■■本能寺の変徹底考察スレ②+■■at SENGOKU
■■本能寺の変徹底考察スレ②+■■ - 暇つぶし2ch2:人間七七四年
08/06/22 15:53:20 grZHVCB5
「本能寺の変態考察スレ」に、見えた。

3:人間七七四年
08/06/22 15:59:29 uu4m16rG
前スレのリンクぐらい貼れ

あと前スレまとめ3行

4:人間七七四年
08/06/22 16:32:31 jiANdfKE
>>2
笑わせないでくれww

5:人間七七四年
08/06/22 16:50:55 el6XjzVo
複合説の中の野望論は、畿内掌握に限定すべきだと思うがどうかな?

6:人間七七四年
08/06/22 17:04:35 R1NNcL79
重複スレが既に上がってきてるんだが……
スレリンク(sengoku板)l50

むこうが上げられた時間の方が早いけど、
>>1は頑なにあちらのスレを無視して、自分がスレ主のスレ立てたいのね。

7:人間七七四年
08/06/22 17:43:45 jpWz28W6
>3
初期から批判って‥。
あんたクレーマーだろ。

前スレにも出てた、嫡男幼少の為の将来不安って件だけど、確かに不安はあったろうが、変の起因の一つになるのかなぁ。
だって子供の不安は誰もが持ってる事だろうしね。

8:中山幸盛 ◆c1ZKiGzz62
08/06/22 18:31:23 r5aZDmUy
>>7
>>3
は、当たり前のことをいっているだけだろう

9:人間七七四年
08/06/22 18:42:52 el6XjzVo
7
子供を思う親の気持ちは古今東西変わらんと言うじゃないか。

10:人間七七四年
08/06/22 22:02:06 /21BosXo
>>1
重複

本能寺の変
スレリンク(sengoku板)


11:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
08/06/22 22:52:51 ognOJWmA
内容も流れも重複してないような。

12:人間七七四年
08/06/22 23:24:16 UE5rgVkl
ここはスレ主の俺様の意見が絶対スレだからな

13:人間七七四年
08/06/22 23:30:22 jpWz28W6
だよね。重複してないよ。
何故、そんなにこだわるのかが分からん。ここが気にいらなきゃ、こなきゃいいのにね。
それに、そのスレ二年も前からあんのに伸びてないのは、つまんないし、誰も見てないのよ。そこを勧めてる方が盛り上げてやれば

14:人間七七四年
08/06/22 23:56:28 cTTReRPI
跡継ぎ不安にも拘らず養子も取らず譜代や織田家とも縁組をしない光秀
合戦で命落とせば明智家取り潰しにもなりかねない
この方針を選ぶメリット教えてくれません?

15:人間七七四年
08/06/23 00:05:41 1BGQrYxZ
>>14
信澄と姻戚関係結んでいましたがな。

16:人間七七四年
08/06/23 00:07:33 RgfUaG+d
後継者の不安っつても、それは信長の責任でもないしな。
滝川や柴田、羽柴らも実子がいないという問題を養子で解決しているのだし。

そういや明智の配下には何人か明智姓を賜った武将がいるが、彼らはどういう
扱いだったんだ?養子じゃなかったのか?

17:人間七七四年
08/06/23 00:24:25 60Yw7QtF
>>15 ごめん養子を受けると言う意味です スイマセン

明智姓貰った人は正直良くわからないんですよね
この時代普通にある恩賞として名を許したのか養子なのか

18:人間七七四年
08/06/23 00:49:35 /XqW44d+
光秀が後継が幼少で不安があるて言動した話は俺は
勉強不足もあってか知らないな。
娘二人を信長の命で津田信澄と細川忠興に嫁がせた
てのは知ってるが…。

19:人間七七四年
08/06/23 12:53:04 qIb6lJIQ
不安=野望とは、なりえないはず。
また秀吉との出世争いに破れて落ち目ってのも、頷けないなぁ。
何も落ち目になってないしね実際。

20:人間七七四年
08/06/23 13:01:16 R8QxZBBi
出世争いで秀吉に敗れたわけでもないしな。
秀吉が方面軍として軍功を上げてるのに光秀軍は戦う機会が無かったとかいう人もいるけど、光秀は信長の権力基盤である京周辺を任されていたのであって、これは光秀が如何に信頼されていたかということだよ。

21:人間七七四年
08/06/23 13:10:13 UV0OZDo+
>>16
>そういや明智の配下には何人か明智姓を賜った武将がいるが、彼らはどういう
>扱いだったんだ?養子じゃなかったのか?
いなかったはずだよ

高柳本では1次史料で確認できる明智姓は
明智弥平次(旧姓三宅)秀満
明智伊勢千代(旧姓小畠)不詳
明智掃部(旧姓並川?)易家
明智少兵衛(旧姓溝尾)茂朝
明智半左衛門(旧姓猪飼野)秀貞
ぐらいとある。全員家来だから養子ではないね。
ただ、弥平次と半左衛門の2人は光秀から偏諱されてるから
養子とってるって史料がみつかったら、彼らなのかもしれない。

>>18
>光秀が後継が幼少で不安があるて言動した話
確かに聞かないね。
谷口信長本にあったが、初期の4家老の平手・青山も実子は家老になって
いない。また、初期の重臣である坂井と森の戦死後は、息子の坂井越中と
森長可は馬廻りか平武将とスタートとワンランク下からやり直している。

織田家軍団長クラスの世代交代は82年時点ではなかったから、想像
でしかないが、もし光秀が「もう年で戦はむりぽ」っていっても、実子
の軍団承継はなかっただろうね。
ヤ○ザみたく、軍団若頭みたいなのが(細川・筒木・池田)あとを継い
だんじゃないのかな?

それだけに、光秀が不安を持って当然のはずだが…



22:人間七七四年
08/06/23 13:10:20 1BGQrYxZ
逆に秀吉こそいつまでたっても地方ドサ回りの方面軍司令官の立場から脱しきれず(滝川が「関東管領より
茶器が」って言った事の真意もそれだろう)、次世代の信忠系との人脈の薄さからいっても、武将としてはもう
「上がり」に近かったと思われる。

23:人間七七四年
08/06/23 13:25:01 qIb6lJIQ
20に同意。
少なくとも、秀吉との出世争いに破れてって所は
変の要因以前の問題だと思う。

22、滝川は本能寺以降、能力ない様に思われがちだが、そんな事はないんじゃないの。変時、上州厩橋にどの武将が配置されてても、的確な行動とりにくいでしょ。それに甲斐征伐の恩賞に珠光小茄子所望する事は当時、当たり前。

何を根拠に滝川が『上がり』か教え下され。

24:人間七七四年
08/06/23 13:26:43 1BGQrYxZ
>>23
> 何を根拠に滝川が『上がり』か教え下され

>>22の書き込みを良く読んでくれ

25:人間七七四年
08/06/23 13:42:45 UV0OZDo+
>>22
>地方ドサ回りの…
このドサ回りたちが、組下を従えて強大な軍事力を持っていたのは事実。
織田家の行政機構は未成熟で、後年の5奉行のような政権中枢にかかわる
職制も存在していない。
現に、「清州会議」はドサ回りたちが集まって家督相続等重要な事項を決定し
ている。滝川が会議から外されたのは北条にボコボコにされて軍事力をう
しなったからで、政権中枢から外れたからではない。


26:人間七七四年
08/06/23 13:54:49 R8QxZBBi
地方どさ回りで強大になったのは羽柴秀吉だけだよ。

他の軍団長の家臣が従来の寄騎だったのに対し、秀吉は宇喜多らを直接従え他の寄騎とも大名と家臣のような関係を築いた。
人たらしの能力と言うべきか…とにかくこの時の組織力が本能寺の変後に他の軍団長よりも抜きんでた理由の一つ。

27:人間七七四年
08/06/23 14:03:59 1BGQrYxZ
>>25
清洲会議は信長の圧倒的独裁権力が消散してしまった事で、その空白を埋めるためにああなったに過ぎない。
信長が生きていれば清洲会議のような、家臣が集まって織田家の方向性を決めるようなことが可能だったと思う?
全く想像すらできないでしょ。
信長がいなくなることで初めて、方面軍司令官たちは政治の中枢にかかわることが可能になった。
信長の生前、いわゆる方面軍司令官の中で多少なりとも政権の中枢にかかわれたのは、光秀くらいのものでしょ。
他は、会社で言えば取締役の肩書きの無い部長のようなもの。

あと、晩年の信長の周りには近習衆を中核とした行政組織が形作られ初めていた。
最終的にはおそらく、室町幕府の奉行衆のような組織になっただろうね。

28:人間七七四年
08/06/23 14:11:00 xEVaD6zQ
ぶっちゃけ、信長は秀吉をもて余していたと思う。
秀吉にフルパワーで謀叛を起こされたら、織田家が一気に瓦解しそう

29:人間七七四年
08/06/23 14:11:29 60Yw7QtF
>26それはあなたの個人的見解では?
人たらしは同意しますが

30:人間七七四年
08/06/23 14:15:45 qIb6lJIQ
秀吉は確かに有能者だが、変時のそれは運が良かっただけの気がするよ。
細川、筒井どちらかだけでも光秀側についていたら、状況は大分違っていただろうし、もう少し軍の編成に時間が掛かっていたら、柴田も出てきてただろうから、三つ巴になる可能もある。

秀吉と柴田が仮に手を組んで光秀を打破する事が出来たとしても、その後
すぐに秀吉がイニシアチブを取る事は厳しいでしょう。

光秀も混乱に乗じて、畿内主要ヶ所を抑える事を考えていた事だろうしね。

31:人間七七四年
08/06/23 14:20:01 1BGQrYxZ
秀吉の権力も本能寺までは限定的。
彼には譜代家臣団が存在しないし、その軍隊の中核をなしていた川並衆すら、信長に付けられた
与力に過ぎない。(家臣化は本能寺の後だ)
確かに秀吉は中国計略の過程で宇喜多をある意味「乗っ取って」いるが、それでも
信長権力に歯向かえるほどの力があるわけではない。

32:人間七七四年
08/06/23 14:33:55 R8QxZBBi
まあ俺は秀吉が本能寺の前に何かできるぐらい強力だったとは書いてないけどね。

33:人間七七四年
08/06/23 14:37:14 60Yw7QtF
しかし本能寺後の数年だけは秀吉の人生上もっとも切れのある動きするんだよね
小牧長久手を除いて
そんでもって黒幕とか妙な説が出る訳ですが

34:人間七七四年
08/06/23 16:35:48 fc2g65a/
>>27

>信長が生きていれば清洲会議のような、家臣が集まって織田家の方向性を決める
>ようなことが可能だったと思う?
これには同意。
でも、信長近臣で最も寵愛された、堀・菅屋・福富・矢部・長谷川・野々村らが中
枢にいたとは思えない。官僚的色彩が薄いからね。
信長の生前にこんな提案したら「たわけ!主を取沙汰するかっ」ってって殺されそう
だね。

あなたが指摘する通り、信長独裁体制で家老の林・佐久間ですら、辞令一枚で馘首で
きた。光秀だって中枢にかかわる仕事は大和検地ぐらいで、馬揃えは天皇を楽しま
せる単なるお祭り。彼も政権中枢にはいないと思う。

>清州会議
【変前の司令官】 【清州会議】
関東:滝川    →本拠地を失い失格  
北陸:柴田 
近畿:明智    →死亡      → 代打池田
四国:信孝    →利害関係人で失格→ 代打丹羽
中国:羽柴 
で、信孝の代わりに四国副官の丹羽を、明智の代わりに近畿遊撃指揮官の池田を
起用したのではないでしょうか?
彼ら2人は信長親子の仇討に参加しているので、足りない軍事力をその正統性で補
強して出席できたのではないかと、妄想してみる。



35:人間七七四年
08/06/23 18:07:41 UV0OZDo+
>>22
>滝川が「関東管領より茶器が」って言った事の真意もそれだろう
違うだろ。
「信長公記」によれば、信長は滝川に「老人の身での遠国派遣は大変だろうけど、
関八州の支配・取次を一任するから、老後に一花さかせてみよ」といっている。
滝川がぐずったのは自分が老齢だからで、「上がり」だと思ったからではないと思うよ。

>逆に秀吉こそいつまでたっても地方ドサ回りの方面軍司令官の立場から脱しきれず
佐久間への折檻状でも信長から誉められているのは、明智・羽柴・柴田・池田などの
方面司令官・遊撃指揮官ばかり。
信長の中では司令官は一番映えある仕事だと認識があったと思う。
でなければ、ここであげられる名前に武井・松井・村井あたりが入ってないとおかしい。

36:人間七七四年
08/06/23 18:17:49 Q35cUHxF
>>35
単に、佐久間と近い立場の「方面司令官・遊撃指揮官」を引き合いにだしたとは考えられない?
違う分野の人を挙げても、説得力が薄いだろ。

37:人間七七四年
08/06/23 18:28:25 60Yw7QtF
>>35 その名前あげるなら菅谷さんも入れて星

38:人間七七四年
08/06/23 18:31:58 UV0OZDo+
>>36
確かにその通りです。
信長が家来に叙任の栄誉を与えた時も、吏僚が何人か含まれてるし…

じゃ、織田家家臣団で「一番エライ人」って誰になるのかな?
まさか、村井のじい様ってことはないよね。


39:サイコメトリー
08/06/23 18:32:39 dZVYk9g/

重複スレ有ります。まとめが少ないとのご指摘がありましたので、お答えします。
本能寺の変に関するスレがいくつか有るのは認識しています。前スレ前提でも、
書いた様に各スレがイマイチだと自分は思っていましたので今回もスレ立てしています。
自分がスレ主だと気にくわないのか、との指摘がありましたが、仰る通りです。

前スレ スレリンク(sengoku板)l50

前スレでは皆さんの様々な説、ご意見頂き、あっという間にスレが1000を越え
本当に感謝しております。ありがとうございました。
新たなスレ立てをしましたので、改めて自分の意見を開陳したいと思います。

自分は昔から光秀怨恨説を支持していました。理由としては後世の講談話を頭から
信じていた為です。プラス光秀に対する判官贔屓もあったと思います。
高柳野望説を頑なに認めたくない所にも、天下を望んだ光秀があっさり秀吉に負ける
ハズがないという思い込みからかも知れません。したがって、桑田忠親氏の柔ら怨恨
説に便乗しているというのが、正直な所です。

黒幕説、陰謀説においても、文献上ありえないとか、当時の状況を鑑みてありえない
と言うよりも、光秀が誰かに利用されているハズがないという想いから、様々な理由
付けをしてたのが、偽らざる本心です。実際、黒幕陰謀説の可能性が低い事は前スレ
でも語ってきましたが、心底にはその気持ちが有りました。こんな事を言ってしまえば、
感情論となり、とてもまともな意見も異論も出ないと言われそうですが、正直、前スレ
では、その気持ちを抑えつつ、様々意見をしていた事を認めます。

変な前フリしておいて僭越ですが、前スレの流れを確認します。端的に言いますと、複合
説となっています。その要因となる候補は以下となります。ご意見願います。

○ 本能寺周辺及び京周辺の詳細状況把握
○ 畿内掌握を目的とする光秀軍単独行動
○ 様々な状況を加味した上での光秀のノイローゼ
○ 四国取次ぎ担当交替憤慨

その他にも外せない説や出来事がありますでしょうか?


