困るほどの律儀者、佐竹義宣を語るat SENGOKU
困るほどの律儀者、佐竹義宣を語る - 暇つぶし2ch102:人間七七四年
08/07/18 08:33:07 7HIyeqfE
熊の毛なんだよ

103:人間七七四年
08/07/18 10:14:34 /c06/8yS
資料をあたるのにも知識が必要だべ。
梅毒が体の崩れるレベルまで進行しているとするなら、晩年に描かれた物という事になるな。
どう考えても不名誉な姿だから、後の代への戒めとしたのかねぇ。

104:人間七七四年
08/07/18 20:20:39 OTdWP8fS
肖像画は別に変じゃないと思うけど…
肘の下辺りに膝が来てると見れば足も普通だし
甲冑姿で鎧櫃に腰掛けて戦国時代の勇姿を画いてるわけじゃん
勘繰り過ぎだよw

105:人間七七四年
08/07/19 01:56:26 f4V7XwXV
>>104
人間の体は、股を開いた時に爪先が表を向かないような構造にはなって無い。

106:人間七七四年
08/07/19 09:06:51 cSQXqiw5
>>105
爪先なんて見えてないじゃん
絵のバランスが悪いからわかりにくいけど三枚の草摺りは正面に付いている
右側に見えているのが本来左足の前にある草摺り
その横から膝が出てるのが見えるよね
左足首は股間の前に付いてる草摺りから右足の下に入っている

107:人間七七四年
08/07/19 18:53:46 f4V7XwXV
>>106
爪先がケツの下にあるなら、
鎧櫃のカドに引っかかっている袴が何処の物なのか分からんと言ってる。
脛当があるなら、ああいうたわんだ形にはならないだろ?

108:107
08/07/19 19:01:32 f4V7XwXV
追記。私自身はあの絵が下手糞だったりバランスが悪いとは思わない。

109:人間七七四年
08/07/19 19:06:52 osXG3r8X
上手い下手というか、昔の肖像画なんてそんなもんじゃね?

絵画の技法とか分からんけど、当時の肖像がなんて現代から見ればどれもいわいる
写実的な「そっくり」さを追求するタイプじゃないもんばっかりなわけだし。
ぶっちゃけ足がどうこうとか絵を見て判断するより、来歴とかそっち調べた方がよくね?

110:人間七七四年
08/07/19 19:12:10 f4V7XwXV
>>109
つまり>>100の手法がもっとも究明に近い、と。了解。

111:人間七七四年
08/07/21 16:10:01 s6k1AfU0
甲冑着てるんだから戦国時代~大坂の陣の頃をモデルにしてるわけで
どっちにしろ梅毒が進行する前って事だ
あの甲冑をいつ頃愛用してたかが分かれば年代も分かって来るんじゃないか?

112:人間七七四年
08/07/23 13:38:12 Jk9gUTPp
義宣の毛虫前立兜と肖像画の兜はかなりデザインが違うと思うんだけど

113:人間七七四年
08/07/23 20:55:50 DCHnco7k
茨城時代の老臣を皆殺しにしたのはガチなのか。首都移転に反対しただけで。

114:人間七七四年
08/07/24 09:48:40 ahiEuqvG
土崎湊に築城建設に反対したっつーか、佐竹にとって家臣団統制は鬼門だったんだわ。
北条とかと違って家に家人がいるんじゃなくて、
佐竹は「義重の近臣」と「義宣の近臣」という風に人に家人がついていた。
例えば「義重は隠居したあとも実権をふるった」とよく言われるが、
そうじゃなくて、人に家人がつくために、例え隠居したとしても
自分の家人に対しては自分で政務を行わなくてはならない。
つまり二頭体制になってしまうわけだ。
例えば武田で、晴信が信虎を追放したり、信玄が義信を廃嫡したりしたのは、
この二頭体制の克服を目指したものなんだわ。
佐竹は武田ほど激情型ではなかったので、やんわりと家督交代が行われてきたが、
それでも最終的には義宣が義重の家臣をブチ殺すことで、
ある意味「義重の息の根」を止めたということ。
実は義宣vs義重の戦いだったということだぬ。

