凡将を名将のように説明するスレ3at SENGOKU
凡将を名将のように説明するスレ3 - 暇つぶし2ch232:人間七七四年
08/03/04 18:49:32 7tvtHBBZ
有馬 義貞 (1521-1577)

父の晴純から家督を相続し、幕府の相伴衆を務める。
先見の明があり、南蛮の力に目をつけた義貞は領内でキリスト教布教を許可した。
しかし、父晴純はこれに従わずに対立。家臣団も分裂した。
さらには竜造寺氏や大友氏から圧迫を受け、窮地に立たされた。

そんな中でキリスト教を家中に布教し有馬家をまとめ、
貿易による国力増加によって失った領土の分を帳消しにした。
劣勢の中でも家をまとめた義貞について、かのルイス・フロイスは
「詩歌に造詣深く、書道に巧みで、為政者としては老練慎重かつ賢明である」
と著書の『日本史』に書き残している。

義貞がよくまとめた有馬家はその子晴信の代に宿敵竜造寺氏を撃破。
豊臣家の九州征伐にも参加し本領を安堵している。
孫の直純の代では改易されるも奇跡的に復活した。
逆境の中でもその才幹で家を保った有馬義貞。
その一族ゆえに豊臣・徳川政権下でも生き延びることができたのだ。

233:人間七七四年
08/03/09 18:50:06 ZdQgTE3V
織田信邦…勤王を家訓とする名門織田家に生まれ、国持ち大名に準ずる待遇を受ける。
戦国最大の大名だった先祖信長の血を受け、兵法家や将棋棋士と交流し、
江戸城攻撃の議論に日夜興じた。
幕府にその才能を警戒され、左遷された後は、隠居ながら藩政改革に乗り出し、
将棋駒の技術者を上杉より派遣してもらい、今日の天童名産品の礎となった。

234:人間七七四年
08/03/09 19:17:04 ZdQgTE3V
堀尾忠氏…豊臣三中老の一人茂助の嫡男。
30歳以上も年上の山内一豊から相談役として敬われ、
関ヶ原では領土を城ごと家康に献上するというアイデアを思いつき、
かつ山内にアイデア横盗りすれても怒らなかったという大人物。
家康も抜かりなく堀尾を山内以上の二カ国の太主に抜擢した。
松江城には堀尾家の築城の才能が発揮され、今日も観光客で賑わっている。

235:人間七七四年
08/03/09 20:07:57 ZdQgTE3V
(逆)立花宗茂…城付き娘に頭が上がらなかった駄目亭主。
勝ち目の無い戦に籠城徹底抗戦を主張した戦略眼の無さは味方諸将を呆れさせた。
敗走の途中で仇の島津と出くわすも腰が抜けてしまい好機を逃す。
改易の際には多くの領民が惨めな姿を見に現れ、元領主に直接声をかけるという無礼な振る舞いに及んだ。
浪人時代には乞食同然の暮らしをしているのに家臣が粥を出すと激怒した。
あげくの果てに敵だった徳川にペコペコしてゴマをすり、大名に帰りざき、世間から「三成どのはあの世でさぞや良い味方を持ったと喜んでいるだろうよ」と物笑いの種となった。

236:人間七七四年
08/03/16 15:28:13 rugaeMnM
大崎義直 ?~1577
大崎家第12代当主。新井田頼遠の反乱が起きると、大崎家単独でこの乱世を乗り切るのは難しいと判断し、隆盛を誇った伊達稙宗に従属し、家名を保とうとする。
だが、稙宗の子・義宣が大崎家に入り、乗っ取りの危機を迎える。やがて天文の大乱が勃発するが、義直は義宣を敵として討ち、禍根を絶った。
それでも、伊達家は大崎家を併呑しようと、手先の葛西家を大崎家を戦わせる。だが、それも切り抜け最低限の独立を保つ。その一環として子・義隆に家督を譲り、名門大崎家はまだ朽ちていないことを内外に示した。
1577年、義直はついに逝った。名門の誇りは子・義隆にも受けつがれ、伊達政宗を一度は撃退している。だが、その後ついに大崎家は伊達の門前に馬をつないだ。
それはあたかも、蜜蜂の最後の一刺しにも似た名門の意地だった。

237:人間七七四年
08/03/17 00:57:04 B1w2zBNL
大崎義直って凡将なのか名将なのかようわからんわな

238:人間七七四年
08/03/17 07:31:13 njktPbZo
>>236


すげーうまい。

感動した。

239:人間七七四年
08/03/18 18:50:02 HMsWjkRb
今度は名将を凡将化 PART1
織田信長 1534~1582
信長は後年の広大な版図から、相当な傑物であると思われているようだが、実はそうではない。以下に真相を紹介しよう。

