凡将を名将のように説明するスレ3at SENGOKU
凡将を名将のように説明するスレ3 - 暇つぶし2ch59:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/24 21:14:55 w+eZpwYz
つまらん、名将をこき下ろすのは簡単、誰でも出来る芸。
凡将とされている(真実はともかく)のを名将として解説して、新しい発見があれば楽しいが・・・。


60:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/24 22:43:14 73xr+Q2g
57 59 (共に生没年不詳)

凡将を名将のように説明するスレにおいて悪しき伝統となっていた、
名将を凡将のように説明する行為に対して毅然と立ち上がった義憤の士。
自らネタを書くわけでもなくただ批判のみ行うその姿は一見滑稽にも見えるが
これは「将たるもの軽々しく自ら先陣に立つべきではない」という深い思慮あっての行動である。

61:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/24 22:55:09 w+eZpwYz
>>60

そこもとの評価の視座はともかく(たぶん当たってるが)

>>57>>59が、ここの住人をして唸らせる(もしくは唾棄させる)職人
だとしても、そのような評価に過ぎないのか?? せっかく書いてきたのに、つまらんなぁ。バカじゃねぇの??



62:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/24 23:06:19 w+eZpwYz
ついでに、>>61

>>23>>30>>49

俺が一生懸命に頑張ったんだよ!! いろいろと、スマソ・・・。あばよ!

63:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/25 03:01:37 LZY0FIBa
>>23はよかったよ

64:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/25 03:26:46 aG5gTzYh
>>63

あんがとよ・・・
さッ、寂しい・・・。>>62より・・・。

65:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/25 13:15:29 9PgVMkoF
今更かもしらんが、>>50に同意。
とりあえず回線切って(ry

66:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/25 15:43:04 byeHStA3
北条氏政 ~第一章~

北条家の四代当主。
父である氏康時代の相越同盟を無用と判断し、武田家と再同盟を結ぶ。
この同盟が功を奏し、関東に専念できた。水運の拠点関宿城をとり、宿敵里見を従属させる。
御館の乱が起きると氏邦・氏照らを派遣。武田にも援軍を要請する。
しかし、景勝が上野を譲るという条件を出し、武田は景勝側に。
氏政は怒り重須で戦いを挑む。この一戦では決着が付かなかったが、武田崩壊の序章となった。
真の同盟相手を求める氏政は信長と同盟を結ぶ。そして武田家討伐に乗り出したのだが、
織田家が北条家を恐れて武田軍の情報を隠した為、北条軍は苦戦した。
武田は滅び、駿河は徳川、上野は滝川一益、甲信は信忠が支配した。
織田家は天下をとったかに見えたが本能寺にて信長は死亡。
これを見て氏直を上野に派遣。滝川軍を打ち破り上野を手に入れる。
さらに真田氏・小幡氏を懐柔し信濃でも優勢に戦を進める。
甲斐に兵を進めた徳川は信濃奪取を目論み真田氏を調略。兵を小笠原領に進める。
これにより信濃を巡って徳川と北条が対立するのであった・・

67:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/27 17:46:12 HtfDUEpO
北条氏政

ある日氏政が飯に汁をかけて喰ってる時に、汁を二回にわけてかけたのを見て
父・氏康は「飯にかける汁の分量も一度でわからぬか」と嘆いたが、
それに対し氏政は「一度に汁をかけてしまうと、食べ終わりかけには米が萎びてしまいます。
それよりも、まず少なめに汁をかけて米の歯ごたえや味わいを楽しみ、その後に汁をかけ足して
汁と米が渾然一体となった旨味を堪能するのがよろしいのではございませぬか」
とピシャリと言い返し、若くして氏康を越える見識を持っていたことを伺わせる逸話が残っている。

68:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/27 23:20:12 L+FzYVp5
面白いな相変わらずこのスレは。
サイトがないのが残念だ。あれはかなりの良作揃いだったんだが・・・

69:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/28 16:03:12 IYE5jFoK
北条氏政 ~第二章~

しかし、氏政は信濃にはそれほど興味を示さなかった。
関東平野を制圧し、そこに領国を築くことこそ北条家のとる道と考えたのだ。
事実、真田家は上杉家に寝返り、信濃・上野に勢力を広げた。
あのままでは上杉・徳川・佐竹等の勢力の前に苦戦していただろう。
こうして信濃を手放すことで徳川と同盟を結び、
さらに勢力を拡大する佐竹・芦名に対抗し伊達と同盟を結んだ。
関東・東北・東海という別地方に拠点を置く勢力と同盟を結ぶ事は、遠交近攻の外交の鉄則通りだ。
これは氏政の優れた外交センスゆえであろう。
徳川・島津らが豊臣家に屈服し、豊臣家と対立したときも、
家康を介して氏規を派遣、上野沼田の領土問題を解決してもらう形で関係を友好にした。
しかし、関東の領土が平穏ではない為に自身の上洛だけは先延ばしにしていた。
さらに、名胡桃城奪取事件が発生。これは氏政の想定の範囲外だった。
これをきっかけに豊臣氏との対立は絶望的なものとなった・・

70:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/29 12:31:23 T26szoFe
織田裏臭いは凡将じゃない気がするが

71:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/29 21:20:57 TjbvcNfx
柿崎景家

越後柿崎城主。長尾為景・上杉謙信親子に仕える。
上杉定実の養子問題の際に伊達家に外交で赴いたという。
弘治二年村山美作守が武田晴信に内通した際にはその間者を捕らえ、謙信に注進。
美作守は直ちに誅殺された。
永禄元年からは春日山城の留守居役を務めた。
元亀元年北条氏との和議が成立した際には、子の晴家を人質に送った。
その他北陸の勢力との外交交渉も担い、奉行として行政にも手腕を発揮するなど
直江景綱らと共に重臣として重きをなした。

なお川中島の合戦にも参加しているが、飯富虎昌の攻撃を支えきれず危機に陥ったところを
色部勝長に救われたという。

72:名無しさん@お腹いっぱい。
06/07/30 00:43:04 8dJxilEt
なんか、よくわからなくなってきた
凡将→名将?
名将→凡将?
武将→知将?

73:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/01 01:39:51 NNMB46Jd
武官→文官 じゃね?

74:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/01 16:46:16 HtMDoCcK
北条氏政 ~第三章~

氏政は小田原で評定を開き、策を練った。
子の氏直は野戦を主張したが、徴兵と軍需物資の蓄積、
韮山城などの支城により東海道の防備が調っていることから、篭城策をとることにした。
自身の結んでいた徳川・伊達との同盟を過信した面もあるだろう。
しかし、弟の氏邦は反発して鉢形城に帰ってしまう。

豊臣軍は黄瀬川周辺に布陣した。ここは源頼朝が平氏打倒の挙兵の際に兵を集めた地だ。
この動きを予想した氏政はゲリラ戦を指示。豊臣軍は兵糧を焼かれ一時は飢餓状態になった。
氏政の戦略は支城に篭城し兵力を分断、物資を欠乏させることにあったのだ。
ところが秀吉が到着してからは進軍が再開した。
徳川軍は足柄城を落とし、秀次軍も将を討ち取られながらも山中城を落とす。
しかし氏規が篭る韮山城は10倍の兵でも落とせない。
秀吉はやむなく兵の一部を残したまま小田原へと向かう。
そして各城の包囲をしつつ、一夜城建設や茶会を行った。
一方の前田・上杉軍は大道寺政繁を降伏させ武蔵を順調に南下していた。
しかし氏邦の鉢形城や湿地帯の忍城・館林城を落とせず進軍は難航。
戦線が膠着し豊臣軍の内部では不満を持つ将も現れた。
さらに夜襲の成功や堀秀政の陣没から豊臣軍の士気は落ち込んでいた。
一方の氏政側も内通者が出た事や八王子城の陥落で戦意を喪失し始めた。
さらに一夜城が完成し抗戦か降伏かで重臣も対立し始めた。
これを見た氏直が降伏を決断。戦後処理としては、
氏政・氏照、さらに松田憲秀・大道寺政繁に切腹を命じ、
氏直と氏規は家康の嘆願により助命された。
こうして、関東に君臨し続けた北条家は滅亡したのである。

75:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/01 17:04:15 HtMDoCcK
北条氏政 ~最終章~

氏政は佐竹・宇都宮等の反北条の機運が高い北関東の豪族を掌握、
さらに飛び地である信濃も豪族懐柔で成功するなど統治手腕が非常に上手い。
さらに本能寺後の上野侵攻や対徳川戦で証明されているように、
突発的な情勢に対して見事に対処している。
局地的に見ると敗戦も多いが、北条家の最大領土を築いたのも彼だ。
家を狭山藩1万1000石にまで落とさなければ、北条家最大の名君と言われただろう。

76:衆道野郎A部隊
06/08/02 12:50:35 +W2G6Z/c
一条 兼定(いちじょう かねさだ、天文12年(1543年) - 天正13年7月1日(1585年7月27日))

僅か7歳で父・一条房基が死去した為、土佐一条家の家督を継ぐ。だが、いかに兼定が天賦の才を
持っていたとは言え未だ幼く、京より兼定の大叔父で、時の関白である一条房通が養父として後見
をする事になるが、兼定の不運はこの房通であった。房通は、兼定が幼少である事をいい事に専
横を始め、1558年には伊予の宇都宮豊綱の娘と婚儀をさせる。当時伊予では河野氏が村上水軍と共
に日の出の勢いであった為、兼定は河野氏との結びつきを望んだが、房通は身分が卑しいとこれを
拒否し、兼定の先見の明は房通によって潰される事になる。更に、兼定が成人し房通を見事京に追
い返した後、房通は京で兼定を悪く言い触らした為に、一条本家とも疎遠になってしまう。
この頃には既に土佐国・国司、中納言に叙され、若き兼定はその血筋と知略とをもって独自の外交
を始めている。まずは、有名無実の伊予・宇都宮氏と縁を切る為に豊綱の娘と離別し、1564年には
九州を席巻していた大友義鎮(宗麟)と結んだ。まさに磐石の態勢で土佐統一を始めようとした矢
先に突如、伊予の諸大名を助けるといった理不尽な理由で1568年に毛利元就に攻め込まれ、惜敗す
る。全く悲運としか言い様が無く、毛利の大義名分は全くのでっちあげであったとされる。
そして、台頭を始めていた長宗我部氏に対抗すべく、妹婿の安芸国虎と呼応して長宗我部氏を挟撃
しようとするが、1569年に国虎が功を焦るばかりに大敗して討たれてしまい、兼定の挟撃策は無能
な国虎によって台無しになってしまう。
また内憂も抱えてしまい、重臣であった土井宗珊が簒奪の動きを見せたが、見事に討ち取っている。
だが、宗珊にそそのかされた家臣達の勢いは、いくら名将の兼定と雖も止める事は出来ず、無益な
戦はしたくない、と1574年に大友氏を頼って一旦豊後で雌伏の時を過ごす。そして、翌1575年に大
友氏の援助で再興を図り、土佐に大々的に進軍し長宗我部氏と雌雄を決する渡川の戦いが起きる。
兼定は、宇和島から土佐中村に入り旧臣をまとめ、一大決戦になったが惜しくも敗れ、その怒りか
らか10年後に死去している。
兼定が暗愚であったという定説は、勝者である長宗我部氏によって喧伝されたものであり、都合の
良いように兼定を悪人にしたてあげたという説が有力である。また、土佐一条家の独立傾向に反発
する、公家の一条本家の企みがあったとされ、兼定の有能ぶりは、彼等によって書き換えられたと
言っても過言では無い。

77:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/02 18:49:49 CTNWjQoG
織田信雄
織田信長の次男 幼名 茶筅丸
父信長の気性の荒さを兄弟の仲で最も色濃く受け継いだといわれる
伊勢北畠家攻略の際、和睦の条件として養子に送り込まれる
見事な手腕で北畠家を織田色に塗り替える事に成功
実績を積み重ね、自信をつけた信雄は意気揚々と伊賀征伐を敢行するが
土豪の反抗にあい一時撤退を決意する
再度の伊賀征伐には万全を期して大挙侵攻、伊賀の土豪衆を父信長譲りの
苛烈さをもって撫で斬りにし、伊賀を平定
信長亡き後天下を我が物にせんとする逆臣羽柴秀吉に対し兵をあげる
三河の徳川、四国の長宗我部、紀州の雑賀衆を味方につけ秀吉包囲網の
旗手として活躍する
信雄の器量を恐れた秀吉は信雄に和睦を提案する
領民想いの信雄は戦で領土が荒廃する事を懸案して渋々和睦に応じる
その後は秀吉の天下統一に協力し見事に太平の世をもたらした

78:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/02 23:51:40 ad3c/onk
戦国最強の傾き者  今川氏真

生まれた頃より、やりたいことをやり流れる雲の様に生きてきた「今川氏真」
彼は自分の命を賭してまで自分のやりたい事をやり遂げた戦国最強にして最高の
傾き者と言えるであろう。
 お歯黒という奇抜な風貌を好み、自分の命を賭して「蹴鞠」と「SEX」の心を
忘れなかった。
 武田氏と徳川氏に領土を犯されながらも、彼(氏真)は女を犯していたという・・・。
武田氏、徳川氏共に彼の豪胆さを大いに畏怖したという・・・・・。

79:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/04 03:54:32 UtK5HB7c
この武将、ただ者ではない。
スレリンク(giin板:213番)


80:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/05 20:22:37 P/RXhHbY
豊臣延由
~豊臣家を復活させた果断の将~
豊臣秀頼の嫡男。幼名国松。通称、木下縫殿助延由。
幕府提出資料では名は延次。豊後立石藩祖。
秀頼と側室成田甲斐との間に生まれ、将来の天下人を約束されて育つ。
ところが1615年、悲劇が起こる。父豊臣秀頼の大坂城が徳川氏に落とされ、
豊臣氏は滅亡。国松(後の延由)も辛くも逃げ延びたものの、影武者の
田中六郎左衛門の子は国松として処刑されてしまい、将来の天下人一転して
天涯孤独の素浪人となってしまったのである。
しかし国松は家臣の真田信繁・後藤基次とともに九州薩摩へ落ち延び、
島津藩にかくまわれ、真田に育てられてたくましく成長した。時の人々は
「花の様なる秀頼様(国松の誤り)を鬼の様なる真田が連れて落ちも
落ちたり鹿児島へ」とはやしたという。
成長した延由は父よりも祖父秀吉に似ていたのか、すばしこく食い逃げを
得意とし、鹿児島では食い逃げで有名であった。
後、客分として一族の豊臣(木下)延俊(豊後日出藩主)の元へ赴く。
延由の将器を認めた豊臣(木下)延俊は、延由に自らの領土を分け与え、
1万石の大名とするよう家老に命じたが、徳川幕府に内通していた家老長沢は
頑としてそれを認めようとせず、豊臣家本家再興を阻み続けた。
寛永19年(1642年)1月7日、豊臣(木下)延俊の死去後、
延由は家老と粘り強く交渉し、遂に5000石を以て豊後立石に
立藩。お家再興を果たす。しかし、立藩後も家老一派綾部甚左衛門・
綾部弥五右衛門・修験者岩尾某らは執拗に延由を狙い、襲撃を続けていた。
しかし延由はそれらの障害を跳ね除け、分国の完全支配に成功。
信繁譲りの謀略を十二分に発揮し、立石藩の基礎を固めた。
死に関しては、愛妾とともに武士をやめ、耶馬溪で寺子屋を開いていた
元家臣後藤基次が殉死している。
なお、室は里見忠義の娘であり、恐らく綾部・長沢らとの戦いでは
真田信繁配下の真田十勇士に加え里見八犬士も活躍したと思われるが、記録がまったく
残っていないので、活躍ぶりが不明なのは残念である。

81:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/09 04:40:22 8oRf6/VY
織田秀信

織田信長の嫡孫。
父は信忠、西山家文言覚書秘伝録によれば母は武田信玄の娘、松姫とされている。
通称は三郎。幼名は三法師。

祖父信長・父信忠が家臣の明智光秀に討たれた際には
留守居として父信忠の居城岐阜城を預かっていた。
安土城が明智側に落とされた際も前田玄以など重臣の意見を容れ
冷静に事態に対処し、自ら清洲城に入り反乱の収束にあたった。

光秀混乱に乗じて神戸氏に養子に出ていた叔父の信孝が勝手に織田姓に復し、
柴田勝家とともに織田家の乗っ取りを図っていたが、
未然にこの陰謀を掴んだ三法師は先手を打って
織田家の諸将を清洲城に招集し、事態の収拾を図った。
三法師、わずか二歳の時のことである。
秀吉は感激の余り三法師をかき抱き、織田家の家督を三法師に相続させ
政務の代行に粉骨砕身することを誓い、主だった重臣たちもそれに従ったという。

秀吉との強固な信頼関係は彼が死に至るまで続き、
また秀信も秀吉の機智と行政手腕を愛し、父と仰ぎ、思うがままに政務を執ることを許した。
結果として秀信は祖父信長が成しえなかった天下統一をついに成し遂げ、
百数十年ぶりの平和を日本にもたらした。

82:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/09 04:42:14 8oRf6/VY
関が原の戦いに際しては秀吉の一族であるはずの豊臣宗家でさえも
三成と家康の私戦として曖昧な態度をとる中、
率先して三成を支持し織豊政権、ひいては日本の平和を守るべく立ち上がる。
西軍の足並みが揃わぬ中、木曽川沿い東軍の大部隊をひきつけ、
ついに8月、東軍先鋒の池田輝政や福島正則らの攻撃に応戦する。
関が原での決戦に先立つこと一月、誰よりもこの戦いの歴史的な意義を理解していたのは
家康でも三成でもなく、織田秀信その人であったのかもしれない。

一進一退の野戦から三成の為により多くの時間を稼ぐべく、岐阜城に篭城する。
救援のあてなど当初から望めない中、
かぶいた甲冑をまとって常に陣頭で指揮し、不退転の決意を示した壮烈な戦いぶりは
本能寺の変での祖父・信長の最後の姿を髣髴とさせ、攻め手の諸将の胸を打ったという。
結局、充分な時間を稼いだとみた秀信が、池田輝政らの勧告をいれ開城するという形で
この関が原の前哨戦は幕引きとなる。

武具を解き、尾張知多へと護送され、静かに沙汰を待つうちに西軍の主力が敗れ、
関が原の戦いは終結した。東軍の中には秀信の存在そのものを危険視する声が根強くあったが、
秀信軍と槍を交えた福島正則らの懸命の助命の結果、改易という形で赦されることとなる。
この時、軽輩のものに至るまで家臣全員に再仕官のための紹介状を手ずから書いて渡し、
己の節義を貫く為に改易の憂き目にあい、彼らの禄を失うに至った事を詫びたという、
祖父とは一風違った家臣思いの逸話がある。

岐阜の明け渡しなど全ての仕置きを終えた秀信は、高野山に僧として隠居するよう言い渡された。
しかしながら秀信は、祖父信長が高野山を焼いた一件を理由に入山を辞去し、直後に謎の死を遂げる。
キリシタンとして受洗し、パウロの洗礼名をうけていた彼は、
異教徒となって生き延びるより、
信義を貫いて暗殺されることを受け入れたとの説もあるが、つまびらかではない。
慶長十年五月八日没。享年わずかに二十六。正三位中納言。

83:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/11 10:46:57 /0tYi2ru
>>81
お、恐ろしい2歳児だw

84:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/17 06:19:16 q3dkyew7
松永久秀が義将になってるやつが好き

85:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/17 07:29:04 +LJu6eXu
このスレのクオリティって単行本化できるな
オレは読んでるだけだけどすげー面白いよ

86:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/17 08:52:09 y4UDBIqb
大宝寺義氏
ある時は越後の虎上杉謙信、又ある時は日の出の勢いにあった
織田信長と、当時の実力者を後ろ盾にして大宝寺氏の最盛期を築く。
あまりの武勇に、敵から悪屋形と嫌味を言われる事もしばしばあった。
織田信長が本能寺に倒れると、強力な後ろ盾を失った義氏は、最上氏の
謀略によって家臣に謀叛され波乱の生涯を閉じた。
羽柴秀吉はこの報を聞いて「日の本から賢人が一人消えた」と嘆いたという。

87:良将のカッコ悪い最期をカッコよく
06/08/17 10:30:06 WMH9qtpQ
難波田憲重(?-1546)

扇谷上杉氏の重臣。武蔵松山城主。弾正と称す。法名の善銀でも知られる。
北条氏に河越城を奪われた扇谷上杉朝定を松山城に迎えて衰運の主家を支え、
関東にあって日の出の勢いの北条氏の行く手に立ち塞がり、進撃を阻んだ。
松山城に攻め寄せた北条方の山中主膳との「和歌合戦」も有名であり、
彼が文武に秀でた名将であることを物語っている。

1546年、長年対立していた山内家・古河公方家を反北条の旗印の下に糾合し、
河越城奪回戦を発動。ここに新旧関東勢力の一大決戦の幕が切って落とされる。
故地河越に上杉の旗を再び掲げ、扇谷家の宿願が叶うかに見えた刹那、
戦国戦史に名を残す、かの北条勢の夜襲を受ける。世に言う「河越夜戦」である。
憲重は敵の猛攻を食い止めるべく奮戦したが、その一子・隼人正ともども
乱軍の中壮烈なる討死を遂げ、主家の滅亡に殉じた。享年は明らかではない。

その悲壮な死は巷間さまざまに伝えられ、伝説の光に包まれている。
憲重は主君朝定が討たれたことを聞くや、天を仰いで悲憤慨嘆し、
「もはや我が武運も尽きたり、北条の輩にこの首は討たせじ」と刀を銜え、
自ら古井戸に身を投じた―という物語があれば、あっぱれ名将、花も実もある
武者ぶりよと、聴くものの涙を誘わずにはおかなかっただろう。

88:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/17 12:49:44 U3uI4hwY
知識がないと書けないんだよな。

89:wiki見て適当に
06/08/17 13:41:31 U3uI4hwY
織田信包

織田信長の同腹弟

17歳のとき、兄信長が3000の兵で当時の最強勢力、今川義元の軍30000を打ち破るという奇跡を見る。
26歳のとき、兄信長の命で北伊勢を支配していた長野氏の養子として入る。
28歳のとき、兄信長は比叡山延暦寺を焼き討ちし、高僧女子供まで3000人余りを皆殺しにする。
30歳のとき、兄信長が浅井長政の居城・小谷城を包囲させて長政を自殺させる。
浅井の血が絶えるのは忍びないということから妹・お市を保護し長政とお市の娘・茶々、初、於江与を保護して育てた。
31歳のとき、兄信長が伊勢長島城を兵糧攻めし降伏させるも、約束を破り退去中の一揆衆に一斉射撃を浴びせ虐殺、
信包自身も理解できないが、甥信忠に「これも戦国なのかもしれませぬ」と諭す。

1582年、信包39歳のとき兄の織田信長が家臣明智光秀に本能寺にて殺される。
織田家は柴田勝家と羽柴秀吉の家臣同士の争いが起こる。
その後、信包は覇権を手にした秀吉に従う。

47歳のとき、豊臣秀吉が小田原征伐、北条家を滅ぼそうとする。関東に大勢力を誇った北条家の終わりを見る。
哀れに思った信包は北条氏政・北条氏直の親子の助命を秀吉に懇願するが逆に怒りを買い、改易される。

豊臣秀吉の死後、関ヶ原にて徳川家康が石田三成を破り権力を握る。
また、天下の動きを見たのであった。

90:まとめ
06/08/17 14:01:12 U3uI4hwY
革命児織田信長の弟。奇跡を見、戦国の厳しさを経験。
信長の死後、兄が築き上げた大勢力織田家を家臣の羽柴秀吉に乗っ取られる。
そして秀吉の死後天下を徳川家康が権力を握り1615年、非常にも豊臣家を滅ぼす。

信包は兄の身近にいて乱世の虐殺や裏切りなど疑念を抱きつつも成長した。
家臣によって消滅する権力の脆さも知った。元家臣に従わなければ生きていけない。
一人の大悪人に戦国を学び二人の悪人に翻弄された。
信包は1615年の事件も予想していたであろう。

乱世に疑問を持ち、権力に翻弄され、自分の存在意義もわからず、
人間の欲望を長年死ぬまで見て生きるために生きてきた一人の武将であった。

91:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/21 01:38:43 YS5FZ+cQ
上杉謙信を戦闘能力より政治的手腕の高さで、
武田信玄を父や子を愛する人情家として説明して欲しい。

92:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/23 02:32:06 pYV2EvpL
上杉謙信

越後を掌握すると、農閑期には雇用対策として他国遠征を敢行し、
軍事行動による物資の消費や街道の整備などでインフラストラクチャーのさきがけを行った。
同時に、遠征に際しても農地の取り合いの延長であった
当時の国取りの概念を脱却し、捕虜とした城下住民の身代金の要求と
未払い者の売買によって利益を得るという、
西欧の列強諸国の方策にも通ずる領地経営に縛られない
新機軸による戦時経済の循環を作り上げた。

また、金銀山の開発による豊富な貴金属流通量を更に有効利用し、
専売制のさきがけともいえる物品の買い上げと売却を行い、
相場の調整と投機を軌道に乗せた。
これらの方策の結果、ほぼ毎年の遠征の戦費を賄った上で、
更に軍団規模を拡大しながら累積黒字を積み上げるサイクルを形成するに至った。
これらの政策は、米どころといわれる越後を根拠地としながらも、
いち早く米本位制を脱却する兆しを見せ近世近代にさきがけるという、先駆的な業績を残している。
謙信没後、御館の乱に際し景勝が金蔵を押さえた時には黄金三万両の蓄えがあったという。
これらの謙信経済感覚の鋭さは後世、
豪商を目指す商人たちがこぞって越後屋の屋号を名乗った由の一因ともなった。


93:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/23 02:32:50 pYV2EvpL
大内義隆
(永正四年~天文二十年)

応仁の乱によって決定的となった室町幕府が権威を失ってゆく課程で
畠山、山名、そして細川といった旧来の幕府の要職を担った守護大名が次々と失墜してゆく中、
大内家は唯一名門としての矜持を保ち、西国の雄として天下に威光を放ち続けた。
その大内家の最盛期を築いた人物が大内義隆である。

彼の日本の担い手としての気概は近隣諸国の民はもちろんのこと、
遠く洛中にまで伝わり、幕府の高官から公家に至るまで大内の威光に
よすがを求め、屋敷を捨て、着の身着のまま義隆の元に群れ集った。
快く彼らを受け入れる義隆の器量にいよいよ城下山口は繁栄を極め、
日本一の都市となるに至り、
当時の有識者の間では天皇の行幸遷都までもが取り沙汰されるほどだった。


日明貿易によって海内屈指の富を一手に納めた義隆は、
同時に当時世界のパワーバランスを塗り替えつつあった
南蛮勢力に対しても鋭い国際的センスを以て対応する。
日本の武力統一に万一南蛮勢力が介在した場合の危険性をいち早く見抜いた義隆は、
当時の現状では無謀だった武力統一から、天皇の威信を核にした雄藩の連合を目指し
大友家、竜造寺家、松浦党などの大勢力の引込みに才知を持って挑み、友好関係の樹立に成功する。

だが、これらの先駆的な行動は、既得権益に縛られ、
旧来の価値観から脱却できない者の反動を呼び、
武断派である陶隆房の暴発による
無謀な尼子攻めと敗退、謀反によって非業の死を遂げる。
彼の遠大な日本再統一と世界進出への夢は、
彼が終生に渡って目をかけていた毛利元就という男の手によって20年後、
ごく不完全ながら引き継がれた。

日本、朝鮮、明、そして遠くヨーロッパにも目を向けた
義隆の理想に沿った西欧文明の吸収と超越という課題に挑むには、
毛利に吸収された大内の遺民を中心とした長州藩士をして、
実にその後300年という年月を必要とした。
天文20年9月1日没。
従二位兵部卿、太宰大弐、侍従如元。法名は竜福寺殿瑞雲珠天大居士。

94:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/26 21:06:26 0DmbV/xv
松永久秀 (1510-1577)

三好家臣。詳しい経歴は不明だが三好長慶に右筆として仕える。
先に三好家に仕えていた弟・長頼の活躍もあり徐々に地位を築き、長慶が畿内を平定すると
幕政にも関わるようになる。
また軍を率いても大和を平定、飯盛山城にて窮地に陥った長慶を救出など功績を挙げた。

長慶死後はその養子・義継を後見、織田信長と結んで足利義昭政権に加わる。
その後信長と義昭の関係が悪化すると主君・義継と共に義昭を支持、信長と戦うが、
1573年義継が討死したため降伏した。

茶人、教養人としても知られている。

95:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/26 21:06:58 0DmbV/xv
内藤宗勝 (1516-1565)

丹波守護代・内藤国貞の婿。国貞の死後その跡を継ぐ。
1565年対立する豪族・赤井忠家の城を攻撃するが、逆襲に遭い大敗、討死した。

96:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/26 22:59:42 gocB4ny2
>>94
ここは名将を普通に説明するスレですか?

97:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/26 23:43:04 1Be19H6+
>>94ポカーン

98:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/27 00:23:58 Tb87pe4b
>>96
>>97

>>94は久秀のことを無能だと思ってるんだよ。きっと

99:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/27 01:55:03 zEYZOxS9
>>96-98
目欄みろよ

100:織田家足軽頭 ◆lLonF/cLOQ
06/08/27 02:22:25 Tb87pe4b
>>99
失礼。気がつかなかった

101:名無しさん@お腹いっぱい。
06/08/27 10:40:38 s5uAJHLW
何だこの桁外れのクォリティーはw

102:名無しさん@お腹いっぱい。
06/09/04 08:30:29 M+B+mO2o
武将を短く説明するスレですか?

103:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/03 18:29:48 x/cK6PxK
age

104:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/03 21:28:26 9o6Y+o1b
小早川 秀秋 1582-1602
官位は従二位、権中納言。左衛門督を兼ねたことから、小早川金吾、
金吾中納言とも称された。

幼少から文武に優れ、豊臣家から厄介払いされて小早川家の養子になったにも
かかわらず、秀吉、隆景の後ろ盾がなくなっても1万近い兵卒は、この時14歳の
秀秋につき従っている事から見てもその非凡・名将ぶりがうかがえる。

慶長の役の蔚山城の戦いでは、明の大軍に包囲された蔚山倭城の救援に向かった。
初陣で自ら槍を手に敵将を生け捕りにするなど活躍した。

関ヶ原の戦いでは徳川家康の内通工作があったが、西軍に属した。
西軍勝利の暁には豊臣秀頼が成人するまでの間、関白職への就任と、
上方2ヶ国の加増を秀秋に約束され、
また、宇喜多秀家隊が福島正則隊を撃破し、また大谷吉継隊も藤堂高虎隊
を敗走させるなど西軍優位の展開の中、
焦った徳川家康は小早川秀秋の陣へ威嚇発砲した。
この期に及び松野重元ら豊臣恩顧の秀秋重臣は西軍への参戦、東軍への攻撃
を確信したが、石田三成らに約束された関白就任を空手形だと見破った
小早川秀秋は西軍・大谷吉継への攻撃を命令。
これにより東軍の勝利となったが、その際秀吉から強い恩顧を受けていた
松野重元は、関ヶ原の戦いにおいて、東軍へと寝返った秀秋に反発し、
戦線を離脱する。
小早川秀秋が大谷吉継攻撃を命じた際発した松野重元の「そっちかよ!!」
は今も吉本芸人に愛されている基本的突込みである。






105:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/03 23:59:41 ZyM0MAyd


106:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/04 00:28:19 nSHBGJJp
山名 豊国(やまな とよくに、1548年(天文17年) - 1626年
1560年、父が死に兄やその家臣に領国を追い出されたがそれを自らの手で取り戻し山名家の家督を継いだ
その後は毛利家の家臣として各地を転戦する
しかし1580年、羽柴秀吉の大軍が鳥取城に押し寄せた 秀吉は得意の兵糧攻めをしようとしたが豊国は準備万端で力で攻めようとも巧みに守ったため秀吉は手が出せなかった
だが時期を見て豊国は秀吉に降る 妻や娘が人質にとられたとも言われているがそうではない、豊国は秀吉が天下を取る人物だと見ていたのだ
そして豊国がいなくなったことにより鳥取城は陥落する 兵糧攻めに対し準備万端だった鳥取城が、である 如何に豊国の存在が大きかったかがよくわかる
秀吉が天下を取った際には秀吉の御伽衆となり、秀吉が死ぬと家康に仕えた
豊国は秀吉や家康が天下を取る人物だと見抜いていたのだ 的確な主換えにより豊国は遂に6700石の旗本 領土持ちとなった
征夷大将軍となった家康に山名氏当主に贈られた羽織を着て参上して家康から賞されたという逸話もある

あ、でもこれホントの話なだけかも

107:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/04 02:10:15 v5cvzNA0
>>106
ちょっとぐぐってみたけど、普通に勝ち組じゃないのか?

108:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/04 15:43:00 nSHBGJJp
>>107
基本的にバカ武将扱いされている

109:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/07 14:32:56 NE2p6UMb
かなしいねえ。

110:名無し議論スレにて投票方法審議中
06/12/07 15:39:52 wPPwFFM4
朝倉義景(あさくらよしかげ) 1533~1573
1548年、父孝景の死後、家督を継承して朝倉氏第十一代当主となる。
はじめは延景と名乗っていたが、将軍足利義輝から一字を拝領して義景と改める。
義景は優れた文化人でもあり、荒廃した京から下向してくる公家や文化人を庇護し、
また一乗谷の居館も華美を極め、小京都とまで呼ばれるに至った。その一方で、
1555年には上杉謙信の川中島出兵に呼応して加賀に出兵、一向一揆を破り加賀半国を
制圧する。
1565年、永禄の変で将軍義輝が暗殺されると、義輝の弟、覚慶(後の足利義昭)を
一乗谷に迎え入れて、同地で元服させる。磐石な領国経営体制を確立するため後任に
織田信長を推薦し、明智光秀を同伴させる。
1568年には、若狭武田氏を屈服させ若狭一国を掌握するが、幕府再興を目指す義昭と
信長の対立が表面化すると義昭に属して、信長の再度に渡る上洛要請を拒否、以後
信長と対立する。
1570年4月、信長の侵攻に際しては自領に雪崩れ込ませ、かねて密約のあった浅井長政に
背後から奇襲させて自らもこれに呼応、信長軍を完膚なきまでに破り京都まで撤退させる。
同年6月、信長、家康連合軍が、浅井氏の本拠である小谷城に迫ると、一族の景健を
総大将とする援軍を派遣して近江姉川で対陣、坂井政尚を討ち取る。結果的には
信長、家康連合軍が優勢ではあったもの、両軍ともに損害は甚大で小谷城攻略を
未然に防ぎ撤退させることに成功する。
9月、信長が本願寺勢力討伐のため摂津に出陣した際には、家臣の反対を押し切り
自ら近江に侵攻して、宇佐山城攻防戦では、織田信治、森可成、青地茂綱、尾藤源内、
同又六、道化清十郎ら名立たる将を敗死させ、ついで志賀の陣では、坂井政尚を討ち
延暦寺に入り京都に迫るが、補給線が開き限界に達していたため信長と和を結ぶ。
講和の宴では、後に第六天魔王と恐れられた信長をして「天下は朝倉殿が持ち給え」と
まで言わしめる。
更には、長年敵対していた本願寺顕如と和睦、教如と娘の婚約を成立させるなど、
外交的にも父孝景以上の戦果をあげる。
1573年、浅井氏を助けるため近江に出兵するが、丁野山砦が陥落し連絡網を絶たれたため
に、軍を退けようとするも信長の奇襲を受け、近江刀禰坂で敗れ一条谷に戻る。ついで
大野庄に逃れて建て直しを図るが重臣朝倉景鏡の裏切りに遭い、また平泉寺の衆徒が
信長に応じたために賢松寺で自害した。

111:くるるん兄弟
07/01/21 10:04:53 Tkg8zM/Z
大友義統(おおともよしむね,1558年~1605年)
大友氏第22代当主。豊後の戦国時代後期の大名。
キリスト教や遊興にうつつを抜かし、政務を省みなかった父・大友宗麟から1576年に
家督を譲り受ける。
織田信長との積極外交により従五位下左兵衛督となる。1579年には織田氏と結び
毛利氏を挟撃。父もなしえなかった本格的な中国地方進出に乗り出すが、本能寺の変に
より親毛利色の秀吉が信長の後継となったためあえなく撤兵する。
島津氏との戦いにおいても、当時九州全体を席巻する勢いだった島津氏相手に善戦し、
数百年大友氏の本拠で旧態然とした府内館を捨てるという英断をした。このように、
義統は名家に生まれながら改革を断行した先進的な人物である。
キリシタンでありながら、日本でキリスト教の時代は終わるだろうと直感。秀吉の棄教
令に従った。ちなみに秀吉は、彼に豊後一国だけではなく、一字を与えている。秀吉は、
この名家生まれの改革者に注目していたに違いない。
文禄の役の際、小西行長隊から救援を求められるが、無欲な質なので明の大軍にあえて突
撃した行長の勲功を奪う気は無いとして拒否。武士の男気を見せるが精神に異常を来たし
ていた秀吉によって改易される。毛利輝元の預かりとなるが、仇敵・大友氏の当主である
のにあえてそのままにしておいたのは、彼の人となりや才能に輝元も感じ入る所があった
のだろう。
関が原の戦いでは、輝元に支援を受けて九州に侵攻するが、天下統一の野望に燃える黒田
孝高の大軍を前にし、ここで無理な突撃をして両軍に甚大な損害を出すよりは和睦をすべ
きと判断、母里太兵衛の陣に出頭し降伏した。


112:名無し議論スレにて投票方法審議中
07/01/21 10:23:38 Ag7dk5qd
武田勝頼
URLリンク(ja.wikipedia.org)

113:名無し議論スレにて投票方法審議中
07/01/21 16:35:36 TvhmS0wx
武田信虎 明応3年~天正2年(1494~1574)

通称五郎。初名信直。
甲斐守護武田氏十七代当主、信縄と岩下氏の嫡子として生まれる。
甲斐源氏の名門武田氏も下克上の禍を逃れることはできず、
新興国人層の台頭、一族の内紛によって崩壊寸前の危機を迎えていた。
そんな混乱の最中、父・信縄は一説には暗殺説もあるほど
武田家にとって最悪の状況で幼い信虎を残し死去する。

十代半ばにして家督を相続した信虎は父の代から
たびたび甲斐を狙い行動を起こす北条早雲を撃破牽制しつつ、
武田宗家と対立していた叔父の武田信恵を滅ぼし、
父の悲願であった甲斐武田氏の内紛をついに終結させる。
ついで信恵を支えていた甲斐東部の豪族、
小山田氏との闘争を有利に進め臣従させることに成功する。
未だ二十にならぬ青年武将信虎がわずか数年で
名族武田家を復興させ甲斐一国を掌握した事実は
驚きと畏怖をもって都でも噂され、
いつしか人々は信虎を「甲斐の虎」と呼ぶようになった。

114:名無し議論スレにて投票方法審議中
07/01/21 16:36:16 TvhmS0wx
当時の甲斐は駿河の今川氏や相模の北条氏、信濃の諏訪氏ら
強力な周辺諸大名に囲まれていた。これらの圧力に対し、
信虎はつねに敵地に赴いて戦うことで領国の荒廃を最小限におさえた。
加えて信濃東部を勢力化に収め、後の晴信の信濃進出の足がかりを作った。

また、内政においては内藤氏、馬場氏、山県氏などの
独立心旺盛な国人衆を駆逐しいち早く中央集権化を推し進めた。
同時に小幡、多田、原といった浪人衆を諸国から招聘、
春日虎綱(後の高坂昌信)教来石民部(後の馬場信春)など
有能な若者を抜擢し、家臣団の強化を図った。
また生産力の低い石和から甲府に本拠地を移し城下町と街道を整備し富国強兵に務めた。
躑躅ヶ崎館の建造にあたっては
「戦はよそでするものであって城を頼みに篭もるなどもってのほか。
無用の普請に心砕くことなく塀の高さなどは三尺もあればよい」
と指示したという。

外交面でも今川氏との婚姻政策などを有効に展開し
無用の戦乱をさけつつ勢力の伸長に成功すると同時に上洛の下準備を整えた。
嫡男晴信の嫁に公家の三条公頼の娘を迎え中央に太いパイプを作ると同時に
晴信と本願寺顕如が義兄弟(顕如の妻は三条氏の妹)の間柄となったことは、
後の武田家の外交政策上大きな利益をもたらした。

115:名無し議論スレにて投票方法審議中
07/01/21 16:38:01 TvhmS0wx
甘利、板垣らの反動的な国人層が晴信を担ぎクーデターを起こすと
父子で争いを起こすことを嫌い隠居し義理の子である
今川義元の後見をしながら今川家の最盛期を裏方として支えるとともに
悠悠自適の生活を楽しむ道を選ぶ。
永禄三年、桶狭間の戦いで義元が織田信長によって討たれると、
孫でもある当主氏真の器量の底を誰よりも早く見限り、駿河を去った。
この時、今川氏の滅亡が近いことを信玄に知らせ、大名たるものの覚悟と、
駿河侵攻への助言を行ったという。