40:前スレ 917
08/06/23 18:43:35 UV0OZDo+
>>39
サイコメトリー様
私はこのスレを気に入っているので、新スレ感謝です。
とても勉強になるので、このスレも盛り上がったらうれしいです。

41:サイコメトリー
08/06/23 18:49:30 dZVYk9g/
>>40さん
ありがとうございます。
そう言って頂けると本当に嬉しいです。自分もスレ立て者ですが、皆さんに
いつも勉強させてもらってますので、今後とも宜しくです。


42:人間七七四年
08/06/23 18:58:21 qIb6lJIQ
俺もここ好きだぞ~。
たまに輩が来るが、まぁ
そこは2chだからね。

43:人間七七四年
08/06/23 19:01:14 R8QxZBBi
信忠まで死んだのは偶然なんだよね。
すでに家督は信忠に譲られていたから信忠が生きてたら清洲会議みたいのは無しで織田家も安泰だった。

44:人間七七四年
08/06/23 19:05:18 1BGQrYxZ
>>43
それは、どういう過程で光秀が退治されるか、によるな。
信忠が軍を組織し決戦できればともかく、史実のように秀吉が主導権を握ったまま
光秀倒しちゃうと、信忠がいても秀吉の織田家内部での権威権力が大きくなりすぎる。

45:人間七七四年
08/06/23 19:09:54 R8QxZBBi
>>44
どういう過程でというのは大切だけど、清洲会議で幼少の三法師の後見というウルトラCでやっと織田家の権力を掴んだことを思うと、どういう過程であれ信忠というトップがいたら秀吉は一家臣でしかいられないと思うよ。
発言権は大きくなるだろうけど。

46:人間七七四年
08/06/23 19:15:32 qIb6lJIQ
45に同意。
信忠が通常に生きてたら、秀吉は台頭出来ない。
山崎に至る経緯や賎ヶ岳に至る経緯が全く違う。
信忠生きてたら、賎ヶ岳も起こらんか?

47:人間七七四年
08/06/23 19:21:03 1BGQrYxZ
>>45
まあ、あくまで全くの妄想ってことで

もし信忠が軍を組織できないまま秀吉が光秀を倒した場合、信忠に「父の仇も撃てなかった不覚人」って悪評が
たてられ、それは織田家当主を降ろされる圧力になると思うんだよね。秀吉なら間違いなくそう工作する。
そして史実でもそうであったように秀吉は、織田家秩序を超えるため、朝廷を利用し官位秩序によって
信忠の上に立とうと画策するだろう。これは信長が確固とした織田政権の組織を作らないまま死んだ以上、
秀吉の側にも合理的正当性が存在するんだよね。

結果信忠は親戚であり同盟者である家康を巻き込み、小牧長久手のような戦争が起こるべくして起こることになる…

てなかんじになるかなあ、と考えているわけだが、どうだろう?

48:人間七七四年
08/06/23 20:04:04 RgfUaG+d
>>47
無理があると思う。史実の秀吉は山崎の時に、信孝を名目上は総大将にたてて、
信孝による弔い合戦に自分が参加したという形式をたてた。何故そんなことを
したかというと、そうしないと池田や丹羽などの畿内の織田諸将に、秀吉が
命令を下せる名目が成立しないから。
もし信忠が生きていれば、秀吉は信忠の命令で光秀を討ったとなるだけ。

49:人間七七四年
08/06/23 21:52:06 bvdEiFis
北畠に入った信孝と織田を継いだ信忠では根本的に違うんじゃね
秀吉が先に参陣しても頼らない可能性すらありそう

50:人間七七四年
08/06/23 22:13:05 1BGQrYxZ
> 秀吉が先に参陣しても頼らない可能性すらありそう

それで下手に戦線が膠着でもしようものなら、それはまためんどくさいことになりそうな。

51:人間七七四年
08/06/23 22:19:38 qqb5RG05
信忠はすでに織田家の当主だからな。秀吉には信孝や丹羽を従えたようには出来ないよ。

52:人間七七四年
08/06/23 22:42:51 qIb6lJIQ
だね。
信忠存命な以上、秀吉の目はないよ。あるとすりゃ信忠殺すしかない。

53:人間七七四年
08/06/24 00:23:19 opkDWVD8
>>47
>信忠に「父の仇も撃てなかった不覚人」って悪評が
>たてられ、それは織田家当主を降ろされる圧力になる
>>51のいうように信長は甲斐平定後、信忠に「天下の御
与奪を与え」て(信長公記)いるので、彼が名実ともに
織田家当主かつ日本国王。
信忠おろしは謀反そのもので、大義名分がないから、あり
えない。
>>48に同意だな

54:人間七七四年
08/06/24 00:25:02 eXYADOnE
変の時、逃げ切れずに討たれたのが信忠の限界だから、生き残ってたら、という仮定もちょっと仮定の二乗のような気はする。
お坊ちゃんであったことは間違いないだろうから、どうなってても秀吉はうまいこと織田家乗っ取りに成功してた気はする。
信忠が秀吉に対抗できるだけの武将であった、という仮定はなかなか厳しいだろうしね。

しかし、変直後の2年ぐらいの秀吉は神業の如き手腕だもんな。もちろん強運もあったろうけど、それを生かしきったというのはすごいもんだ。
ちょっとスレチになるが、変が無くても単に信長より長生きしてたら秀吉はやっぱりうまいことやってたかもしれない。
家康が最後にうまくやったようなことが、信長ー秀吉にも十分あったと思うんだ。

55:人間七七四年
08/06/24 00:31:44 sAyQLnQG
まあ、信忠が、信長という存在が突然いなくなった後の織田家中をまとめられるか、っていわれると
確かにクエスチョンは付くわな。信長の時代ですら謀反が起こりまくっていた体制で、しかも信長の
突然の喪失と言うことで家中は動揺しまくっている。その動揺を収められるほどの手腕を信忠が
持っていたかどうか、と言うのもやはり未知数だしね。

56:人間七七四年
08/06/24 00:44:32 eXYADOnE
そうだよね。
実際に丹羽&信孝軍からは兵が逃げ出してるし、滝川とか変が起きてひどいめにあったのはいっぱいいる。
ということはあくまで織田家ではなくて信長個人の力を皆が恐れていたわけだから、残った織田家を信忠がまとめたとしてもその家臣団まで含めるとちゃんとまとめるのは至難の業だったと思う。
秀吉から見たら、なんとでもなるここは勝負のとき、と仕掛けて来たに違いないしね。

秀吉の凄いのは小牧長久手の時に、兵数は圧倒的に自分のほうが多いのに自分から引いたこと。
つまり相手の力量、状況、そういう読みが神業だったんだよね。
その前の清洲会議あたりからも、他の武将の力量、とりまく状況、そういうのを読みきっていて完璧に行動してる。
もちろん織田家内のペーペーだった頃からそういう点に気を配って出世してきたわけなんだけど、増大していく己の立場をも見誤ることなく相対的に冷静に把握してた点は、現代のホリエモンや村上きんちゃんと比較しても、ただただ感嘆するばかり。

57:人間七七四年
08/06/24 00:46:14 /a/nvbmc
>>54
その秀吉に対抗するって出発地点が間違いだから。
なんで当主が家臣に対抗せねばならんのかと。

58:人間七七四年
08/06/24 00:46:48 0uRENEWQ
>>54
それも難しいと思う。まあここまでくると明確な根拠もない、各人のそれぞれの人物に対する
思い入れによる推測になってしまうが。

なぜかというと、秀吉も家康も上位権力が喪失された、権力空白期間を利用したから。
秀吉の時は、信長とナンバー2の信忠が同時に消滅し、織田諸将は誰の命令を聞けばいいのか
不明になった。その空白に上手く自分をもぐりこませたのが秀吉の契機。
これは秀吉死後の家康も同じで、秀頼が幼少で権力を揮えない状況を利用した。
信長死後も秀吉死後も、ちゃんと権力を継承して振るうことができる成人の後継者がいれば、
そう簡単に簒奪はできなかっただろう。
秀吉の場合は難しいが、信長の場合は信忠という万人が認める後継者がいたから、そちらが
健在なら多少の能力差では上位権力を揺るがせることは難しい。

言ってしまえば、家康死後だって同じ。単に能力で言うのなら、秀忠以上の大名はいただろう。
江戸幕府の機構の整備されて支配体制が強固なものになるのは、秀忠家光以降の話。

59:人間七七四年
08/06/24 00:49:41 /a/nvbmc
>>58
だね。絶大な当主が死んだ後はみんな謀反起こさなきゃならなくなる。家康死後の伊達とか島津とか

60:38
08/06/24 00:53:40 opkDWVD8
もし、方面司令官が織田家の中枢ならば、席次は①勝家②秀吉③光秀となる。
高柳氏のいう野望説は謀反で③からトップをとりたい(天下が欲しかった)
って論法。
一方、方面司令官が中枢とは無縁のドサ廻りとするならば、大和・丹後検地・
馬揃えをやって、かつ京都近辺に所領をもっていた光秀が①ってことになる。
よって、氏の論法ではあえてトップを狙う必要がないから野望も生じないって
ことになる。

そこで聞きたいんだが、織田家の①って誰なの?今までは素朴に柴田だと思って
たが、スレ見てて分からなくなってきた。



61:人間七七四年
08/06/24 01:02:33 sAyQLnQG
>>57
> なんで当主が家臣に対抗せねばならんのかと。

それが戦国時代というものだよ。

62:人間七七四年
08/06/24 01:03:20 eXYADOnE
>>58
そうだね、結局はあの3人に関しては、同じような結論になってたような気がする。
で、伊達とか島津とかそういうとこまでは論理を拡大してはいないので、誤解なきよう。
ほんで反論じゃないけど、秀吉の場合は次男三男は実際に無事だったのにも関わらずうまいことやってる。
もちろん無能に近くて、ちゃんとした継承者、じゃなかったから秀吉はうまいことやったのだろうけど、もしちゃんとした継承者がいても、秀吉なら行動をおこしたのではないか、とね。
結果はともかく。
ま、このあたりは小説のネタなので面白おかしく語ったほうがいいのかもしれないな。

63:人間七七四年
08/06/24 01:07:55 sAyQLnQG
>>60
> そこで聞きたいんだが、織田家の①って誰なの?今までは素朴に柴田だと思って
> たが、スレ見てて分からなくなってきた。

織田家は本能寺まで信長のほぼ完全な独裁。ナンバー2はいない。
はっきり言えば勝家も光秀も秀吉も使用人に過ぎない。
織田家の政権中枢は信長そのもので、その信長が事毎に、必要と思われる人間の助言を聞いて
政策を支持し、実行させていた。

だから信長時代の織田家に、他家のような家臣序列があったと考えるのは間違いだと思う。

64:人間七七四年
08/06/24 01:09:57 eXYADOnE
>>60
ナンバー1の定義を決めたほうがいいと思う。
領地なのか、信長の覚えめでたいという意味か、将来性か、今までの付き合いの長さか。。
たとえ領地にとしても単に大きさだけで判断できるのか、京に近かったり交通の急所を持っているか、とか。
じゃないと、結局論が細かくなってグダグダになってしまうのが流れ。
ちなみに勝家と光秀は生い立ちも全然違うしなかなか比較にはならないと思うのだよね。

65:人間七七四年
08/06/24 01:16:04 /a/nvbmc
>>61
それ一昔前の間違った戦国観。大義名分はやっぱり必要なのだよ。

66:人間七七四年
08/06/24 01:20:21 sAyQLnQG
>>65
いやあ、勢力さえ大きくしちゃえば大義名分は後から付いてくるものだよ。
細川家に対する三好、斯波対する朝倉織田、京極に対する尼子、みんなそう。

67:人間七七四年
08/06/24 01:23:44 eXYADOnE
秀吉はその大義名分の重要性をとてもよく理解していたからね。
変の後の行動はすべてその大義にかなったようになるよう画策してる。
実際に変から1年でかなり不忠というか悪逆非道の行動をしてるけど、案外非難はされてないのじゃないのかな。
詳しいことは知らないけど。
そのあたりの、うまいことやったなも、というのが恐ろしさなんだよね。

68:人間七七四年
08/06/24 01:28:39 /a/nvbmc
>>66
それだっていきなり謀反して下剋上したわけじゃなく、主家の凋落や民心の離れから豪族も民も新しい支配者を望むからとって代われた。
昔の戦国史観だと無法の時代で主君が無能だったら家臣が謀反を起こして乗っ取ったみたいな感じだけど、それは明らかに誤り。

69:人間七七四年
08/06/24 01:28:49 sAyQLnQG
秀吉が余り批判されないのは、ぶっちゃけた話豊臣家が滅んだからだよ。
批判する主体が存在しない以上、恨みつらみも長くは存続できないわけで。

70:人間七七四年
08/06/24 01:32:57 sAyQLnQG
>>68
それもそれであまりに大義名分論に凝り固まった解釈じゃないかな?
実際の下克上はもっと複雑で、家中の勢力構図や政治的な方向性で決まることが多い。
だいたい、君の上げている条件の中にある「主家の凋落」は、まさに本能寺直後の織田家に当てはまる。

どうも議論がかみ合ってないなこれはw

71:人間七七四年
08/06/24 01:39:47 eXYADOnE
うん、かみあってない不毛の論だなも。

ケースバイケースとしか言えないと思うんだ。

72:人間七七四年
08/06/24 01:41:48 /a/nvbmc
>>70
>細川家に対する三好、斯波対する朝倉織田、京極に対する尼子、みんなそう


みんなそう。大義名分ありき。

で、君は本能寺がどうしたって?

