03/08/26 23:13
>928
あのね・・・きみのお母さんの言ってることは、ある意味正しいんです。
戦後発足された海上保安庁は、昭和20年以降、戦争で殉職者という名の
「戦死者」を出している、戦後日本で唯一の公的機関なんです。
昭和29~30年頃というと、ちょうど朝鮮戦争のまっただ中。
仁川への上陸作戦を企図していた国連軍は、北東アジアに存在する掃海艇の
総力を挙げて、事前に仁川港周辺部に沈設された北鮮軍の機雷を除去する
作戦を実行したのです。
ところが、アメリカ海軍が当時極東に保有していた掃海艇は、
そのほとんどが内海型で外洋航行能力のないものでした。
そこで国連軍司令部は、日本の沿岸部で太平洋戦争時の機雷の除去作業に
携わっていた海上保安庁の掃海艇隊に目を付けます。
GHQ司令部を間に挟んだ要請によって、舞鶴を母港とする第8管区
海上保安本部所属の特別掃海艇隊が、仁川をはじめとする朝鮮半島沿岸の
敵前掃海作業を開始したのはそれからまもなくの事です。
派遣中、機雷の誘爆や沿岸からの砲撃により、海保特別掃海隊のこうむった
損害は、戦死79名、重軽傷者28名(磁気機雷に引っかからないよう
掃海艇は木製のため、被雷するとバラバラとなる。重軽傷者が少ないのは
このため)にものぼりました。
戦後30年間、この件は政権内部および海上保安庁における
トップシークレットとして封印されてきましたが、1979年に
当時の海保長官の手記が発刊されることにより公のものとなりました。
時期的に見て、あなたのご親戚は間違いなくこの「日本特別掃海隊」
に所属していたものと思われます。