島にいたそうだ。
機銃員という配置になっていたけど、やったことは、畑仕事と飛行場の穴を埋める作業ばかりだったという。
そのまま、終戦を迎え、復員船で帰ってきたそうだ。
乗っていた船がじいちゃんが下りた後に沈んだのを知ったのは、日本に戻ってからだそうだ。
281:名無し三等兵
06/11/26 11:29:01
俺のじいさんは陸軍で南方に行ってて敵から奪ったトンプソン使ったって言ってた。倒したアメリカ兵の武器を使う仲間も多かったって言ってた。弾どうすんだろ
282:???
06/11/26 12:04:23
>>275
監視艇隊と言えば~べ―リング海で監視艇やってた元漁船がどうやら無電を打つと危ないって事がわかったらしく、監視をサボってもっぱら『本業のカニ漁』に精を出してたらしい。
司令部には申し訳無さそうにカニを届けていたとか…
283:名無し三等兵
06/11/26 13:06:29
ウチのじーちゃんは某一流大学の教授だったから戦争言ってないとの事。
284:名無し三等兵
06/11/26 13:09:24 edfUrhaC
読んでると、ジイサンかっこいいよ!!! って思えてくる。
老人は大切にしなきゃね。
285:名無し三等兵
06/11/26 13:28:30 4rWpMW60
俺達がいるのも祖父達のおかげだよな
色々映画化して欲しい
286:名無し三等兵
06/11/26 13:29:49 TaCfmhFk
爺さんではなく、ゼミの教授の話。
シベリア抑留時代、収容所内での密告・リンチには酷いものがあったそうだ。
「天皇なき皇軍は、かくも弱い」。
そう思ったそうだ。
かたやドイツ兵の捕虜たちは、よく協力しあっていたんだとさ。
どこでも隣はよく見えるらしい。
287:名無し三等兵
06/11/26 13:40:18
うちの爺さんは満州行って、その後シベリアで捕虜生活送ったって。
シベリアでは収容所?で、食うものがなくて看守の猫を食べた人がいて
それでそのロシア人がブチきれてたっていう笑い話を何度もしてくれた。
隊列組んで歩いてたらいきなりヘリが上空から一気に近づいて掃射してきて、
本当にギリギリで交わして助かったそうな。因みに隣にいた朝鮮人兵士は死んだと。
それとは別にもう1つ、本当に死に掛けた話を聞いたけど忘れた。
あと満州時代、中国人をチャンコロチャンコロって呼んでみんな威張ってたんだけど、
ある時、朝鮮人兵士が中国人と喧嘩になったって話も聞いた。
お前が日本人だと笑わせるな!日本の犬になった朝鮮人の分際で!!みたいな
感じで殴り合いの喧嘩をやってたって。それが取り合えず一番印象に残ってる・・・。
288:名無し三等兵
06/11/26 14:32:44
うちのジジィの口癖は「武田の赤備えは強かった苦労した」でした
289:名無し三等兵
06/11/26 14:36:47 t7ezlegj
俺のじいさんは仕事の関係で前線に行けなかった
悔しかったそうだ
290:名無し三等兵
06/11/26 14:43:59 kNAdukJn
子供の頃に聞いたきりなので、色々間違ってるかもしれないんだけど
うちの爺さんは中国で夜襲に合った時、機関銃(?)の弾が無くなってしまったので
仕方なくそこにあった石を投げて応戦してたたそうだ。
あと大戦末期、ガ島に行くように言われたとき、拒否して助かったって言う話も聞いた。
結構面白い人だったらしく、俺の幼い頃に亡くなったのが残念でならない。
291:名無し三等兵
06/11/26 14:48:51 kBRkKGdc
うちの爺さんの口癖は川中島の戦いは激戦だった苦労しただった
292:名無し三等兵
06/11/26 14:54:03 HCsCVWSp
うちの爺さんは横須賀で技術者をやってた関係で従軍はしなかったみたい。