73:人間七七四年
08/06/24 01:46:18 sAyQLnQG
>>72
どうも君は僕の事を「古い下克上史観の保持者」と脳内認定して、そこで「古い認識を啓蒙してやろう!」って形で
議論を進めようとするから変な事になっているんだと思うぞ?

74:人間七七四年
08/06/24 02:46:43 Jgp9kNi4
お互い、レッテル貼りで印象操作にやっきになってるなw

75:人間七七四年
08/06/24 03:22:42 fEHSgimX
どっちも厨くさいな
レベルを下げないでほしいわ

76:人間七七四年
08/06/24 09:57:47 ow2nKwKA
>>64
>ナンバー1の定義を決めたほうがいいと思う
これには同意。
桐野・谷口・高柳氏は謀反の理由に「光秀の地位の低下」をあげている。
もし、天正9年以降、検地・馬揃えの起用で光秀の地位が上昇していたのであれば、
この論者の前提が崩れる。

また、信長がなんらかの序列をつけていた事実は、信長が方面司令官に茶器を与え
茶会を開催する権利を留保していた点からも推論できる。
よって、序列は存在していたし、その順位を論じるのは無益ではないと考えます。


77:人間七七四年
08/06/24 12:40:12 d3pBarWA
>>76
「地位の低化」というのも難しくて、別に光秀自体が下がったのではなくて、秀吉があのままでは自分をこえてしまう、そういう将来的な不安に対する先制攻撃、みたいなのもあったかもしれない。
だもんで桐野たちの論も、実際の低下なのかその可能性におびえた、のかそのあたりを個別に検討したいとこなんだよね。

信長が各部下に序列を与えていたのはあると思うけど、それを競争心をあおった信長の上手な部下把握術、みたいな解釈はまたどうかと思うけどね。
単に信賞必罰的なシンプルなもの、そういう風にとらえたい意味もある。

78:人間七七四年
08/06/24 12:45:18 HnhFlg0b
茶会の席順は誰の主催か誰の弟子か何番弟子かなど関係するだろうから
織田の序列に繋がるか微妙

79:冬広
08/06/24 13:03:33 Ug6qKthu
>>77,>>78
そうなんだよね。
論点は
1、方面司令官内で序列は存在したか
2、方面司令官という仕事は織田家全体の序列の高位にあったか
3、織田家中で序列はそもそも存在したか
だと思う。
現在のスレの流れは複合説だから地位の低下がなかったとしても、複合説の理由のひとつが
否定されるにすぎないので、複合説自体の否定にはならないが、「光秀が織田家でどんだけ
えらかったか」はすごく興味はあるし、光秀が地位の低下におびえたとすれば、どの事実を
もってそう考えたのかそのパラメーターも知りたい。


80:人間七七四年
08/06/24 13:38:27 d3pBarWA
光秀の「どんだけえらかったか」ですけど、自分でどう思ってたか、信長がどう思ってたか、回りがどう思ってたか、についての個別の認識が必要でしょうね。
ほんで、光秀自身はそれを客観的に把握してたか、これが最も重要でしょう。
いきなり結論っぽくてあれですが、信長は京や室町の故事に詳しいであろう光秀を武将であると共に文化人としてもある程度の評価はしており、光秀自身もそれはわたっていたでしょう。
ほんで、それをよく理解して決して光秀や各武将よりも目立つ行動をとらなかった秀吉も、状況把握という点ではさすがだったでしょう。
で、光秀がその秀吉を見誤った点、これが本能寺から山崎、ひいては統一への元となっているように思いますね。

つまり光秀から見ると信長をワンチャンスでやってしまえば、後は自分がナンバー1である、朝廷ともつながりはある、そう短絡的に考えてしまったように思います。
そのきっかけは四国政策とかなんでしょうけど。
これは光秀の失敗と言うより、秀吉がすごすぎただけ、という意味でもあるんですけどね。

話をすすめてしまうと、本能寺は格別歴史を変えたすごい出来事、ではなくて日本史特に戦国にはよくある普通の謀反劇、家中劇、そういう風にも思うわけです。


81:サイコメトリー
08/06/24 14:53:18 WrSiOTL4
皆さん、スレ立て早々白熱してますね。
>>80
確かに戦国期によくある謀反劇のひとつだと思います。けども、日本史の中では
大きな分岐点だと思うなぁ。


82:人間七七四年
08/06/24 15:28:43 Kk6VIf9O
普通の謀叛とは違うわな。

83:人間七七四年
08/06/24 16:05:54 d3pBarWA
>>81
信長の次に出た秀吉と家康があまりに強力なので、信長はもっと強力であろう、そしてそれが生きてていたら、という二つの仮定は魅力的でしょうね。
ただ、やっぱり戦国勝ち抜き戦で途中でやられてしまったのは事実だし、もし生きていてもやっぱり秀吉、家康は何らかの形で頭角を表していたでしょう。
つまり本能寺では戦国の流れは大きくは変わらない、あまりに劇的で突発的な流れになっただけ、そのように思うのですよね。

このあたりは個人の見解ですし、生きていたら、という仮定の話なので軽くにしておきましょうか。

84:人間七七四年
08/06/24 16:06:50 BPqSorVJ
信長が死んだ時点で、日本史の流れが変わったと言わざるえないと思う。

織田家の組織体制に関しては基本的に>63に同意。
序列基準が問題だが、光秀・秀吉・勝家・一益が織田家四天王かな?

85:人間七七四年
08/06/24 16:09:29 HnhFlg0b
織田四天王は上から柴田丹羽滝川明智です

86:人間七七四年
08/06/24 16:20:47 d3pBarWA
>>82
どうでしょうね。
やっぱり個人の見解ですが、光秀は朝倉、足利、信長と見事にのりかえて成功してます。
このあたり実に機を見て敏、状況判断と人物評価に長けた超一流の武将だったでしょう。
それが主君を倒してさらにその上を望んだ、そういう意味で普通の謀反と思いますよ。
やられてしまった信長を評価するのは、あくまで秀吉と家康の主君、仲間だったから、という点が大きくてことさら信長自身の武将としての力量を評価したものではないように感じます。

ま、天下が見えてきた時点での謀反、という意味でなら意味は大きいでしょうが、特に格別の主君殺し、ということもないように思います。

ちょっと話がズレますが、光秀なんかは逆に信長を利用してた、こいつならある程度天下を治めるからどっかでやっちまうか、なんてことを考えていたかもしれません。
義昭との利用合戦をまじかでみていたわけですからね。自分ならもっとうまくやるな、なんて思ってたかもしれませんよね。
さらに言うと秀吉もそうです。あのまま信長配下の1武将で終わっていたとは思えません。
実際にそうだったわけですし。
小説になっちゃいますけど、実際の1582~1585なんてのは小説以上の展開ですものね。

87:冬広
08/06/24 16:45:38 ow2nKwKA
>>84,>>85
ソースは知らないがそのメンバーはよく挙げられてるよね。「四天王」=織田家全体の序列の1位から4位
って認識でいいの?
一益が入っているのは解せないが、大和検地の奉行を光秀と一緒にやったからか、関東方面司令官だった
からかどっちなんだろ?丹羽はまったくわからない。

>>80
少なくとも、天正10年1月では光秀は信長の自筆の掛け軸をかけたりして、神扱いしているから、
自分の地位に満足していたといえる。
>そのきっかけは四国政策とかなんでしょうけど
おそらくそうだと思います。1月以降に何かあったと思う。

>後は自分がナンバー1である、朝廷ともつながりはある
これはどうかなぁ。(光秀自身がカンチ入ってたとしても)客観的にナンバー1であること
を示す史料ないし、朝廷とのつながりって馬揃えぐらいでしょ。

>>86
>光秀なんかは逆に信長を利用してた、こいつならある程度天下を治めるからどっかでやっちまうか、
>なんてことを考えていたかもしれません。
ズレてないと思う。藤本鈴木本にあったが、光秀は72のだましのテクをもっている(「日本史」)という記述を
再評価すべきっていっている。
本能寺の結果踏まえた記述だから、ある程度差し引く必要があるけど、相当したたかな武将だったと思うね。

88:人間七七四年
08/06/24 17:55:20 I0ZGWlIX
>>87
>少なくとも、天正10年1月では光秀は信長の自筆の掛け軸をかけたりして、神扱いしているから、
>自分の地位に満足していたといえる。

むしろ、そうまでして忠誠心を示さねばならなかったんじゃないかな。

遡れば、変の丁度一年前に家中に軍法を発布しているのも然り。
暫らくして信長のお気に入りだった妹が死んでいるから、その頃から光秀は
信長との関係に気を揉む様になっいたと考えられる。

長宗我部との関係が拗れ始めたのもその頃だしね。

89:人間七七四年
08/06/24 18:24:38 Ol4E/mKz
藤本鈴木本というのがまだ最近であまり論評されてるところを知らないからなんだけど、結構前からそういう光秀野望説みたいなのはあったんだよね。
ただ戦国の世だし、今だって会社で出世していくのを出世欲がある、なんてことさら強調しないから、光秀独自の野望、って意味でもないのですよね。
主君を乗り換えていくぐらいだから当然そういう欲求は人一倍あったと思うし。
あくまでよくある、一山あててやろぉ、ってなもんで、そういう意味でも本能寺は格別な謀反とも思わないのですよね。

だもんで、黒幕どころか謎ともあまり思わないし、光秀おめでとの変、ぐらいにしか思わないのですよね。




90:人間七七四年
08/06/24 18:26:02 HnhFlg0b
>>87 総見寺資料だったかな 序列と関係ある共ない共いえません
私は7本槍みたいなものじゃないかと想像してます
滝川や丹羽が入っている理由は私などにはわかりませんw
他の部分に佐久間林の名もあるらしく関東の頃以前の話みたい

91:人間七七四年
08/06/24 19:12:09 0uRENEWQ
光秀に野望があったのは事実だろうが、野望といってもいろいとあって、立身出世を望むのも
野望なら、自分が天下人になるというものまで。

>>86
信長が生きていたら、秀吉は織田の一武将で終わったでしょう。それは買いかぶりのしすぎです。

92:人間七七四年
08/06/24 19:28:55 Ol4E/mKz
>>91
反論ではないですけど、もし秀吉が1武将で終わって、どこかで信長が先に死んでたら天下を取ったかも、というのは買いかぶりと思うのですよね。
何ですけど実際に先に信長が死んだら見事に天下を取った、ということは秀吉の実力と言うのは事実なわけですよね。
それもここでは繰り返しませんが、マイナスの状態からたった3年で関白にまで上り詰める。
家康がいたのにもかかわらずです。
ということは、秀吉は光秀以上に、殿があぼ~んしたらわしのもんだがや、と思ってた可能性はあるでしょうし、もしかして自分が変を起こしていたかもしれないわけです。
買いかぶり、というのは信長のためにあるようなもので、秀吉や家康にはそれでも足りないぐらい、そのように思います。

このあたりは、誰が先に死ぬか、で戦国の地図が変わってきたでしょうが、信長が一番長生きして朝廷滅ぼして信長王国作ってた、みたいな仮定をしない限り結局は同じような展開、誰かが幕府を作って戦国の終焉を迎えた、そのように感じます。

93:人間七七四年
08/06/24 19:39:01 CqZNQmww
方面軍司令官という概念は史料的根拠が無いから、序列を語る上では使わない方がいいんじゃない?