かねてより信虎を敬愛していた伊勢国司北畠具教の招きにより、
志摩の地頭甲賀氏のもとで静かに暮らすが、
具教の要請と甲賀藤九郎の懇願を請け、軍師として近隣の地頭を統率し、
志摩の九鬼氏を撃破、本拠地の田城を落城させ、
九鬼嘉隆を追放することに成功する。
事が終わると固辞して志摩を去り、
京で義理の息子三条実綱の菊亭晴季に囲まれ余生を過ごす。
その際も晴信の官位推戴や天台座主の就任等に
なにかと手を焼いてやっていたという。
晴信が病死すると、孫の勝頼の招聘に応え甲斐に向かったが、
途中、信濃国高遠で死去。八十歳での大往生だった。

116:名無し議論スレにて投票方法審議中
07/01/21 18:10:08 ipsqosrc
細川藤孝

将軍を裏切り、親友であった光秀を裏切り、主君信長を裏切り、これまた主君の秀吉をも裏切った男
4度の裏切りによって領土を伸ばした戦国の梟雄である

117:名無し議論スレにて投票方法審議中
07/01/24 08:49:27 heFZ4bu5
竹中半兵衛(重治)

戦国三悪人の一人。
二十歳の時に主君を裏切り稲葉山城をだまし取るなど、謀略に長けていた。
荒木村重をそそのかし、ライバルであった黒田孝高を陥れた事件はあまりに有名。
その卑怯なやり口は斎藤道三から学び取ったものと言われる。

118:名無し議論スレにて投票方法審議中
07/01/26 22:49:05 Xb8TRKAG
佐久間信盛

織田家譜代の家臣で信長に重用された。
『翁草』が伝える唄では
  織田家には
   木綿藤吉 米五郎左
   かかれ柴田に のき佐久間
と、唄われ、「のき」→「退く」つまり殿を任せるにおいて絶大な信頼を得ていた。
信長の弟の信行が謀叛を起こしたときは、織田家中が信行派に傾倒していた中で
信長に従うという先見の目も持っていた。
そして運命の石山本願寺攻めでは
軍議において信長を説得しきれずに総大将に任命されてしまった。
だが、仏門に弓引くことや女子供を手にかける事を快しとせず
又、主君にそのような汚名を着せたくない思いで戦線をわざと膠着させ
本願寺側に降伏か和議の道を探っていた。
が、一向に進展にない状況に信長の気の短さが災いし
十九ヵ条もの折檻状を陣中に送りつけられ、即刻解任、織田家から追放となった。
しかし、他国に仕官して信長に刃向かう様な事はせず
この様な状況になったのも自分の不甲斐無さの為との自戒の念から
身一つで山に篭もり、食を断つ行をおこない、そのまま山中で生涯を終えた。

119:名無し議論スレにて投票方法審議中
07/01/27 00:26:54 JNS0/dmN
本多平八郎忠勝

戦において死力をつくして敵と戦うことで我が身に受ける戦傷。
この傷こそが戦国武将の誇りであり、主君への忠節の証であったが、
本多平八郎忠勝は数十の戦に出ながらも名誉の傷一つ負うことがなかったと言われる。

関が原戦後においては娘婿の真田信之の父昌幸と弟幸村(信繁)の助命を
主君である徳川家康に申し入れ、聞き入れられぬのであれば武装蜂起をするなどと
脅すに到った。

そして、忠勝の暴言・暴挙により助けられた幸村であったが、
その後の大阪夏の陣においては徳川家康を後一歩のところまで追い詰めるに到った。
これこそまさに、忠勝の愚行が招いた主君家康の危機であったという他ないであろう。

120:某スレよりコピペ。一部改変
07/01/27 16:03:47 43UkW/kZ
天才肌ではないものの、誠実な人柄の徳川秀忠。
その人物に心酔し、絶対の忠誠を捧げる腹心にして剣豪、柳生宗矩。

影武者世良田次郎三郎が、関ヶ原での父の非業の死をきっかけに
関が原の亡霊島左近、異国から流れてきた異形の忍群、闇の住人たちの力を
使って天下を我が物とすべく動き出す。

ようやく治まった世を戦乱に戻すことは許されない。秀忠主従は、表舞台では
悪の影武者を大御所家康として立てる一方、裏では闇の軍団との厳しい暗闘を
関ヶ原以降、13年間戦い続けるのであった…

121:名無し議論スレにて投票方法審議中
07/02/05 23:50:48 uaig6tgd
大野治長 ?-1615

母は淀殿の乳母・大蔵卿局。淀殿が豊臣秀吉の側室になると一緒に家臣となった。
伏見城修築に関わるなど、多くの政務に携る。
太閤死後、家康暗殺の嫌疑を掛けられ、浅野長政らと共に失脚。
(家康の脅威を逸早く見抜いていたといわれる)
関ヶ原合戦後、治長は再び家康と対峙。衰退の兆しをみせる豊臣家から多くの
重臣達が離反するなか、幼い秀頼公を守り立て孤軍奮闘する。
片桐且元の不穏な行動に気付き、且元を大阪城から退去させている。
(且元を成敗しようとする者も現れたが、これが家康の計略である事を見抜いた治長は、
事態収拾の為、且元を退去させたという)
計略を見透かされ激怒した家康は、半ば強引に且元の大阪城退去に異議を唱え、
大阪攻略の準備を開始する。この動きを察知した治長は、もはや開戦を避けられない
事を悟り、太閤が遺産の金銀を使い浪人衆を雇うという奇策を発案する。
(秀頼公への恩義と治長の人望により、各地から多くの浪人達が馳せ参じたという)

慶長十九年十一月、治長の想いも空しく大阪冬の陣が勃発。己の武功の事しか考えない
浪人衆と対立しながらも、敵を引き寄せ殲滅する自らの戦法を説き、緒戦を大勝利に導く。
(武功を求める浪人衆を宥める為、真田幸村などを出城に配置し、自らは一線を引き
作戦を指揮するという適材適所の計略が功を奏したという)
この治長の見事な計略に恐れをなした家康は、大筒をもって大阪城天守閣を砲撃。
不意を付かれた城内は混乱し結局、淀殿の命により和議を結ぶ事となる。
(治長の真意は、大阪方の力を見せ付けその後、和議を結び豊臣家の存続を図るというもの
だったといわれる)
補給などまるで頭になく徹底抗戦を主張する浪人衆を宥め、和議を成立させた治長は、
茶臼山にて宿敵・家康と会談。家康は「今度の戦いで豊臣軍を仕切った手腕は言うに及ばず、
秀頼公への忠節も浅からず思っている。お前も将軍(徳川秀忠)への奉公を治長にあやかる
ように」と治長の肩衣を貰って本多正純に着せたという。
(治長は宿敵の想わぬ賞賛に感涙したとも、「狸に化かされ喜ぶようでは武士は務まらぬ」
と言い放ったともいう)

122:名無し議論スレにて投票方法審議中
07/02/05 23:51:37 uaig6tgd
万事すべて治長の計画通りに進んでいた元和元年一月、突如関東方が大阪城を裸城にすべく
すべての堀を埋めるという暴挙に出た。信義にもとる行為に大阪方は、激しく抗議したが
後の祭りであった。
(動揺する城内を尻目に治長は、カラカラと笑い「老いとは哀れなるものよ」と感慨ぶかげ
に語ったという。また和議の責任を取り、治長が自害するのでは?と思い諌めに来た
秀頼に「私が死ねば秀頼様を守るものがいなくなります」と言い秀頼が感激したという
話も伝わる)
家康の手段を選ばぬ態度に不退転の決意を見てとった治長は、これ以上の抵抗は無意味と
悟り、ただひたすら秀頼公の御身安泰に専念する事となる。
そんな治長を主戦派の刺客が襲い、危き目に遭うも一命を取り留める。
(肘を切りつけられた治長は、片手にて刺客を切り伏せたという)

治長が床に伏す間、城内主戦派や浪人衆に主導権が移り、元和元年四月、大阪夏の陣が
勃発する。もはや事態収拾は不可能であると悟りながらも、必死に奔走するが城内の味方は
己の武功のみを求め戦場へ消えてゆく。もはやこれまでと秀頼と淀殿を曲輪に退避させ、
千姫と交換条件に二人の助命を願い出るが、これが家康に拒否されると千姫を警護の者を
付け家康の陣へ送り出した。多くの者が秀頼を見限り逃亡する中、秀頼、淀殿、二人の
自害を見届け自らも後を追って自害。治長の豊臣家存続、秀頼安泰の願いは露と消えた。

享年は四十半ばであったという。翁物語では治長を、「現代に日本中の軍勢を引き受けるほどの
大将を知らない」と評している。また治長は茶道に造詣深く古田織部の弟子となり奥義を
極めるほどの名人であった。完。

スマン、長すぎた・・・

123:文官を武闘派にしてみたよ
07/02/08 19:05:37 ZlIdnRC5
石田三成 1560~1600

近江の土豪の生まれ。10代の頃より秀吉に仕官する。
22歳の時、仙石秀久に従って赴いた淡路攻めで武功を立てる。
以来、秀吉の戦の殆どに参戦し、数多くの武功を立てる。その主なものを以下に記す。

賤ケ岳の戦いでは「先駆けの衆」として活躍、加藤清正ら七本槍に匹敵する槍働きをする。
小田原攻めでは忍城攻めでは秀吉からの理不尽な命令があり
思うように采配を振るえず失敗したが、館林城の攻略には成功する。
朝鮮出兵においては幸州山城の戦いで、自らも負傷するほどの激戦を繰り広げ、
また碧蹄館の戦いにおいては開城の放棄および漢城近郊での迎撃戦を主張。
主戦派の諸将を抑えてこの戦略を実行し、朝鮮軍を破る。

秀吉死後の関ヶ原の戦いでは野戦の名手と言われた徳川家康を相手に健闘。
予期せぬ裏切りにより結果的には敗北したがこの合戦において石田隊は
東軍諸将の猛攻を物ともせず、敵軍を何度も押し返したという。
黒田長政の兵が恐怖のあまり石田勢の武将嶋左近を誰一人として正視できなかった事や、
戦後、三成と犬猿の仲だったはずの長政が彼に陣羽織を与えたり
藤堂高虎が囚われの身の三成に自分の鉄砲隊について助言を乞うたエピソードからも
石田隊がいかに精強だったかがわかる。

東軍に捕えられて処刑される際にも最期まで己の体を労り堂々としていた。
優れた武人であった三成らしい最期である。
後に津軽家が三成の子の一人を養子に迎えているが、
武人石田三成の血を自分の家にも取り入れようとしたのであろう。

幕末の偉人、西郷隆盛も彼を高く評価している。


124:名無し議論スレにて投票方法審議中
07/02/08 19:10:10 46+KBBWy
北条氏康

一族皆引きこもりの北条氏の中でも最強の引きこもり というか、こいつの時代から北条氏=引きこもり の流れが誕生した
引きこもりだったので当然のことながら幼少期の評判は非常に悪く綱成を当主にしようという動きさえあった
女の子が家の前までやってきても引きこもってた
ちなみに、本気を出すと無茶苦茶強い

125:人間七七四年
07/02/28 03:55:58 lCyJDAED
age

126:人間七七四年
07/02/28 07:26:05 65AOQvan
>>124亀レスだが、お前男食大名信玄スレ住人だろww

127:人間七七四年
07/02/28 09:49:49 h9BJsQJf
中村一氏 (?~1600) 前編

近江甲賀二十一家の1つ、瀧(多喜)氏の出と考えられ、初め瀧孫平次と名乗り秀吉に仕えた。
この一氏を召抱えた頃から、秀吉の本格的な大出世がはじまる。
金ヶ崎の退き口、姉川合戦、小谷攻略など、その目覚しい活躍の蔭には常に一氏の存在があり
軍師半兵衛と並んだ羽柴家の巨頭として、大車輪の働きをした。
その甲斐あって秀吉から200石!という大封を与えられ、一氏自身も大出世の名乗りを挙げた。
その後も様々な激戦で活躍し、当時最も恐れられていた雑賀衆の抑えとして泉州岸和田城主に上り詰めた



128:人間七七四年
07/02/28 10:14:42 h9BJsQJf
中村一氏 (?~1600) 中編

その岸和田城主時代に武勇伝とも言える面白いエピソードが残っている。
羽柴家最強の一氏さえ討てば、戦局を優位に運べると考えた雑賀・根来衆が
その総力を結集させて岸和田城を来襲したのである。
一氏の抵抗は目覚しかったが、さすがに多勢に無勢。追い込まれ、あわや落城寸前にまで追い込まれた
その時、大蛸に乗った僧と数千の蛸が現れ城を救われたという伝説が残っているのだ。
モーゼの十戒をも彷彿とさせる、この逸話を持つ男、一氏。まさに神の領域である。
そして、その功により故郷の近江国甲賀郡水口岡山6万石城主になり故郷に大錦を立てる。

129:人間七七四年
07/02/28 10:41:20 h9BJsQJf
中村一氏 (?~1600) 後編

その後、関東の雄・北条征伐の際に秀次隊の先鋒を務め、
ほぼ単独で、北条家中随一の猛将・松田康長の守る箱根山中城の主要部分を攻略。
その大功により駿河国駿府14万石を拝領する。
そして一氏の活躍によって、秀吉は念願だった天下統一を達成する
そして第一功労者である一氏は政権内一の要職と言われる三中老に任命された。
もはや天下は一氏を中心に回っていた。
そして天下一の実力者に上り詰めた一氏の死後すぐに、関ヶ原の合戦が起こる
それは家康が一氏の存在を心底恐れ、その死を待っていたという事実に他ならないだろう
家康さえも恐れさせた男、中村一氏。
その実力と人気は400年経った今でも、この戦国板で多くの信者を惹きつけてやまない




130:人間七七四年
07/02/28 18:24:10 uQBISbLG
良スレage
本当は愚将だったのに、ここの職人さんの様な人に名将として語り継がれた人物がいたかもね。