従軍しなかったけど軍艦の技術改善で表彰されたことを誇っていました。
今となってはもっと詳しく聞いておけば良かった。
293:ドヴァ帝国国民
06/11/26 16:16:54
>>287
>ヘリ
大嘘決定(藁
294:名無し三等兵
06/11/26 17:52:55
大戦後ならあったんじゃない。ヘリ
日本だって戦中、萱場式オートジャイロ作ってるんだし。
295:名無し三等兵
06/11/26 19:00:14
以前中国戦線で副官として仕えていた上官(手記には「村井将軍」と書いてある)にフィリピンで再会したが、
その上官がペリリュー島守備隊に派遣される事になって
「大陸の作戦なら慣れてるが島嶼防御には全く自信がない」
と彼が言っていたので内地勤務時代に手に入れた島嶼防御研究資料を手渡して説明してあげたら喜んでくれた
といった内容(一部省略)がうちの祖父の手記に書いてあった
296:1(爺さん)
06/11/26 19:20:34
爺さんは学徒出陣で中国→満州と転戦。
曾爺さんは技術軍属で満鉄に居た。
と言う事で、うちの一家は全員満州に住んでた。
爺さんは当時の事は余り話さないが、それでもちらほらと語ってくれる。
部隊が大休止をとる際、湯を沸かす入れ物を探せと言われ
きれいな皿を見つけて喜び持って行くとそれは中国人たちが
使う便器だと言われ怒鳴られたとか。
空襲に対して高射砲を撃つが、爆撃機よりも下でポンポンと弾け届かず
同期の連中と呆然と空を見上げていた事とか。
塹壕に籠もって戦闘中、必死に防戦していた戦友が頭をや肩を打ち抜かれ
苦痛にのたうち回り、死んでいく姿をみて、震えながら敵兵を撃ち殺していた事とか。
つい2~3年前、小泉首相から当時の兵隊に対して証書か何かが出たらしく。
首相の名前が入った証書をうれしそうに眺め、やたらと自慢してきた。
297:名無し三等兵
06/11/26 19:32:30 5gD8SSjm
祖父は旧制中学の高学年での軍事教練で市街戦訓練をミッチリ受けたそうだ。
市街戦訓練の内容は日本軍らしく、奇襲による肉弾攻撃だ。
訓練は銃剣を装着した38式(訓練では木銃か竹槍)を持って物陰に潜んで、
合図の号令とともに物陰から素早く飛び出して10mくらい離れたところにある
米兵に見立てた「土のう」に駆け寄って突き刺し、そのまま全速力で走りつつ
別の物陰に隠れ直すという内容だったそうだ。走るのが遅い奴や、突きに気合が
入っていない奴は、がんがん鉄拳制裁をくらったそうだ。
298:2(曾爺さん)
06/11/26 19:38:35
曾爺さんは満州事変後から技術軍属として満州へ行っていたらしい。
らしいと言うのは曾爺さんはすでに俺が生まれたときには居なかったから。
この話は婆ちゃんから聞いた物でどれほど真実かは知らん。
曾爺さんは「おまえらは内地で暮らしていろ」と、曾婆ちゃんらに言ったが
曾婆ちゃんは「あんたが一人で行ってなにができるんや」
と言うような事を言って一緒について行ったそうだ。
満鉄の電気配線(車内の電気設備や計器)の業務に携わっていたという。
大戦末期には、婆ちゃんに「この戦争は負ける。今から内地に帰る用意しとけ」
と言って出かけていき、その日、工場が中国人に襲撃されで殉職したらしい。
当時天皇陛下の為に云々と言って命令していた上官に
「陛下の為にと言うのは、陛下にわしらを背負わせる行為だ。
自分の事は自分で背負わにゃならん。陛下に頼って良いもんではない。」
と曾爺ちゃんは言っていたらしいから、異端だったのかも知れん。
299:名無し三等兵
06/11/26 19:39:17
>>294
大戦後、移送中の捕虜を機銃掃射はしないと思うよ。
時系列逆になるが、降伏前の話で、ヘリってのは誤認では?