母親から疎まれ、十代は本当の不良少年であった。馬鹿なふりをしていたと言われるが、憶測に過ぎない。教育係・平手政秀の手を大いに焼かせた。
そういう状況だったので政秀は信長や織田家の将来を悲観し、1553年、ついに腹を切り諫死した。信長はこれをひどく悲しみ、ある程度はまともになった。

同年、正徳寺で舅・斎藤道三との会見が行われる。信長は「正装なんて面倒くさいよお」と思い、道中はいつもの「うつけスタイル」であった。道三は秘かに信長の身なりを見た。
この無礼者には略装で十分、と道三は思いこんでしまった。一方、信長は正徳寺に着くと「こんな正式な会見の時くらい正装しなければ」と思い直し、正装に着替えた。やがて会見の時間を迎えた
道三は、信長の正装を見て気まずく感じた。
どうみても自分のほうが場違いである。道三は不安になった。「信長はうつけでは無い。うつけを演じられる相当な切れ者だ。この男には、儂の子や孫では太刀打ちできぬ。斎藤家は織田の門前に馬をつなぐであろう」と。
信長はうつけの姿をあえて晒し、道三を油断させ、会見の場で正装することで道三を圧倒したと言われている。
だが、真相は信長の気まぐれにすぎなかったのだ。道三は策謀家であったが、それが却って信長がとてつもない傑物だと誤解させたのであった。

1560年、今川義元が西進し、上洛の途上にある織田家を滅ぼそうとしていた。
信長は義元を桶狭間にて奇襲したとか、情報を最大限に活用したとか言われている。だが、実は信長は半ば絶望していた。今川は父以来の宿敵。命乞いなど通用しないと考えたからだ。
信長は、もはや自暴自棄になって小姓数人と共に数騎で駆けだした。家臣達もそのうち気づいて、あとを追った。
織田軍は桶狭間山の付近に到着した。見ると、今川軍が陣取っているではないか。信長はそこへ猛烈な勢いで駆け上がった。家臣らあとにも続く。
信長はあまりに動揺しており、我を忘れていた。だが、今川軍はその鬼気迫る表情に圧倒された。
そうしている中、信長も訳がわからないうちに今川義元が討ち取られた。
巧妙な奇襲や諜報活動ではなく、まったくの僥倖によって桶狭間の戦いで信長は勝利した。

240:人間七七四年
08/03/19 02:55:42 DOiy+owm
>>239
ちょっと凡将には無理がある
これだけ運があるなら十分名将扱いされてもおかしくないわ

241:239
08/03/19 08:17:45 VpIjPsx9
>>240
うーん、やっぱ無理か・・・
凡将を名将にするより、名将を凡将にするほうが難しいな・・・下手すればただのアンチになるし・・・

242:人間七七四年
08/03/19 09:55:40 wRbiGS7l
伊達 政宗
生誕 永禄10年8月3日(1567年9月5日)
死没 寛永13年5月24日(1636年6月27日)

陸奥仙台藩の初代藩主。独眼竜の勇将として知られるが実は
自身が片目であることに深いコンプレックスを抱いており、死後
つくられた木像、肖像画を両目にするよう遺言で徹底するほど神経質な人物。
また、短慮ゆえの失態も数多い。畠山義継への5カ村以外残り全て改易という処遇は
父・輝宗の拉致・殺害事件にまで発展。大内定綱討伐の際の小手森城の撫で切りは
その残虐性ゆえに他の奥州諸将の不審を招き伊達家をより苦境に立たせた。
当時、天下をほぼ手中にしていた関白豊臣秀吉の私戦禁止命令を無視し芦名氏を滅ぼす。
時節を読めぬこの判断が小田原参陣の際に伊達家中を割り、あわよくば存亡の危機に陥った。
大崎、葛西の一揆扇動を裏で扇動するも失敗。証拠不十分としてかろうじて処罰を免れるも
先祖伝来の地からの国替えという恥辱を受ける。関が原の際はそれらの所領を復帰させるお墨付きを
得るも、南部領での蜂起扇動の疑惑により約束は保護。ここでも同じ過ちを犯し100万石を得る好機を
みすみす棒に振る。他にも禁経令への幕府の動きを読めないままでの支倉常長の派遣。
娘婿の松平忠輝の改易の一件など、目先の利益にとらわれて失態を犯す先見性に疑問符のつく判断が多い。
一時は若干23歳にして150万石の太守となる武勇を誇りながら結局、60万石程度の一大名に納まったのは
ひとえに彼の後先を考えぬ短慮によるものである。

243:人間七七四年
08/03/19 09:58:24 wRbiGS7l
>>239
実際、桶狭間はそんな感じだったらしいな。最近の説だと。

244:逆シリーズもう一個
08/03/19 10:34:21 wRbiGS7l
武田信玄 生誕 大永元年11月3日(1521年12月1日) 死没 元亀4年4月12日(1573年5月13日)

戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。後世において神将の如く賞賛されるがこれは江戸期に創られた虚像である。
そもそもその治世において彼は有力諸豪族に担がれた神輿である。豪族連合の盟主にすぎない武田家の構造改革を自身の
代で為す事のできなかったつけは次代において武田氏の滅亡となって現れた。戦上手といわれるが実際は敗戦も多い。
勢力的には遙かに格下の村上義清相手に敗戦を重ね、隣国の長尾氏の介入も招き、信濃一国の平定に20余年を費やす
その外交戦略にも疑問が呈される。甲・駿・相の三国同盟を破棄した南進政策は家中にも嫡男義信の廃嫡事件を引き起こす。
この一件が一族・家臣団に生んだ亀裂は後世の甲州崩れの主要因となっている。また不和となった北条氏との戦いに明け暮れるうちに
天下の趨勢が織田氏に傾いていくのをみすみす見過ごした。信長包囲網にもどちらかといえば信長よりの日和見の態度をとりつづけ
各勢力がほぼ各個撃破されかかる頃合でようやくして参戦しておきながら、豪雪で動けぬ朝倉氏を詰るという理不尽な態度も示す。
三方ヶ原において大勝を収めるも家康を打ち洩らす。この爪の甘さもまた後に禍根を残し、行軍中病に倒れ、後継体制を整えず逝去。
死後、彼の残した数々の火種が爆弾のように武田家を苛む。彼の後世における有名は三方ヶ原で彼に敗北した家康が貶められない
ようにという江戸幕府あげてのヨイショと徳川家に仕え生き残った旧武田家家臣によるプッシュのためである。

245:人間七七四年
08/03/20 14:39:06 UQFZBQ4h
>>239
>馬鹿なふりをしていたと言われるが、憶測に過ぎない。
最近の学説でも、うつけを演じていたというのは否定されつつありますね
後年の「かぶき者」ぶりから見てもそのへんは説明できそうですが

246:人間七七四年
08/03/21 13:35:12 vAoeF/80
武田義信(1538~1567)
甲斐の大名、武田信玄こと晴信の嫡男として生を受けた。
彼の周りには幼い時より飯富虎昌ら、武田の重鎮がそばに居り、強く影響を受け育った。
彼は始め内政面で才覚を現し、千曲川の治水など、多くの事業に携わっている。
また、今川義元の娘を妻として迎え、外交面でも駿河と甲斐の架け橋となった事は言うまでも無い。

彼の家中の人望を示すエピソードとして、川中島の戦が挙げられる。
上杉軍によって布陣が崩壊寸前にまで至った状況で、彼は苦肉の策として自ら敵陣に飛び込み、上杉軍の注意を引いた。
この動きをみた武田軍は義信を援護しようと再び体制を立て直す。
こうして上杉軍の猛攻を凌ぎ、川中島では一応の勝利を収めたことは良く知られている。

しかし、彼の清廉潔白な鎌倉武士のような生き様は、父信玄には理解されなかった。
そもそも信玄は策略などを得意としており、義信とは全く違うタイプの人間であった。
次第に義信は信玄の非道な戦略に疑問を持つようになり、決意する。

かつて信玄が行ったように、自分も信玄を追放する。
自らが最も信頼を置く虎昌を中心に、家臣団に檄を飛ばすが、やはり策略は信玄が上手だった。
義信をあらかじめ監視しておくことで、義信の先手を打ったのだ。
頼みの虎昌も切腹に処され、進退窮まった義信は、嫡男の座を弟勝頼に譲り、
自らは自害した。

かくして武田家はひとつにまとまり、その後信玄の上洛につながっていく。
その後の歴史は知られているが、もし勝頼でなく義信が順当に家督を継いでいたら・・・?
日本の歴史は大きく変わっていたであろうことは、言うまでも無い。

247:人間七七四年
08/03/23 00:25:34 NEMro0+s
>>246
この構図、平清盛と嫡男小松殿(重盛)にそっくりだな。

248:人間七七四年
08/03/24 13:08:04 ZShpsIPu
>>242
史実と違わないような気がしますが、気のせいでしょうか?

249:人間七七四年
08/03/25 16:50:06 UcD4Yaji
>>248

イダテ厨はキエロ。

250:人間七七四年
08/03/25 20:02:31 1PFDV0NA
どうした、気が狂ったか?

251:人間七七四年
08/03/29 21:49:39 +7AmbPtu
イタチ政宗とはまた小物臭がするな。

252:人間七七四年
08/08/15 11:20:04 GGhf+7vv
織田信長(1534-1582)
日本で初めて金平糖・バナナを食し、ワインを飲んだ戦国武将。
天下を食べきれず腹が割けて死亡したと言われる。


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