【直家】宇喜多氏を語るスレ【秀家】at SENGOKU
【直家】宇喜多氏を語るスレ【秀家】 - 暇つぶし2ch473:人間七七四年
08/01/28 05:33:53 UeS7TaHh
とりあえず3年くらい月見の宴を年中行事にして繰り返せば、
凡人だとまあ安心しちゃうんだろ。
人物的にもなんか信用させる凄みがあったのかも。
松田氏の件にしても直家の謀殺はセッティングが込んでるし、
仕込みの期間がやたら長い。

474:人間七七四年
08/01/28 10:14:17 zZ7t93bA
地元じゃ梟雄梟雄と言われているが妊婦の腹を割き云々と言った悪い噂も聞いたことがない
あんがい民衆にとってはそう悪くない殿様だったのかも知れないとも思うんだが

475:人間七七四年
08/01/28 16:15:06 YT/8GZaW
圧政も暗殺もやるときたら、とんだ暴君だぜw

476:人間七七四年
08/01/28 17:46:47 I8iSDgcV
直家って意外と人気あるよね

477:人間七七四年
08/01/28 17:52:05 bd17BdC0
この前キャバクラに言ったところ、エリ○と言う子がいて、八丈島出身らしく本名宇喜多!島では英雄らしい。

478:人間七七四年
08/01/28 19:59:45 DMIaJM3m
>>473
さらに直家が暗殺した人間の殆どは予め直家の娘やら姉妹を輿入れさせてるんだよな。

そして輿入れした女もろともに滅ぼす・・・と。

479:人間七七四年
08/01/28 20:06:14 YT/8GZaW
>>477
その英雄がキャバ孃かw

480:人間七七四年
08/01/29 16:54:26 jG8IzI+h
江戸期を通して前田から八丈島へ仕送り送って貰ったから英雄なのか
前田の方でも優しい殿様の美談として伝わっている
しかしその中身は馬鹿殿振りに付け込んだ徳川による前田資金浪費目的の幕命
困ったもんだ

481:人間七七四年
08/01/30 12:41:41 iHn99Sex
宇喜多 広維  直家の義弟 赤松政範の妹婿
播磨上月城に援軍として赴き天正5年12月に死んでいるな。
宇喜多一族とか備前軍記とかには、名前が出てないから
はとんど知られていないと思う。
そういえば、3~4年前に呼んだ歴史群像の宇喜多戦記に載っていたぐらい。
あと作用軍記とかにも出てると思うが読んだこと無い。

482:人間七七四年
08/01/31 10:26:25 WyIoPMrn
宇喜多 久閑て誰?
関ヶ原の後、加賀前田家を頼って移り
元宇喜多家重臣でキリスト信者以外で
知ってる人いる?

483:人間七七四年
08/01/31 17:38:03 v054F/AB
>>481
父親は誰か知ってますか?

484:人間七七四年
08/01/31 19:24:55 WyIoPMrn
候補としては、宇喜多 能家の次男で四朗(義家?)って呼ばれていたのが
浦上村宗の播磨攻めの先陣として攻め込み討ち死にしている。弟と書かれて
有るのもあるから血縁的には近いと思う。


485:人間七七四年
08/01/31 20:24:03 WyIoPMrn
能家と義家、親子で同じ読みはないよな。

486:人間七七四年
08/01/31 22:10:36 cRjebTCn
四郎って元服してたかどうかも怪しいよな。

487:人間七七四年
08/02/01 07:27:04 gmsoQBfj
四郎が武勇に優れていたので出陣した。
興家が愚で憶病だから四郎が出陣した。
理由は、どっちだろう。

488:宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
08/02/01 09:11:04 /6icF6Kj
後者っぽい気がする
興家は出陣した記録すらないし(中国兵乱記にはあるけど恐らく能家の誤記)
四郎自身も計略に引っ掛かって討死な訳だし。

しかし能家が隠居するぐらいだから…、とも考えると分かんなくなった…

489:人間七七四年
08/02/01 11:20:26 z5VYVfRB
>>488
同意
初陣で討ち死にってところがね…

490:人間七七四年
08/02/01 11:26:13 gmsoQBfj
愚で憶病でも優秀な子はできる。

491:人間七七四年
08/02/01 11:46:12 z5VYVfRB
優秀でも愚で臆病な子ができる…

492:人間七七四年
08/02/01 17:17:23 mTwZ3BZc
>>482
浮田四兵衛が浪人して村田と改姓し、子の村田吉左衛門が加賀藩士になってるけど禁教令の後も加賀藩に残ってるから別人かな。
宇喜多重臣江原親次の子であり直家の孫もである浮田内記(十兵衛)が加賀に落ち延びてるらしくこの人の可能性はあるかも。

493:人間七七四年
08/02/01 18:29:05 4PUghb4J
四郎を討った「浦上村国」って何者?

系図とか見ても見当たらないんだが・・・

494:人間七七四年
08/02/02 01:27:50 wO2869Mm
お味方だろ

495:人間七七四年
08/02/02 14:08:19 aHT5C73m
浦上村国 浦上氏庶流 因幡守
赤松左京太夫晴政(政祐)重臣
居城 兵庫県 旧新宮町 山中城
赤松義村が浦上村宗に暗殺されると幼主才松丸を擁し、栗作十郎範高
小寺藤兵衛職高、伊豆孫次郎則定らと淡路に落ち延びる。
その後、才松丸が元服し左京大夫政祐と名乗り、播磨に戻り浦上村宗
の領域に攻めかかる。(この時、四郎は討たれる。)
赤松・浦上両者が争っている間に但馬の山名政豊が播磨を切り従えよ
うと軍を進める。それを知って両者が和睦する。
という様に、晴政の主力であったり和睦の間を採ったり活躍していた
みたいだ。

496:人間七七四年
08/02/02 16:02:18 aHT5C73m
>>492  あんがとう
直家 家臣に浮田を与えていたから分からん。
あ・・・  孫か
これを打っていて思ったんだが、遠藤兄に浮田の姓を与えたのは、信長が生きていた頃
この頃は、将軍足利家は各地の大名に自分の名前の一字を与えていた(売っていた)
姓は与えていないとおもう。信長は将軍義昭にもらった桐紋を秀吉に与えたり、光秀や幽斎に
九州の古族の姓を侵攻のために名乗らせているが、褒美として織田の姓は与えていな
いと思う。
秀吉が羽柴や豊臣を配下の大名、武将に与えたのは、もしかしたら直家の パクリ
なのか。
それとも昔からあったのか?

497:人間七七四年
08/02/02 17:35:47 qImicM4H
宇喜多氏関係のwiki項目が多少増えてるが「宇喜多宗因」って何やった人?

能家と国定の間の兄弟だという事だけ理解した。

498:人間七七四年
08/02/03 07:52:14 XuNO8dcX
宇喜多宗因って出家後の名前で「そういん」って読むの
それとも、浦上宗村あたりから一字破貰領して「むねより」
とよむのだろうか?

499:人間七七四年
08/02/03 11:28:14 d91geAJd
直家信者なら・・・直家信者ならきっと知っているはず・・・!

500:人間七七四年
08/02/03 13:22:03 nexvSe79
500!

501:人間七七四年
08/02/03 13:26:10 nexvSe79
>>498
読みは、そういんだけど系図のみの人物でしょ

502:人間七七四年
08/02/03 16:56:25 E4YYH2oA
>>496
宇喜多家は一度滅んで一族が少ないから、
新しい一門衆を増やしたかったのでは?

503:人間七七四年
08/02/03 22:10:06 PJmrZrZO
蒲生氏郷もやたらと家臣に姓を与えてるよね

504:人間七七四年
08/02/04 07:53:57 ZmMc+pUQ
宇喜多にとって上月城は鬼門だな。
四郎と広維は戦死・自害、秀吉とは
泥沼状態になって・・・・・・

505:人間七七四年
08/02/04 08:01:56 gQCxz98r
宇喜多氏って播磨まで進出してるよね

506:人間七七四年
08/02/05 09:53:39 xAJXR4JO
永禄元年(1558)備前国の宇喜多直家に攻撃され
備中鴨山城主細川通政は城を捨てた。
嫡子(養子)細川董は、毛利氏の援助で天正三年
(1575)鴨山城に復活した。
とあるので備後近くまで軍を進めたことが有るみ
たいだ。

507:人間七七四年
08/02/05 14:19:38 PU0yg4+r
直家すごいな

508:人間七七四年
08/02/05 16:52:31 xAJXR4JO
あ、、、、ごめん
細川通董と打ったつもりが、細川董になっていた。

509:人間七七四年
08/02/06 13:39:37 juK2748z
昔、小説に黒田孝高「如水」のことを「あの福岡の薬屋の子倅か」と書いて
あった。(子倅は親父の方だが)そんな感じかなあと思っていたら、学研の
歴史群像「黒田如水」に出ている系図で明石正風を通じて関係がでていた。
連れに、見せたら「葬式に行ったら顔見知りが来ていて話したら親戚だった
ような関係だな」と系図を見て感想を言った。笑ろうた。


510:人間七七四年
08/02/08 09:45:09 qjRscM95
前の話だけど、浮田宗勝(秀家の又従兄弟)の祖父が宇喜多宗因なら
「むねより」の様な気がする。・・・・・・想像だ
「戦国宇喜多一族」に能家以前の出典(古文書)が出ていたとおもう。

511:人間七七四年
08/02/08 17:54:51 +X52uTPX
明石家と宇喜多家はガチ

512:宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
08/02/10 18:22:58 nIID+pd7
ついに宇喜多宗因もWikiに登場

513:人間七七四年
08/02/12 18:35:45 Rm7/SD6e
秀家さんて藩主じゃないよな
いま地元ニュースで初代藩主の・・って言ってたけど

514:人間七七四年
08/02/12 18:42:22 EF2T3KE/
>>513
小早川秀秋が、利に敏い岡山人の代表扱いされるよりマシ。

県民性本とかに書くなら、宇喜多直家を例に出せよ!

515:人間七七四年
08/02/12 19:24:51 VKn7FmpE
ある意味更に悪くなってんだろそれw

まぁ小悪党よりは大悪党(っぽい)方が面白いけどさ。

516:人間七七四年
08/02/12 20:12:58 l/KS6Ohr
小早川秀秋が岡山いたのって最後の二年ほどのことじゃなかった?

517:人間七七四年
08/02/13 01:35:50 X/dQVQy1
うん

518:人間七七四年
08/02/13 03:39:42 MsULWNbk
秀家を紹介するときは岡山城主てなるのか。

519:人間七七四年
08/02/13 14:58:55 ZJhlFNes
>>398-399
家康にとっては生かしておいてもたいしたことができないけど、家康後見なしの秀忠の手には余りそうなので間を取って島流しとかw

520:人間七七四年
08/02/13 15:03:28 hk0oX1n7
秀秋を岡山人扱いされるのはなんか違和感あるなあ

521:人間七七四年
08/02/13 15:31:44 7/VnFOK3
>>515
岡山出身の直家なら悪人上等w
関ヶ原で裏切った後に岡山に来た縁もゆかりもない秀秋に、岡山人面されるのは耐え難い。

直家信者氏とか、同意してくれるよね?

522:宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
08/02/13 19:10:56 YiWvB+FA
個人的には秀秋とかよりは当然直家ですねw

関係ないですけど岡山の県民性で言われる理屈っぽいが自分には当てはまるかも・・・

523:人間七七四年
08/02/13 23:14:42 EKT73e/o
やっぱりなw

524:人間七七四年
08/02/14 10:55:52 nZ3Py0jN
人から物を奪うと泥棒、国を奪うと英雄と云うらしい。

525:人間七七四年
08/02/14 17:47:23 +FUKGe/+
>>524
ロイエンタール元帥乙。

526:人間七七四年
08/02/14 18:27:13 4wxUJ3FM
宗雲に捕まった泥棒を思い出した

527:人間七七四年
08/02/14 18:33:28 VTWYuJvO
宇喜多一族を大河にしろ!
絶対面白い



528:人間七七四年
08/02/14 18:43:28 pF9JCnfg
>>527
直家編と秀家編、2時間ドラマ2本で充分だろ。

529:人間七七四年
08/02/14 18:58:11 4wxUJ3FM
坂崎直盛も頼む

530:人間七七四年
08/02/15 09:17:04 G/CDtWiT
坂崎直盛は要らん!でもその妹は出してほしい。

531:人間七七四年
08/02/16 00:14:22 IFufq1IM
宇喜田家重臣で今でも家系が続いてるのは何家かなぁ~?

532:人間七七四年
08/02/17 01:08:37 EHbHtPt4
宇喜多って備前美作だけでしょ
今の岡山県の半分にも満たない勢力だし大したことないと思うけどなあ
しかも悪業の限りを尽くしてだし

533:人間七七四年
08/02/17 03:37:55 by8mTI/y
西大寺会陽は、室町時代から続いているそうだが、
戦国時代もあったのだろうか・・・
幼少のころ西大寺周辺で暮らしたとされる宇喜多氏
家臣とか関係者で参加とかしたのだろうか・・・

534:人間七七四年
08/02/17 10:02:42 rXQnq7lt
>>532
毛利とガチで戦って互角でしたが

535:人間七七四年
08/02/17 12:50:14 VNwrepoQ
534さん同感です。

536:人間七七四年
08/02/17 12:57:57 m7FJd599
>>532
余裕で半分以上ですが

537:人間七七四年
08/02/17 14:59:42 3mWswi6Q
>>532
播磨と備中の一部も。
敵対人物の暗殺は戦国時代ではよくあること。回数は普通で無いけど。

538:人間七七四年
08/02/19 00:48:57 whl/aoOu
直家って子供何人いてうち何人が娘?

539:人間七七四年
08/02/19 14:08:45 RyBo5ZNb
織田信長から直家の遣領安堵によって認められたのは、
美前国・美作国・播磨の内(兵庫県南西部の佐用郡・
赤穂郡・宍粟郡の三郡)後に毛利家との領土線の確定
により、備中国に流れる高梁川より東部が与えられる。
実際には、上月城を毛利が奪還したあと織田に付くの
だが、美作西部を毛利が押えており、東部でも後藤勝
基(直家娘婿)や管家党有元佐綱と戦っている。
備前も国境近い備中忍山城を落とされているので、危
ない状態だった(岡山城が備前の西拠りに建てられて
いるため)。しかし、直家が決断をしなければ、小寺・
別所・荒木・松永・波多野・一色等と同じ運命か1~2
万石の大名もしくは毛利家の家臣扱いか没落になって
いたと思う。そう考えるとすごいと思う。

540:人間七七四年
08/02/21 09:45:45 9ZJskWdi
浮田温泉←ういたおんせん読む知ってた?

541:人間七七四年
08/02/21 21:17:49 71SkSn91
このスレの住人はほとんど岡山人だよな

542:人間七七四年
08/02/22 20:16:28 p8Hxai+t
wikiで宗家まで追加されてるが宗家は公家でマスオさんなんだな。

でもマスオさんって言っても児島が三条より家格が上な訳がないから頭下げて婿に来てもらったって感じがするが。
「娘しか居ないから跡を継いでくれませんか?お願いします。」って感じで。

そう考えるとやっぱ久家は宗家の実子なんじゃないかなと思う。

543:人間七七四年
08/02/22 22:48:15 bOcvMAFJ
どこから、三条説が出てきたんだ?
出典とか資料は、なに?

544:人間七七四年
08/02/22 23:46:46 p8Hxai+t
実親[1195(建久6)年~1263(弘長3)年10月4日]

公泰[ 1231(寛喜3)年 ~ 1305(嘉元3)年8月 ] 実親二男

公雅[ 1264(文永元)年 ~ 1340(暦応3)年8月 ] 公泰三男

実古[ ? ~ 1365(貞治4)年 ] 公雅男

(ここから経歴不明)

公頼 (戦国時代の三条公頼とは当然、別人。)

実宗

信宗

宗家[ ? ~ 1470年よりは後 ]

とりあえず確認出来るだけの経歴。
公頼あたりから胡散臭いっちゃあ胡散臭い。

545:人間七七四年
08/02/23 02:58:01 Y/A9I59x
>>541
八丈島の人もけっこういるのでは?
俺は岡山県民だけど

546:人間七七四年
08/02/23 03:10:57 7iwBvS3s
俺は岡山とは縁もゆかりも無い愛知県民。

>>544
その系図載せてる「日本の苗字7000傑」によると久家には「親家」っていう弟が居るらしいな。

547:人間七七四年
08/02/23 04:22:40 99OaQYtn
俺鳥取県民。
尼子スレとの掛持ち

548:人間七七四年
08/02/23 13:45:15 PhFhwAYo
もしも…仮によ
宇喜田直家を大河ドラマにしたら、暗殺ブームが流行るのだろうか?
岡山観光ポスターでキャッチフレーズが
「ようこそ暗殺と悪行の里、岡山へ」になるのだろうか…
本なんかで
「こうして他者を陥れる100の方法」等と刊行されたりするのかなぁ
などと下らない事を考えてみる…

549:人間七七四年
08/02/23 17:16:51 4EKXQYXD
直家
URLリンク(www.libnet.pref.okayama.jp)

秀家
URLリンク(www.city.okayama.okayama.jp)

一代違うだけで、肖像画から漂ってくる雰囲気すら違いすぎる。

550:人間七七四年
08/02/23 18:32:39 c+5de4Z8
>>549
直家は木像(空襲で焼けた・・・)の方が印象的かな。
写真の肖像画は、元就っぽいw


551:人間七七四年
08/02/23 19:01:06 7iwBvS3s
>>549
上のは能家の肖像じゃないか?

552:人間七七四年
08/02/23 21:33:14 /Rr1oU/T
>>548

暗殺ブームktkr

>>549

秀家の画像を見ていて、何故だかきれいなジャイアンを思い出した。

553:人間七七四年
08/02/23 23:04:58 Y/A9I59x
>>548
反面教師的な感じで周りの善人がクローズアップされ
やはり、「愛」とか「命が大切」とか「戦国時代の諸行無常の
感じ」とかがテーマになるような予感

個人的には、直家・秀家二代構成でもいいかな
直家編30話・秀家編10話・朝鮮編10話ぐらいな感じ



554:人間七七四年
08/02/24 01:09:20 GJ8e2Z+o
>>538
「和気絹」に・・・金光をはじめ松田・後藤其外我手に余る者には、さまざま
の追従して、我骨肉の女わ以て嫁娶を調へ、或は其の親類の者を養女と號て是
を遣し、親類の体を表し、時節を見合毒害し、闇討寝首をかく。と書いてある
ので養女もいるとおもうが、一応
興家の姉妹  浜口淡路守家職 直家伯母婿(美作城合戦記)
直家の姉妹  (砥石城で能家が自害した後下笠加村大楽院という尼寺にいた伯   
       母に保護されていた説をとる。)
       伊賀左衛門尉久隆室 津高郡虎倉城主又子息與三郎は、明石掃部姉婿
                浮田忠家室 久隆妹 (虎倉物語)
       牧藤左衛門国信室 三浦氏滅亡後、直家家臣へ、「作陽誌」によ
                と直家は妹を国信の妻として与え諱を家信と
                改めさせ岡山城本丸におらしめたとある。
                (久隆室と同一女性の可能性有り)
       河本対馬守久隆室 乙子城以来直家の側近を勤めた老臣。子の源
                三郎は許されて宇喜多名乗る。
直家の娘(母中山備中守正信娘) 永禄五年(1562)、宇喜多直家は浦上宗景の
                命により、三星の後藤氏、金川の松田氏と婚
                姻関係を結んだ。「備前畧史」
       松田孫次郎元賢室 津高郡金川城主松田元輝子息、又浮田春家の
                妻として元輝の長女をもらいうけるとある。  
       後藤摂津守勝元室  美作三星城主
       ※上記の直家の娘は、双子と後藤勝元室が養女説がある。
直家の娘   吉川蔵人広家室   吉川元春嗣子、豊臣秀吉が宇喜多秀家の姉を
                 養女として嫁がせる。妻となった秀家の姉は、
                 天正十九年四月病没。
       赤松左衛門督広秀室 播磨龍野城赤松政秀子息(斎村政広)
       江原兵庫助親次室  宇喜多家臣、美作久米郡中山城主江原佐次の
                 子、天正十年大庭郡篠向城で知行一万石をう
                 ける。「備前軍記」
直家の娘(?) 金光宗高室    岡山城主(宗高が自党刃した後に宗高の子文右
                 衛門に直家は禄を与え家名を継がせている。)
        浦上宗次室    浦上宗景の子
        宮本伝太夫室   塩飽水軍頭
忠家の娘    富田信高室
        高橋元種室

555:人間七七四年
08/02/24 19:18:24 NO0DwcAm
>>552
> 何故だかきれいなジャイアンを思い出した。

なるほど似てるw
URLリンク(www.city.okayama.okayama.jp)
URLリンク(gigazine.jp)

556:人間七七四年
08/02/25 17:49:02 JDi1XSjy
直家はなんとも不思議な人物

557:人間七七四年
08/02/25 21:53:23 dj4KM9B1
>>528
たしか昭和の頃に直家の妻ふく?が主人公の二時間ドラマがTBS
であった。脚本が橋田すがこでふく役が三田佳子…と言っても「渡る世間~」
見たいなのでなく「おんな太閤記」っぽい作りだったよ。秀吉が西田敏行だったし

558:人間七七四年
08/02/26 01:37:13 4VXeh29b
>>544
中山正信  暗殺(直家妻、悲観して自害)
伊賀久隆  毒殺
松田元賢  宇喜多との戦に敗れ行方不明
金光宗高  切腹強要される
浦上宗次  毒殺

559:人間七七四年
08/02/27 14:20:29 f2fRfMY/
>>509               (仙意)(元和)
(衣笠家良の孫)  (備前守正風)|―貞行―貞則(左近将監) 
明石尚行…………景行―宗和   | 
            |――|―女子 梶原景則(高砂城主)
         宇喜多能家娘  | |   |
                 |―(―女子
  妻鹿氏娘           |――――――小寺稿孝高(黒田如水)   
   |――――――小寺職隆(美濃守宗円)|―利高
  黒田重隆 |(増井山地蔵院主) |  |      |―女子 
       |―小寺休夢     |―(―長基   |(三木氏室)
       |        神吉氏娘 |――直之
       |―井出友氏      尼子氏娘 |
       |(慕妙円寺)          |―女子
       |             
       |―松井重孝     
        (慕円応寺)

560:人間七七四年
08/02/27 14:33:49 f2fRfMY/
↑系図を失敗したが、
本山一城著「黒田如水と二十五騎」の系図だと
明石正風に能家の娘(興家の姉妹)が嫁ぎ、その娘が
小寺職隆に嫁ぎ如水を生んだことになっている。
という事は、直家と従兄弟?似ているような気がするが、
信者さんどうですか?