94:人間七七四年
08/06/24 20:20:31 FawkqCaI
>>92
あんたの秀吉贔屓が気持ち悪い。

95:人間七七四年
08/06/24 20:29:48 sAyQLnQG
まあ光秀がどうあろうとそれを可能ならしめたのは、信長の完全な油断だわな。

「信長公は武田信玄が死んでから気が緩んだ」細川幽斎

確かにそんな気がする。

96:サイコメトリー
08/06/24 20:35:52 WrSiOTL4
方面軍とい言葉を初めて使ったのは、高柳光寿氏だそうです。
確かに>>93が仰る通り、その言葉を用いて序列を計る事は一概に出来ませんが、
1582年当時、柴田・羽柴・明智が織田家で最も所領を預かっていた事も事実です。


97:人間七七四年
08/06/24 21:07:12 0uRENEWQ
>>92
>58 参照。
史実の秀吉が「信長と信忠が同時に死んだから」その状況を利用して天下を取れたことと、
仮定として「信長が死んで信忠が健在でも」秀吉は天下を取れたかはイコールにはなりません。

これは秀吉の能力の問題ではありません。秀吉には「本能寺後」の状況から天下を取る能力が
あったことは史実で証明されていますが、「本能寺がなく信長から信忠にスムーズに権力が継承
された」状況でそれでも天下が取れるとするのは贔屓のヒキ倒しです。
これは家康も同じことですが。

98:人間七七四年
08/06/24 21:29:06 Kk6VIf9O
96
97
に同意。
どう考えても、その三人がTOP3だと思う。佐久間が筆頭だとするスレもあるが‥。

秀吉の力は認めますが、信忠生きてたら、彼は力を出せない状況でしょ。
仮に画策しても、与力武将以外が靡くはずがない。

99:人間七七四年
08/06/24 21:35:17 BPqSorVJ
95
その幽斎の言葉、信長の死後でしょ?
エケイのたか転びと変わらないレベル。

100:人間七七四年
08/06/24 21:47:07 Ol4E/mKz
てす

101:人間七七四年
08/06/24 21:55:13 Ol4E/mKz
>>97
よくわかりますよ。すべてあくまで仮定の話ですからね。
ただ、からむわけではないですが、信長から信忠にスムーズに継承されたとしても
その状況がどこまで安定して続いたか、信忠の能力もふくめて、やっぱり仮定の仮定とも
思うのですよ。
とすると、その仮定の二乗の状況下で、秀吉が単なる1武将で終わった、というのもあくまでも
可能性のひとつでしかない、そのようにも思うのですよ。

仮定続きで申し訳ないけど、信長がもう少し長生きして継承がうまくいく、そういう可能性というのも案外少なかった
そのようにも思うのですよね。
まあ、あくまで生きていたら、の話なのでそれが信長の限界とも思えてしまいます。

102:人間七七四年
08/06/24 22:01:57 Ol4E/mKz
よく信長の油断といますが、視点を変えると、信長が部下の能力と本質を見誤っていた、という言い方はできませんかね。
まさか光秀に反乱されるとは夢にも思ってなかったでしょうし、
その後ハゲネズミが関白になるなんて夢にも思ってなかったでしょう。
だもので、結果を知ってると油断とかどうして軽武装で京に入ったか、なんて謎扱いしますけど、
信長が部下のそういう重要な点を見誤っていた、それまでのことであるというか。

言い過ぎかもしれませんが、自分がそうやって策略、計略で勝ち上がってきた、しかも浅井とかの裏切りも経験している、
にもかかわらず、すぐ近くの光秀にはそういう可能性を感じとれなかったのは、油断と言うより、まさに信長の力量そのもの
、限界、そういうように思うのですよね。
さらに言うと、ハラに一物もってるくせに、へへ~っ、と仕えてきた光秀のしたたかさ、そういうのを感じます。


103:人間七七四年
08/06/24 22:13:15 BPqSorVJ
↑それが油断と言う。

よく本能寺なくても、いずれ信長は家臣に裏切れたっていうけど、ない、ない。

104:爆音小僧
08/06/24 22:16:03 +2tijk1b
信長は秀吉にころされたんだ!!

105:人間七七四年
08/06/24 22:18:01 sAyQLnQG
まあ、少なくとも長篠以降の信長は散漫な印象を与えるなあ。
既に太平の世の天下人気取りと言うか。

106:人間七七四年
08/06/24 22:28:19 Kk6VIf9O
ほぼ天下人じゃん。
だからこそ、油断があって本能寺じゃん。

107:人間七七四年
08/06/24 22:29:00 sAyQLnQG
>>106
「太平の世の」な

108:人間七七四年
08/06/24 22:29:28 ft31LFhF
サイコさん一応切り取り次第ではありますが越中50万石を貰い
本能寺前日に切り取った佐々は軍団長では無いのですよ

109:人間七七四年
08/06/24 22:36:26 /a/nvbmc
>>93
地方の攻略を任され、一職の令を受けた軍団が存在したのも事実。便宜上使用するのは問題ないと思われる。

110:人間七七四年
08/06/25 06:19:45 buteCGPK
>>109
ということは本能寺時点で光秀に攻略を任されている地方は無いから、方面軍ではないってことだよね

111:人間七七四年
08/06/25 06:43:27 E6RlVTZP
>>110
近畿

112:人間七七四年
08/06/25 07:11:07 buteCGPK
>>111
近畿というのは畿内周辺という意味かと思うけど
紀伊以外終わってたじゃん
光秀は紀伊に関わってないし

113:人間七七四年
08/06/25 09:38:50 6xO+29P3
>>108佐々前田らの最強寄騎を付けられている柴田がやはり名実共に№1ですね

114:人間七七四年
08/06/25 10:19:30 sjbbxhg/
マジですけど、ササナリマサの直系の子孫と一緒にバイトしたことがあります。
何気に歴史の話したら、どえりゃあ告白をされてびっくりしました。
ただその時はまだ戦国はあまり知らなかったのですよね。
もう少しお知り合いになっておけば良かったな。

115:冬広
08/06/25 12:36:25 zaTUmH0H
>>88
>暫らくして信長のお気に入りだった妹が死んでいるから
あやつけるつもりはないが、これは違うだろ
確かに、「きよし」を「気好」(お気に入り)だとする論者はいるけど、ほかの資料で「信長の妾
が光秀の妹と確認できないから「御旨」(心配した)と解釈すんのが自然っていう桐野氏の見解に
賛成したいね。

>>89,>>102
>光秀おめでとの変、ぐらいにしか思わないのですよね。
>さらに言うと、ハラに一物もってるくせに、へへ~っ、と仕えてきた光秀のしたたかさ
身もふたもない意見だが、案外これが真理をついているのかもしれない。
「五月かな」の歌を謀反に関連づけて解釈するのも、本能寺って事件をわれわれが知っているから
にすぎず、本人は単に五月の風景を詠んだだけかも知れないしね。
紹巴にあやつけた秀吉も案外そんな気持ちかも…

>>112
紀州は織田信張がいるね。規模は小さいがこいつは紀州専従なんで光秀は無関係。
いわゆる近畿方面軍は丹波平定後の天正8年に組織されるも、9年の因幡援軍・10年の甲斐後詰・備中援軍など、
結成後に方面軍の主体的関わりが全くできてない。畿内にあるという地理的特殊性を加味しても、他の方面軍
にはない地味さ。「方面軍」って認識がそもそも誤りなのかも知れない。>>110にやや同意。


光秀の地位は低下ではなくむしろ上昇していたのではないか?
光秀は天正8年以降に、大和検地・馬揃え・丹後検地を行っている。私見では馬揃えは単なるお祭りと考えるの
で、(差出)検地が重要な任務と考える。
検地は課税対象の確定を目的とするものであるから、織田家の財政の中枢に関わる任務といえる。注目すべきは
大和検地で(奉行は光秀・一益)、大和は従来守護不設置の国である点である。現に「多聞院日記」では奈良の
僧侶がブチ切れて光秀を閻魔王よばわりしている。
また、組下は軍事指揮権のみ司令官に従属するので、光秀の組下の所領である大和検地・丹後検地は司令官によ
る越権行為である。本来ならば、和泉検地を行った堀のように吏僚が派遣されるはずだが、かかる権限を付与さ
れているのは光秀が中枢に関わっているからといえる。
馬揃えに政治的意味を見出す論者であれば、中枢関与はより補強される。
よって、地位は上昇したと妄想してみる。 



116:サイコメトリー
08/06/25 12:54:32 Wz5gEOIM
>>108
佐々成政、確かに本能寺直前で越中一国を預かる形になってましたね。
申し訳ない。ちょっと調べたサイトでは越中石高約38万石だったよ。

URLリンク(www.asahi-net.or.jp)
もしくは、戦国スレの『戦国大名、初期~中期~後期の石高』

本能寺の直前の佐々成政の越中一国預かりは、一時的なものだったと思われます。
越中半国を預かっていた神保長住の失脚により、成政の一国統治となったわけだから、
石高を利用した動きが当時は取れないと思う。その点が他の3人とは違うね。

信長存命なら、佐々成政は織田家の重臣中の重臣になった可能性はあるね。
なんか、言い訳くさくなってスマン。



117:人間七七四年
08/06/25 13:56:26 t4wjmvn3
>>115
おやおや、最新の研究動向をご存知ないのかな。
光秀の妹のおツマキは、天正四年に前久の長子・尊勢が興福寺一乗院で得度する際、
信長からの上使となっているんだよ。

確かに側室ではなかったけど、かなりお気に入りの女性であったことは、『言経卿記』
の記述からも明らかなんだけど。

118:冬広
08/06/25 14:53:56 zaTUmH0H
>>117
全然知らなかった。指摘㌧!
兄妹そろって優秀だったんだね。
ぜひ読みたいので、どの研究論文・書籍に載ってるのか出典を教えてくだされ。


119:人間七七四年
08/06/25 18:19:35 0SHe8Twd
高柳はもちろんのこと、桐野でももう古いってとこなのかな。
ただ、最新の研究が正しい、とは限らないのがこの世界の難しいところ。

120:人間七七四年
08/06/25 18:49:33 z6A0M79t
冬広さん
光秀が奉行を努めた『馬揃え』が単なる祭だというのに異論。

馬揃えは、確かに形としては祭典だが、実際はもう織田の天下だよと朝廷衆・京衆・地方大名に見せ付ける政治的パフォーマンス。

京でやる事に意味があり、光秀は更に公家衆と親密になった事だろう。この手の仕事は出来る人間が限られる上、家柄+故事典礼+ある程度の地位所領が必要となり、織田家で光秀以上の適任はいないでしょうね。
検地も大事ですが、今も昔も権力者にパフォーマンスも大事な様です。

121:人間七七四年
08/06/25 19:40:25 0SHe8Twd
祭りも政治的パフォーマンスもある意味似ているところはあると思うけど、それをさらに強力にした朝廷恫喝説
なんてのはさすがにもう流行らないか。
ただ天皇のリクエストに応えて2回もしてるからか、信長ー朝廷仲良し説というのもどうかというところ。

このあたり最新の解釈はどうなってるのかな、他でも聞いたのだけどちょっと中途半端になっちゃってて。
対立とまではいかない微妙なバランス、というところでいいのかな。

とすると政治的意味合いというのは単なるパフォーマンスでとどまらずに、信長側から見るとある意味メッセージとも
言っていいぐらいに思うのだけど。
暦、東大寺切り取り、みたいにいろいろ仕掛けてるのは信長のほうだしね。

なかなか面白いテーマですよね、このあたりは。

122:人間七七四年
08/06/25 20:04:52 t4wjmvn3
>>118
Yahoo掲示板の光秀トピで紹介されているから見てご覧。


123:110
08/06/25 21:14:39 kg3pybh+
>>115
「軍事司令官は吏僚の役割をしないもの」という理屈には、
「堀は近江衆の指揮官でもあった」という反証ができます。
さらに塙の例もあることから「光秀の比較対象は堀や塙の方が良い」
という結論になってしまいます。
大和検地を中心に光秀と一益を比較するのが良いのではないでしょうか?