131:人間七七四年
07/03/15 19:18:19 hdfEIBQs
age

132:人間七七四年
07/03/17 06:41:39 klwN7kXi
朝倉義景 1533~1573

朝倉氏第十一代当主、別名「越前の虎」。

朝倉宗滴などの武断派の専横を御しつつ、朝倉家の最大版図を築く。
また義にも篤い彼は、都落ちしてきた将軍足利義昭の保護などもした。
盟友の浅井氏が織田信長に反旗をひるがえした際も、
時勢を見通せる彼は敵わぬと知りつつもこれに味方した。

一旦は信長に「天下は朝倉殿が持ち給え」とまで言わしめた彼だが、
最後は浅井氏との義に殉じ、一乗谷でその生涯を終える。
またその際、少しでも人命を救おうと一門の朝倉景鏡などに敵方に降伏を勧めたという伝承もある。

その後義景の遺体は、これを敬う信長によって金箔を貼られ丁寧に鎮魂されたという。

133:人間七七四年
07/03/17 07:40:46 F3PYRCHA
>>132
わろたw

134:人間七七四年
07/03/17 11:25:03 ka1GHFwX
>>132
ちょwwwww最後の一行wwwwwwww

135:人間七七四年
07/03/18 14:47:36 byRAucQY
>>132
こういうパンチが効いててシンプルなのがいいなw

136:人間七七四年
07/03/20 03:58:32 Uz5jRjtQ
林秀貞

実力主義者、織田信秀の時代より才覚を認められ織田家の筆頭家老として地位を占める
そして、あの覇王織田信長の養育を担当した事は特筆すべきであり、まさにこれは彼の教育の賜物であろう

政務においては堅実な行政手腕
策謀においては、信行に謀反を煽り、信長に討たせる事で織田家の後継者争いにピリオドをうち
外交においては清洲同盟を取り仕切り
教育においては信長、信忠の教育を担当し超一流の武将にしたてあげ
軍事においては水軍を率い長島一向一揆を粉砕するなど

まさに万能の天才といえる。
目立った功績がないように見えるのは、彼自身が非常に謙虚で決して功績を他人に
ひけらかしたりしない性格が所以である
この謙虚な姿勢と堅実な働きは、甲斐の虎、武田信玄にも絶賛され
「静かなること、林の如し」と、まるで師の如く武田軍に模範されるほどである

1580年
その才覚を妬まれた奸臣の讒言により追放される
バランサーを失った織田家は急速に傾き
本能寺の変がおこるのはこの二年後である
実質、織田家は林一人の名望により存続しえていたと言っても過言ではなかった

137:人間七七四年
07/03/20 04:11:45 Uz5jRjtQ
なお
安土城落成の際において
信長が一番最初に城内を観覧させているのがこの林であり

この時、信長は林にこういったと言われる
「どうだい。爺や。僕は爺やのお陰でここまで成功する事が出来た。
安土城一番乗りは爺やと前々から決めていた」

これを聞いた林は号泣したと言う

138:人間七七四年
07/03/20 08:31:41 P+I5E3rl
どのネタも秀逸だがどう見ても手を抜いて書いたと思われる>8で腹を抱えて笑った

139:人間七七四年
07/04/03 10:52:25 Oth46f+t
三戦板でよく書いていた者だが、今日やっとここを見つけたよ。

大野治長とか六角義賢とか可児才蔵とかを書きました。
黄蓋をマゾにしたのも俺です。

まとめサイトが消えてしまったのが哀しい・・・。

140:人間七七四年
07/04/06 16:05:55 pTf/253x
>>132
金箔ゲラゲラ
>>136
『静かなること林のごとし』ゲラゲラ
>>139
新作ヨロシクです

141:人間七七四年
07/04/15 21:51:21 7W/nXCa0
>>139
おひさです。それがしも以前いろいろ書いていて、最近このスレを見つけました。
魏の五将や武田勝頼、安藤守就、柴田勝豊などを書かせていただきました。

まとめサイト消滅は惜しいですね…専ブラのキャッシュで読めるのですが、みんなで見れないとねぇ…

と雑談はさておいて、挨拶代わりに凡将を名将のように説明する凡作を。

142:人間七七四年
07/04/15 21:53:53 7W/nXCa0
大内義長
初名、大友晴英。大友宗麟の弟であり、大内氏最後の当主。
道義の廃れた戦国の世に義とは何であるかを示した名将。

幼いうちから優れた才徳を期待され、子のない伯父、大内義隆に養子として迎えられたのも義隆が
義長の才徳を特に見込んだためという。

その後、義隆が家臣陶晴賢(隆房)の謀反にあい横死した後、晴賢が傀儡とするために新当主に
据えられたが、少年とはいえ才徳を期待された義長が謀反人晴賢の言うがままであったのは
密かに期するものがあったためと言われる。
その証左として上げられるのが、才徳にあふれる義長が晴賢に擁立されてからは何ら積極的な
行動を起さなかったことである。晴賢の元に大内家臣が一丸とならず晴賢の謀反に反対する声が
やまなかったのは、義長が何一つ晴賢のために行動しないのを見て多くの家臣は晴賢に義がないと
考えたからという説が有力である。
もう一つは、晴賢と毛利元就との謀略戦での対応であり、この時英明な義長は元就の謀略に
気付いていたが、あえて無関心無言を貫くことで間接的に謀反人晴賢を陥れたと言える。

このようにして、英主義長が晴賢の謀反に組せずその非を鳴らした結果、当然の帰結として晴賢は
厳島合戦で毛利元就に敗北、自害。その後の義長の自刃は、謀反人には必ず報いがあることを
示すためとはいえ大内家を断絶させたことを先代義隆に詫びるためといわれている。
この義長の最期については元就が宗麟に弟の命を助けようか、と問うたところ、宗麟は弟が死んでも
恨みに思わないが大内家伝来の茶器を所望する、と答えたという。
これはそれぞれ二つの解釈があり、元就は義長の才気を惜しんで助命の口実を作ろうとした、
あるいは元々義長を生かすつもりはなかったが英主義長の殺害の汚名を一人で着るのを嫌った
という説、宗麟は義長が大内家を断絶させてまで生きるつもりがないことを分かっており、せめて
大内家伝来の茶器を大友家が持つことで義長の義挙を後世に伝えるつもりだった、あるいは義長が
助命されて大友家に送られると己の地位が危うくなるため茶器に事寄せて元就に殺させたという説、
それぞれが唱えられている。

いずれの説によっても、義長が大友宗麟と毛利元就という時代を代表する名将から懼れられるほどに
認められていたことは変わらず、これだけをとっても大内義長という武将がいかなる人物であったかが
うかがえるといえよう。

143:人間七七四年
07/04/30 01:33:34 cATE59Kn
>142

。・゚・(*ノД`*)・゚・。

職人の復活に嬉し涙が出た

今後も楽しみにしてます!

144:人間七七四年
07/04/30 04:51:08 0jbQxdHZ
>>142
で、結局何が言いたいの?

145:人間七七四年
07/04/30 10:14:25 iGvouTfc
>>144ニュー速+民乙

146:人間七七四年
07/04/30 10:35:49 u7QHJqFS
朝倉義景

朝倉義景は越前50万石を治める名門朝倉家の当主である
信長や謙信ですら苦戦した一向一揆と戦い続け、その領土を守るだけでなく南方の浅井家や西方の武田氏を守るために何度も兵を繰り出していた
その武勇の誉れの高さに時の将軍、足利義昭が頼り上洛してくれと頼んだほどである
しかし当時の三好家は長慶が死んだとはいえ三好三人衆や松永がまだまだ畿内を制圧していたため時勢の読める義景はあえて兵を出さなかった
いつか三人衆と松永が対立し、三好が内部から崩れると考えていたからである そして実際三好は崩れた しかしその頃には足利義昭は既に信長を頼って織田家に身を寄せていた
そのため朝倉家は上洛できず、織田家は六角氏や北畠氏を滅ぼし堺を手中に収め更に勢力を広げていった
その一方で義昭の権力は落ちていった 元々信長は義昭に再び天下を取らせてやる気などなかったのである
義昭は完全に身を任せる相手を間違えたのである 義昭は朝倉氏に信長と対立するように呼びかけた
義に厚い朝倉義景は一度は裏切られた相手の願いを受け入れて自分の4倍の領土を持つ織田家と戦うことを決意した
しかし信長の力は凄まじい 何しろ信長が半分の兵を動かすだけで朝倉家の2倍の兵力が動くのである しかし義景は確信していた この朝倉討伐の兵は引き上げると
義景は浅井氏が裏切ると読んでいたのである いや、当主や重臣が信長の味方をしたとしても国人や武将たちはどうか 朝倉との付き合いは長い 織田とはほんの数年の関わりである
浅井の家臣の一部が織田を攻め、織田は挟み撃ちになった 信長は桶狭間以来の窮地に陥ったのである
しかし義景はあまり追撃をしなかった 裏切ったのは所詮浅井のほんの一部で、下手に攻めれば2倍以上の兵力を持つ織田家に潰されると考えていたからである
この思慮深さがすぐに物事を自分勝手に決めてしまう信長と戦い得た一番の理由であろう 実際、何も考えてなかった武田はさっさと滅ぼされた
その後軍勢を立て直した織田・徳川連合軍と姉川で戦う(姉川の戦い)が、小競り合いだけで終わった
後にこれは徳川史観により朝倉が寡兵の徳川に負けただとか寡兵の浅井が織田家相手に善戦したとかありえない話に書き換えられたが、これは徳川が朝倉をそれだけ恐れていたということだろう
そして、ここからが朝倉義景の本領発揮である 本願寺と共同で信長を再び追い詰めたのである
これに対し信長は反則技を使うしかなかった 信長は朝廷を頼り、朝廷の権威で朝倉を引き上げさせた 信長が形振り構わぬ程にまで追い詰められたのはやはり桶狭間以来である
信長は朝倉義景様が天下の盟主です、織田家では敵いません といった手紙を義景に送っている 信長は謙信や信玄にも同じような手紙を送っているがこれだけへりくだった内容は朝倉氏に対してのみである
対織田家で武田や上杉が全く役に立ってない(捏造の歴史でいかにも信長を追い詰めたように見せているが)のに対し朝倉は4倍以上の勢力の織田家を追い詰めたのだ
信長にとっては馬鹿の謙信や信玄よりもよっぽど恐ろしい存在だったのだろう
しかし相手はやはり4倍以上の勢力を持つ織田家である おまけに明智光秀や羽柴秀吉といった反則的な部下もいる
明智光秀はかつて朝倉にも仕えていたのだが義昭についていってしまった その後信長に取り入り部下となった なんと腹黒い奴であろうか
羽柴と明智によって朝倉は崩された 武将は次々と離反し、組織として朝倉は弱体化していった
そして一乗谷の戦いが起きた 不利を悟った義景は兵を引き上げさせた この素早い判断は英雄にしかできない 決断力も義景は持っていた ・・だが、ここで信長は今までにない革新的(日本史においては)なことをやってのけた
追激戦である 追激戦なんてそんな珍しいものではないと思われるかもしれないが戦国時代に追激戦というのは殆どなかった あまり相手の領土の者を殺すと後々面倒だからである
信長の凄まじいまでの追激戦がはじまり ・・遂に、朝倉義景は自害に追い込まれた
ここに信長を最も追い詰め、苦しめた大名 朝倉義景は死んだ 彼の死により信長包囲網は崩壊
以後武田でも毛利でも上杉でも朝倉家の代わりはできず、信長を追い詰めることすらできなくなったのである

ちなみに、一乗谷に街を栄えさせた文武両道の名将だったといわれている

147:人間七七四年
07/04/30 12:03:45 b5R2fhsh
>>146の文才及び日本語能力の低さは異常。
小学生ならまぁまぁかな。

148:人間七七四年
07/04/30 13:20:22 vRG2JwNr
あと、「西方の武田氏」って安芸武田かい?
さらに言うと、本当の名将なら三好三人衆なんてちょろいもんなんだよ…ってこのスレの意義に反するか

149:人間七七四年
07/04/30 14:06:09 qT8FQ5LP
若狭武田だろ

150:人間七七四年
07/04/30 16:12:49 6jQvDx/X
京極高次
京極氏はばさら大名として有名な宇多源氏佐々木道誉の子孫であり、
室町幕府の四職を務める名門である。高次はその京極氏の当主として戦国時代後期に
その名を馳せた名将として知られ、領地や地位よりも戦場における派手派手しさや
楽しさを追及し、一方で妻を愛でた、戦国随一のばさら者でもある。

秀吉や家康よりも一世代下になる高次は最初信長の元に人質として出されそのまま仕えるが、
若干20歳のころに本能寺の変に遭遇する。この時高次は信長の薫陶を受けて得た戦略眼で
光秀の敗れを予見したが、義兄弟の武田元明が旧領回復のため光秀に付いたのと、
何よりただ勝ち馬に乗るのは詰まらない、という理由からあえて劣勢な光秀側に付き、
秀吉の本拠、長浜城を攻めて武名をあげる。

戦後、秀吉は高次を敵に回すのは得策でないと考え、武田元明は処断しつつも高次の姉
(妹とも)竜子を側室に迎えて懐柔した。秀吉がここまで腰を低くしたのは他に家康程度であり、
高次に海道一の弓取りと同等の評価を与えていたことがうかがえる。
しかし、ばさら者の高次にとっては世間の評価もさほど気にならなかったと思われ、
それを秀吉も感じて改めて、お市の方の次女、お初を妻にさせる。
長女のお茶々は秀吉の側室であり、三女のお江は秀忠の正室であることからも、
秀吉が高次に気を使っていることは明らかである。

秀吉政権下では美貌の妻を愛でつつ、秀吉の戦は物量で押すだけなので詰まらぬ、
とばかりにさしたる働きもせずに呆けていた高次だが、関ヶ原の戦いが起こるに至って
要衝近江大津城を押さえる高次のところに東西両軍から誘いが掛かる。
当初、高次はこの戦は家康の勝ちと見て、本能寺の変のときと同じように三成方へ付こう
とするが、家康が会津征伐に行き、上方を打ち捨てると知って俄然考えを変えて家康方に付く。
これは家康が説得したのが奏功したともいえるが、ばさら者の高次が三成方の軍勢を受けて
戦を楽しもうとした、と理解するのが正しいと言える。

実際、関ヶ原の戦いでは伏見城の鳥居元忠が玉砕、丹後田辺城の細川藤孝が1万5千の兵に
攻められて和議となり、大津城に立花勢ら4万ともいう大軍を引き受けた高次は
後詰もない中で城兵をよく掌握して奮戦した。
己の身に矢傷を負っても城を抜かせないの高次の勇猛ぶりは京にまで伝わり、
ばさら者高次の雄姿を一目見ようという民衆が集まったほどである。
10日間に渡って城を守りぬいた高次はそろそろ家康と三成との決戦が付くと読み、
関ヶ原での両軍激突の前日に北政所の敬意を表する形で開城するが、
これは決戦の時まで守り抜くのは名を誇示する行為であり、かえって己の身を
危うくする元となる、と考えた高次なりの出処進退であったと思われる。

なお、余談であるが、近年戦国時代を舞台に大名が先陣をきって大軍を打ち破っていく
アクションゲームの中に、「戦国BASARA」なるゲームがあるがこのタイトルは
戦国時代のばさら者、京極高次の大津城攻防戦での活躍をモチーフにした、という説が
有力である。

151:人間七七四年
07/04/30 22:06:06 IaXxcHje
北信濃の井上氏をどなたかよろしく!

