08/03/09 20:43:41 2SVlUhDI
大谷吉継(1559-1613)
豊臣秀吉の家臣、後に大名。
関ヶ原合戦直前に、親友三成の挙兵を思いとどめんと
説得を続けるが失敗、戦いでは決して家康に勝てぬと見た吉継は
家康を暗殺する事で豊臣家を救おうと決意、東軍に参加する。
やがて関ヶ原合戦後の家康と諸将対面時において
家康と刺し違える絶好の機会を得るが
目の前で>>125の黒田長政乱心事件が起こってしまう。
あまりの出来事に吉継は茫然自失の態だったと言う。
大谷家は恩賞として10万石の加増を受け、中堅外様として
幕末まで栄えるが、初代藩主の吉継は鬱々として楽しまなかった。
晩年は「こんな事になるのなら、佐吉と共に死ぬべきだった」
としきりに悔やんでいたという。
511:人間七七四年
08/04/12 12:29:08 EaUNJOJQ
512:人間七七四年
08/04/12 21:02:38 a+YJb+eS
1の明智幕府って何だ?
それを書くなら信長が光秀の謀反に気付いて回避した後の事を書けよ。
513:前スレ再放送
08/04/28 00:52:07 FUzGopFz
徳川家光【慶長9年(1604)~寛永10年(1633)】
江戸幕府二代将軍秀忠の長子として生まれるが、愚鈍気な外見を生母に嫌われ廃嫡、嫡
子の座を同腹の弟忠長に奪われる。
これを憂えた乳母福は駿府の大御所家康に縋って覆そうとしたが、目通り直前に家康が鯛
の天ぷらに食中りして死去したため果たさなかった。また、福自身も抜け参りを咎められて
斬首されている。
家光派はますます立場が悪くなったため守役青山忠俊を中心にクーデターを画策する。
秀忠夫妻を拘束して正室浅井氏を殺害、その間に諸大名に徳川の家督掌握を宣言して将
軍宣下の使者を迎えるという計画で、実働兵力として伊達政宗、藤堂高虎らを引き入れて
発動寸前まで行ったが秀忠夫妻を拘束しようと御殿の屋根に登っていた家光付き小姓松平
信綱が足を滑らせて転落、秀忠夫妻に捕らえられたため計画が発覚、家光派の譜代大名
・旗本の多くが断罪された。
一方、政宗らも無事新将軍に就任した忠長の「余は生まれながらの将軍である。不服な者
は征伐するので国許へ帰って戦支度せよ」という恫喝に「そのような者、政宗が先鋒として
退治してくれましょう」とヘタレなおべんちゃらを言って逃れようとしたが、後に連判状が発見
されると改易・切腹となったがその様はまことに見苦しく、「見苦しく恥ずかしい男」を意味す
る「伊達男」という言葉の語源となった。
そのため、家光は高崎藩にお預けとなるが、この元和の政変(元和9)の際の負傷で翌年秀
忠が急死すると将軍忠長は新たな叛乱を防ぐために家光に切腹を命じた。
なお、この時同時に高遠城主保科正光の養子に切腹が命じられているがその理由は定か
ではなく、後世の歴史家の想像をかきたてている。
[北条氏直](1562~1610)
氏政の子。江戸幕府初代将軍。
1589年、豊臣秀吉の命に従い上洛。
上野国の一部を没収されるも、ほぼ所領を安堵される。
その後、東北に転封になった徳川家康
上杉景勝・毛利輝元・前田利家らと共に五大老に就任。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍と対陣。
別働隊を率いた父・氏政が中仙道で真田昌幸に釘付けにされるも
義父・徳川家康の助力により、西軍を撃破。
1602年、征夷大将軍に就任。本拠地を江戸に移し、江戸幕府を開く。
1610年、鶴ヶ丘八幡宮に参詣した帰途に落馬、落命す。
尚、氏直の死亡については、執権・徳川家康、秀忠親子による
暗殺説が今も根強い。
514:人間七七四年
08/05/03 01:50:40 ClAx8LQd
※お礼に行った板
狼、ダウソ、FFDQ、鳩、ジャニーズ、HRHM、蟻
※まだの板
歴ゲー、国内サッカー、なりきりネタ、市況
515:人間七七四年
08/05/04 13:54:57 NX1pvKnn
武田信勝(1567~1634)
武田勝頼の嫡男。甲斐武田氏第21代当主。
父の勝頼は信玄の庶子で諏訪氏を継承して高遠城主となっていたが、同年には武田家の嫡男義信が謀反の疑いにより幽閉され廃嫡される義信事件が起こる。
1579年に元服し、守役に温井常陸介が任命され、御曹司衆(信勝衆)が付けられた。
高遠城で育ち、元亀2年には勝頼と甲府の躑躅ヶ崎館へ移る。
