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黒田 長政 永禄11年-慶長5年(1568-1600)
豊前中津城主。父は黒田孝高。
朝鮮遠征では五奉行の石田三成や小西行長らと対立し、
秀吉死後は五大老の徳川家康に接近する。
慶長5年(1600年)に家康が会津討伐の兵を起すと出陣し、
東軍武将として関ヶ原の戦いに参加、活躍する。
調略においても西軍の小早川秀秋ら諸将の寝返りを工作し、
東軍の勝利に多大な貢献をする。
戦後、家康が長政の功労を讃えて右手を手にとった瞬間、
突然左手の脇差で家康を刺し殺す。
長政はその場で徳川家家臣によって斬殺された。
父の孝高さん(享年54歳)は長政乱心の責をおって切腹。
ここに黒田家は断絶した。
乱心の原因は不明。被害者の家康さん(享年57歳)もなぜ刺されたのか
わからないと不思議に思いながら死亡したという。
長政には筑前52万石が与えられる予定であった。
なお3年後、秀忠が征夷大将軍に就任し徳川幕府が開かれた。