152:人間七七四年
07/05/19 15:11:18 WcaaPbZu

コンニチハ!今川義元です

さっきランチしてたら
信長に襲われちゃったよ~

あのガキ、マジムカつく~

153:人間七七四年
07/05/21 12:58:00 urp1TnNp
直江兼続をお願いします。

154:人間七七四年
07/05/22 00:14:37 WJyPH1eG
直江兼続  愛深きゆえに…ry

155:人間七七四年
07/05/22 23:26:29 uEe37pjA
伊東義祐をお願いします。

156:人間七七四年
07/05/23 01:52:42 xRF7dClu
伊東 義祐→日向のアホ

157:小西行長
07/05/23 02:17:11 AcA44434
関ヶ原、多くの義将達が咲き乱れ、散っていった大戦。
幼い秀頼、心から尊敬した天下人秀吉、運命に苦悩する一人の女性「淀」を守るために戦った石田三成。
親友のため、自ら盾になった。命を燃やした討死…大谷吉継。
数多の名将たちの最後…彼は夕焼けに何を見つけたのだろうか…
   義の名将   小西 行長
彼は切支丹大名として有名である。九州の一部を豊臣に任された将であった。
島津家、立花家、黒田家、加藤家、小早川家、名将たちの激戦区…九州。
東軍と西軍に二分され謀略と裏切りが覆い尽くした。

そんな時代を生きた彼の出自は商人であった。生まれたのは京都である。
このころから、商人である父の影響で切支丹となる。
最初に仕えたのは裏切りの将と言われる、宇喜多直家。行長は主に外交の仕事を任された。
だが、圧倒的な勢力を持った織田家には逆らう事は出来ず、ついに降伏することとなった。
その時、活躍したのが小西行長である。羽柴秀吉との交渉により戦をすることなく降伏できた。
その後、小西行長の実力を見抜いた秀吉は行長を自軍に取り入れる。

九州征伐では国人を敗退させ24万石の城主となる。
秀吉は朝鮮を攻める際に先鋒として行長を派遣する。加藤清正にも劣らない大きな武功を立てた。交渉だけでなく、戦でも力を発揮した。
朝鮮攻めが不利になると得意の交渉で切り抜けた。

そして、運命の関ヶ原…激動の人生の終わり…。
戦は東軍の圧勝。義将として戦いぬいた行長は三成、安国寺と共にに処刑される。
そうして、名将「小西行長」の人生は終わりを迎えた。
正義を貫いた彼は天界で永遠の幸福を手に入れたのだろう…


158:157
07/05/23 02:26:19 nhz7ZWj0
申し訳ないがなんか普通だぞ

159:人間七七四年
07/05/23 02:31:00 6oz8zWW3
小早川秀秋
初陣は

160:人間七七四年
07/05/28 05:53:30 f4ot5Juw
小西行長は普通に名将でそ。
加藤厨のせいで悪く言われてるだけ。

161:人間七七四年
07/05/30 02:51:12 6KYj0sFZ
以前ショウ欽を書いたけど、まさかあんなブレイクをするとは思わんかったなぁ

162:人間七七四年
07/07/01 02:46:08 6Xb5QYmD
あげい

163:人間七七四年
07/07/01 12:43:08 ddi8bq+3
小西が名将な訳ないだろ。
関ヶ原においては開戦して真っ先に総崩れして宇喜多に大迷惑させた凡将だよ。
この戦い振りで朝鮮での武功もかなり疑われた。
鍋島にも馬鹿にされてるし凡将の条件が整っとるわ


164:人間七七四年
07/07/03 00:19:15 dpo5BGie
まあまあ

165:人間七七四年
07/07/03 13:45:59 uTAwxaBm











166:人間七七四年
07/07/03 15:13:07 HBJvx7kz
河野通宣(こうの-みちのぶ)?-1581
別名通賢。通称宗三郎、四郎。官位伊予守、左京大夫。

1543年、兄晴通の早世により家督を継ぐ。
この頃の河野氏は先々代通直(弾正少弼)により引き起こされた後継問題による
統率力の低下、細川(三好)、大友、大内、長宗我部等外敵の進入に悩まされていた。
また通直も後見人として権力の座には残っており、これも通宣を苦しめる事となる。

通宣は内訌に対しては名将平岡房実を起用する事で鎮圧に成功。
また対外関係においては大内、尼子を滅ぼす前の毛利元就と手を結ぶ事を決断し
厳島の戦いにに来島水軍を派遣。これにより毛利氏と河野氏の間に友好関係が
築かれる事となり、この関係は以後自慢の海軍力共々外敵を退ける大きな力となる。
更に低下した権威の強化にも着手、朝廷から左京太夫を受任する。

1568年病に冒される。万一没した場合混乱しない為、また再び継承問題にならぬ為
家督を妾腹の子ではなく一族の牛福丸(通直、伊予守)に譲る事を決断。
なお後見人に悩まされた経験からかこののち通宣が主だった動きをすることは無くなる。

1581年死去。数年の後に半ば騙されるような形で河野氏は滅ぶ事となる。
仮にもう数年長く生きる事が出来たならば河野氏は滅亡をまぬかれたかもしれない。

167:人間七七四年
07/07/04 10:31:26 NlVRZQEO
放浪の風雅人、伊東義祐

168:人間七七四年
07/07/24 00:34:49 QsQkxWwx
高梨政頼をお願いします

169:人間七七四年
07/07/25 12:48:43 8Ve2tWay
懐かしいスレだな。
昔幸村とか氏政とか黄祖とか書いたわ

>>168
素で上手く生き抜いた感があるので難しいが、
後でやってみよう

170:人間七七四年
07/07/25 20:21:34 6Gp3m6/H
高梨政頼
北信濃の豪族。隣接する越後長尾家とのつながりが代々深く、
政頼も長尾景虎(後の上杉謙信)が宗家を継ぐ際に与って功があった。

政頼の代の高梨氏は、信濃中北部で勢力を伸ばした村上義清に
しばしば戦を仕掛けられたが、彼の戦略眼は更に南の大敵、
甲斐武田氏を見据えていた。
このため、武田氏が村上領を侵す動きを見せた天文17年には
長尾氏の内乱鎮定に事寄せて敢えて越後に滞留し、
同じく19年には当時高梨領へ攻め込んでいた村上方からの
身勝手な和議申し入れに快く応じている。
こうして高梨家の脅威から逃れ自衛に専念できた村上義清が
武田に大打撃を与えたのが上田原の戦いと砥石崩れであり、
政頼のお膳立てが戦の趨勢を決めたことは当時から常識だった。

このように政頼の掌の上で北信への防波堤を演じた村上氏も
やがて自滅の形で勢力を失い、高梨氏は直接武田氏と対峙した。
このとき政頼の取った策は広大な自領を退却し続けることで
武田を懐に引きずり込むという大胆なもので、
決して押し捲られての敗走でない証拠に、永禄4年の
長尾氏の関東出兵に際しては自ら援軍として越後入りする
余裕を見せている。
政頼の来援により留守中の春日山城防衛の問題が解決したことから
景虎は勇躍征旅につき、政頼もこれに応え外敵を一切寄せ付けなかった。
このとき遠征の矛先となった北条氏政は「高梨殿が居らねばかような
憂き目は見なかったものを」と嘆いたと言われる。

遠征から戻った長尾景虎改め上杉政虎は政頼の功に報いるべく
直ちに信濃へ出兵、これにより起こった川中島合戦では
政頼の策により深入りしすぎていた武田軍は
一門の左馬助信繁をはじめ有力な大将と多数の兵を失い、
後の武田家滅亡の遠因をなした。

その後政頼は越後の地で静かに世を去り、
その末裔は上杉氏とともに会津へと移ったため、
信濃の地で高梨政頼の名を記憶する者も稀となった。
しかし、自らが戦わないことによって
大きな勝利を掴み続けた知将の生涯は深く人々の心に刻まれた。
後世、武田信玄がこの地方の英雄としてもてはやされ、
その姿を孫子の信奉者、戦わずして勝つを最上と唱える大将
として描く創作物が百出したが、その種の名将譚の源は、
皮肉にも武田に対してそれを実践した高梨政頼の伝承から
発しているのである。

171:人間七七四年
07/07/25 22:00:17 27+3l7IS
まとめ作りました。
まだ途中ですが・・・。
URLリンク(www37.atwiki.jp)

172:人間七七四年
07/08/01 02:29:24 R2Ic3z9e
>>170素晴らしいです。
須田満親や井上昌満もぜひお願いします。

173:人間七七四年
07/08/06 16:54:31 83SxxMI2
有馬豊氏

有馬氏は名門赤松氏の庶流であり、豊氏はさらにその庶流の出である。
秀吉に従い2万石を領した有馬則頼の次男であり、豊臣秀次の付け家老であった渡瀬繁詮に家老として3千石で仕えた。
しかし、繁詮は文禄4年の秀次事件に連座し、改易の上切腹となってしまう。
秀次が処罰されるとその家老であった繁詮が切腹したように、繁詮が切腹となればその家老も罰を免れないのが普通である。
だが、豊氏は違った。秀吉は繁詮の遺領横須賀三万石をそのまま豊氏に相続させ、しかも渡瀬氏の家臣はみな豊氏に付き従ったのだった。
この異例の大出世は、秀吉も豊氏を高く評価しており、周囲からの人望が厚かったことの証拠だろう。

秀吉が死に、天下が東軍と西軍に分かれると、豊氏は時流を読み誤ることなく家康に味方した。
そして関が原の前哨戦において、岐阜城攻めで活躍する。この活躍に、西軍は大きく怯んだ。
西軍の士気は著しく低下しており、とても決戦を挑める状況ではなくなっていた。
この事態を打開するため、石田三成は腹心の島左近に有馬豊氏隊への奇襲を命じた。
島左近は有馬豊氏・中村一栄隊に奇襲を仕掛け成功するとすぐに退却した。有馬・中村両部隊は島左近を追撃し、杭瀬川を渡るが、
明石全登の伏兵に横腹をつかれて敗走してしまう。これが杭瀬川の戦いである。家康はこの報せをきいてひどく不機嫌になったという。
だが、この戦いは、ただの豊氏の敗戦だったのだろうか。そうであるならば、なぜ戦後に豊氏は石高2倍という大加増をうけたのだろうか。
杭瀬川の戦勝にわきたつ西軍はこれにおいて決戦への決意をかためた。そうして行われた一大決戦は、周知の通り、東軍の勝利に終わる。
つまり、豊氏の敗戦こそが関が原の戦いの鍵だったのである。当初不機嫌になった家康も後に豊氏の深謀遠慮に気付いて加増を行ったのかもしれない。
島左近は名将として知られるが、杭瀬川で有馬・中村隊を誘き寄せ破ったとはいえ局地戦に勝利したに過ぎない島左近と、
局地戦に負けることによって西軍を慢心させ決戦へと誘き寄せ、家康を天下人へと押し上げた豊氏を比べれば、その将器の差は歴然であるように思われる。
こうして、豊氏は福知山6万石を与えられ、慶長七年に父、則頼が世を去ると、その遺領2万石をも加えたのだった。

大坂の陣には両度とも出陣した。豊氏の戦功が如何に大きかったかは、
戦後に13万石も加増され、久留米藩21万石を領し、準国持ち大名になったことからも明らかである。
大坂の陣で木村重成と長宗我部盛親を破り、窮地に陥った秀忠を救い、淀殿・豊臣秀頼を自害に追い込むという
華々しい活躍を見せた井伊直孝の17万石の加増には劣ると思われるかもしれない。
しかし、井伊の加増は約2倍で、譜代の信頼できる臣を強大にする目的もあったと考えられるのに対し、
豊氏の加増は約2.5倍で、徳川が大大名を極力減らしていく方針のなかでの、豊臣恩顧の大名への加増であることを考えれば、
豊氏こそが大坂の陣における戦功第一であったと推測するのに何の問題もないだろう。
ただし、直孝の活躍が前述の通り具体的に残っているのに対し、豊氏の手柄は首級五十七というだけしか残っていない。
ここから考えると、豊氏の兵法はそこに布陣しているだけで全軍の戦いを大きく助けるようなものであっただろう。
ただそこにいるだけで偉大な戦功を立てるような名将は世界的に見ても少ない。豊氏こそはその一人であったに違いない。
皮肉なことだが、豊氏の名があまり知られていないのもこのような豊氏の兵法に原因があると言えよう。