561:人間七七四年
08/02/27 19:20:40 efXPHTI5
>>534
互角と言っても・・・一時的に毛利の攻撃を退けただけな様な。。。
あのまま毛利が侵攻を続けていたら、じわりじわり追い詰められて
終わっていたと思う。

562:人間七七四年
08/02/28 06:20:14 FrI9WOgv
>>560
ちょっとでも考えたらすぐ有り得ない話しだという事が判らないのか

563:人間七七四年
08/02/28 16:29:26 L9vD1maZ
ウィキwに明石景親は1513年生、明石全登は1566年生とあるけど
何か根拠はあるのかな。


564:人間七七四年
08/02/28 19:51:47 hB5gKNT6
↑もちろん「信長の野望」   ウソすいません。
>>510
備陽國誌では
              (隆トモ)
古城 濱村。 城主宇喜多宗院。 何人と云事を不レ知
と有り、濱城主で宗因(院)または宗隆と呼ばれ、事跡は分からんらしい。
また墳墓で
宇喜多順哥墓。邑久郷にあり。墓印に松一本有り。此人詳ならず。直家の一族なるべし。
ついでに、金陵山西大寺 古人判物に宇喜多宗家、直家、秀家以外に
一、宇喜多延家在判下知状一通八月四日 
が有った。

565:人間七七四年
08/02/28 23:25:10 hB5gKNT6
>>562
悪かった、559の系図だと小寺職隆の娘に浦上政宗の嫡男清宗出ないし、播磨鑑に、
宇喜多和泉前司娘・・・同じ赤松の・・。一方は自称百済・・・一方は明石郡司の
子孫で、一方は管領高国に・・一方は近衛親子の和歌の師でちょっと考えれば
判るんでしたすみません。
え~と東備郡村志に
【濱邑】
▲城址。浮田宗因が城址なり。同人の墓も此村にありとぞ。
    宗因は宇喜多能家の曾祖父なるべし。
【邑久郷村】
▲城址。浦上宗景の家臣、浮田五郎座左衛門が古壘址なり。
▲成願寺。廃して今なし。
▲古塚二つ。各々塚上に松植う。一塚は土人浮田順歌の墓と云う。
      何人と云ことをしらず。接に浮田五朗左衛門の墳ならんか。
▲宇喜多の庄園。寛永の頃破却して、奇石等を土中に埋み棄て田畑と
        せり。其處を今松江と云う。時として土中より奇石
        など堀だすこともありとぞ。
▲紅岸寺。宇喜多能家の菩提寺なり。寛文年中廢せり。其遺址今尚ほ顕
     然として在り、古慕礎石等残れり。此墓は宇喜多修理進宗家、 
     或いは宇喜多蔵人久家なるべし。宗家は能家の父、久家は能
     家の祖父なるべし。共に上道郡西大寺に在る古文書に延徳四
     年久家の名、文明二年宗家の名みえたり。
と記述がありました。

566:人間七七四年
08/03/01 20:57:46 51jLo/Me
吉備温故秘録
熊山城 香登本村。元弘建武の此城ありしと見ゆ。
(抜粋)この後誰人が居たるや委しく知れず。はるか世を經て後に、
三宅大炊助居城(宇喜多直家の伯父なり)。天神山の麾下なりしが、
直家宗景を弑する日、明石源三朗と大炊助、心合て二心をいだき、
直家に先達て城内より火を揚げ、宗景を亡したり。子二子あり。
長男を河本家本といふ。邑久郡井田村の枝大土居に居城せしが、
夭折して跡絶ふ。二男河本對馬守、大炊助が跡を繼で當城に居れり。
此對馬守にも子二人あり。河本源十郎といふ。八濱合戦の時討死せり。
(兒島郡大崎村に、河本與五兵衛といふ墓あり。若同人か。)
二男の源三兵衛對馬が跡を繼で、宇喜多源三兵衛と名乗りて祿二萬二
千四百石を領して當城に主たり。

567:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
08/03/01 21:27:15 IpueXbRx
>>559のズレを直したいんだが、女系がよくわからんので足踏みしてます。

568:人間七七四年
08/03/01 21:50:08 51jLo/Me
砥石城  大ヶ島村の西山。
(抜粋)
長男熾興家に家をゆづり、其身隠居して當城にありけり。
宇喜多興家父のゆづりを受て、當城を守る(大永三四年の内なるべし)。
興家の俗名しれず(按ずるに、邑久郡千手山更弘法寺所蔵する三郎左衛門
tぴふ寄進状あり。これ興家を三郎左え門といひしか、直家幼名八朗とい
ひか、成人の後三左衛門といふも、父の名なりたるなからんか、又同寺に
天文九年三月十八日宇喜多但馬守の寄進状あり。此花押を見るに、前に記
す三左衛門寄進状の花押と同じ。されば三朗左衛門但馬守同人にて、三朗
左衛門後但馬守に成しや、後の人是を正せ)。かくて興家も繼ぎたれども、
愚味にして用に立ず。
(抜粋)
然るに上道郡西大寺の古文書に、文明二年宇喜多修理進宗家の下知状と、
延徳四年宇喜多蔵人久家の寄進状とあり。若此修理を能家の祖にして、
蔵人久家は能家の父なるべきにや、合せ考ふぶき所なしと。備前軍記に
見へたり。(按ずるに赤坂伊田村民家に、宇喜多八朗久家・宇喜多三河
守久家とある。二通の古舘簡あり。上に記せる宇喜多蔵人久家と、皆同
人にて、久家は八朗といひ、中蔵人と改め、後三河守となりしものなざ
れども、花押は皆不同なり。)

569:人間七七四年
08/03/01 22:28:54 51jLo/Me
郷岸寺城 邑久郷村に在り。
宇喜多五朗左衛門居城。後筑前守と改む(馬場が家書に有)。直家と同姓なれども不和になり、馬場重介へ色々逆心の事をすゝめけれども、重介は従はず。其後當城にて病死レ一に切腹す。當村に墓も今在せり。
應仁文明の頃に、宇喜多五朗右衛門といふ者あり。此五朗右衛門が先祖ならん(西大寺圓満院に五右衛門が寄進状あり。
古墳
宇喜多順歌墓 邑久郷村に有り。墓印に松一本あり。
按ずるに、當むら江岸寺の城主宇喜多五左衛門が墓也。順歌は法名なるべし。
古墳 同村にあり。一本松といふ。何の故といふことを知らず。小さな塚也。
宇喜多宗因墓 濱村に有り。當村の城主也。


570:人間七七四年
08/03/02 08:54:33 Y3kkkMdD
>>567 もう書込むつもりは、無かったのですがよくお名前を拝見するので、
系図を分けて記載します。ちょっと考えたら有り得ない話だそうなので参考ていどにしてください。
(衣笠家良の孫)(丹後守)(備前守正風)(仙意)(元和) 
明石久行……………景行――宗和    |―貞行―貞則(左近将監)
               |――-|
           宇喜多能家娘   |―女子
                    |   |―――小寺孝高(黒田如水)
                    | 小寺職隆美濃守宗円 
                    |―女子
                       |―景次
                     梶原景則(高砂城主)   

571:人間七七四年
08/03/02 10:25:40 Y3kkkMdD
すいません、系図うまくできません。
うまく書き込む方法教えてください。

572:人間七七四年
08/03/02 12:16:00 lDWhEOCM
>>571
行間調整に半角スペースを2つ以上連続させるのはタブーだよ。

573:人間七七四年
08/03/02 12:28:27 beEi9ouy
2chブラウザのプレビュー機能ぐらい使おうよ。

574:人間七七四年
08/03/02 16:18:43 Y3kkkMdD
ありがとうございます。(プレビュー機能で失敗しました。)
明石宗和(明石城主・備前守正風)父景行(丹後守)妻宇喜多能家娘
子 貞行(仙意)娘(小寺職隆室) 娘(梶原景則室・高砂城主)
※明石貞行 子貞則(元和・左近将監)
※梶原景則 子景次

575:人間七七四年
08/03/02 16:55:05 Y3kkkMdD
小寺職隆(美濃守・兵庫助宗円)父母 父黒田重隆(下野守)
母妻鹿氏娘 
兄弟 小寺休夢(僧位山地蔵院主・千太夫高友) 
   井手友氏(勘右ェ門・墓妙円寺)
   松井重孝(墓円応寺)
妻  明石氏娘(小寺政職養女) 神吉氏娘 尼子氏娘
子  (母明石氏) 小寺孝高(黒田如水) 利高 女子(三木氏           室) 女子(尾上武則室 旧岸和田城主)
   (母神吉氏) 長基
   (母尼子氏) 直之 女子(一柳直末室)
※尼子氏娘、母里小兵衛との間に子(雅楽)有り 
                  

576:人間七七四年
08/03/02 17:26:20 Y3kkkMdD
小寺孝高(管兵衛・黒田如水)
 父母 父小寺職隆 母明石氏(小寺政職養女)
 妻  櫛橋氏娘(幸圓 小寺政職の姪)
 子  黒田長政 熊之助(早世)

櫛橋政伊(左京亮) 父櫛橋伊定(則伊・豊後守)志方(加古
川)城主 母小寺氏
 兄弟 女子(上月景貞室)
    女子(小寺孝高室)
 子  藤九朗定重(筑前で二千石)

上月景貞(十郎) 妻櫛橋氏
 子 女子(平岡石見室)
   黒田二郎兵衛政好(中津で二千八百四十五石)    

577:人間七七四年
08/03/03 21:48:45 LPgdoWnh
>>492
主家が家臣に姓を与えるのは、一門並みに信頼している(だから裏切るな)。
と他の大名などへ使者として赴く時、便利(得体の知れない名より信頼される)
等の理由があり与えた。まあ、褒美として与えたのは先見の明が直家のは、有
ったと思うけど。

578:人間七七四年
08/03/03 21:49:13 LPgdoWnh
>>492
主家が家臣に姓を与えるのは、一門並みに信頼している(だから裏切るな)。
と他の大名などへ使者として赴く時、便利(得体の知れない名より信頼される)
等の理由があり与えた。まあ、褒美として与えたのは先見の明が直家のは、有
ったと思うけど。