元亀4年には信玄が死去するが、『軍鑑』によれば信勝は武田家の正嫡として成人するまで勝頼が陣代を務めるように言い渡されたという。
1582年、織田信長の甲斐侵攻によって新府城に危機が迫ると、同城での徹底抗戦を主張する父・勝頼を見限り、
温井常陸介、信勝の師・土屋昌恒、御曹司衆や、信勝の親友・真田信繁(幸村)らと共に、御館の乱以後、密かに内通していた上杉景勝を頼り、越後へと落ち延びる。
景勝は信勝らを武田家の正当な跡継ぎとして、手厚く歓迎したという。
1585年、信繁の父、真田昌幸の居城、上田城が徳川・北条連合軍に攻められると、信勝、信繁は上杉景勝より兵を借り、自ら軍を率いて昌幸を救った。
これを切欠に反攻を開始し、1588年、遂に徳川・北条軍を追い出し、甲斐、信濃を平定。武田家再興を成し遂げる。
その後間も無く北条氏と和睦している。
516:人間七七四年
08/05/04 13:55:30 NX1pvKnn
1590年、東国に侵攻する動きを見せる豊臣秀吉に対抗すべく、武田、上杉、北条と、この頃勢力を伸ばしつつある伊達氏による四者同盟が締結された。鉄の四ヵ国同盟の始まりである。
1594年、嫡子信虎が産まれる。武田氏の通字「信」と、上杉景勝の父・上杉謙信の旧名、長尾景虎から「虎」を賜った。
同年、豊臣軍が北条氏本城、小田原城へと攻め込んで来ると、兵糧攻めなどで苦戦するも、見事連合軍が豊臣軍を撃退する。
1598年、豊臣秀吉が死去すると、家督相続を廻って豊臣方は揺れる。
これにより反戦ムードが高まり、1600年、武田信勝を総大将とする東軍と、徳川家康を総大将とする西軍が関ヶ原にて激突する。
真田昌幸、片倉景綱らを失うなど損害も大きかったが、徳川家康を討ち取った事で西軍は総崩れとなり、見事東軍が勝利を治める。
武田信勝は四ヵ国同盟の盟主であり、また源氏の末裔である事から征夷大将軍となり、1603年、江戸幕府を開いている。
1624年、将軍位を信虎に譲り、自身は躑躅ヶ崎館に隠居。1634年に死去している。
517:人間七七四年
08/06/21 16:43:36 QL6+jT2Q
高山長房(1552~1615)
高山右近は、1552年摂津国に生まれ、64年頃キリシタンに改宗、ユストと命名
される。73年高槻城城主、さらに85年には播磨の国の領主となり明石に居城を
置く。しかし、87年に発布された伴天連追放令の一年後に金沢へ身を引き、キ
リシタンの教えに専心する。
93年、朝鮮出兵中の秀吉は、マニラ総督府を「支那に至ればルソンはすぐ近く
予の指下にある」と手紙で恫喝して朝貢を要求するも、総督府は要求に応じな
かったため、秀吉は台湾王:亀井茲矩を先鋒大将とし、豊臣勝俊を総大将、副
将を高山右近・内藤如安とする総勢15万5000人のマニラ討伐軍を派兵した。
しかし、朝鮮出兵中のため派兵の人員確保は困難を極め、秀吉は九州・四国の
すべての15歳から60歳の男子を強制的に徴募した。そのありさまは「村に残っ
た男子は僧侶のみで嘆かわしい」といわしめるほどであったという。
また、総大将の豊臣勝俊は秀吉から呂宋関白の朱印状を下賜されながらも、こ
の派兵に反対して天川(現在の香港)で勝手に戦線を離脱するというお粗末な
有様で、早くも厭戦ムードが高まっていた。
総大将は高山右近が「陣代」としてつとめてマニラに上陸するも、マニラ沖
の海戦で兵糧・武器の多くを失い、上陸後は疫病で多くの兵が倒れた。
キリシタンである右近は如安と相図り、戦う前に兵糧の提供と兵士の助命を
条件にマニラ総督との間で和睦を勝手に結んだ。
一方、先鋒大将亀井が率いる2万5000人はダバオに侵攻していたが、右近は亀
井を軍議にかこつけて呼び寄せ捕縛した。
亀井は「太閤殿下に王侯に任ぜられた厚恩もだし難し」といい残し慫慂と切腹
したという。マニラ総督府は異国の者なれども同宗の者は本国の許しなく殺す
ことはできないとして、兵士を日本に送り返したのち、高山・内藤を助命しセ
ブ島に追放した。
なお、右近の棄戦に激怒した秀吉は、再度ルソン征伐軍の派兵を決定するも、
秀吉の死により実現はしなかった。
のち、罪を許された右近は如安とともにセブ島の副総督に任命され、右近
は1608年にマニラ総督にまで累進した。なお、右近の後任の副総督は山田
仁左衛門がつとめている(彼の子・長政は六昆王として著名である)。
1615年2月4日夜半、マニラ市民に惜しまれつつ、イントラムルスで帰天。
518:人間七七四年
08/06/21 18:18:27 u8y39cUn
ヤスケ(?~?)