124:人間七七四年
08/06/25 22:50:59 NJ6n1y8q
大和検地で光秀と一益を比較って‥‥。

125:人間七七四年
08/06/25 23:18:26 vXzkvdnQ
Q太郎応援したいけど
仕事が伝書鳩みたいな感じだからな

126:冬広
08/06/26 01:25:44 QdOuaZD7
>>123
塙か~、いいとこに目をつけますね。
光秀と塙は、行政手腕もあって軍隊の指揮もそこそここなす点が似ていると思います。
谷口・親衛隊本に事跡が詳しく掲載されているが、大和守護として筒井・松永を左右に
従えて能を見物している場面は象徴的ですね。
大和検地の評価はあくまで妄想だとエクスキューズしているので、逆に110さんに
聞きたいのですが、検地=中枢の仕事っていうそもそもの認識は共感できますか?
研究者で指摘しているのは管見の限り高柳本だけで、氏も単に検地があったという
事実しか挙げず何ら評価を加えていないので、どうにも自信がなくて…

(この時期には彼は長浜城主ではないという前提で)堀が指揮官ってのはどうかな?伊賀征伐
で旗本率いたから指揮官には違いないけど、自前の兵隊なんて知れているし、この点は留保です。
塙・滝川を比較対象にすることには異論はありません。

>>120
確かに政治的パフォーマンスの効果はあったでしょう。だからこそ「信長公記」の馬揃えでの
牛一の喜びようはハンパない。
でも、馬揃えで何らかの政治的変動は生じていない。
たとえば、朝廷と不和だったのが融和したとか、意のままにならない朝廷がペコペコしだし
たとか、支配権の及んでいない遠国の大名を参加させたとか、参加させようとしたとか、
そういう事実があれば祭り以上の成果があったといえるが、特に思い当たらないので「祭り」
と表現しました。政治的パフォーマンス(今なら、ガソリン値下げ隊)意図までは否定する
趣旨ではありません。




127:人間七七四年
08/06/26 06:05:10 g/6ZwOlv
信長ってなんで手元に十分な兵力を残しとかんかったんじゃろ。

128:人間七七四年
08/06/26 07:29:30 EDgCd3Ax
陸奥虎彦がいたから

129:冬広
08/06/26 10:16:52 QdOuaZD7
>>121
>信長側から見るとある意味メッセージとも言っていいぐらいに思うのだけど。
天皇譲位のこと?もともと譲位は天皇が望んだんだよ。
また、桐野・堀氏の見解では馬揃え=左義長ー爆竹、のこと。
爆竹をやめたのは、前年に親王の生母が亡くなったことに信長が配慮して祭り
を簡素化したからっていう、氏の見解に賛成したい。
メッセージの内容は権力誇示というより、喪で沈滞している天皇家を楽しませたと
いうのが近いと思う。
蘭奢待切り取りは権力誇示ってのは同意。

130:人間七七四年
08/06/26 10:50:55 L8e7nbkC
信長は皇室や公家との交流を相当楽しんでいるよな。
上流階級のサロンに受け入れられて大喜びしている新興ブルジョアジーって感じだ。

131:人間七七四年
08/06/26 10:52:24 tzICar30

少なくとも、一族以外の為に光秀が変を起こした事はまず、なかろうと思う。


132:人間七七四年
08/06/26 13:36:23 z3EfWzGu
>>129
天皇譲位を天皇側が望んだ、のは事実のようですが、それは1581の馬そろえの後の話ですよね。
父親の信秀は内裏修理の時にどえりゃぁ金額を納入します、しかし義昭を奉じて信長が最初の上洛をした時に信長は天皇側と
接触をあまりしません。このあたりから天皇側は信長を異質な存在、よ~わからんでおじゃる、と思っていたでしょう。
で、1573ぐらいに信長から最初に天皇に譲位を提案、天皇もいったんは快諾はします。
このあたりは、「お金は出すなも」「お気持ちは受け取っておくでおじゃる」と最初のジャブ、かけひきであったでしょう。

その後は講和の仲介とかいろいろあったわけですが、信長が無官であったこと、強大な力をつけたこと、安土城を作ったこと
そしてなんといっても誠仁親王の皇子を猶子にしたこと、などから天皇側がやっぱり信長に脅威を感じていたように思います。
そのギリギリの駆け引きが1581の、自分から譲位を言い出した、ことだと思うのですよね。
「本当にお金をだしてくれるでおじゃるか」と。これはつまり、主と臣の確認というか、かなり天皇側もせっぱつまった状態だったと
思います。

ちなみに馬そろえで天皇が喜んだ、というのも、圧力におびえてたり弱みをみせないための、まさにギリギリのかけひきであった、
そのように思えてしまうのですよね。
史料には友好的に解釈できるようにもあるわけですが、それをそのまま受け取るのは少し危険な感じもします。

このあたりは室町以来の大名、武家、と天皇とのやりとり駆け引きそういうのから判断したりするとわかりやすいですよね。
なんといっても、義満、という前例があるわけですから。

133:人間七七四年
08/06/26 13:47:38 L8e7nbkC
>>132
そう言う歴史解釈を「我田引水」と呼ぶ。
自分の考えに沿って資料を解釈しようとすれば、もうどんな解釈だって出来るわけで。

134:人間七七四年
08/06/26 14:04:04 z3EfWzGu
>>133
自分の考えなんて恐れ多いことはなくて、いろんな研究者の本なんか見ていてわからない点があるので、
詳しい方にいろいろお聞きしたいだけですよ。
特にここ10年ぐらいの本や説はあまり知らないので、最新研究なんかがどうなっているか、ぜひ知りたいわけで。
決して、自分が正しい、と主張しているわけではないので、間違っている点なんかはどしどし指摘してほしいです。
年号や誤字に関してはご容赦を。

135:人間七七四年
08/06/26 14:19:40 CD2APO94
私は逆に天皇及び皇太子が公家以外の権力者にこれほど親密な関係を
持ったのは後にも先にも信長ただ一人と見ていますが
豊臣から徳川時代を経て明治に入り天皇家は初めて織田信長を弔った事実があります
色々な見解があるのでしょうけど豊臣徳川の世で何か理由があり弔う事が出来なかった
単純に織田以外の権力者の世では無理と言う話もありますが天皇家は弔える機会を待っていた
に違い無いと思います
ぶっ潰そうと考えていた野心家を祭る事はありえない←これが言いたいだけね

136:人間七七四年
08/06/26 14:26:05 pEGeW2yU
>>132
信長と朝廷は、上洛前から接触持ってるよ。
特に美濃を征服した直後の通称「決勝綸旨」こそが、信長に上洛を促したという
見方もあるほど。

上洛戦のときも入京前に朝廷と使者をやりとりしたり、その後も内裏の建造や朝廷
財政の再建に自ら関わったりと、明らかに将軍と別に直接朝廷と結びついている。

137:人間七七四年
08/06/26 14:33:40 z3EfWzGu
>>135
井沢流に言うと、怨霊鎮魂のため、つまり朝廷黒幕説、になってしまうわけですね。
と、これは冗談ですが、信長が何を考えていたかもはや歴史の謎でして、本当に天皇家をぶっつぶそうと
していたのか、これはともかく野心家であったことは間違いないでしょうね。

入鹿、高、義満、信長、と天皇に匹敵する強大な権力をもったのは、ぎりぎりのところで
みんな殺され又は死んでてますよね。
半村良の「ネがでた」とはまさに言いえて妙、ってとこですが不思議なものです。


138:人間七七四年
08/06/26 14:49:05 z3EfWzGu
>>136
どもです。ちょっと書き方が未熟で申し訳ない。
朝廷と接触していたのは知ってますが、上洛時に天皇には謁見してませんよね。
もし、天皇側から上洛を促すようなら当然謁見の機会はあったでしょう。
にもかかわらずそうしなかった理由がわからなくて。
単に「よくわからんでおじゃる」なんですよね。

上洛してしばらく、公家さんたちが信長の下にみやげを持ってワラワラやってきます。
その時に信長は義昭を同席させなかったりで、ちょっと舞い上がってるフシはありますよね。
義昭から見たら「主役はわしじゃ」と不快だったでしょう。
このあたりまでの信長は朝廷と将軍家の良いパトロンであったでしょうが、このあたりから
さらに上を見始めたというか視界が広がったというか。
決して天下を狙ったという意味だけではなく、地方の成り上がり大名がいい気分になっとる、
そんな人間くささを感じるのですよね。

139:人間七七四年
08/06/26 15:33:24 LkUTuIv1
だから、変には朝廷関係
ないから!

変について語ろうよ。

140:人間七七四年
08/06/26 15:49:11 aTo34+Km
「変には朝廷関係ない」ということを証明するためにも、
当時の朝廷の問題を語るのは問題ないと思うけど。

他に語りたい話題があるのなら、自分で話題を提起して議論を誘導すればいいよ。

141:人間七七四年
08/06/26 16:00:06 L8e7nbkC
光秀の立場に立って見ると、反乱の「成功」は畿内の軍事的空白状態から言ってある程度見通せたと思うのだけど、
一歩進めて反乱の「成立」、つまり信長を倒すことはあくまで手段であり、信長権力の崩壊後、自分を中心とした
体制(天下政権にせよ割拠政権にせよ)を作り上げることが目的だったはずなのだが、光秀はそれに関しては
どういう見通しを持ってやっていたのだろう?「それを提示する暇も無く滅んだ」と言われるとそうなのかもしれないが
光秀の反乱は、どうもそのあたりが見えにくい。

142:人間七七四年
08/06/26 16:23:09 KhO54fGh
そういう見通し、事前準備がみあたらないことが、突発的犯行、の根拠になってるのでしょうね。
ただ、結果を知ってるからそう言える訳で、光秀からみたらやっぱり回りは猿や野蛮人やアホ息子にお坊ちゃん2代目、
こんなだったら自分が中央は押さえられると普通に考えていたのでしょう。
四国とはうまく行ってるし、毛利とは講和を結ぶだけ。
自分が将軍になれないまでも割拠政権の中央を押さえているというのは大きい、そのぐらいまでは思って
いたのじゃないのかな。

ただあまりに回りをナメすぎというか、実質上何も考えてなかった、のは事実ですけど、10日ちょっと
で猿にやられるとはびっくりしたでしょうね。
「是非におよばず」は光秀にも似合うなも。

143:人間七七四年
08/06/26 16:42:00 KhO54fGh
>>130
連続で悪いけど、そういう大喜びしてるなんとか、というのには大賛成ですね。
新興ブルなんてもんじゃなくて、もっとロコツに、味噌カツで一発当てて東京進出した社長が銀座で
チヤホヤされて舞い上がってる、そんな風に思えますよ。
なんだけど、だんだん自分がカモにされてることがわかってきて、ちゃんとそれに気づく
このあたりは単なる田舎もんじゃないとこですよね。

右大臣をやめた、というのも、東京銀座商店街の副会長に任命されたんだけど、「バカにされとるだけじゃにゃぁか」と
気づいて「こんなんやめたるがや」ってね。
そうしてみると信長と朝廷の緊張状態とは案外情けないレベルだな。

自分が名古屋だもんで、東京行って「言葉が変」なんていっつも言われるから、よ~くわかるんだ。

144:人間七七四年
08/06/26 17:04:56 aTo34+Km
>>143
勝手にお前如きと重ねあわされて共感されても、信長も迷惑だろうなw

145:冬広
08/06/26 17:37:53 QdOuaZD7
>>139
>だから、変には朝廷関係ないから!
京都馬揃えについてあと一言いわせて。
本来、左義長とは小正月に行われる伝統行事で、内容は今日の「とんど焼き」と同じ。
しかし、信長は左義長を独自にアレンジした。
「信長流左義長」とは、陣列を組んだ馬で行進し爆竹で囃し立て、馬を走らせるというもの。
「信長公記」で「爆竹」の表記に「さぎっちゃう」とカナをふっていることで、それは証明さ
れる。(以上、宮本説より引用)
換言すれば、信長流左義長(とんど焼き)とは馬揃え+爆竹、をいう。
あとは>>129でカキコした通りだが、京都馬揃えが今日の軍事パレードを想起されるのか、朝廷
を威圧したとかいう論者がいるが、かかる解釈は馬揃えの外形に拘泥し、馬揃えが信長流とんど
焼き(の一部)っていう本質を看過したものであるというのが、私の見解です。

>>141
>光秀はそれに関しては どういう見通しを持ってやっていたのだろう?
>>5でも指摘されていたが、細川親子あての文書では「50~100日で近国を平定できる」
といっている。近国とはおそらく近畿・美濃あたりを指すと思われるが、明智自身は
かつての三好氏・細川管領家のような「天下」を望んでいたのかも知れない。
もしそれ以上の領地拡張を望んでいるなら、同文書で「息子にあとを委ねたい」なんて
呑気なことはいえないと思う。
なお、同文書は花押がおかしいから偽書だって立花氏が言っているから、根拠としては薄弱
かも知れんが。

146:人間七七四年
08/06/26 17:41:30 L8e7nbkC
>>145
> なお、同文書は花押がおかしいから偽書だって立花氏が言っているから、

立花氏の資料の読み込みは全く信用できない。

147:冬広
08/06/26 17:54:53 QdOuaZD7
>>146
禿同!あの本なら、八切本のほうが夢があっていいな。
でも、女史は光秀の花押の年次比定研究ではいい仕事やってたんじゃね?