579:人間七七四年
08/03/04 00:50:11 jW0ODd8Z
宇喜多とは関係ないが
小野小町 増補吉備物語(他の古書にも記述あり)
謡に云う、小町は出羽の郡司小野良實が娘とうたへり、或は小野富澄が姫共云り、
つれずれ草に小野小町が事極てさだかならずとぞ侍り、世伝に云う、人皇五十二代
嵯峨天皇の御宇かとよ、小野當澄と云人当国の守護として窪屋郡黒田村に居住すと
なん、或は郡司共云り、其末孫とて小野氏の名主庄官等今に数多数当国に有、其當
澄一人の娘をもてり、名を小町といへり、此時代吉備公の名残遠からず二三十年の
内なれば国に文学盛也、小町器用にて博く和漢の書物を読三史文選白氏文集をそら
んじ老子の言葉南花篇学び残せる文もなし、其頃湯川寺に玄賓僧都おはしまし、仏
道執行の隙なきにも折にふれ事によそへて和歌を詠し給へば賤山賤まで是を翫びけ
れば、朝暮小町を読上手に成其名隠れなかりしかば、采女に召され上洛し小野小町
と申侍るとなん、
窪屋郡黒田村  現総社市清音黒田

580:人間七七四年
08/03/11 15:09:15 kUy6utFH
あげる

581:人間七七四年
08/03/14 17:01:44 v4yW+LUI
立花宗茂と秀家の仲が悪かったってのをみたがなんか意外だ

582:宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
08/03/14 20:24:34 K/I7YmPA
ちょっと前に出てる宇喜多能家次男四郎の件ですが、
『備前宇喜多氏の系図』に収録されてる宇喜多氏の系図では、
能家の次男として義家が記されており、その注釈には
「四郎 大永三年播州の合戦で討死 十八才」
と、唯一四郎の名が見られる備前軍記にも記述が無い享年まで書かれています。

この系図は、
「高山不二雄氏・八瀬孝氏による」もの (『戦国宇喜多一族』に
掲載されている系図と同)
ですが、しかしソースまでは分かりませんでした。

583:人間七七四年
08/03/15 13:25:13 WePclhHk
系図類じゃないかな?

584:人間七七四年
08/03/16 16:11:15 H8gON5HV
どの?

585:人間七七四年
08/03/16 18:46:46 PxsBgH0o
>>581
俺も気になっ知べたり立花氏の掲示板で質問してみたが、
要領を得かったい、大阪かどこかで宇喜多の兵と立花の兵が、いざこざが
おこしりて、宇喜多は豊臣一門、立花は武功派だから問題がこじれた
みたいなようなことが記入されていた。
(これにも、宇喜多詮家がからんでいたりして  ただたんに偏見です。)
間違っていたら訂正お願いします。

586:人間七七四年
08/03/16 19:03:04 lbMMgEts
うーん?
秀家が「立花はたかだか数千の兵の将だから見捨ててもよいだろ」って発言して立花は怒ったが
「殴りに行ってやろうとも思ったが向こうも若気の至りの発言だろうから気にしない事にする」
ってな感じで穏便に事ついたんじゃないかな?それ以前から対立あったならそれは知らんけど

587:人間七七四年
08/03/16 22:39:14 QDaztMpA
>>586
史料によっては金吾の発言になってるらしいよ

588:人間七七四年
08/03/17 00:10:33 SEkLyuq0
ちょw どっちなんだ

589:人間七七四年
08/03/17 00:13:05 qp8dMjE9
「上層部の判断」がそうだったって事でいいんでない?

590:人間七七四年
08/03/17 02:45:54 X0R3g9vU
文禄・慶長の役のときに、宗茂は小早川勢と同じ組のことが多いけど、
文禄のときは隆景と秀包だろうから(秀包とは大津攻めでも同陣)、秀秋だとしたら
慶長の役のときのことじゃないかな?

591:人間七七四年
08/03/17 09:34:42 WW+CEw/z
立花宗茂と小早川秀包は義兄弟の契りを結んでいたよ。金吾秀秋は関ヶ原の後、可児才蔵を迎え様とした時福島正則に文句を言われて「主家(豊臣家)に家臣の分際で文句をいう」と怒っていたが

592:人間七七四年
08/03/17 11:54:01 X0R3g9vU
秀家が「立花なんぞ小勢だし」といった話もたしか朝鮮出兵のときだっけ?
蔚山城での戦いの後で、戦線を縮小することを検討しているんだが、このときに
行長・宗茂・宗義智らがその場におらず、軍議に参加していないまま、軍の再編が
秀吉に伝えられているので、あるいはこのときかと思う。

まあ、個人的には秀秋に言ってほしいせりふではあるがw

593:人間七七四年
08/03/17 14:22:33 gMrAYZ6e
秀家って意外と性格悪いのかな…
それとも父を早くに亡くしてるから、
父と養父に溺愛されて名将になるように育てられた宗茂に嫉妬してたのかな?

いずれにせよ二人とも好きな武将なだけに仲悪いのはちょっと残念w

594:人間七七四年
08/03/17 15:01:48 /7vkqP+V
>>593
お坊ちゃまなので、素直に思ったことを口にしただけで悪意はないかと。

595:人間七七四年
08/03/17 23:42:30 Hu6LkEWs
>>563
明石景親・全登について調べて観たが、
おいらの調べたものは全て、正没不詳でした。
ただ、信長の野望蒼天禄には、
明石景親(1520~1589病死)
明石全登(1551~1615戦死)となっていました。
明石繋がりで播磨明石郡司系の明石氏の話をしますと、
最初に明石尚行が出てきます。この人物には、衣笠家良の孫という注が
付きます。衣笠家良は近衛家から衣笠家に養子入った人物で自身正二位
大納言になってます。尚行の何代か後に明石宗和(正風)が登場します。
この人物は和歌に秀で都まで名が通っていたようです。また正風の娘は、
小寺職隆に嫁ぎ黒田如水を生んでます。正風の後、貞行(仙意)貞則(元和)
と通ずくのですが、貞則の代で取り潰しになります。
あかしもととも 明石元知 ?~1595(?~文禄四)
黒田孝高の従弟で豊臣秀吉の家人。仙恵の男。天正十二年(1584)の小牧
合戦に従軍、翌年の四国征伐では各地に転戦して功があり、但馬国豊岡亀
城主(一万石)、ついで播磨国明石城主となる。同十五年の九州征伐、同十
八年の小田原攻めに従軍した。文禄元年(1592)の朝鮮派兵に際しては京城
に出陣した。同四年、関白秀次事件に連座して除封、小早川隆景に預けられ
たが自殺。          (明石元知は戦国人名事典を引用しました。)
長文になり申し訳ございません。名前が違うのは原文をそのまま使用しました。

596:人間七七四年
08/03/18 00:27:13 OxMu7wmS
明石スレにも天才してね

597:人間七七四年
08/03/18 08:14:41 jiRdA9dP
>>563 備前明石氏
 戦国末期に活躍した備前国和気郡の土豪武士。
明石氏の祖は、赤松則村の子赤松範資。その5世
の孫周防守宗安が天文年間(1532~1555)播磨国
明石郡に封じられ、初めて明石姓を称した。その子
清景が備前に移り和気郡坂根城(現備前市坂根)に
拠る。清景の孫源三朗景憲は1581年(天正9)宇喜
多、毛利の合戦とき児島郡麦飯山城で討ち死にし
た。景憲の長男が飛騨守景親、二男が三左衛門尉
景季でともに最初天神山城主浦上宗景に使える。
1577年(天正5)宇喜多直家が宗景を天神山の攻
めると景親、景季も直家に従い、景親は宇喜多直
家の客分として4万石を領す。景親の子が掃部頭
全登、その子が久兵衛景行で景季の養子となった。
景行の養子(実は弟)が右近で、直家に仕え4500石
を領したが1593年(文禄2)正月朝鮮出兵に従軍し
て戦場死した。全登は直家、秀家に仕えて知行2万
石を領し、関ヶ原の合戦の時は宇喜多勢の将となり
大阪方に属して奮戦、敗れて岡山城に拠って再起
を企てたが果たさず備中足守に潜伏。1615年(元和
元)大阪の陣に景行の子久蔵宣行ら一族を率いて
参戦したが破れ、潜伏3年の後に赦され、後に病死
した。景行は宣行が大阪の陣で討ち死にしたため、
和気郡吉永の土豪武元正高を女婿に迎え、徳川を
はばかって江戸時代は武元姓を称した。武元登々
庵・君立の祖で代々名主または大庄屋をつとめた。
維新後は明石姓に復した。
             (岡山県大百貨辞典より)



598:人間七七四年
08/03/18 10:04:28 jiRdA9dP
宇喜多次郎九朗・・・・・・・・・・知ってる?















宇喜多次郎九朗 うきたじろうくろう  ?~一五八六(?~天正十四)
秀吉の馬廻。秀家の一族らしいが、詳細はわからない。天正十四年
(一五八六)、大阪で千人切りと称して殺人を犯したこたが発覚。
豊臣秀吉が即日捕え、同年三月三日、自殺を命じた。

599:人間七七四年
08/03/18 11:46:22 qvqR3Ufj
>>598
千人切りって、大谷紀之介が病気治すためにやってるんではないかと噂になってしまったあれですか?

600:人間七七四年
08/03/19 15:57:04 6ouqosFY
正直者 宇喜多詮家
宇喜多詮家は正直者である。幼少の頃、父忠家が宇喜多家の代理として
政・軍務に多忙で父と接する機会が少なく、正直に八朗(秀家)に嫉妬した。
そして朝鮮の役では主君より自分に正直に出陣し武勇をもって知られる。
あまりに、正直なので父忠家は秀家と詮家が対立するのではないかと、
心配し、詮家が自分に正直に行動し問題を起こす前に家督相続を申し
出る。秀家は長年自分を補佐してくれた忠家に報いるために、、家督
相続を許す。忠家は安心し剃髪隠居し安心と号した。家督相続を認め
られ、一門筆頭になった詮家は自分に正直に派閥を造り、秀家と対立し
要求が受け入れなかったので大阪で市街戦寸前までに持ち込む。
困った秀家は大谷吉継と徳川家康の臣榊原康政に仲裁を頼むが
条件が気に入らないと詮家は正直に断る。仕方なく秀家は徳川家康に
頭を下げ仲裁を頼む。実力者家康の仲裁とあって正直に受け入れる。
その後、詮家は宇喜多家に帰参し、上杉討伐の宇喜多先発隊として、
五千の兵を率いて出陣、その後石田三成ら西軍の挙兵の報を聞くが、
自分に正直に黒田隊に合流し東軍として戦う。徳川家康に宇喜多の
姓は聞きたくないと言われると、正直に姓を坂崎に改めた。そして、
詮家の甥(宇喜多左門)が家臣を殺し詮家の姉の嫁ぎ先の富田信高
に匿われ居ると知ると正直に数年に渡り富田家を訴え続け富田家は
改易される。大阪夏の陣で落ち延びた千姫一行に偶然出会い正直に
家康の元へとどけた。家康の死で千姫の件を全て無効とされた詮家は
自分に正直に江戸に兵を呼び寄せ要とした。それを知った幕府は
詮家の隠居及び長子へ領土相続という妥協案を示した。その案を
知った詮家は自分に正直に行動した(自ら子を殺害)しかし、あまり
にも詮家が自分に正直すぎるので、家臣によって寝首を斬られた。
      