元々は宣教師ヴァリニャーノに仕える奴隷であったと言われている。天正9年(1581年)、
ヴァリニャーノが信長に謁見した際に連れていた奴隷。
信長は、ヴァリニャーノへ要望して献上させ、そのまま直臣になったと伝えられている。
年齢は26・7歳、身長は6尺2分(約182.4cm)であったという。
信長は彼を「ヤスケ」と名づけ、武士の身分を与えて家臣とし衣食住不自由がないように
取り計らわれた。
ヤスケは投げ槍を得意とし、視力は4.0あったといわれ、甲斐平定戦では大将の小山田備中を
約800メートルの距離から槍を投げて討取る殊勲をあげた。
その際光秀が「かのくろやっこ(弥助のこと)の投げ槍は犬槍にて卑怯なり」と抗議したのに
対して、信長は光秀を足蹴りにしたとの記録が残っている。
弥助を激賞した信長は自ら着用していた真紅のビロードマントを褒美として与え、近江坂本
5万石の大名に抜擢した。これは光秀へのあてつけとの説が近時有力である。
他方、もともと「黒人は動物であって人ではない」と弥助の出世をねたむ光秀は本領を取り
上げた信長の措置に対して大きな不満を抱き、6月2日に弥助が滞在する京都の南蛮寺を13000
の軍勢で囲み弥助の引き渡しを宣教師に要求した(南蛮寺の変)。
このときの宣教師バリニャーノが引き渡しに応じたときの「是非には及ばず」のセリフはあま
りに有名である。
ところが、明智軍の兵卒が誤ってとなりの本能寺に放火したため、信長は明智の謀反と勘違い
し、日本の3代悲劇の1つとなる「本能寺の変」が勃発した。
そして、肝心の弥助はそのどさくさに行方不明となった。
だが、17世紀にモザンビークにてオダヤスケと名乗る人物がポルトガルと戦い続け、日本式
の砦を築いて立てこもり、最後まで降伏せずに徹底抗戦するも、仲間は全員逃がしてオダ
ヤスケなる人物は 砦の中で一人割腹して死んでいたという記録が近時発見された。
オダヤスケは赤いビロードマントがトレードマークと言われているのので、この男こそ
その後の弥輔ではないかと言われている。
519:人間七七四年
08/06/23 12:23:25 UV0OZDo+
徳栄軒信玄(1521~73)
土木建築家。甲斐の人。俗姓は武田、諱は晴信。
甲斐国の守護大名武田信虎の嫡男として生まれるも、弟・信繁を
偏愛する父に甲斐国を追放され今川氏の許に身をよせた。
のち各地を放浪するも、建築の才能を発揮した。中でも水利堤防
建築にその才能を開花させ、各地に「信玄堤」と呼ばれる優れた
堤防を建築した。また、築城術にも優れ「人は城・人は石垣」と
いう有名な言葉を残している。
信玄堤の遺構がいくつか現存しているが、彼の建築技術は現代で
も摂津の安井道頓と並び「西の道頓堀、東の信玄堤」と評価され
ている。
彼自身は生涯甲斐への帰国がかなわず、信濃駒場にてその生涯を
終えた。
なお、江戸時代には城のお堀に菱の花を植えることが多かったが、
これは武田家の家紋「武田菱」にちなみ信玄を偲んだことに由来する。
520:人間七七四年
08/06/23 12:24:57 UV0OZDo+
大日坊咲庵(1528~82)
連歌師。美濃の人。俗姓は明智、字は十兵衛。
若年の頃は山崎宗鑑に師事して、その後は全国各地を巡って
してさまざまな公家や連歌師と交流をもち、元亀年間に近江
坂本に庵を結んだ。
しかし、近江の領主・織田信長の招きには応ぜず、連歌仲間
の丹後の細川藤孝のもとに身をよせた。一説には、故郷美濃
の侵略者である信長を嫌悪していたという。
天正10年に土岐旧臣安藤守就が謀反する直前に愛宕山百韻に
招かれ、土岐旧臣である安藤の決起をうながす、
「ときは今 雨が下なる 五月かな」
との発句を詠んだのは有名である。
しかし、安藤の謀反は未遂に終わり、咲庵は信長から謀反の
共謀をした者(同時の記録には「今度謀反随一」とある)と
して磔刑に処せられた。
彼と公家との交流は深く「晴豊記」・「兼見記」などに残さ
れた彼の連歌は、現在の俳句研究家の貴重な資料となっている。