148:人間七七四年
08/06/26 18:12:33 pEGeW2yU
>>138
上洛時に謁見の機会ならあった、以上。

>信長は義昭を同席させなかったりで、ちょっと舞い上がってる
何でこれが舞い上がってることになるのか判らん。

149:人間七七四年
08/06/26 20:26:40 a58o/NXS
余りにも羽柴秀吉が早く帰ってきたのが、最大の明智光秀の誤算だったと思う。
すぐ側に四国遠征軍がいるじゃないか、という指摘が散々されているが、トップは神戸信孝で、独立した1万以上の軍勢を率いたことはない。
補佐役として、丹羽長秀、津田信澄、蜂屋頼隆が付いているが、皆、独立して軍勢を率いた経験は無かった。
私が調べた限り、1万以上の軍勢を独立して率いたことのある本能寺の変の当時の織田家の家臣は、柴田勝家、羽柴秀吉、明智光秀位。
そして、津田信澄は自らの娘婿である以上、神戸信孝らに敵視され、自らに味方せざるをえなくなる以上、四国遠征軍は分裂必至と読むのはおかしくない。
そして、軍勢を率いる能力は、自分の方が上である以上、自分が勝つと考えるのは、明智光秀の立場に立てば、そうおかしくない。
羽柴秀吉は信長に援兵を求める苦境にある、柴田勝家も上杉が足止めするし、すぐには戻ってこれない。
そうなると、四国遠征軍を打ち破れば、筒井、細川も嫌でも自分に味方する、と明智光秀は考えたのだろう。

結果として、羽柴秀吉が早く帰ってきて失敗したのは事実だが、純粋な野望説でも、そう無理なく成立する余地はあると思う。

私としては、四国政策破綻と自らの老いからくる将来の不安の方が大きいとは思うが。

150:人間七七四年
08/06/26 20:42:06 L8e7nbkC
津田信澄は敵通云々ではなく、信長の跡目争いの競争者になると見られて殺された、って説もあるな。

151:人間七七四年
08/06/26 21:12:27 Qfj0IZbT
だが純粋な野望説だと、何故信忠も油断無く殺害しなかったのかという疑問が残る。信長、信忠の二人を殺害しないと乗っ取りにならない。信忠が死んだのは偶然が大きい。

152:人間七七四年
08/06/26 21:15:28 LkUTuIv1
149
対毛利、秀吉は苦境にたってないが、基本的には野望+将来不安って所ですね。
俺も畿内掌握野望なら同調します。老いを気にしてって所は‥‥。

153:人間七七四年
08/06/26 21:38:34 /m/YOZuI
151
そこよ、そこ。全く同意。そこが野望説の難点。

用意周到さを画に描いた様な光秀らしからぬ所。

154:人間七七四年
08/06/26 21:40:47 L8e7nbkC
でも結果的に、大物で逃したのは家康くらいで光秀大成功。

155:人間七七四年
08/06/26 21:51:27 LkUTuIv1
光秀よりの考え方したら、信忠の情報把握してたかもね。

156:人間七七四年
08/06/26 21:52:41 4k7Vhr0p
149だが、追加。
信忠は、当時、京都にいた。
光秀としては、ほぼ同時に二人を襲えるように計画していたのだろうが、夜間行軍による軍勢の乱れから、時差が生じ、信忠は逃げようと思えば逃げられる状況になってしまったのだと思う。
当時は、伝令を走らせるしか、戦場での通信手段はなく、事前の計画と手筈が狂うのはよくあること。
信長の生涯を概観しただけでも、金ヶ崎の退き口等、信長が危うく命を落としそうになったことはある。

谷口説だと、光秀は67歳、通説でも55歳、今ならともかく、当時としては、そろそろ隠居してもおかしくない。
若いころなら、また別のところに仕官して、とか楽観できるが、老齢の身で、佐久間のように追放されては、下手をすると野垂れ死にしかねない。
四国政策で失敗した、佐久間のように追放され、貧窮の末死ぬかもしれない、それならいっそ、大ばくちを打ってやる、と光秀は考えたのだと思う。

157:人間七七四年
08/06/26 21:54:33 Qfj0IZbT
信忠が妙覚寺から二条御所に場所を移せるって時点で光秀の大失態。それが事実。

158:人間七七四年
08/06/26 22:11:16 L8e7nbkC
>>157
妙覚寺から二条御所って同じ洛中の中のたいした事の無い距離の移動が、そんな重要かねえ?

159:人間七七四年
08/06/26 22:14:54 Qfj0IZbT
>>158
重要。信忠側があの光秀なら検問もぬかりなかろうと勝手に勘違いして討ち死に覚悟しただけで、逃げようと思えば有楽みたいになんぼでも逃げれた。

160:人間七七四年
08/06/26 22:14:59 aTo34+Km
最低限信長だけでも殺しとけば、なんとかなると思ったんじゃない?
信忠ごとき、信長さえ殺せばなんとかなると。
家督継いでるとはいえ、まだ信長あっての信忠なんだし。
逆にいえば、信忠は逃がしてでも、信長だけは確実に最優先に仕留める必要があったと。

161:人間七七四年
08/06/26 22:16:57 Qfj0IZbT
>>160
信忠がいれば信忠を頭にして家中がまとまるんだから何ともならんと思うよ。

162:人間七七四年
08/06/26 22:27:52 L8e7nbkC
>>161
> 信忠がいれば信忠を頭にして家中がまとまるんだから何ともならんと思うよ。

織田家中の内実を嫌ってほど知っている光秀がもし、「信忠はどうでもいい」、と考えていたとすれば、
それは現代の我々の信忠に対する認識を大きく変えないといけないな。

信忠が逃げても、信忠では織田家はまとまらない。との認識があったのかも知れないぞ。

163:人間七七四年
08/06/26 22:28:54 aTo34+Km
>>161
だからその「信忠を頭にして家中がまとまる」という根拠も無いよね。
信雄や信孝でもできなかったわけだし。
嫡子というだけで、隔絶した実力・声望があったのかな?
少なくとも、信長とはまだまだ格段に劣ってたとは思うけど。

164:人間七七四年
08/06/26 22:37:51 L8e7nbkC
信忠は武田攻めの時の突出などで、信長についている家臣団からは反感を持たれていたって事は
ある程度想像できるな。「お世継ぎが手柄立ててどーする気だよ」みたいな。
そこからはプラス方向にもマイナス方向にもいろいろ想像できるw

165:人間七七四年
08/06/26 22:38:12 /m/YOZuI
有楽等はなから眼中になかろうて。

信長殺しちゃえば、信忠なんてって発想は分からなくもないが、敵の嫡男は例え乳飲み子でも排する時代だからね。お市の嫡男がどうなったか知ってるでしょ。

166:秀吉
08/06/26 22:58:16 49XG5lKY
高松で遊んでる振りして、
ちょっと京でやっちゃった。

信長油断しすぎwww

167:人間七七四年
08/06/26 23:11:00 pEGeW2yU
>>163
信長との実力差はこの場合関係ない。
信忠を見逃したら、当然織田の諸将は信忠の元に集って光秀を滅ぼす。

「その後」の信忠と政権がどうなるかは未知数ですよ?もしかしたら天下統一できた
のかもしれないし、どこかでヘマして滅んだかもしれない、柴田や羽柴らが能力を
見限って大分裂してしまうかもしれない。
しかし、光秀を滅ぼすまでは、信忠の元に一統される。これははずれようがない。

168:人間七七四年
08/06/26 23:33:44 aTo34+Km
>>167
>信忠を見逃したら、当然織田の諸将は信忠の元に集って光秀を滅ぼす。
だから、その決めつけにどれほど根拠があるのかを疑問としてるんだけど。

>信長との実力差はこの場合関係ない。
当主が急に討たれ、実力に隔絶した差がある後継者が残されたとしても、
「この場合関係ない」と言い切れるの?
織田政権なんて、急速的に膨張したものだから、譜代の臣なんてごく一部。
10年そこらの付き合いの近畿地方の諸豪族とか相手に、
信長個人はともかく、織田家自体にそれほど求心力があったのかな?

169:人間七七四年
08/06/26 23:43:33 L8e7nbkC
>>168
> 信長個人はともかく、織田家自体にそれほど求心力があったのかな?

だね。織田家と信長権力はある程度分けて考えたほうがいい。
幕府のような政権組織が出来ていない以上、信長のたがが外れると、信忠は濃尾の太守に過ぎないと言う
考え方も出来るわけだし。

170:人間七七四年
08/06/26 23:55:10 /m/YOZuI
信忠がいくらボンクラでも、当主である事には変わりはなく、いくら戦国時代とは言え、おいそれと失脚させる事など出来ない。(あの当時)

ましてや、信孝・信雄と比較する事もおかしい。本人の能力とは別に嫡男ってだけで内外での立場が違う。無能でも嫡男に生まれただけで、当主となる世襲は、幕末まで続いてるのよ。

171:人間七七四年
08/06/27 00:10:04 lHPj6x+T
170に同意。
信忠健在なら、秀吉は台頭出来ないと考えるのが普通でしょ。

それに織田家の求心力希薄って言うけど、信忠の元以外に結集する所、他に誰ん所行くのよ?

信長の仇も取らずに各武将が自領に篭り割拠状態??

考え過ぎだと思います。

172:人間七七四年
08/06/27 00:29:30 k15dXYE4
>>168-169
光秀の内心の動機がどこにあったかは不明だが、史実として、光秀は信長を倒し、
信長に取って代わることを行動で示した。(それが当初からの目的だったのか、
信長を倒してから生まれた目標なのかはともかく)

つまり、残された織田諸将に対して、光秀は「信長に代わって、これからは俺に
従え」と宣言したようなもの。織田諸将としての選択は二つ。光秀の天下を認めて
従うか、認めずに敵対するか。認めない場合は光秀を倒すしかない。この時に誰を
旗頭にするかといったら、信長の遺児しかないわな。それがすでに成人した嫡子で
軍事力も持っていて実績もあるのなら選択の余地はない。

仮に、この機会を捉えて独立なんて野心を抱いたとしても、まず光秀は倒さなければ
ならない。光秀を認めることは、光秀が信長にかわって自分の主君になることを認める
ことに繋がるのだから。(そんなことを認めたら独立もなにもない)

羽柴とか柴田とかが野望に駆られてか信忠の器量を見限ってかはともかく、織田政権に
反逆をするのなら最低限光秀を滅ぼしてから。

173:人間七七四年
08/06/27 00:31:57 62SP3iBs
>>148
なので機会があったのにもかかわらず、謁見してない、のが「よくわからんでおじゃる」なんですよ。

で、主はあくまで将軍義昭なのにもかかわらず、信長の方が主みたいに振舞ってしまったわけですよね。
公家さんたちから見ると、お金持ち信長、にへつらってしまったわけだけど、そこは信長が義昭に
気を使ってあげないと。
このあたりが田舎もん独特の舞い上がり方に通じる、そのように思ったわけです。
ささいなことですけどね。

174:人間七七四年
08/06/27 00:46:48 62SP3iBs
数日前は、信忠が生きていたら秀吉は単なる1武将でしょ、みたいな意見が多かったみたいだけど、
170、171さんみたいなね、やっぱりそれも可能性のひとつであって、まず間違いない、
みたいな考え方は少し信忠と織田家自体を高く評価しすぎのようにも思いますね。

本能寺を聞いて一番近くにいた丹羽&信孝の兵が逃げ出してしまったように、織田家は信長の強力なカリスマ性に
よるところが大きいですから、変の後に信忠がどの程度まで家臣団をまとめることが出来たか。
要は信忠の能力論になってしまいますけど、お坊ちゃん武将であったでしょうし、本能寺の時に
逃げ出してないのがその限界、というか。

で、秀吉の不忠さ悪逆さを思うと、相当なんかやらかしてたんじゃないか、というのがかえって普通のようにも
思いますけどね。

175:人間七七四年
08/06/27 00:51:57 62SP3iBs
>>146
ちょっと教えてほしいのだけど、京子ちゃんのあの「天正十年夏記」だったかの読み方、
結局どうなりました?
主語が天皇側ではなく、村井にあるって言うの。
確かにあれで180度方向性が変わってしまうから最初に出た時はかなり驚いたのですけど。
よろしく~。

176:人間七七四年
08/06/27 00:56:14 slnpkwQm
>>175
答えから言えば、結論出てません。

いまだに諸説入り乱れている感じだけれど、基本的には朝廷と村井との交渉の過程で出てきた
素案、って感じでは、ある程度意見は一致されているんじゃないかな?

177:人間七七四年
08/06/27 01:04:23 62SP3iBs
>>176
なるほど、ありがとう。
で、思うけど、新説に少しでも問題点があったらそこをつっこむのがそれまでの「定説派」。
にもかかわらず結論が出てないと言うのは、かなりいい線いってるということですかね。

京子ちゃんは資料の読み方というより結論に難点があるのではないかな。


178:人間七七四年
08/06/27 01:13:34 62SP3iBs
連続で悪いが、サッカはじまるまでひまだもんで。

>>145
馬そろえで、朝廷威圧説、というのは決して今日の軍事パレードからの想起ではなくて
それまでの信長の行動、朝廷との関係、そこから導き出されたものです。
なので、失礼ですが、信長流左義長と言ってその行事性や細かい内容にその意味を求めるのは
少し方向性が違うのではないか、そのように信長ー朝廷友好説には疑問を感じております。
あくまで私見なのでご容赦を。


179:人間七七四年
08/06/27 01:20:24 rH1JPeZh
>>169
あなたにとって戦国時代とは北斗の拳のモヒカンのような世界なのでしょうね

180:人間七七四年
08/06/27 01:24:57 62SP3iBs
>>179
例えるなら北斗の拳より花の慶次が適切では。



181:人間七七四年
08/06/27 01:30:38 k15dXYE4
>>178
それまでの信長の行動や朝廷の関係って、例えばどんなところが、対立していると
判断しているんですか?
おそらく、あなたが考えているそれらは、現在は否定されているようなことばかり
かと思われます。

すでに出ていますが、馬揃えは天皇の要望で行われたもので、後日に忌みで見学
できなかった東宮の希望で、規模は縮小したがもう一度行われています。さらに
このパレードには公家衆も参加しています。

天皇は威嚇されるためにわざわざ要望したんですか?脅迫行事に公家も参加した
のですか?