601:人間七七四年
08/03/19 17:31:40 VKAgbZXN
無能だな。結局自分の欲望に正直なんだから。


602:人間七七四年
08/03/20 20:07:10 aS/9anbv
>>600
詮家はファザコンだったのかw

603:人間七七四年
08/03/22 19:46:11 I2pMIFet
宇喜多 邦家の太刀
URLリンク(www.geocities.jp)

604:人間七七四年
08/04/01 21:40:10 GdmunYx3
1573年
長府毛利家文書
輝元が穂田元清に当てた手紙。

信長には強気な態度をとることが寛容である。
次は宇喜多直家に注意せよ。信長が敵となれば直家を先鋒として戦わせれば問題ないだろう。
浦上はほっとけ、兎に角毛利が織田を気にかけていることは絶対に直家には知られないように。


605:人間七七四年
08/04/04 08:33:27 nbx6xcew
>>604
狐と狸の騙し合いだな。


606:人間七七四年
08/04/04 12:49:28 amybXFRb
先鋒なら寝返っても致命的なことにはならないものなぁ。
後詰が寝返ったら最悪。

607:人間七七四年
08/04/17 20:49:59 DNXP+q0j
関ヶ原前に起きた御家騒動について色々語れる人いる?

608:人間七七四年
08/04/17 20:53:41 k619nvTz
喫茶 松永弾正
スレリンク(sengoku板)

609:人間七七四年
08/04/18 00:28:45 k7e0p3F6
>>607
豪姫と秀家の豪奢な生活により財政が圧迫し
建直しをはかる為、領内の検地を実施し
国許の武将が反発し、連動するようにキリスタンと
日蓮宗の対立も表面化

610:人間七七四年
08/04/18 17:07:37 AkHYdST3
我々は岡山人が何故このような犯罪を繰り返したのかという
疑問を解決するため、岡山人の故郷である岡山に向かった。
「まだ世界にこんなところがあったのか…」
思わず口に出てしまった言葉を同行した上司に失礼だと咎められた。

小人が住むような小さな家、ツギハギだらけの服を着る農夫たち、
そして彼らは余所者で身なりのいい我々を監視する様に見詰めている。
プロ野球だの、Jリーグだの、球界再編だので浮かれていた
我々は改めて岡山の現状を噛み締めていた。

ボロ屑のような家に居たのは老いた母親一人
我々を見るなり全てを悟ったのか、火病をおこしながら
「賠償しる!謝罪しる!反省しる!」と我々に何度も土下座するように要求した。

我々はこの時初めて岡山人を許すまいと思った。
誰が悪い訳ではない、岡山人の根性の汚さが全て悪かったのだ。
我々は岡山人の母親から無理矢理売りつけられたマスカットきびだんごとママカリを手に、
打ちひしがれながら東京へと帰路についた。

611:人間七七四年
08/04/18 17:19:20 nWzJGPkg
死ねよな

612:人間七七四年
08/04/18 17:21:22 RFlG53Ou
宇喜多秀家は大河にでもなれば一気に人気者だぜ
美形で忠義者

613:人間七七四年
08/04/18 17:21:48 nWzJGPkg
あと犯罪を繰り返したとは?
思い付いたのは岡山駅のだけどあれは大阪人だよな

614:人間七七四年
08/04/18 22:06:38 4AtT2wLB
>>612
秀家役はジャニになりそうだ

615:人間七七四年
08/04/18 23:13:12 k7e0p3F6
豪姫はオスカープロでお願いします。

616:人間七七四年
08/04/20 09:16:24 Q4kscf0Y
宇喜多広維について
岡山城主宇喜多和泉守直家は芸州毛利氏の同盟者で、
備前、美作、播磨三ヶ国の旗頭。
先般、幕下の上月城主赤松政範より急使があり、
心に一物があるが、援助することになり、家老長船
久右衛門並びに岡剛介を目付けとし、舎弟宇喜多
掃部助広維(沼城主、政範の妹婿)を大将に総勢
三千騎を派遣することになった。
         兵庫県史 史料編中世三
上月城主赤松蔵人大輔政範(佐用、赤穂、揖東、
揖西、宍栗の五郡を領して、禄高十六万石、俗に
西播磨殿とよばれていたという)
天正五年、羽柴秀吉上月城攻時、岡山側の史料で
沼城主は宇喜多春家

617:人間七七四年
08/04/20 22:00:39 Q4kscf0Y
上月城史
大永二年(1522) 上月城山名誠豊に攻略される。
享禄二年(1529) 上月城はこのころ出城四ヵ城を築く。
天文七年(1538) 上月城尼子詮久に降る。
天文十年(1541) 上月城大内義澄の攻撃をうける。
天文十二年(1543) 上月城浦上宗景に攻略される。
天文二十二年(1554) 二月 陶晴賢上月城を攻める。
弘治三年(1557) 上月城主に置塩城主赤松左京太夫義村の子右京太夫政元が移り、
         七条家上月城主となる。
永禄二年(1558) 宇喜多直家上月城を犯す。
永禄三年(1560) 毛利元就の兵美作より入り上月城を侵す。
永禄五年(1562) 宇喜多直家上月城を攻める。
永禄十二年(1569) 宇喜多直家上月城を攻めるが追い返される。
元亀二年(1571) 宇喜多直家上月城の搦手を襲い政元苦境に入る。
元亀三年(1572) 上月城主赤松政元宇喜多直家と盟を結ぶ。
天正一年(1573) 赤松政範兄政満の死亡により家督を継ぐ。
天正三年(1575) 六月 上月城主政範宇喜多を通じて毛利と盟を結ぶ。
天正四年(1576) 吉川元春に但馬を追われた尼子勝久、山中鹿之助介は、
         四月上月城を攻めるが、政範は宇喜多広維の助力を得て、
         防御に成功す。
天正五年(1577) 七月 上月城に秀吉の使者木村源蔵、山中鹿之介が来て
         政範に信長の教書と秀吉の添状を与える。
         十月 政範は籠城して秀吉と戦うことに決定する。
         十一月 赤松義則、別所定道、政範を裏切る。政範は秀吉を
         迎え撃つが包囲され水の手を断たれる。岡山より宇喜多の
         援軍(広維)が来るが、秋里口に待ちかけた秀吉軍と激突して
         引き分けとなり、宇喜多軍夜中に上月城に入る。
         十二月 上月城支城の福原城が落とされ、城主藤馬允は福円寺
         で自害する。
         上月城は秀吉の総攻撃を再度うけてたまらず、政範は自ら火を
         かけて自害(広維もこの時自害する)して、上月城は秀吉の
         手に入る。     

618:人間七七四年
08/04/21 09:28:13 OkaZLgmK
「わしが相手を裏切ることがあっても、相手の裏切りは絶対に許さん」
「わしは、自分が天下の人にそむこうと、天下の人にそむかれるのは我慢ならんのだ」
誰の言葉でしょう?





                             By 曹操 

619:人間七七四年
08/04/22 00:52:50 N7HBDjXa
直家は少年時代、鷹狩りや競犬にうつつをぬかし、遊びほうけていた。それを見た叔父が、
折にふれて父親の興家に告げ口する。それが直家にはうっとうしくてたまらない。
ある日、道で叔父とでくわしたとき、わざと顔をひきつらせ、口をゆがめてみせた。
「なんだ、どうかしたのかね」
「急に顔がしびれまして」
叔父がさっそく興家に知らせる。興家はびっくりして、直家を呼んだ。
顔のどこにも異常がない。
「叔父さんの話では、顔がしびれているそうじゃが、もうなおったのかね」
「でたらめですよ。叔父さんに嫌われていますから、ありもしないことをいわれてんでしょ」
興家はわけがわからなくなった。それからというもの、叔父が何をいってきても信じようとしない。
直家はますますやりたい放題ふるまった。

620:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
08/04/22 01:33:57 yChIUCPc
んなことしてる前に父ちゃん落ちぶれてるやん。

621:人間七七四年
08/04/22 11:42:21 798236FX
なぜいきなり曹操ネタ

622:人間七七四年
08/04/23 00:35:49 h6apq/uY
直家に主・宗景を追放された家臣は、直家に仕えることになった。直家の昔を知る宗景の
旧臣達は直家の存在が面白いはずがない。旧臣達のなかには、
「直家を亡き者にして、宗景様に復活してもらおう」
と、密議をこらす者も出てくる。
ある晩、彼ら不満分子は反乱の兵を挙げ、城に火を放った。しかし、反乱はあっけなく鎮圧
された。それでも直家の怒りはおさまらない。やがて宗景の旧臣達がひきすえられる。直家は、
「事件の夜、火を消しに駆けつけた者は左、そうでない者は右に並べ」
と命じた。
旧臣達は、火を消しに駆けつけたことにすれば無罪になると思い、全員が左に並んだ。
ところが、それを見た直家は
「火消しに駆けつけた者こそ、反乱者である」
と言って、皆殺しにしてしまった。

623:人間七七四年
08/04/23 12:38:36 NCGh0ZWT
乙子城を与えられた直家は領地も少なく十分に家臣を養えない。そこで直家は度々盗賊行為をしていた。
ある時、海賊の屋敷に盗みに入り発見されてしまった。逃げる途中、家臣の一人が足を挫き倒れてしまった。
その時、直家は、海賊に向かい、
「ここに、盗賊が倒れているぞ」とさけんだ。
それを聞いた直家の家臣は足の痛みを忘れ立ち上がり再び逃げはじめ、無事に直家と家臣は逃げ帰ることができた。

624:人間七七四年
08/04/23 13:13:28 XEiyQRtr
もろ曹操のパクリじゃん
実話?

625:人間七七四年
08/04/23 17:25:45 aa9P/gLY
微妙に史実ともあってるから素人は混乱しそうだな


626:人間七七四年
08/04/23 17:26:45 QzuK6TEk
皇紀2668年4月26日(土) エクストリーム聖火リレー 勢力構成


◇赤軍
シナ人 約2000~3000名
シナ工作員 推定1000名くらい
青装束軍団(特殊工作員) 2~6名
売国マスゴミ 推定200名くらい
売国左翼・売国日本人 推定数百名
朝鮮人 推定数百名
邪火ランナー(星野、有森、萩本等)
機動隊・警察・公安 2000~3000名

◇我が軍
ネット連合(2ch、mixi、ブログ等)
穏健派・撮影部隊・通信部隊等 推定200~300名
ネット連合 過激派(消火班、武装派、ウンコ・ギョーザ投てき) 推定100名
チベット・ウイグル・モンゴル・台湾人 数百名
国境無き記者団 約50名+ボス
新風 約50名
街宣右翼 約50名
仏教徒・仏教関係者・善光寺 推定数百名
反中日本人 推定数100名
欧米人・欧米マスコミ  推定数百名
一般マスコミ(産経・関西のテレビ等) 数十名
宇喜多勢 1名 

◇中立勢力
一般日本人 数千~数万名 (←ここを味方につける必要あり!)