521:人間七七四年
08/06/23 12:26:34 UV0OZDo+
木下道糞(1536~98)
尾張の人。織田家臣。諱は秀吉。
軽卒の出身であるといわれるが、機知に富むところを気に
入られて織田信長に仕官し抜擢された。
なかでも、城の塀の修理を期限内に普請した逸話、墨俣に
一夜城を築いた逸話はよく知られる。安土城の作事奉行に
も起用され、その功により尾張岩崎城主となる。
しかし、天正8年に、林秀貞・佐久間信盛・安藤守就ととも
に突如信長に追放された。
追放の理由は定かではないが、天正8年4月に鷹狩に出た信長
が、近江の伊庭山において目の前に突如大石が落石するとい
う事故に遭遇したという。山上で秀吉の家臣が普請していた
のである。幸い事故にはならなかったが、信長はこの事故に
ついて秀吉を深く恨んでいたという。
追放後は秀吉は高野山に上って隠棲するも、本能寺の変後に
罪を許されて織田信雄に仕官し、旧領を回復したという。
また、一時は織田家重臣の柴田・丹羽にあやかり羽柴の姓を
用いていたが、追放の際に恐れ多いということで旧姓の木下
に復した。隠棲後は木下道糞と名乗るも、これは自らを卑下
したものと言われる。
522:人間七七四年
08/06/23 12:28:45 UV0OZDo+
織田信長(1534~82)
男色家。尾張の人。弾正忠。
尾張国勝幡城主・織田信秀の嫡男であったが、若年から「うつけ者」
といわれるような奇矯なふるまいが多く父から廃嫡され、以後は実弟
・信勝の家臣となった。
廃嫡後は「国色無双」と言われた美貌を武器に、信勝の小姓である
丹羽万千代、前田犬千代、万見仙千代らと相次いで男色関係を結んだ
(この3名を「三千代」という)。
以後、信長は三千代とともに、男色を「衆道」という芸道に体系
づけた。
衆道とは、一定の礼式で相手の男性を吟味・鑑賞する芸道をいい、
享楽的な男色を芸術にまで昇華させ、東海地方を中心に衆道文化
が花開いた。
当時来日していたフロイスは、キリスト教の教えに反する衆道を
蛮風であると嫌悪し、衆道を広めた信長を「ルシフェルである」
としたが(「日本史」)、のちその芸術性を再評価し、1582年
ローマ教皇への使節として三千代を派遣することを決定した。
しかし、同年に本能寺の変で織田信勝・信澄親子が弑逆され、
この計画は幻に終わったという。また、信長は男色相手の小姓・
森乱丸が本能寺で討死したのをはかなみ、琵琶湖に投身自殺した。
江戸時代の浄瑠璃では彼を主役とするものが多く、戦国時代の
三弾正の1人である「色弾正」として著名である。
参考文献:「信長*記」
523:人間七七四年
08/06/23 12:29:56 UV0OZDo+
北条菊寿丸(1493~1500)
相模の人、北条早雲の三男。実名不詳。
箱根権現別当金剛王院主。生来病弱なため仏門に入るも8歳で夭折した。
法名は幻庵と伝わる。
朝倉小太郎(1477~1491)
越前の人、朝倉孝景の末子。実名不詳。
加賀の一向一揆との合戦で討死、主君・朝倉貞景は小太郎の初陣での戦死を嘆いたという。
法名は宗滴と伝わる。
524:人間七七四年
08/06/24 16:48:15 dk2ugTZ3
OH!くん
()
岡山放送に住む伝説の猫。OHK岡山放送内部では社長よりも地位が高く、社の稼ぎの7割が彼によるものとされる。
褌一丁で社内を放浪する癖がある。
無口だが、時々「オー」と鳴く。
ひこにゃんが最大のライバル。
岡山・香川の両県では、サンリオのキティちゃんやディズニーのミッキーマウスよりも人気がある。
525:人間七七四年
08/07/26 14:09:56 fmDbp6i4
日本人と韓国人では恥と感じることが違うんだよ
日本人は嘘をついたり卑怯なことをするのを恥と感じるけど
韓国人は負ける事を恥と感じるから、負けないためには嘘も卑怯な行為も平気でする
526:人間七七四年
08/07/30 12:26:21 0mvuHpr/
小島貞興(1522?-1582?)