182:人間七七四年
08/06/27 01:48:23 62SP3iBs
>>181
前にもちらほら出てますが、1573に譲位を言い出した件、無官になったこと、
誠仁親王の皇子を猶子にしたこと、これらは朝廷側から見ると異質で自分たちの
管理下からはみでようとした行為ですよね。

天皇からの要望、というのも、まさにギリギリのかけひきだったと思いますよ。
威嚇されるため、というより、承知で臣下の順をこちらから言い出した、こちらが主であり
信長は臣である、言うこときくがよいでおじゃる、ってね。

現在否定されている、というのに関心があって、本なんかだと質問できないので
こうやって疑問をカキコして、教えて頂けるととてもうれしく思います。


183:人間七七四年
08/06/27 01:49:24 slnpkwQm
>>177
つーか、あくまで読み方の問題でしかないから、解釈次第でどうとでもなっちゃう。

184:人間七七四年
08/06/27 01:55:02 62SP3iBs
>>183
あ、そか、読み方ってそういうことね。
でも京子ちゃんは一応用例なんかを細かく調べてそこから結論
出してるわけですよね。
村井が主語のほうがより確実であろう、って。

ま、あんまり言うとこっちがヤバいかな。

185:163
08/06/27 05:47:48 zT9wAJ9c
昨日のID:aTo34+Kmだが、一部どうも話が妙な方向にいってそうな気がする。
俺が疑問を示してるのは、信忠への対応の遅さを大失態とみなし、
信忠も確実に殺さなければ織田家乗っ取りは成り立たず、ひいては野心説への否定にまでつなげている点。

それに対し、光秀にとっての重要度は、圧倒的に信長>信忠であり、等価とはみなされず、
最悪信忠を逃がしてでも、確実にまず信長だけは仕留める必要があった。
その光秀にとっての優先度の差じゃないか?という反論の提示。
そりゃ、信忠も同時に殺せたらベストなのは間違いないが。

>>171みたいな「信忠健在なら、秀吉は台頭出来ない」とかは全く別問題。
大軍を擁した実力者はみな地方で大敵にあたり、早々戻ってこれないはず。
というのが光秀の勝算の一つと考えられるよね。
その状況で仮に信忠が逃げたとしても、信長さえ討てば勝算ありとふんだとは考えられない?
実際のとこ、摂津諸将が秀吉につかず、筒井が旗幟を不鮮明にしたのも、
織田家の威光じゃなく、秀吉という実力者の、予想外の早期帰還だったよね。

186:163
08/06/27 06:08:37 zT9wAJ9c
>>171
>信忠の元以外に結集する所、他に誰ん所行くのよ?

だから、それは単純に明智につくという選択肢じゃない?
繰り返すが、尾張時代からの譜代の臣なんて、急激に膨張した織田政権ではごく一部
上洛以降、織田家の(信長の)勢力に服した、せいぜい十年程度の付き合いの豪族も多数いる。
そうした連中が、信長の死後、織田家という名分よりも、光秀という実力者に鞍替えしてもおかしくない。
というか、そう光秀が読んでたとしてもおかしくないんじゃない?

187:人間七七四年
08/06/27 06:58:50 effBV0k7
>>181
>馬揃えは天皇の要望で行われたもので

実際には天皇が要望する以前に信長は光秀にその指示を与えており、
前久(信尹か)を介してそのように仕向けたというのが真相だと思われます。

また、『お湯殿の上日記』によれば親王もそれを楽しみにしていたことが窺われますが、
果たして当日の演出(信長を住吉明神にも中国皇帝に凝らす)を天皇を素直に喜んだかは疑問だし、
二回目の馬揃え(※親王が望んだものではありません)の様子(朝廷側)はとても牛一が『信長公記』に
記したようなものではなく、『お湯殿』の記述も素っ気無く、またそれを親王がお忍びで見学したのは、
興味はあったが正式に見学することを「良し」としなかった(※)ものと見られます。

二回目の馬揃えは、最初の馬揃えにこめられたメッセージとそれに対する朝廷の対応(左大臣推任)を受けての
「駄目押し」であった観があります。

信長は、先に親王の五宮を猶子とし尚且つ二条御新造を贈っおり、また今回、譲位の件を持ち出すことで、
朝廷に対して自らの立場(真の上位者が信長であること)を認識される目的があったと考えられます。

188:人間七七四年
08/06/27 07:19:16 16wxOwQG
信忠が京都から結果的に逃げようと思えば逃げられたのは事実だが、その後を光秀軍が追いかけないというのは考えにくい。
なぜなら、信忠は、信長の跡取りであり、逃がしたのでは、反明智の旗印になる。
確かに有楽は無事逃げているが、それは、有楽の重要性は低く、光秀軍が追いかけなかったから。
史実と異なり、信忠が京都から逃げ出し、光秀軍が追いかけ、山科あたりで信忠が殺されていたら、このスレでは、京都でなぜ正々堂々と信長の跡取りらしく死ななかった、と叩かれていたような。

189:冬広
08/06/27 10:19:48 NkNOCKW3
>>187
>二回目の馬揃えは、最初の馬揃えにこめられたメッセージとそれに対する朝廷の対応(左大臣推任)を受けての
「駄目押し」であった観があります。
堀新が指摘しているが、さらなる「駄目押し」するならば、より権力が増大した天正10年の小正月にも京都馬揃え
をするのが効果的だが、天正10年は安土馬揃えしか行われていない。
なぜ、天正9年だけだったのかに着目する必要がある。
前年末の親王生母の死去と関連付けるほうが合理的だと思う。

>>182
>1573に譲位を言い出した件、無官になったこと、誠仁親王の皇子を猶子にしたこと、
>これらは朝廷側から見ると異質で自分たちの 管理下からはみでようとした行為ですよね
譲位するならば、即位礼・大嘗祭を挙行する必要があるが、戦国天皇家は式微で大嘗祭を省略
しても即位礼の費用をねん出すらできなかった(そのせいで、戦国期最後の譲位を受けた土御門
天皇の即位礼は22年遅れでなされたのが実情)。
同天皇譲位後100年間にわたり、譲位できないという異常事態が続いていた。
1573年に信長が譲位の申沙汰(費用負担)した際に、信長宛の天皇自筆消息において「朝家再興の時
いたり候」と喜びを表している。
しかも、その後朝廷は天正3年・4年に礼服風干を行って、即位礼にそなえている。
なぜ、天皇が譲位を喜んだのかは、中世天皇の「上がり」は「治天の君」すなわち上皇になることが
常態だったからである。
また、無官になったのは天皇からみれば気味が悪いが、無位ではない。
しかも、右大臣辞任の際に、天皇側近である広橋右中弁宛てと勾当内侍宛てに辞任理由をいくつか述べ
ている。それぞれの理由は異なるが、両名宛ての辞任理由で唯一共通するのが「信忠の顕官起用」。
堀氏はこれが信長の本音だといっている。
いささかスレチになるが、「信長は朝廷のくびきを超越した」って論者があるが、そうであるならば、
甲斐平定後に信長が「天下の御与奪」を与えた信忠も中将を辞任しなければならないことになる。
なぜなら、この時点をもって信忠は信長にかわって朝廷のくびきを超越する必要があるからである。
しかし、そのような事実は存在しない。



190:人間七七四年
08/06/27 11:19:32 ik12Xl7m
URLリンク(uproda11.2ch-library.com)

ξに。。、こξ<結局あたしは酒#(木イ主野)晴奈40歳あきる野・羽村・一の谷小&西中卒左官嫁255アナル
スレリンク(nanmin板)

191:人間七七四年
08/06/27 14:26:51 68RTaodo
信忠健在で、明智に付く武将が居るとは思えない(すぐに)
実力は確実に光秀の方が有る事は皆分かっていても、付く事が出来ないのが実状。いくら戦国時代でも主家を重んじる武将の方が多い。松永久秀がごとき武将は稀だよ。

192:人間七七四年
08/06/27 14:42:19 xPPxxPnm
まさか陪臣VS譜代+織田の構図になると思っていたのかな
北陸方面軍以外の武将ら家族は光秀から距離が近く捕らえ人質に出来る可能性も
違うか

193:人間七七四年
08/06/27 15:16:50 slnpkwQm
信忠の息子の三法師(秀信)だが
秀吉がつけた家臣が家老以下ぞろりと旧六角家臣なのは何故だろう?

194:人間七七四年
08/06/27 15:30:30 bboqjoNW
     ●-、
    r´ - ●
     ` =='\
      |    ヽ
      UUてノ

195:人間七七四年
08/06/27 16:44:58 ZYdHcgbo
冬広さま、レスどうも。
で、堀新のその説にどうしても疑問があるのでぜひ教えてほしいところです。

1573の時点では確かに天皇は喜んだでしょうが実際には退位してませんよね。
もちろん理由はいろいろ言われていますが一番重要なのは、退位しなかった、という
事実と思うのですよね。

1581に話がとびますが、馬そろえ、翌日天皇は信長に左大臣申し入れ、信長これを拒否、
ここで緊張状態がうかがえます。
数日後2回目の馬そろえ、これがあまり盛り上がらなかったのは187さんの指摘通りで、
まさに信長と天皇側の関係をよくあらわしていると思います。
数日後天皇は2回目の左大臣任官提示、これに対する信長の返事は「譲位をしたら左大臣をうける」
です。
これは、信長が天皇に譲位をせまった、という解釈をしたいのですが。
さらに、朝廷は公卿会議を開く、これは普段参加しない身分のものまで参加させた
異例の会議です、の結果、やはり譲位を拒否します。
天皇が譲位をいいだした、友好関係にあった、のならどうして拒否し続けるのでしょうか。

その理由も、方角から年が悪い、などという苦しいもの、これを信長は打ち破れなかった、
みたいな本がよくありますが、まったく逆で、翌年にはこの理由は使えない、本当に苦しい
天皇側の言い訳、相当困っていた、に思います。

ちなみに、翌年本能寺ですが、決して黒幕説とかにもって行こうとするのではないので
安心してくださいね。

そして、このあたりが重要ですが、馬そろえの前年、誠仁親王が二条城に移されます。
これはどう見ても、人質、というと言葉は厳しいですが、信長の手中におさまった、そのような
これも駆け引きのひとつだったでしょう。
もちろん、史料では「朝廷側は喜んだ」とかあるでしょうがそのまま受け取るのはその
意味内容性をよく理解していない表面的なものに思います。

つまり、信長は天皇に譲位をせまりその準備をちゃくちゃくと固めていった、猶子問題も
そうですよね。
そしてその延長上に馬そろえがある、そのように思います。
翌日天皇が左大臣任官を申し入れしたのも、馬そろえの礼、というのは表面上で
信長の意図に気づいていた、というように解釈したいのですよ。

黒幕説や簒奪説にまで話を広げる気はありませんが、信長ー朝廷の関係は
決して友好ではない、対立とまではいかないがある意味の緊張状態にあった、
こういう最新の定説、とお聞きしました、をこのように理解しております。



196:冬広
08/06/27 18:27:33 KrqzIiLY
>>195
>天皇が譲位をいいだした、友好関係にあった、のならどうして拒否し続けるのでしょうか。
「真説 本能寺の変」(集英社 2002.2)の堀新氏の稿の受け売りなんですけど、ここらへん
の流れは、
信長:馬揃え→
朝廷:お礼としての左大臣推任(勅使派遣)→
信長:譲位・親王即位を条件に受諾→
朝廷:金神を理由に延引 です。
もし、信長が馬揃えをしてまで譲位を求めるならば、再度何らかの信長サイドの申し出があって
も不思議ではありません。しかし、信長はここで交渉をやめています。
堀氏によると、これはすべて左大臣推任を断る方便だという理屈です。朝廷が二度も勅使を派遣
させるような交渉の継続をすると、(回答は左大臣任官拒否なのに)朝廷の顔の泥を塗るから、
朝廷に配慮したのです。金神だと朝廷のメンツが立ちます。
なぜ、左大臣を拒否したのかは、信忠の顕官起用の布石のためです。ここで信長自身が左大臣に任官
すれば、その先に太政大臣への累進がなし崩しでなされるおそれがあり,信忠への官位移譲の意味がなく
なるからです。続きは上記文献でご確認ください。
一言でいえば、拒否したのは信長で、左大臣になりたくなかったのです。

以下は私論ですが、三職推任問題で信長がこれを拒否したのも、信忠のためだと考えています。
>>189でちょっと触れましたが、天正6年に右大臣を辞任したのは信忠にしかるべき官職への任官
をさせるためで、それを望むのは家督を相続した信忠が織田家当主として相応しい官職をうるこ
とで、代替わりを志向していたのではないかと考えています。
1577年に、信忠が正三位・信雄が従四位に累進し、位階をみれば公卿・非公卿との差異はありま
すが、官職はいずれも中将で同一です。これでは82年に「天下をお与奪させた」信忠の官職として
はあまりにみすぼらしいものだと思います。
ところが、81年の左大臣推任でも信忠への累進の沙汰はなく、82年も状況は同じです。
もともと、自身の官職累進に興味のなく信忠の顕官起用を望む信長に、朝廷はひたすら信長への
顕官復帰を運動していたのです。
私見における公武の対立とは、信忠の顕官起用VS信長の顕官復帰 だと考えています。

じゃ、なんでズバッと「信忠を大臣にしろ」っていわなかったのか?
私見の最大の欠点です。

197:人間七七四年
08/06/27 19:27:03 zQYi6zNr
>>196
冬広さん、レスどうもです。
堀新への質問みたいになってしまいますけど、189の上段、なぜ天正9年だけだったか
というのもまさにこの年に緊迫したやりとりがあったからで、10年の馬そろえはそれこそ単なるお祭り
だったでしょう。
それを生母とか結びつけるのは少し方向がずれているように思います。

同じように189の下段での質問なんですが、信忠への顕官というのは単にそれこそ
建前でしかないように思います。信長は息子への官位を天皇に頭を下げて望んだ、みたいな本も
見かけますが、こういうのも本質を見誤っているように思います。

右大臣辞任はやはり、天皇の配下であることを暗黙に拒否したものであって、信忠への顕官は
「わしは官位なんてどうでもえぇがや」という己の立場、主張を明確にしたようなものでしょう。
冬広さんも言っておられますが、信長ぐらいになると官位はいつでも信忠にあたえることはできたでしょう。
大事なのは、朝廷から見て「信長を」臣としての立場におくことなわけです。
家督を譲ってあった、というのもあまり意味のあるものではなく、信長自身を警戒した、
そのように思うのですよね。
堀新がどうして、信忠への顕官、とか信忠にこだわるのか不思議なんですよね。
あくまで信長の問題であるというか。