義重時代も義重の近臣筆頭の車斯忠と、死んだ義昭の近臣筆頭の和田昭為が争って、
結局義重は和田昭為を追放してる。
あとはやっぱり豊臣を見ていて、三成派と清正正則派で争ったのとかを見て、
二の舞にはならないように先手を打ったんだろうな。

115:人間七七四年
08/08/26 04:34:26 kCE+VJYu
大事にそだてた渋江を討ち取った木村重成の子を匿っているんだから
新入りの身からすれば良い上司だったんだろう>義宣

秋田で酒造やってた筈>木村重成子孫

116:人間七七四年
08/08/26 15:30:49 S6RnseWT
>>114
> 土崎湊に築城建設に反対したっつーか、佐竹にとって家臣団統制は鬼門だったんだわ。
> 北条とかと違って家に家人がいるんじゃなくて、
> 佐竹は「義重の近臣」と「義宣の近臣」という風に人に家人がついていた。
> 例えば「義重は隠居したあとも実権をふるった」とよく言われるが、
> そうじゃなくて、人に家人がつくために、例え隠居したとしても
> 自分の家人に対しては自分で政務を行わなくてはならない。

島津義久・義弘・忠恒の「三殿体制」も有名だし、小倉時代の細川忠興・忠利の二頭政治も山本博文氏の本で知られるようになった。
島津家の例は極端だしあまり例がない話だが、この時期の隠居と当主と両方いる家には大なれ小なれ似たようなことがあったのではなかろ
うか。

117:人間七七四年
08/08/31 19:31:15 p6oClXL4
父親の義重は、先祖の新羅三郎義光が活躍した場所だからといって、秋田行きを喜んでいた。そして義光の住んでいた横手に本拠地を置こうとしたのに義宣が勝手に秋田市を作ってしまった。


118:人間七七四年
08/09/04 00:06:55 r5tyamP9
>>117
勝手というより、「海運」の重要性を知りつつあったんじゃまいか?
常陸太田は内陸だけど、海からはそう遠くない。
横手は川沿いとはいえかなり奥地。

119:人間七七四年
08/09/04 00:12:07 bCLh6/w4
義重の時点で鉄砲を大量に輸入してたり、商業センスもないと確保できないだろう
もう引退してたから政治どうでもよくて無責任に好きなこと発言してただけじゃね?
別に本気で言った訳じゃなくて、息子の方も本気とは受け取ってないんじゃない?

120:人間七七四年
08/09/04 01:03:32 /fMpKgL9
改易となった本多正純を預かった義宣の心中や如何に。
関ヶ原の戦後処理のこととか、色々あったろうに。

121:人間七七四年
08/09/04 09:43:30 uzb3kVgL
>>118「海運」の重要性を知りつつあったんじゃまいか?

うーむ、そうだろう。
常陸太田は内陸だけど、のちに本拠とした水戸城は、川や湖に囲まれていて、
本丸直下まで舟で行けた。江戸城や大阪城も同様なのだから、秋田の新城も
「海運」を重要しただろう。
ただし、水戸の水運は、那珂湊まで容易に行き来できるが、
鹿島灘方面の波が荒く、川舟に米俵を積んだまま海に出られなかった。


122:人間七七四年
08/09/04 09:48:51 uzb3kVgL
だから、米俵を積んだ川舟は、那珂川を下ってくると、水戸に着くが、
江戸に運ぶとなると、鹿嶋や九十九里浜の波が高いため、
水戸から涸沼にいったん運ぶ。ここで陸揚げして馬で北浦まで運ぶ。
北浦からまた舟に乗せて、利根川に入り、さかのぼって江戸川に入り、
江戸に運んだ。こうすれば川舟のままで運べる。


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