上杉家臣。通称弥太郎。
長尾為景の側近だった頃から智謀に長け、主に智の面で謙信を助ける。
川中島合戦では信玄自慢の獰猛な飼い犬を周到な下準備をして逆に飼い慣らし、
上洛した謙信に対して将軍義輝が獰猛な猿をけしかけようとした際も
得意の頓知で切り返して義輝を唸らせるなど多くのエピソードが残っており、
越後地方では今でも「越後の一休」「知恵小島」などの愛称で親しまれている。
しかし貞興に関するエピソードの多くは後世に創作された軍記物や
子供向けの民話でしか確認できず、存在自体が疑われている向きもある。
直江兼続(1560-1600)
上杉家臣。樋口兼豊の子だが主君景勝に見込まれて直江家を継ぐ。
謙信の小姓も務めた兼続は戦略眼に優れ、当時不安定だった越後を完全に平定し、
その卓越した才能は時の天下人であった豊臣秀吉にも愛されて
豊臣政権下では陪臣の身でありながら三十万石の大禄を拝領する。
1600年、関ヶ原の戦いが勃発すると上杉家は伊達・最上連合軍と戦うことになる。
猛将であった兼続だが奮戦虚しく連合軍の前に敗れ去り、
退却途中に負った傷が元で間もなくこの世を去る。
戦後、上杉家は改易こそ免れるが石高を四分の一に減らされて兼続の領地であった米沢に転封される。
この転封で財政状態が急激に悪化した上杉家はその後も持ち直すことが出来ず、
無理な年貢の徴収など圧政を布いて二代将軍秀忠の時代に米沢百姓一揆を招いてしまう。
景勝は責任を取らされる形で改易され、大名家としての上杉家はここに途絶えることとなる。
配流された上杉景勝は「兼続が居れば未来は違っていたかもしれぬ」と語ったというが、
同じケースで財政を再建した毛利家の領地に比べて米沢が過酷な自然環境であったこと、
また兼続が関ヶ原の際に家康を手酷く挑発していたことなどから、史家の間ではたとえ兼続が
江戸時代まで生存していようともこの事態は避けられなかっただろうというのが定説である。
527:人間七七四年
08/08/09 02:14:17 Sal+PUjt
北条 政成(1559 - 1611)
北条綱成の孫で北条康成の次男。
父と兄の死後、玉縄北条氏の家督を継ぐ。1590年の小田原征伐の際は初め山中城に篭城するが落城、
政成は落城前に脱出し、本城である玉縄城へ戻り再び籠城する。
その後玉縄城は徳川家康に包囲され開城、以後徳川家に仕え岩富北条氏の祖となる。
528:人間七七四年
08/08/09 04:13:01 OfCK4oOP
氏勝と違う人?
529:527
08/08/09 23:51:50 Sal+PUjt
同じ人です。
康成→氏繁の改名がなく、その後も玉縄北条家当主の名が宗家当主の一字+成だったらという流れです。
政成(氏勝)は氏政の「政」+玉縄家の通字の「成」という感じで。
530:人間七七四年
08/08/29 19:47:29 BRLySIW3
みんな乙!