こうして豊氏はわずか20数年でたったの3千石から久留米藩21万石を築き上げた。
乱世においては、秀吉や漢の高祖のように、大出世を遂げことができる。
しかし、豊氏の出世は、秀吉によって天下がほぼ定められてからの出世で、しかも天下人の譜代ではない。
もし、豊氏が生まれるのが10年はやかったらどうなっていただろうか。

豊氏の子孫、伯爵有馬頼寧は大政翼賛会事務局長となり、戦後は日本中央競馬会第2代理事長として辣腕をふるい、
その名を有馬記念に残した。こうして『有馬』の名は、今でも日本人に親しまれているが、
その家を興した稀代の名将、有馬豊氏の名はあまり知られていない。

174:人間七七四年
07/08/09 19:46:03 nhqsvTyo
>>173
かっこいい!惚れた!
是非、豊氏公で大河を!!民放の長時間ドラマでも良い。JRAドラマスペシャルとかね…(w)

175:人間七七四年
07/08/25 14:27:58 ldoBbgcJ
保守

176:takeda
07/08/28 18:00:02 AW4Of/MP
跡部勝資頼みます。

177:人間七七四年
07/08/29 19:11:28 dGBzCQm9
跡部勝資

武田信玄・勝頼の二代にわたって仕えた名臣として知られる。跡部氏は甲斐の名族で、
勝資の父信秋は武田信虎・信玄に仕えていた。代々内政を担当したために信玄が
取り立てた武闘派に不当な罵りを受けることも一再ではなかったが、それによく耐えて
長坂釣閑斎とのコンビで勝頼を支えた。
武将としての気骨を見せた一面もあり、信玄没後に武田家中が消沈していた天正二年
には美濃の飯羽間城攻めを勝頼に進言して見事に成功させ、家中を大いに活気づけた。
長篠の合戦においても、主君勝頼を身をもって守り、無事甲斐に撤退させた功労者で
あったとも言われる。

天正六年越後の上杉謙信が死するや、後継者をめぐって景勝と景虎の二人の養子が
争う事態になったが、このときも情勢を冷静に見極め、景勝との同盟を積極的に推進した。
武田家が天正十年まで延命できたのはひとえに跡部の奔走によるといわれる。景勝との
同盟交渉においては、景勝が約束したにもかかわらず払わなかった黄金五百両を同族の
勝忠に命じて催促させ、武田家の財政好転にも大いに貢献した。このとき彼が上杉家から
二千両の賄賂を取ったという俗説があるがむろん偽りである。正しい史料では上記の通り、
進上金の全額が五百両であった。どうして二千両の賄賂を景勝が与えることがあろうか。

天正十年、勝頼に殉じて田野で没した。景徳院の戒名に「跡叟道張 跡部尾張守」とある
のがその証拠である。最後まで勝頼を支え続けた生涯であった。

178:人間七七四年
07/08/30 22:30:39 iJS112pa
跡部勝資は普通に凡将でもないと思う
猛将や名将でもないけどさ

179:人間七七四年
07/09/01 04:13:45 x1hDn15+
奸将とでも呼ぼうか

180:人間七七四年
07/09/05 19:56:09 ugKwzZ8d
保守

181:人間七七四年
07/09/10 18:06:33 FwAAONDb
織田秀信で誰か。

182:人間七七四年
07/09/10 20:05:43 /Pg5FF9b
秀信は>>81-82にあるよ。

183:人間七七四年
07/09/11 19:04:12 9ao3pimq
スマヌ、首つってくるよorz

184:takeda
07/09/16 16:08:07 cpmegxiC
三村家親おねがい

185:人間七七四年
07/09/17 13:14:51 2GguI4aH
凡将って誰だよ

186:人間七七四年
07/10/08 09:06:50 sCP6yVIL
三村家親

戦国大名 備中国松山城城主 天下人家康が恐れていなかった人の一人。

備中守護家である細川家の支配力が弱まり、尼子家の影響力が及び始めた難しい情勢の中、抜群の政治感覚と卓越した将才で確実に勢力を伸ばしていった。
家親対策で疲弊した尼子家が、逆に家親の命を受けた毛利家に横腹を突かれ滅びることとなる。
三村毛利同盟の際に、毛利家当主元就が家親の人となりに深く敬服し「備中より西は元就にお任せあれ、家親殿に東(天下)は託し申す」と話した事は有名で、これを聞き及んだ織田信長、徳川家康が同じような同盟関係を持って成功した。
また、家親の存在により元就は天下を断念し、息子たちに天下六分の一衆こそが毛利家安泰の道と諭すこととなった。
その後、家親が瞬く間に備中を掌握し、美作、備前の攻略を開始。緒戦を勝ち近隣諸国にその才能が改めて恐れられたが、軍議中に銃撃により暗殺される。
暗殺は宇喜多直家の謀略と言われているが、強力な支配者の登場を恐れた天皇家陰謀説や、家親を恐れ過ぎた毛利家の暴走など諸説がある。

余談ではあるが、家親は敵の防備が不十分と見るや、間髪いれず突入しかく乱する戦法を得意とし、
「三村のそのまんまツッコミ」と言われ恐れられた。

187:名将の愚将化
07/10/08 21:51:16 Mr/adkiW
朝比奈泰朝(1538~?)

今川家重臣。掛川城主。
1560年、今川義元に従い尾張に侵攻するが、桶狭間の合戦で義元が討死すると逃亡。
今川家の重臣でありながら主君・氏真の失政をとどめるどころか、
誤った謀叛の風説によって井伊直親を殺害するなど、率先して領内をさらなる混乱に導いた。
1568年、武田信玄・徳川家康が今川領に侵攻すると、
天命に見放された暗君・氏真を掛川城に迎え入れ、無駄な抵抗を継続した。
半年の籠城戦で今川・徳川双方に大きな出血を強いた挙句、結局開城している。
泰朝は、武田・徳川に流れる時代の流れを最後まで読むことができなかった愚将といえ、
その後の消息は明らかではないのも無理はない。

188:人間七七四年
07/10/09 06:20:55 VFpn8w09
三好吉房(1522~?)

大和の名族・三輪氏一族である三輪宣政の子。
はじめ母方の長尾姓を名乗る。弥助、一路。妻は瑞龍院日秀(とも)。
吉房は立派なヒゲを持ち、王者の風格があったと伝えられる。
妻の弟である木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の才能をいち早く見抜き、
その政戦にわたる天才を妨げることなく、天下の舞台で遺憾なく発揮させた。
いわゆる「豊臣政権」の実態が「三好政権」であることは、
吉房の長男の秀次(のち関白となる)と次男秀勝が秀吉の養子に迎えられ、
また三男の秀保が豊臣秀長の養子となっていることからも明らかである。
しかし、三好親子の実力を恐れた秀吉によって陥れられ、
三人の息子は非業の死を遂げ、吉房も不遇のうちに没した。

189:186
07/10/10 23:10:24 Xw29AKZx
書いてて何だけど、三村家親は凡将ではないですね。

190:名将の愚将化
07/10/16 10:43:28 28EC7hCJ
三村家親

備中一の男色(受け)武将

遠藤又次郎、喜三郎兄弟の短筒で出血死。
ケツの穴が小さかったとされる。

191:夜の部
07/10/18 01:14:32 QzK1DS2H
徳川家康
江戸幕府初代征夷大将軍。16人の子を成した名将。
これ以外に多数の落胤があるという軍神伝説もある。

織田信長
尾張の戦国大名。24人(男12人、女12人)の子を成した軍神。
父の信秀も26人の子をあげて名をとどろかせている。

豊臣秀吉
太閤。生涯に3人の子をなした凡将。しかも2人は夭折し、
ただ一人残った秀頼には「胤違い」がある。その説が正しければ愚将である。

武田信玄
甲斐の戦国大名。13人の子をなした名将。

上杉謙信
越後の戦国大名。お話にならない無能。

192:人間七七四年
07/10/18 19:12:18 KW2NhLNv
wwww
だが、最後は不能にすべきだったな

193:人間七七四年
07/10/19 12:35:32 qFQOfEYg
>>191
信長は信秀にガキばかり作ってたら領土紛争が起こるだろって言ったらしいが・・・
人の事いえんよな

194:人間七七四年
07/10/19 12:47:10 gCeuCxvE
信長も親に文句言いたい年頃だったんだよ

195:人間七七四年
07/10/20 05:08:28 DjI4WqZM
息子は多いにこしたことはないが、兄弟は少ないにこしたことはない

196:人間七七四年
07/10/22 20:49:44 IBxww/u6
今川氏真
蹴鞠の家元・飛鳥井雅綱に鞠を学ぶ。いわずと知れた軍神。

細川藤孝
蹴鞠、和歌、茶道、書道、料理、有職故実など諸芸に通じた万能の天才。

飛鳥井曽衣
名門飛鳥井家出身で土佐一条家に仕えた神将。長宗我部元親にも蹴鞠の指南をした。

長宗我部元親
分国法に「武士は蹴鞠や茶道なども大体はたしなんでおくこと」と記した名君。

金森長近
織田家臣。すぐれた茶人であるとともに、蹴鞠をこよなく愛した良将。

大友宗麟
京都の飛鳥井家から蹴鞠の免許を得、一代の繁栄を築いた名太守。

島津義虎
島津一門の薩州家当主。蹴鞠とともに和歌に通じた驍将。
1563年に上洛した折に飛鳥井邸で蹴鞠の会を主催したことが言綱卿記に記されている。

上井覚兼
島津家の柱石。邸内に正式の蹴鞠場を持ち、島津家の若侍に蹴鞠の修練をさせた。

樺山善久
島津家臣。飛鳥井氏に蹴鞠を学び、近衛前久からは古今伝授を受けた両道の名将。

伊集院忠棟
島津家の名家老。上洛した折に、飛鳥井家から蹴鞠の免許をもらったという。

八木正信
島津家臣の智将。真幸吉田の地頭職。蹴鞠の達人であり能書家でもあった。

島津家久
義弘の子のほう。飛鳥井雅庸に蹴鞠を学び、近世薩摩藩の基礎を築いた。

織田信長
軍神氏真に請うてその神業を披露されたエピソードで知られる。
蹴鞠を練習したが、足をくじいてやめたという。
名将に育つ可能性はあったが、努力を惜しみ凡将にとどまった。

―感想:島津家は蹴鞠で見ても鬼すぎる

197:名人の凡人化
07/11/01 21:21:01 tkrSAEe0
塚原卜伝(1489-1571)

今川氏真の剣術の師匠。

198:人間七七四年
07/11/20 01:11:12 CoE4Z0lr
ちょっと待ておまいら
困ったことに記述に間違いはないが素人にオススメできない展開になってきたぞ

少し罪悪感を感じる

199:人間七七四年
07/11/22 00:11:04 GACt/Jmw
そうか?
島津義虎とか金森長近も知らない戦国時代ド素人だけどオモシロイよ。
>>190-196は新しい方向性だし>>197は弟子で貶めるのがグッドアイデアだし。
3スレ目かつ戦国限定でネタ投下が少なくなってはいるけど毎回楽しみにしてる。

200:人間七七四年
07/11/22 23:39:21 niC0jEEj
井伊直政

見ず知らずのネコにホイホイついていくという聡明さを持った武将
そのおかげで命を救われたエピソードは有名である

そして何よりの功績はその事によって2007年の世に『ひこにゃん』を登場させた事である

201:人間七七四年
07/11/24 20:27:53 0zhUoR/V
>>200
志村ー、直孝、直孝!
それにしてもひこにゃん騒動は無事決着がつけばいいが。
元祖招き猫が騒動を招いたのでは洒落にならんってスレ違いだな。

202:kkkkukkk
07/12/01 19:06:11 l8gdZNlE
織田信忠でものすごいかっこいいように、御願いします。

203:人間七七四年
07/12/18 21:00:52 QjNSMjRR
織田信忠
親父が顔が変と思ったので幼名は奇妙丸。
親父と趣味、作戦、家臣の扱い等で時々口喧嘩になるヤンチャな青年期の途中、家臣の明智光秀に攻められ二条御所で自刃。
本能寺の変では親父に真っ先に疑われた親不孝者であった。



204:人間七七四年
07/12/19 00:19:24 HIMuGdNX
8:名無しでGO! :2007/09/29(土) 00:07:06 ID:VNrOn6vl0
逆撫裸 昌弘(さかさぶら まさひろ)
相模国程ヶ谷出身の自称「最強武将」
「潜在能力あり」「欠かせない人材」と自らを売り込み、相模国や武蔵野国周辺で幾多の家に仕えるも
武将としての働きはほとんどなく、むしろ軍規を破ること夥しく、流浪の人生を送る。
彼は女性に対する興味が常人の比ではなく、数々の女性に無数の書状を送ったがこの一部は
今も「偽婦賭(ギフト)」と呼ばれ、一部研究家から精神混濁状態の貴重なサンプルとして重要視されている。
また彼は生涯独身を貫き不犯を誓ったといわれている。が、これはただ単に
その機会に恵まれなかったため(いわゆる童貞)とされるのが今では通説となっている。
彼の名が知られるきっかけは、いわゆる「見えない敵を追っての一人働き」であり
北は陸奥、西は讃岐、果ては薩摩にまで転戦し、
時には夜を徹して徒歩で行軍するなど、その行動力は後世に名を残すものであった。
また、女性用武具を着用する肖像画を自ら公開することを好み
「逆撫裸(さかさぶら)」「川本降吐(かわもとふると)」「余皮本(あまりかわもと)」などの異名を持つことになる
後年は、軍規を破ることが知られ、どの家にも仕えることがならず自ら「なめってよ教」なる教えを説く日々であったという

(民明書房刊:戦国武将列伝その参 17010頁より抜粋)

205:人間七七四年
07/12/19 07:43:04 M+cqJFs6
織田信雄(1558~1630)
信長の次男
信長存命中は伊賀に無断で攻め入り見事に敗北。
本能寺の変のおりはどさくさに紛れ安土城を放火した疑い。
1584年小牧長久手の戦いでは単独講和。
1590年国替えを拒み領地没収。
1615年大坂の戦い陣のさいスパイ活動により5万石の大名に返り咲く。
信長の息子に相応しい波乱に満ちた生涯である。

206:人間七七四年
07/12/23 21:37:11 bcjIgfFc
うしお ゆききよ

尼子家臣。宇山久兼や佐世清宗と並び家老職にあった。
1511年の三好攻めを始め、対毛利元就の吉田郡山城攻めに従軍した。
尼子晴久の死後、当主の義久とともに月山富田城に籠城するも降伏。その後は行方不明となっている。
近代になって子孫が地元に『スーパーうしお』を作った。

207:人間七七四年
07/12/24 02:04:42 VUId/zs9
細川政元(1466~1507)
中世の日本に実在した魔法使い。

208:kkkkukkk
07/12/26 21:42:20 r/KssRAM
職人さん、織田信孝御願いします。

209:人間七七四年
07/12/27 00:54:12 7Bwc0Xvt
>>207
生涯童貞だったの?