あるいは作り話か。
300:3(婆ちゃん達)
06/11/26 19:54:02
婆ちゃんがよく話すのは満州での事と、満州から引き上げる時のことだ。
満州の田舎に居を構えたが、近くには市場がなかったらしい。
そこで、婆ちゃんは荷車を押して町まで行き、物資を買い込んで
近所で売ると言う八百屋のようなものを経営していたそうだ。
経営と言っても、当時は14~16だったから、相当な物だと思う。
そんなこんなで、大戦末期、降伏。
日本人には内地への帰還命令が出て、兵隊が護衛についた。
集められたのはどこかの軍施設で鉄道と徒歩でプサンまで移動する物。
持ち物は食料と現金2000円のみ。それ以上は持って行けなかったらしい。
その現金二千円も中国人らの検閲で少しずつ取られ、減っていったそうだ。
兵隊の護衛も途中で終わり。
何でも兵隊が一緒にいると便衣兵にねらわれるのだとか。
最後は自分らが居る建物から駅までの大通りを駆け抜けたんだと。
その時兵隊はトラックを並べバリケードにし、トラックとトラックの間の
隙間に立ち、一般人が撃たれるのを防いでいたと言っていた。
それでも全部の弾を防げるはずもなく、何発も弾が耳元をかすめたと言う。
婆ちゃんらが一番驚いたと言っていたのは、朝鮮人。
終戦まで日本人と同じ様に付き合っていた朝鮮出身のご近所さんが
手のひらを返して冷たくなり、それまで共同で分け合っていた食料を
出し渋り、半島の検閲で自分は朝鮮人だと名乗り上げてさっさと
どこかに行ってしまったそうだ。
それ以来何となく朝鮮人が嫌いになったそうな。
以上、大戦期の曾祖父、祖父、曾祖母、祖母らの話でした。
301:名無し三等兵
06/11/26 20:08:57
俺がガキの頃近所の爺さんに聞いた話だが南京戦に参加したそうだ。
敵兵と民間人の区別がつかず、恐くてかなり乱暴なこともしたらしい。
敵が毒ガスを使ってきて、慌てて防毒面を被って難を逃れたこともあるそうだ。
今考えてみると捕虜の扱いもいい加減で、気が立ってる時は簡単に殺してたそうだ。
虐殺云々も聞いてみたけど現場はゲリラがいないか探したり、敵の反撃に備えたりで殺して廻る暇は無かったそうだ。
ただし、敵の居そうな市街地の家々を捜し回る過程で虐殺みたいなことが少なからず起きたのも事実だそうだ。
302:名無し三等兵
06/11/26 20:35:43
>>295
村井権治郎少将か・・・
あなたのおじい様の渡した資料のおかげで、
2~3日で終わる筈のペリリュー戦が2ヶ月半にも及ぶ激闘になった訳だ
303:256
06/11/26 21:49:35 3j5wigWh
俺の父方のじいちゃん(存命中)から聞いた話しをしよう。その3
じいちゃんから聞いた実戦の話。
じいちゃんは八幡製鉄所を守ってた高射砲部隊にいた。だから何度
となく空襲は経験してるんだろうけど、はっきりと聞いた空襲の話は
これだけ。
ある日B29の編隊が空襲に来た。じいちゃんたちは早速高射砲で迎撃
し始めた。じいちゃんは照準係だったので、照準用の望遠鏡?を覗いていた。
すると、狙っていたB29の機首(操縦席かな?)で火事が起こったのが見えたという。
とにかく火が出て敵兵が慌てふためいているのがものすごくはっきり見えたので、
「ただ今敵機内に火災発生!!」と怒鳴ると、周りの兵たちは命中したんだと思って
すごく盛り上がったらしい。しかしどうやらそれはB29が勝手に火事を起こしたらしく
その内に火も消えて何事もなかったように飛び去って言ったという。
「日本の高射砲はB29の飛んでる高度までとどかなかったんでしょ。」
と言うと、何機かは打ち落としたことがあると反論された。