URLリンク(nullpo.vip2ch.com)
URLリンク(jp.youtube.com)

627:人間七七四年
08/04/23 22:12:16 NCGh0ZWT
ようこその、御運び厚く御礼申し上げます。
ご指摘のとおり、619・622・623は曹操の逸話を元に書き込みました。
でも、解かり易いように618で予防線を張っていたのですが?
では、あと2話ほど、これは解かるとおもいます。

628:人間七七四年
08/04/23 22:34:53 NCGh0ZWT
あるとき、敵と交戦中、敵は兵を引き篭城してしまった。そこで直家は兵糧攻めに切り替え城を包囲した。
しかし、他の勢力が敵に味方し糧道が途絶えぎみになった。直家はひそかに兵糧担当の家臣を呼んで対策を計った。
すると家臣は進言した。
「升を小さいのに代えて食いのばしをはかりましょう」「よし、それでいこう」
そう言って、直家はすぐに実行した。しかし、その処置が兵達に知られてしまい、
「直家さまは、われわれを騙した」
と噂が飛び、士気も落ち不穏な空気がみなぎった。すると直家は、兵糧担当の家臣呼び出し、
「この場をうまくおさめるために、おまえに死んでもらうしかなくなった」
と言い、むりやり切腹させてしまった。その後ふれを廻し騒ぎは収まった。

629:人間七七四年
08/04/23 22:53:25 NCGh0ZWT
ある時、叔母の尼が「愚弄曹司とか眠り狐」と直家が呼ばれているのを心配して、
宇喜多家縁の寺の和尚に学問教授の依頼をした。直家はしばらく寺に通い学問を習っていた。
その和尚は人物鑑定に定評が有り、よく遠国からでも人が訪ねて来ていた。
あるとき、直家は和尚にたずねた。
「わたしはどんな人間でしょうか」
和尚は黙ったまま答えようはしない。「ぜひに」と直家が迫ると、ようやく口を開いた。
「太平の世であれば有能の能臣、乱世ともなれば腹黒い英雄であろう」
直家は声をはりあげて笑った。

630:人間七七四年
08/04/23 22:55:51 aa9P/gLY
うまいなあ

631:宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
08/04/24 23:21:03 JDAoVCz4
>>629を見て思ったのは、
直家の幼少時代の逸話って『備前軍記』の有名な
あのエピソードと、『浦上・宇喜多両家記』収録の
忠家との比較ぐらいしかないような

632:人間七七四年
08/04/24 23:23:37 4IaNQrlk
「わしは、和泉守様が御病気の時は代理として、亡くなられた後は秀家様の代理として、
宇喜多家を看なければならなかったので、子供等を寺に預け学問をさせた。出来れば兄
(詮家)の方の気性が直ればと思っておった。直らなければそのまま僧侶にして弟の方
に家督を継がそうと思っておった。しかし兄の方は寺を嫌がり、逆に弟の方は兄の気性
の激しさを恐れ出家して僧侶(後年、感応院大ヶ島住職)なってしまった」

633:人間七七四年
08/04/25 00:01:44 McRmqwMw
「詮家はこの頃、助兵衛(花房職秀)と付き合い、まねをしておる。助兵衛は武勇に優れた剛直の士であるので、
付き合うのは良いことだ。しかし真似は困る、助兵衛は先陣を切る。しかし、これは水が布に染み渡るが如く、
敵に対して勝ちが決まったような状態で先陣を切る、だからいっそうあざやかに見える。決して無理はせぬし、
無謀ではない。しかし詮家は違う華やかさばかりを気にして先陣を切る。
助兵衛は、かぶく、近隣に名が知られており、太閤殿下にも愛されておる、だから、都や浪速でも
「あのかぶき者はだれだ」と聞かれれば、
「宇喜多家の花房助兵衛殿よ」と言われ宇喜多家の武名まで上がる。詮家がかぶいても、只のかぶき者で終わって
しまう。本質が解っていないのだ」

634:人間七七四年
08/04/25 00:40:35 McRmqwMw
「わしは、和泉守様が恐ろしかった。他の者もそうであったと思う。しかし和泉守様は、
信頼されておった。遠藤兄弟を見た時は無骨で荒々しく、いくつもの家を渡り歩き使い
こなせる者では無いと思ったが、今ではすっかり忠誠尽くしているではないか。
弥九朗(魚屋・小西行長)もそうじゃ。和泉守様が信頼し羽柴殿との交渉を任されたの
で、家臣と成り宇喜多家の為に武器・兵糧の手当てに走り回った。太閤殿下の家臣に成
った後も宇喜多家の為に便宜を計ってくれておる。しかし詮家は和泉守様の甥、わしの
嫡子という立場で同僚や家臣に威張り、わしの付けた老臣も遠避けておる。これでは、
恐れられているだけである。」

635:人間七七四年
08/04/25 00:43:11 McRmqwMw
以上、勝手に書いた「宇喜多忠家の憂鬱」でした。

636:人間七七四年
08/04/25 20:16:22 JLS8eXkC
荒らしだな

637:人間七七四年
08/04/25 21:24:21 v8wwskxj
いや~、ただの坂崎出羽守嫌いですよ。

638:人間七七四年
08/04/26 16:04:46 GXk8ZiUy
宇喜多四朗・広維・基家・桃寿丸 早くに惜しい人物を亡くした。
でも、大局には影響ないような気がする。

639:人間七七四年
08/05/06 22:49:38 Dxs9TL3N
豊臣秀吉と宇喜多秀家のエピソードって色々ありそうだね。
相当可愛がってたみたいですし。

640:庭瀬藩主
08/05/07 12:25:26 gyo4xw5r
突然ですが、宇喜多家の重臣戸川秀安の父定安は、宇喜多能家の妾腹の子と言われている。
岡元忠(豊前守利勝)と秀安は異父兄弟と記録があり、母親は宇喜多直家の弟忠家の乳母であった女。
一子平介(秀安)を連れて岡惣兵衛元重に嫁いだとある。元重は明禅寺合戦に功があったようで、
藤原、宇喜多の姓を称していた。
岡利勝の息子は岡九郎右衛門家利で、妻は明石掃部頭全登の妹。その子平内(妻は明石掃部正娘)が
大阪の陣で篭城し後に幕府に自首して自害。父家利、弟忠兵衛も切腹。弟平四郎は津山城主森忠政に、
喜代丸は庭瀬城主戸川逵安に仕えた。岡の家は家利の弟元春(家重)が後を継ぎ、その次男静隠壽元は
日本で最初の小児科医となったと医学史にある。
戸川秀安の娘は宇喜多詮家と角南隼人にそれぞれ嫁いでいる。
その後、岡一族は代々徳川家の専属医師として最後まで仕えたようだ。




641:人間七七四年
08/05/07 15:41:15 VYOTrBtX
>>640
詳しいね。
でも利勝と家利の親子順が逆だと思うよ。

642:庭瀬藩主
08/05/07 22:10:50 gyo4xw5r
岡利勝が父で九郎右衛門家利(越前守)が息子です。
  岡元忠 豊前守 利勝 通称平内 従五位下
     備前国出生浮田中納言秀家之臣也知行二万五千石領
     文禄二年八月九日於朝鮮病死
     (加筆)乙子城以来直家ノ功臣 武芸優レ出軍四十余回
         天正十年光秀トノ合戦上洛ノ秀吉二加勢、秀吉の寵愛ヲ得権勢を振ル

  岡九郎右衛門家利 越前守 或家俊 従五位下
     備前国出生浮田秀家之長臣也 父元忠遺跡ヲ續
     朝鮮千石領 朝鮮渡海ス浮田家退去之後花房志磨守ト同属家康之幕下暫南都居
     (加筆)関ヶ原役後家康召シ出サレ旗本二列ス(略)
     元和元年七月三日於妙顕寺切腹跡絶

これらは、不鮮明ではあるが、駿河国(静岡県)士族 岡某氏が所有する古い系図の一部を書き写したものによる。

本能寺の変の際、秀吉が短期間のうちに京に戻れたのは岡利勝、戸川秀安など宇喜田の重臣が先行し、
宿場宿場に馬と食料を準備していたからという説もある。
利勝は秀吉が一番恐れた武将で、宇喜田秀家の居城を訪ねた秀吉は、脇差しも持たずに利勝に
自分を背負わせて籠まで運ばせたそうだ。信頼している証を見せたかったからだと言われている。
又、酒宴の場に居並ぶ武将の前に利勝を召され、裸になるように命じ、その刀傷だらけの体を見
ながら「戦ではこれくらい戦え」と言わんばかりに褒美を下した。それを知っている家康は宇喜田家の
騒動の中で徳川側に取り込んだと言われている。


643:人間七七四年
08/05/08 10:08:50 VuBIf13G
>>618
誰?そのジャイアン

644:人間七七四年
08/05/16 12:59:10 hA9mjLqq
>>642
いつの時代に出来た系図なのかな


645:人間七七四年
08/05/17 19:13:16 ghyEC1Dw
へタレ武将宇喜多秀家(笑)www
八丈島で野垂れ死にwww

646:人間七七四年
08/05/17 19:19:09 W31Knuyk
野垂れ死にかどうかは…
意外と健康な生活送れたんじゃね?

647:人間七七四年
08/05/17 19:42:37 EnSE1/ji
支援は前田家や旧家臣からそこそこ送ってもらってた。
たまに事欠いて督促しなきゃらならんときもあったらしいが。

648:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
08/05/17 22:02:23 ueEGxtEm
宇喜多三老ってたぶん江戸時代に選定されてるよな。

649:人間七七四年
08/05/18 00:44:41 0y8tt7/P
>>648
何故そう思うのかい?

650:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
08/05/18 00:51:54 76mLoTKx
明石の存在の解釈!