その傍証ですが、誠仁親王のの皇子を猶子にした、これがあげられますよね。
譲位とはつまり誠仁親王を天皇にすることです、そしてその皇子が自分の猶子、ということは
誠仁天皇をすぐまた猶子に譲位させる、そうすれば信長自身が天皇の外祖父になれますよね。
もちろん猶子には自分の娘を嫁がせ、その子をにまた譲位させるわけです。
これ、藤原家の得意技、日本史では定番の作戦です。

信長がそうしようとした証拠云々ではなく、朝廷側がどう思ったかです、信長の猶子問題を。
さらに上記のごとく誠仁親王は二条城で信長と親しい関係にあります。
こういった点には堀新はあまり触れません。
あくまで「信長はそんなこと考えてないでしょう」の一言ですませてしまいますよね。
こういう点をぜひお聞きしたくてね。
信長の行動、というのを順にみていくとそういう状況は事実としてあるわけですが。

さらに言うと、晴良の嫡子に養女を嫁がせる、前久の嫡子の元服にも「信」の字を与えるなど、
信長は朝廷への工作を続けています。
信長と天皇との書簡を見ても天正のある時期から突然増え始めます。
このあたり、信長と朝廷の関係は複雑ですが、信長は一環して、東大寺切り取り、のような
武威をはっきりしています。

こういう信長を天皇側はどう思ったでしょうか。
しつこいですが「よくわからんでおじゃる」であって、友好的なのは一種の社交辞令、
そういうものにすぎない、そのように思えるのですよ。


198:人間七七四年
08/06/27 20:12:40 k15dXYE4
どんな議題であれ、朝廷論を進めるときに、まず前提として把握しておかなければならないことがあります。

それは、朝廷を構成する天皇と公家は一枚岩ではない、それぞれ対立している存在だということです。

公家同士はいうまでもない。官位や所領を巡ってずっと争い続けています。単に武家と違って軍事力がない
ので、表立っての争い(合戦)にならなかったというだけ。そして天皇と公家同士も当然、単なる主君と家来、
公家は天皇に絶対服従なんて関係ではありません。

信長と天皇の関係とか、本能寺朝廷(天皇?公家?)黒幕説などの時に、この事実が無視されて、何故か天皇と
公家は一体、朝廷は一つの勢力と看做して議論が進められますが、その時点その持論はもうあてにならないと
思います。

もう一つあげると、天皇個人と争うことと、天皇と制度というか身分というかそのものをどうにかしようと
することは当然ならが別のことです。
日本史上、武家であれ公家であれ天皇個人と争ったものは枚挙に暇はありませんが、彼らはあくまでも天皇
個人と対立したのであって、天皇制自体を消そうと考えたのは、仮説が正しければ義満だけです。
信長だって同じです。史料の読みようによっては、天皇と正親町天皇は争っていた関係とも言えます(私自身は、
両者は仲がよかったと考えていますが)。しかしそうだとしても、信長は正親町天皇個人の勢力と戦っていたので
あって、それで即天皇制自体を、朝廷そのものをどうにかしようと、朝廷に関わる全てを敵に回していたと
看做すのは暴論です。仮に信長が正親町天皇の譲位させ実権の喪失を狙っていたのだとしても、それで困るのは
正親町天皇とその近臣で、他の公家は別に困りはしません。新しい天皇て実力者(織田)のもとで、なるべく
高いポストを狙うだけです。

199:187
08/06/27 20:16:36 hQatjbHR
>>189
>天正10年は安土馬揃えしか行われていない。
>なぜ、天正9年だけだったのかに着目する必要がある。
>前年末の親王生母の死去と関連付けるほうが合理的だと思う。

確かに「親王生母の死去」は、朝廷と信長の双方にとって京で「馬揃え」を行うに
尤もな口実になったと思います。ただそれ以前の問題として、本願寺との和睦を巡って
親王と信長の間には「腹立ち事件」とも呼ぶべき意見の対立が起きており、その意味でも
信長には親王に釘を刺す必要があり京での「馬揃え」が行われたのだと考えられます。

ちなみに「金神」を持ち出したのは信長側からだとする見方もあり、天正元年のそれも
言い出した信長の都合で延期(立ち消え)となっており、譲位、即位も朝廷の希望のままには
為らないのだと云うことを示す必要が信長にはあったものと考えられます。

その意味では天正9年の「馬揃え」でその目的は達成されており、わざわざ翌年にそれを再演
する必要がなかったのでしょう。

200:人間七七四年
08/06/27 20:17:48 k15dXYE4
ところで>>197あなたの主張は中世の天皇の在り様からだいぶかけはなれた天皇像をもとに推論を建てていると思います。

特に天皇の意思と発せられたことや、天皇と信長との関係に対立ないと推測できるような史料を、全て「表向きそう演じて
いるだけ」と切り捨ててます。根拠なしに。

201:人間七七四年
08/06/27 20:22:34 slnpkwQm
>>197は典型的な「まず結論ありき」の議論だな。

202:人間七七四年
08/06/27 21:02:43 68RTaodo
198に激しく同意。
天皇個人や一部を語っても、文字通り一部でしかない。まぉ天皇や公家やら朝廷関係者が変に大きく関わっているとは思えないし、それだけの力もないと俺は思う。

203:人間七七四年
08/06/27 21:50:24 FD8FEjq+
1、同じ土岐源氏の快川和尚を恵林寺で焼き殺しされた、恨み
2、従兄妹どうしのお市に茶々を胎まし、濃から託された恨み
3、天皇暗殺指令が降りたことに対する恐怖と怒りからの恨み

204:人間七七四年
08/06/27 22:09:33 FKaAl9LZ
>>200
ご教授どうもです。
自分なりに198の論は理解しているつもりですが、なにせ短いスペースでは全てを
語れません。
まずは、馬そろえが単なるお祭り、ではないであろう、ということの説明から始めて
大まかに1582までの注意点をあげたわけです。

中世の天皇のありかたというと今谷の論がありますが、その後の進展がどうなったかは全て
把握しているわけではないので、機会と話題がそちらに行ったらぜひ教えていただきたい
ものです。

あくまで例えですが、ブッシュとプーチンが笑顔で握手しているから、と言って両国が
友好的であった、という判断は部分的でしかないですよね。
ウラで核兵器をつきつけあってるわけで。

同じように歴史を判断するのも、見えないところ、実のところ、そういった点に注意して
考えて行きたいと思っています。
そして教授だったら学生に「証拠は無い」の一言ですませてしまうところも
こちらは素人ですしせっかくこういう場があるのですから、いろいろと教えてもらえると
うれしいと思っています。



205:人間七七四年
08/06/27 22:13:12 hQatjbHR
>>203
3が付くだけにアホだね。

206:人間七七四年
08/06/27 22:16:57 hQatjbHR
>>203
さすが3が付くだけに阿呆だね。

207:人間七七四年
08/06/28 01:39:48 rj8LJrQu
206
君もたいした事ないから心配するな。
何がどうアホなのか、せめて説明しな。

208:人間七七四年
08/06/28 01:45:14 p5KnK61h
>>197
>右大臣辞任はやはり、天皇の配下であることを暗黙に拒否したものであって、信忠への顕官は
>「わしは官位なんてどうでもえぇがや」という己の立場、主張を明確にしたようなものでしょう。
何故そうなる?信忠に顕官を望むというのは、織田政権の後継者は朝廷の枠内に入るということだろう。

それから言っておくと、実力者が表向きは引退隠居という形で後継者に地位を譲った後も、無官の身で
実権を握って政権を支配・運営するという体制は実は日本においてはごくありふれたもの。

一番の例を挙げると、上皇・法皇による院政。天皇家ですら、本来なら無官(という言い方は本来はおか
しいのだが)の引退した元天皇が、現天皇を上回って統治を行った。中世では上皇の権威は天皇を上回り、
だからこそ戦国時代の天皇家は生前譲位が出来ない=上皇になれないことを大問題とした。
そしてこれは天皇家に限った話ではなく、鎌倉幕府では本来は公式の地位でもなんでもない得宗が実権を
握り、室町でも四代義持や八代義政は将軍位を譲った後も無官の身で統治を行った(この二人はやむを得ない
処置という面が強いが)。信長以後にしても、秀吉はなんら権能のない太閤という、地位でもない単なる
尊称で政治を行い、江戸幕府も大御所政治が見られている。

つまり、後継者には顕官を与えて現在と将来の箔を与え、自分は無官の身で統治するという信長の行動は、
体制は、実は天皇や公家にとってはよくよく見知った体制といえる。
>こういう信長を天皇側はどう思ったでしょうか。
>しつこいですが「よくわからんでおじゃる」であって
だから、これはあなたの全くの誤認識です。

209:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
08/06/28 01:50:24 ECuT5oKJ
秋田城介説。

210:人間七七四年
08/06/28 03:11:43 FxqdjfHH
家康と光秀の共謀説ってのはねぇの?

211:人間七七四年
08/06/28 06:40:39 Ij0EEPqt
信長が島津領に脱出し、そこで死亡したという珍説がある
そこでは家康黒幕説を取っている

212:人間七七四年
08/06/28 08:46:38 VL0MNBIr
>>210
ないことはないけど天海=光秀説というトンデモ説とセット。

213:冬広
08/06/28 09:53:22 nSpIMY6c
公武対立論者の不思議

1、京都馬揃えについて
安土馬揃えの記述
信長公記「御爆竹」
兼見卿記「爆竹・御馬汰」
京都馬揃えの記述
信長公記「御馬揃」
兼見卿記「御馬汰」
公武双方の史料で、京都馬揃=信長流左義長ー爆竹、と一致している。
にも拘らず、「そもそも公武は緊張関係にあった。ゆえに、馬揃えは祭りでは
なく威圧である」という。なんで?

2、作暦問題
「晴豊記」で信長が再度蒸し返した天正10年6月2日の記事において、「信長むり
なること」(=作暦問題は解決したのに、信長はん、そりゃ無茶や)ってはっきり
記述している。
公家でも「だめなものはダメ」というし、微妙な問題ならば、兼見卿記の天正10年
4月・5月の記事のように空白にして記述しないという方法もある。
にも拘わらず、「表向き賛成だが,公武は緊張関係にあったので、本心は反対である」
という。その論法を代入すれば、晴豊記の記述は「表向き反対だが、本心は賛成である」
って読むことになる。しかし、公武対立論者はこの記述だけは素直に読む。なんで?

公家の日記は1次史料であるのに、公武対立ありきで行間・裏の意味を忖度しだすと
、1次史料が浮かぶ瀬もあるまい。

214:人間七七四年
08/06/28 12:10:34 xPvrkPGh
>>208
言葉足らずで申し訳なかったけど、院政みたいなシステムが日本史でよくあることは承知です。
で、信忠の問題ですけど、繰り替えしになりますが、あくまで信長の立場の問題であり、信忠が朝廷の
枠内に入ることを信長が重視していた、又はそう望んでいた、と信長は考えていた、とは思えないのですよ。
これは、、無官の身で実権を握る、というごくありふれたシステムと矛盾するわけでもなく、まさに信長の
行動と一致しているように思うのですが。

それで、信長が右大臣を辞任したことは、枠外にでた、という意味と重要性のあることと思いますが、
これに関してはどうでしょうか。
さらに繰り返しでですが、父の信秀が内裏修理で多額の献金、これに関して天皇側からお礼をする、
三河守ももらったのでしたっけ、そして信秀もその感謝をしていますよね。
このあたりでは天皇から見ると織田という新興の地方大名は理解しやすかったでしょう、また勤皇という
ぐらいにも思ってたでしょう。
にもかかわらずその息子の信長が、官位辞任、これはやっぱりしつこくて悪いですけど
「よくわからんでおじゃる」という認識に近かったと思うのですよね。

そしてもうひとつ先に例を挙げてますが、1568の上洛のときに天皇に謁見する機会があったであろうに
謁見してません。父親の献金もあり望めば可能だったでしょう、これもやっぱり天皇側から見ると
「あれっ」と信長を認識する出来事のひとつのように思います。

まとめると、右大臣辞任はなんのため?そして信忠顕官というのはあくまで副次的なものであり、
信長の目標又は重要な意味を持つものではないのではないか。
そういったことです。

215:人間七七四年
08/06/28 12:19:30 7yHNqgyE
>>214
> 思えないのですよ。
> 思うのですが。
> 思いますが、
> 思ってたでしょう。
> 思うのですよね。
> 思います。

あなたが何を思おうと勝手だが、思う以上のきちんとした根拠を提示できなきゃ
誰もあなたの意見に賛同しないよ。

216:人間七七四年
08/06/28 12:26:45 xPvrkPGh
>>213
冬広さん、まとめて頂いてどうもです。

で、やっぱり繰り返しで申し訳ないですが、結論ありき、ではなくてずっと信長の行動を
追っていって、1581のあたりの微妙なやりとりまで来るとやっぱり、対立、とまでは言いませんが
それなりの駆け引きがあったように思うわけです。
1581の3月19日の異例な公卿会議、これはどうして行われたのでしょう。
左大臣を受けない言い訳で譲位を持ち出してうまく断ろうとした、天皇側に気を使った、というのも
逆に、友好説ありき、と言いますか少々おかしな解釈に思えるのですよね。

暦問題も同様で、無茶や、という問題をどうして信長が持ち出したか、東大寺切り取りから続く
信長のそういった行動は一環しており、これもやっぱり「よくわからんでおじゃる」に結びつくように
思います。


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