長くなったのでいったん切る。
304:256
06/11/26 21:50:09 3j5wigWh
303の続き
その後に第2次攻撃があったそうだが、今度はじいちゃんたちの高射砲陣地に猛爆撃を
仕掛けてきたそうだ。上官が「敵機を撃ち落す高射砲の兵が逃げたら誰が敵機を撃ち落すんだ!」
と檄を飛ばし、最期まで逃げずに応戦したそうだが、沢山の戦友が戦死してしまったらしい。
じいちゃんは覚悟を決めてずーっと照準器を除き続けていたそうだが、大爆音がするたびに
断末魔の叫びが聞こえてきてその恐怖はものすごかったらしい。ちなみに爆弾に吹っ飛ば
された人間の断末魔は「天皇陛下ばんざーい」なんてものじゃなくて「グギャー」とか
「ドゥブォワー」とか人間のものとは思えないようなものだったそうだ。
運よく最期まで爆弾の餌食にならなかったじいちゃんは、上官に肩を叩かれてようやく照準器
から目を放すことができたらしい。
そこから兵舎へ帰る道でじいちゃんは木の枝に引っかかって血をポタポタと垂らしている人間
の髪の毛(おそらく頭皮ごと吹っ飛んだのだろう。血まみれのカツラが木に引っかかっている
ようなものだったらしい。)を見たそうだ。それを見たじいちゃんは初めて
「わしらは一体何でこんなことをしとるんだろう。なんでこんなことをしなきゃならんのだろ
う。」と切なくなったと言っていた。
実戦の話はこれしかしてくれなかったが、兵舎での軍隊生活の話は辛かったこともあれば楽し
かったこともあったようで沢山してくれた。
その話はまた今度。
305:名無し三等兵
06/11/27 07:01:18 VkjX23JU
古いアルバム見つけた。ある人の0歳児から成長の記録が写真でしっかり整理されてたんだ(9歳学校ノ遠足ニテ)みたいに。で何故かアルバムは半分くらいで終わってたから最後のページ見たら【上海ニテ戦死】とか書いてある紙がはさまってた。見なければヨカタ(´Д`)=3
306:名無し三等兵
06/11/27 14:46:42
今年の一月に94歳で鬼籍に入った私の父。開戦時から戦車、トラックの整備兵として南方で従軍、敗戦時曹長、今は立派な空港のあるチャンギで二年の英軍捕虜暮らし、支給品のヒゲソリをその後永く愛用していた。
307:名無し三等兵
06/11/27 17:32:39
うちの祖父は、
27歳の頃に海軍の輸送艦の対空機関砲を担当してたのこと。
長崎から朝鮮半島に行く途中に敵の攻撃を受けて、足の指、腰に機銃の跳弾が当たり、かなり重体の怪我でしたが気を失う前に、
止血、自分の血液型(偶然、祖父を運搬してくれた人が同じ血液型だったとか)を言ったためか奇跡的に助かり、長崎の小浜療養所に入ったそうです。
その後、祖父の乗ってた船は修理のために長崎港のドッグに入り、修理中にあの長崎原爆に巻き込まれたそうです。
数日後、終戦になり重体の身ながら九州~東北間を
ほとんど徒歩(鉄道がやられたため汽車が使えなかったとか)で帰って来たとのことです。
余談ですが、輸送艦は敵に狙われ易いが食べ物は豊富にあった(何かあったときのために余分に食料を積載するため)らしく、
海軍に入って逆に太ったそうです。
308:名無し三等兵
06/11/27 17:43:24 DqjYW+um
話によるとうちのじいちゃんは準戦闘員ではなく他の兵隊に料理を作る仕事?だったらしい。
それがある日その日の戦闘が終わって数人で他の仲間より早く帰り、帰ってくる兵士の飯を作ろうとしたところ、
その煙で場所がばれて襲撃にあい応戦中に被弾幸いそのときは一命を取り留めたが、
本国送還その後傷からの感染症で山口の病院で死んだらしい
部隊名は分からないが広島の福山にある部隊だと思う