651:人間七七四年
08/05/18 18:32:13 ksu79BhY
福島正則>>>>>>越えられない壁>>>>>>>宇喜多秀家(笑)




652:人間七七四年
08/05/18 22:15:48 5NhxhiNF
>>651
そりゃ、秀吉から見れば血縁だからな。
越えられない壁だろ。

だから福島はここで微妙に叩かれている理由の一つだなー。

653:人間七七四年
08/05/19 14:06:16 ugesq+Sy
へタレ宇喜多wwww

654:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
08/05/19 23:52:30 1D8uLM+i
語りもできんくせにいちいち貶める低俗なネタ、そろそろ何とかならんのか。

655:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
08/05/20 00:30:33 v/5jDh2I
今更ながら、安富氏と浦上氏は近親だったんだな。

656:人間七七四年
08/05/20 12:28:24 uRTmTFFl
へタレ宇喜多wwww




657:人間七七四年
08/05/20 21:52:31 d9NzG4Nx
>>642
通説通りなら、豊前守=利勝=父、越前守=家利=子なんだけど
wikipediaでは、逆だよという

658:人間七七四年
08/05/21 11:49:46 Wip+0Q1K
>>655
瀬戸内海挟んでの付き合いか。

>>657
主君から偏諱を受けるほど活躍したのは親父の方だろうな。
よって、家利が親父説に一票。

問題は、いつ諱が入れ替わったのか。
岡家の家譜でも発見されればねー。

659:人間七七四年
08/05/21 16:03:17 jaLyFaAa
バカ大名宇喜多wwwwwww







660:人間七七四年
08/05/21 17:06:29 V5Rmugj5
宇喜田 NOW YEAH

661:人間七七四年
08/05/21 17:46:53 Fp0PEORD
Wikipediaは具体的な出典の書状が書かれて無いのは措いといて豊前守=平内丞=家利は良いとしても、
越前守=利勝とする根拠に全く触れてないような。
利勝が直家の出世後に偏諱を賜わって家利に改名した可能性とか考えられないんだろうか。
豊前守=利勝を広めたと思われる『備前軍記』にも豊前守利勝や肥後守逵安、志摩守正成などはあるが
確か越前守は諱が書かれて無いんだよね。

662:人間七七四年
08/05/21 17:51:40 Fp0PEORD
>>661 一行目は 出典や書状 (資料)で

663:人間七七四年
08/05/22 17:16:29 fXmrId+f
糞宇喜多

664:人間七七四年
08/05/22 23:01:35 giLgkyJ5
思えば兄者は弟のわしでさえ、片時も油断のならぬ方であった・・・。
兄者の前に出るときはいつ中田しされてもいいよう、常にコンドーム持参で
あったわ。

665:人間七七四年
08/05/23 00:00:26 kBsloWJI
>>661
そうなんだよね

備前軍記より
父=岡平内利勝=豊前守
 (→直家の時代に活躍、朝鮮で病死)
子=(?)=岡越前守
 (→秀家の時代に筆頭家老になる、地侍帳にも記述あり)
子=岡信濃(清三郎→剛介→信濃)
 (→龍口城攻略)

備前軍記附記より
豊前守→→越前守→→平内(大阪の陣:豊臣方、キリシタン)
「豊前守の子が越前守で~・・・。越前守の嫡子平内~・・・。」
※つまり豊前守(平内)と平内は、祖父と孫の関係?




666:人間七七四年
08/05/25 09:22:49 6YQffD2I
林羅山が岡越前守の名を「家俊」って書いてたらしいから
かなり早い段階で勘違いがあったんだろうな

成田親泰とかの件もあるけど、かなり昔の人間がやらかした勘違いは見つけにくい

667:人間七七四年
08/05/25 14:07:01 6OKyuhru
同年代w

668:人間七七四年
08/05/25 17:10:45 XcbkUhOP
>>667
と言う事は越前守=家利(家俊)なのかね?

669:人間七七四年
08/05/27 10:58:26 w9KfnQQx
 『駿府政事録』 によると原主水佐と親しい岡平内は慶長4年 (1599) 頃、
父岡越前守家俊(おかえちぜんのかみいえとし)と共に宇喜多家を追われて
江戸で徳川家康に召し抱えられた。
そして慶長12年 (1607) 頃から駿府に扈従(こしょう)してきていた。
そこで原主水佐は岡平内の父と関係のあった安倍川の上流にある牧ケ谷村の耕雲寺 (静岡市牧ケ谷281番地) の住職によって匿われたわけである。
やがて原主水佐は傷も癒えて江戸へ行くのであったが、 江尻の湊から船に乗ったのであろうか、 そこには駿府からペトロ宗休が頻繁と往来していたのである。
元和元年 (1615) 5月、 大坂の陣が終わると幕府はキリシタンの取り締まりを一層強め、
元和2年 (1616) 8月8日の禁令では、 キリシタン本人の体を不自由にして放逐するのはもとより、 匿った者も死罪とした。
そのため岡平内兄弟はもちろんのこと父親である岡家俊も死罪となり、 耕雲寺の住職も自害させられてしまった。
その上、 耕雲寺は慈悲尾村の曹洞宗増善寺の末寺であったが、 臨済宗に替えられてしまった。

 (高木一雄 キリスト教史研究家)

670:人間七七四年
08/05/27 10:59:57 w9KfnQQx
でも『駿府政事録』の記載がどうかまでは分からんからなんともいえんな

671:人間七七四年
08/05/28 10:06:32 PchPJiIU
>>669
この岡平内は、>>665の中で言うところの孫平内?
歳がわからないのでアレだが・・・


672:人間七七四年
08/05/28 11:19:21 yG1zg9Tw
直家の両川暗殺計画が成功していたら毛利なんて即滅亡していただろうなぁ。

戦らしい戦を明善寺合戦だけであの位置まで上り詰めるなんて、民には有難い殿様だよな。

673:人間七七四年
08/05/31 14:48:09 Bo7oUSTZ
宇喜多氏について、関ヶ原直前には譜代の家臣団がごっそり
引き抜かれたために、数だけの軍勢で福島隊とやっとこさ互角
みたいな書かれ方しているけど実際はどうなんだ?
福島勢以外にも宇喜多隊と戦っていた軍勢は多かったはずなんだが

674:人間七七四年
08/05/31 15:02:35 Mzpviq8R
 第3回 2ちゃんねる全板人気トーナメント二次予選
<<戦国時代>>板は6/4日出陣
URLリンク(2ch.gepper.net)

詳しくは選対スレへ
スレリンク(sengoku板)
公式サイト
URLリンク(2ch.gepper.net)

675:人間七七四年
08/05/31 15:40:11 IMjjatQy
>>673
たしか、大谷+宇喜多=17600VS福島+藤堂+田中+京極+井伊+忠吉=15000

まあ兵数的に見れば、そりゃあ互角になるだろうって数字だな
宇喜多は精鋭引き抜かれてるから、むしろ善戦した方かもね

676:人間七七四年@全板トナメ開催中
08/05/31 19:50:51 3oNkQr16
×宇喜多は精鋭引き抜かれてるから、むしろ善戦した方かもね

○宇喜多は精鋭が選び抜かれてるから、むしろ善戦した方かもね

677:人間七七四年@全板トナメ開催中
08/06/02 23:04:25 GjJqVWOA BE:1705682096-2BP(0)
いろいろ調べてるんですが
岡家利(親)→利勝(子)という説は確定できる
根拠(資料や学説)があるんですかね?
いろんな説や見方がある、という段階であって
利勝→家利とする説も、
家利→利勝とする説もあり「ハッキリしない」
とかするのが現状なんじゃないの?
親子の名乗りが混同されたり、資料でごっちゃになるのは
よくある話だし・・・


678:人間七七四年@全板トナメ開催中
08/06/03 11:25:16 pyfgoPmy
当時の資料では親の豊前守が家利ってとこまでは明らかだけど
子の越前守の方ははっきりしない、てのが妥当じゃないかな

事蹟がもっと残ってそうな長船紀伊守の名だってはっきり分からないぐらいだから

679:人間七七四年@全板トナメ開催中
08/06/03 22:49:59 CQboSxW2
>>678
その資料は何ですか?

680:人間七七四年@全板トナメ開催中
08/06/03 22:59:26 1xjWHbHc
>>678
時期によって親の方が、「家利」も「利勝」も使ってたとか
もしくは書き記す方が混同してたって線はないの?
全て親時代の記録は「家利」で確定?
同一人物でも、時代によって名前変えるパターンって多分にあるじゃない

681:人間七七四年@全板トナメ開催中
08/06/04 02:28:56 /b1Cg7qk
>>675
赤座なんかは無視ですかそうですか

682:人間七七四年@全板トナメ開催中
08/06/06 23:52:46 dBx2qLkD
あんまり話題に上らないけど
秀家とその子孫が過ごした八丈島にも行って見るといいよ。
伊豆諸島の中でも大島程開発されてないし、
海とトロピカルな風景以外なーんにもないけど
すげえ透明度の海で最高だよ。
秀家のお墓参りついでに1度は行ってみてくれ。お勧めだ。

八丈島観光協会の人ではないけどね。よく遊びに行くんだ八丈島。
関東に住んでる人間なら沖縄とかに行く金と時間があったら伊豆諸島の方が断然いいよ。

683:人間七七四年@全板トナメ開催中
08/06/08 09:50:12 2p6965fn
すみません。質問です。

1・宇喜多家の水軍についての話が載ってる本とかサイトって
どんなのがありますか?
岡氏が船奉行だったという話とか。

2・虎倉城が伊賀氏から長船氏の拠点になったのはいつ頃ですか?
また、それが裏づけできる資料などはありますか?

3・児島地方侵攻の拠点として毛利氏が築いた城・砦などの
軍事拠点にはどのようなものがありますか?

わかる部分でいいので教えて下さい。

684:683
08/06/09 11:38:46 Lu/etr5Z
>>683
他でも聞いてみようと思っているのでマルチポストになる可能性がありますので
質問一時保留とさせていただきます。
もし、他で判明したら、ここで報告し
そうでなければ、また再度ここでも聞いてみたいと思います。
情報がわかりましたら協力お願いします。

685:人間七七四年
08/06/10 02:24:50 CZxtOC6f
直家信者氏なら答えられそうだな>683

686:683
08/06/10 09:15:18 NyVkEdK1
毛利・宇喜多の児島地方争奪戦について
URLリンク(detail.chiebukuro.yahoo.co.jp)
備前国・虎倉城について
URLリンク(detail.chiebukuro.yahoo.co.jp)
宇喜多氏の水軍について
URLリンク(detail.chiebukuro.yahoo.co.jp)
美作の国人について
URLリンク(detail.chiebukuro.yahoo.co.jp)

ヤフー知恵袋にて宇喜多氏関連の質問を出していますので
詳しい方いましたら、投稿お願いします。
何度も同じ事書いてすみません。
自分でも調べてわかりましたら、ここにも書いていきたいと思います。

687:人間七七四年
08/06/10 10:23:53 v6h/l/1K
2.虎倉城主(伊賀氏→長船氏)
備前軍記によると「虎倉の城主伊賀久隆を
直家毒殺する事」の中に関連記述が見れます。

天正6年9月 宇喜多直家、伊賀左衛門尉(久隆)を毒殺
 虎倉城 嫡子与二郎 しばらく篭城 その後 退城 毛利方へ
正月下旬 長船越中へ

688:人間七七四年
08/06/10 21:01:26 bIQydaKK
>>686
『萩藩閥閲録』に秀吉が中国方面の蜂須賀と官兵衛に宛てた(1584年)正月二日付の書簡があって
・虎倉城(備前)、桝形城(美作)を請けとるのは当然だ
・伊賀家久と草刈重継(美作矢筈城)の城は十分気をつけろ
・城々を渡さない場合には干殺しにしろ
・高田(美作)、松山(備中)、児島(備前)、八橋(因幡)等は毛利の元に留めたいと恵瓊から何度も言ってきてるが、
この様では毛利からの最初の和議条件に従い五カ国取り上げてしまえば良いのだから反って都合がいい
・長々の逗留ご苦労、戻ったら茶を振舞う、さぞ寒いことだろうから小袖を遣る
のような感じの内容。この書状は色々な本に引用されてると思う。
当時秀吉自らが宇喜多に恨みのある?伊賀と和議後も数回交戦した草苅とを特に警戒していたのが分かる。
抵抗を続けた岩屋城はこの書簡の指示通り周囲に10以上の陣城郡を築いて同年3月~年末まで完全包囲した。

1月11日付の安国寺恵瓊の書簡では
・美作は高田を除き引き渡す      ・高田・松山・児島は再度交渉
・備中内郡(中北部)を残し引き渡す  ・伯耆は八橋・三頭を除いて引き渡す
とあり、その後9月9日付の文書で伊賀与三郎が備後に移ることを了承している。
翌年(1585年)正月17日付の蜂須賀・官兵衛から井上春忠宛の書状(『小早川家文書』)では
備中内郡と八橋は譲るが備前の児島は引き渡せ、四国征伐後は伊予土佐を与える、とあって
3月に官兵衛が児島を受け取りに行っている。

『備前軍記』では久隆の急死と退城の後、伊賀家久は忍山合戦に参加、虎倉を出て(再び城にいたとも読める?)
備後三原へ、とあるけど備後へ移った時期は書かれてないから矛盾はしない。
ということで虎倉城が確実に長船氏の拠点になったといえるのは1584年9月以降のことでしょう。

689:人間七七四年
08/06/10 21:08:49 bIQydaKK
続き
児島の毛利拠点としては村上水軍の使った本太城が有名。
他には元亀年間に児島北西部に鼻高山城を築城、八浜合戦前頃には常山の東の麦飯山城を奪い、
備中との海峡にある天城を普請し、常山にも普請を命じている。
これらは本太を除き全て児島北側の中海沿い。
児島東部の高畠氏(小串城・高畠城など)は毛利氏に属していた時期もある。
八浜合戦後はよく分からないが児島全土が宇喜多のものになったのは>>688の通り1585年。
以上長々と主に『備前児島と常山城』からでした

美作国人の抵抗については草苅重継が後に記した身上書(『閥閲録』)によると美作の福田・中村・楢崎に加え
備中の多治部景治も味方したらしい。割譲の対象になっていた高梁川以東にいたためかな。
多治部氏は元々は備中北部の有力国人の一つだったけど落ちぶれて、景治の代で毛利家臣として功あって再興。
結局多治部氏のいる備中北部は安堵され、慶長期の分限帳では五百石未満の弱小国人で1595年没らしい。

690:人間七七四年
08/06/10 21:29:19 bIQydaKK
あと戸川秀安の水軍の件は当時の注進状があって村上水軍関係の本で見た気がするが史料名は忘れた。
武将の一覧はWikipediaにもあって、宇喜多家からは戸川秀安だけが参戦。
ただこの注進状は参戦した武将全員の署名があるわけではないとか書かれてた記憶があるから
他にも宇喜多家の武将がいた可能性は0ではない。

691:人間七七四年
08/06/10 22:00:25 NyVkEdK1
>>687-689
大変詳しくありがとうございました。
参考にします。本当に感謝です。

>>689
本太城は能島村上氏の拠点でよいのですか?
なんかどこかのサイトで1570年代は能勢頼吉の居城で、
宇喜多方として毛利方との戦闘が何度かあって撃退した、みたいな話があったのですが。
後に村上勢に奪われたとか、そういう事なのでしょうか?

>>690
一応、「水軍を率いて合戦に出た」という明確な資料があるのは
宇喜多では戸川氏だけ、という事でいいのでしょうか?
当然、資料に残らない海戦に出た人はたくさんいたのでしょうけど。

692:人間七七四年
08/06/14 16:10:21 IfPEZdes
幸村の兄と並んで秀家公は戦国最寿命やな

693:人間七七四年
08/06/14 16:59:03 QEVJPpqZ
>>692
上条政繁は?

694:人間七七四年
08/06/14 20:00:39 NEUkIJNY
相馬家臣の木幡氏は三代続けて80~90代まで生きてたような

695:人間七七四年
08/06/15 00:25:06 yazz+lvT
>>694
相馬盛胤からしてけっこうな長寿だったような

696:人間七七四年
08/06/15 01:05:51 lfWvJZbY
天寿を全うした長寿武将
スレリンク(sengoku板)


697:人間七七四年
08/06/15 23:10:10 QjFwCd4Y
関が原では実働部隊は東軍10万に対し西軍3万7千で、宇喜多勢は福島勢を
深追いできなかったそうですね。

押しながら他の武将が参戦するのを待っていたようですね。



698:人間七七四年
08/06/16 22:30:51 djhSQQJR
むかしどっかのスレで、
先手の明石が押し捲ってたけど、明石のほかに一軍を操れる武将がいなくて
二番手(本多政重?)との連動がうまくいかなくて押し切れなかった
ってのをどっかで読んだ気がする。
あと、福島勢が崩れたってたのを、加藤勢だったかが援護して持ちこたえたとか。
ソースは2ちゃんの戦国板だから、どこまで正しいかは知らん。

699:人間七七四年
08/06/16 22:35:33 Q6CSZCTg
>>695
松平忠輝って改易されなければ晩年は畏敬の目で見られてそうだなw
もはや伝説化した神君家康公の男子なわけで。

700:人間七七四年
08/06/17 15:27:35 31nNfoXg
なんかちょっといい話ってない?

701:人間七七四年
08/06/17 15:36:43 cV50AbuO
こないだ宇喜多直家が、雨に濡れた子犬を懐に入れて
抱きながら城に連れて帰ったとこ見たよ

702:人間七七四年
08/06/17 15:49:44 foD2SB8v
暗殺犬に育てるんだな

703:人間七七四年
08/06/17 23:11:22 nGwuOCeh
火薬背負わせるのか・・・。

704:人間七七四年
08/06/19 09:09:56 BADOASFa
暗殺ターゲットに遊びに来ない?って誘うだけでホイホイやって来るのだから、
魅力が相当高かったんだろうか。

705:人間七七四年
08/06/19 11:35:30 VjXf7yy9
そうなんだそれが不思議なんだよ

706:人間七七四年
08/06/19 21:50:55 uVjvLguC
ぜんぜん時代が違うけど、斉藤一は実際はボケッとした顔の結構だらしない奴で
だからスパイの標的になった奴も油断してて全然気づかなかったらしいじゃん。

宇喜多直家も実際もボケッとしたおっさんだったのかもね。
黎明期の頃は兵士を養うため自分達は一月に何日か食を抜いてたって逸話も伝わってるし
直家は意外と人当たりのいいおっさんだったのかもしれない。
だいたいゴルゴみたいに見るからに暗殺者のオーラはなってる奴だったら
相手も相当警戒するだろうし、そんなにがんがん引っ掛からないだろう。
そんな人の良さそうなおっさんが見かけに似合わずにバッシバッシ暗殺かましていくから
傍で見ていた忠家は、かえって兄貴が裏で何考えてんのかわかんなくってブルってたんじゃない?

707:人間七七四年
08/06/19 23:58:33 9inr3Rma
いざ暗殺って時に、周りが納得するような雰囲気に持っていくのも
恐ろしく上手かったんじゃないかなぁ。

708:人間七七四年
08/06/20 22:23:49 ifI6f9D6
娘や自分の姉妹をここまで暗殺の為の布石に利用した男は戦国でも直家ぐらいだろう。

709:人間七七四年
08/06/20 22:43:50 cA0x6aWy
>>708
暗殺ではないが、信長は自分の妹や娘の嫁いだ相手がことごとく非業の死を。

710:人間七七四年
08/06/23 05:19:55 /iXRhvGH
>>708
ということはかなりのキチガイだったということだな

711:人間七七四年
08/06/23 16:31:04 zFukd5NP
宇喜多直家は狡猾か
URLリンク(hiroshima.cool.ne.jp)


712:宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
08/06/24 23:26:56 1TNj0D2D
龍ノ口も微妙になってきてる

713:人間七七四年
08/06/26 18:39:50 zTioGuOz
明善寺合戦について調べるには何を読めばいいんでしょうか?

714:人間七七四年
08/06/29 04:01:50 XEL6J0EQ
備前軍記は時代考証ズレ過ぎの上にフィクション要素も多分にあるかもしれない困ったちゃん。
でも完成したの安永4年(1774)だししょうがない。

直家の部下の誰かがちゃんと誰か記録係やれば良かったのに。
後から軍記の記述が覆る記述が出るわ出るわでもうね。

715:人間七七四年
08/07/08 08:46:26 tf7GhFAB
宇喜多信者きもい

716:人間七七四年
08/07/12 00:32:14 Uhi7ySHc
地味に宇喜多忠家ってすごかったような気がする今日この頃

717:人間七七四年
08/07/12 11:53:02 MBY91XP8
>>716
小早川隆景と戦って勝ってるし
直家死後の宇喜多を事実上支えたのは彼だしなあ
御家騒動の後にすぐに隠居しちゃったのが悔やまれる。
この時にうまいこと家中を統制できてればなあ・・・

718:人間七七四年
08/07/13 01:03:58 FnA/Z03s
>>716
息子がアレなのが忠家の最大の弱点だろうなぁ

719:人間七七四年
08/07/30 15:02:15 m8sVus/z
直盛さんにも少しはいい所がありそうなもんだが。

720:人間七七四年
08/08/01 14:37:42 eDuSYAmA
>>719
小野寺義道の逸話とか

721:人間七七四年
08/08/10 11:42:44 pknMCE2d
毛利との戦で金星挙げたりと地味にいい働きの伊賀久隆を少々強引に消したのは
やはり自分の死期が近いのを悟ったからだろうか?

722:人間七七四年
08/08/19 19:31:29 Pe1Xyw2d
備前軍記はいくら軍記物とはいえ年代考証が適当杉て困る

723:「僕はロリコン」の節で
08/09/02 00:04:10 chIO2YhD
僕が好きなのは陰謀
妻はダメよとすがるけど
舅も構わずアサシン!
手の込んだ陰謀が好き
貫阿弥も暗殺
ヤバい匂いがする

ナ・オ・イ・エ!
僕は三郎
ナ・オ・イ・エ!
僕は危ないお兄さん

寺まで狙撃に行くよ
明禅寺で遊ぼうよ僕と
元常服を脱ぎなよ
岡はハニートラップなのさ
ほら触れてごらんよ
ピクピク動いてる(ハハハハハハ)

ナ・オ・イ・エ!
僕は三郎
ナ・オ・イ・エ!
戦国の梟雄

パパママごめんなさい(ah-han)
許して悪い子だよね
だけど…陰謀が好き

ナ・オ・イ・エ!
僕は三郎
ナ・オ・イ・エ!
僕は大悪人かもね
ナ・オ・イ・エ!
僕は三郎
ナ・オ・イ・エ!
戦国の梟雄(カモン!)


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