210:人間七七四年
07/12/28 01:36:02 9M9T2jcX
>>209
信仰的理由、性癖で童貞だった可能性は高いが多分そういう意味じゃない

211:人間七七四年
08/01/18 00:01:34 gYZ6EvPL
木下藤吉郎(秀吉)(1536年-1598年)

尾張国中村の百姓として生まれ、織田信長に仕え、織豊政権時代末期に没する。
他家の養子となり天下人の後継と目されるまでに昇り詰めた豊臣秀次の叔父にあたる。
目端は利いたようで、浅井朝倉戦で功を挙げ、1573年に旧浅井領を与えられる出世を遂げたという。
しかし、翌年以後1598年に死亡するまで24年の長きにわたり、
「木下藤吉郎(秀吉)」の名が世に轟くことは一度も無かった。
彼が生きたのは織田-豊臣-徳川へと向かう動乱の世であり、
真に才のある人間であれば大活躍できた時代であったことは言うまでもない。


当時の常識を知らないので、間違いがあれば指摘をよろしく。

212:人間七七四年
08/01/23 16:56:31 wOQ3Dld8
たしか浅井朝倉滅亡前に木下藤吉郎の名は世に轟かなくなった希ガス

213:人間七七四年
08/01/24 02:43:18 0z4BRdf6
六角義賢
あの残忍な信長がなぜか許したくなるかわいいおじちゃん

214:人間七七四年
08/01/24 10:58:26 avghDesr
出自が百姓というのは出世物語を演出するための創作であって
土豪の息子であったという説が最近は多い。六角義秀に士官してた
時代もあり、秀吉の秀を賜ったという説もある。

六角氏はなぜか豊臣時代に復活し、他家、公家が首をかしげるほど
豊臣氏と緊密な関係を築いているのもそういう説が出る一因になっている。

215:人間七七四年
08/01/26 10:49:50 vEN+UPwl
松平広忠
三河岡崎城主。清康の嫡男。 徳川家康の父。
幼少期に敵の謀略に因り父を家臣に殺されて居城を奪われるも
復帰して近隣の水野氏、戸田氏と婚姻を結び、嫡男をも人質に出すなどの
巧な外交戦略で織田、今川の大勢力の狭間を生き抜いて
嫡子・家康の天下統一事業の基礎を作った。

216:人間七七四年
08/01/27 00:38:36 V+dmEJxI
>>212 >>214
ありが㌧。ようやく人大杉から解放されて書きこめた。
単に「尾張の国中村に生まれ」にすれば嘘ナシだったのね。
改名の時期は良く分からなかったので、改姓済みの年を書けば間違いではないだろう、と思って。
もしも改姓後も普通に「木下」と呼ばれていたら構想自体が崩壊するけど。

>>215
言われてみれば弱者が強い奴らにヘイコラしながら威を借りて生き抜くのは「巧みな外交戦略」。
納得。

217:人間七七四年
08/02/02 01:38:27 g46I2yQw
凡将って言われても
ナカナカ名前でてこないもんだなぁ

218:人間七七四年
08/02/22 16:23:00 yhTxo6Xa
落ちぶれた官僚家と四職(五職)あたりにウジャウジャ居る事にしる。

219:人間七七四年
08/02/22 16:49:29 yhTxo6Xa
別所長治
所司を務める赤松家を氏族とし、播磨に強大な影響力を持っていた。
当時日の出の勢いで近畿諸国を支配下に置く織田信長と早くから誼を持ち、時勢に迎合する姿勢を見せた。
しかし、織田軍の中国方面司令官が雑兵上がりの羽柴秀吉である事を知ると名族の節度を重んじ反信長勢力となる。
播磨の成り上がり者の織田家に与する勢力を駆逐し、中国地方の雄、毛利家と同盟し織田軍に対抗した。
一時は強大な織田軍を播磨から撃退し、播磨武士の気概を存分に発揮したが、
毛利家の消極的な支援により次第に劣勢に移り、播磨の攻防は籠城戦となる。
非常な織田軍の干攻めに二年も耐える等、非凡な将才をみせるが、
城兵の惨状を耐え忍ぶに及ばず、一族の命と引き換えに城兵の除名を懇願し切腹して果てた。
気概ある中にも情の深い良将であったと言える。

220:人間七七四年
08/02/22 16:51:13 yhTxo6Xa
非常→非情
面目ネ

221:人間七七四年
08/02/22 16:53:57 yhTxo6Xa
除名→助命 深く反省スル…

222:人間七七四年
08/02/22 18:25:42 /m9+6zeG
佐久間信盛 (1528-1582)

尾張国に生まれる。早くから信長の才覚に目を付け、信行謀反の際も信長に組する。
以後筆頭家老として織田家の中枢となり、政戦両面で活躍することになる。
織田家最大の畿内7ヶ国を支配し、隆盛を誇る。
「退き佐久間」の異名を持ち、撤退戦での采配は家中一であった。

三方ヶ原の戦いではわずか3000の兵で当時最強と謳われた武田軍27000の侵攻を防ぐ。
忠告を聞かず、無謀な野戦に打って出た若き家康の尻拭いをしたことになるが、激戦
の中佐久間配下の将兵にほとんど死傷者がいなかったことからも信盛の戦上手さが伺える。
その後信長最強の敵とも言える本願寺を担当する。
本願寺戦では持久戦を選択し、盛況を誇った本願寺を大幅に弱体化させる。
畿内からの本願寺勢力掃討はすぐそこまで来ていた。

だが、その才を恐れた信長により、不当な言いがかりをつけられ追放される。
失意の中信盛はこの世を去る。享年54歳。早すぎる死であった。
死後半年後に本能寺の変が起こるが信盛が生きていればこのようなことは起こらなかった
とも言われるが、黒幕は信盛とも言われる。真相は闇の中である。

223:人間七七四年
08/02/22 23:09:27 zt68n1K0
>>219
普通じゃないか?

224:人間七七四年
08/02/23 01:53:27 6KhSjSOU
219
嘘なしとワシの文才ではこれ以上は無理。
長治は周りの押さえが出来ない唯のボンボンだし・・・

225:人間七七四年
08/02/23 10:31:53 RihKRUK0
信州の井上昌満をお願いします

226:人間七七四年
08/02/24 03:10:48 8PVDSAiW
畠山高政(1527-1576)

■義・勇・謀を兼ね備えた将器

河内・和泉・紀伊の守護大名。
摂津守護である細川家が執事・三好家に牛耳られ、
京畿に政情不安が波及するのを目にするや、敢然として義軍を起こす。
道理を弁じ、武勇に優れた高政のもとには、
紀伊の雑賀衆、大和の国人衆がこぞって参じ、
10年以上にわたる三好軍との激戦を戦い抜いた。
1562年には、三好家随一の名将・三好義賢を討ち取っている。
この後、わが事成れりと心得た高政は、河内を捨てて紀伊に退去する。
事実、続く一年の間に三好長慶は乱心、一門の重鎮を粛清したうえ病死するのである。

■発展する民力を見守る

紀伊における高政は、情勢を静観し、国内統制に大鉈を振るう事はなかった。
このために根来・堺・雑賀にて鉄砲生産技術の自由な発展がみられ、
さらに軍事力そのものを輸出する「雑賀傭兵団」が成立しえたのである。
根来・雑賀衆は、高政の領国である和泉を実効支配し、この不世出の守護大名を盛り立てた。

■世の定まりゆく中

三好家の残党は内紛に陥り、京畿の混迷は深まった。
が、これがコップの中の嵐に過ぎないことを高政は見抜いていた。
最終的な支配者となる織田信長が上洛を遂げると、高政は織田家への臣従という英断を下す。
彼の護るべき二つのもの……自ら打ち立てた「義」、そして河内・和泉・紀伊の「民」。
高政は、守護大名という自らの顔さえも捨て、あくまで真摯に答えを出したのである。
1576年、没す。
信長による紀州征伐が行われるのは、その翌年であった。

227:人間七七四年
08/02/24 08:15:27 HK7RRM+B
追放されたことはスルーかw

228:人間七七四年
08/02/24 16:50:26 tTNa9B/n
仁科盛信(1557-1582)

■敗北した兄弟の系譜

武田信玄の五男。
1582年、武田家存亡の一戦、高遠城防衛戦に敗れた武将。
彼の敗戦により甲信の防衛線は全面崩壊。
兄・武田勝頼は軍勢の結集をあきらめ、
新府城を焼き捨てて敗走、当主・信勝とともに自刃することとなった。
甲斐源氏武田家滅亡の無念はいかばかりだったであろうか。
なお、盛信には複数の男子がおり、
彼らは誰一人討たれることもなく徳川家の旗本として存続、繁栄を謳歌した。

■諏訪の運命

高遠城主に盛信が配されたのは1581年。
高遠は伊那から諏訪への関門であり、兄・勝頼の本貫地とも言うべき場所である。
新任の盛信は民政に意を用い、人心収攬に成功したとされるがどうであろうか。
彼の統治はわずか1年。その後8年間、信濃は安定した統治者を失い、紛争地帯と化したのである。
信仰の中心である諏訪大社も織田軍に焼き払われ、30年余りも再建されなかった。
「五郎さまの頃はよかった」
諏訪の民のやるせない呟きが、善政の伝説へと転化していったのではないだろうか。

■高遠城の戦い

3万と称される織田の大軍であったが、武田軍に勝ち目が無いわけではなかった。
ひとつは、勝頼とその弟・盛信に心を寄せる精兵3千。
いまひとつは、敵の総大将・織田信忠である。信忠は血気にはやる猪武者であった。
強攻を下知すると自らも城内に突入し、城兵と切り結びはじめたのである。
ここが決勝点であった。信忠を討てば、敗走は無いまでも織田の進軍は停止していたであろう。
しかし、盛信の器はここまでであった。
既に有力な将兵を消耗し、決勝点を掴み取る余力は残されていなかったのだ。
満身創痍で割腹した盛信には、織田軍から「比類なき働き」と賞賛が手向けられた。
この翌日、信忠は諏訪に将旗を進めた。

229:人間七七四年
08/02/24 20:18:23 vZ4KX86O
焼味噌 (脱1572~不明)
三方が原の合戦において、神君徳川家康を心胆寒からしめ、この屈辱を忘れまじ肖像画を残す事になった。
結構臭ったと言われる。

230:人間七七四年
08/02/24 23:13:45 LgBzA/Jw
孕石元泰 (?-1581)

■忠義の武士

今川家の武臣。通称主水、藤六。
主君義元の覇業を助けつつ、駿府に構えた閑静な邸宅に憩うのを愛した。
ある日、隣家に転居してきた者があった。家主は少年で、小姓と若侍が同居人であった。
この日を境に、沈勇の武士・孕石元泰の人生は一転する。

■非行少年と大人の責任

少年は乱暴者であった。
同い年くらいの小姓を激しく罵る声が聞こえたと思うと、
縁側から突き飛ばされたと思しき落下音が響く。
若侍の止め立ても聞かず、床板を蹴立てるようにして出てゆく。
また飼っている鷹さえ少年を恐れ、隙あらば元泰邸へと飛び去り、静かな林に憩うのであった。
少年はこれを追い、幾度も元泰の閑静な庭を踏み荒らしては連れ帰るのだった。
元泰のたびたびの注意にも耳を貸さない。
そればかりか、「生意気な三河の小せがれめ」と悪罵されたかのように吹聴して回るのであった。
なんと狡猾卑劣の天性。断罪せずにいられようか。
しかし、元泰は耐えた。主君の悲願、東海道一覇のため。
少年は西三河の国人、松平氏の次期当主となる身だったのだ。

■因果は巡る

1560年、今川義元は尾張に遠征し、よもやの敗死を遂げた。
今川軍に従軍していたかつての少年、松平元康はただちに離反。
西三河の独立、三河一円の平定を狙って挙兵する。
ここに元泰の夢は断ち切られた。
「やはり、斬るべきであったのか……」
苦渋の元泰はひたすら軍務に精励するも、武田軍の駿府入城に遭ってついに屈する。
そして、1581年。高天神城の守備につく元泰の前に、彼は軍を率いて現れた。

徳川家康、高天神城にて得た捕虜を引見。
ほぼ全員を助命するも、元泰の名を聞くや
「昔の恨み、忘れたと思うてか」
と切腹を命じたという。
悪を摘み取れず、かえって増長させた元泰の上に、運命の断罪は下った。

231:人間七七四年
08/02/25 13:04:21 v7FyxU+B
>230
しらなんだ

切るべきだったね
小早川隆景がやったみたいに

232:人間七七四年
08/03/04 18:49:32 7tvtHBBZ
有馬 義貞 (1521-1577)

父の晴純から家督を相続し、幕府の相伴衆を務める。
先見の明があり、南蛮の力に目をつけた義貞は領内でキリスト教布教を許可した。
しかし、父晴純はこれに従わずに対立。家臣団も分裂した。
さらには竜造寺氏や大友氏から圧迫を受け、窮地に立たされた。

そんな中でキリスト教を家中に布教し有馬家をまとめ、
貿易による国力増加によって失った領土の分を帳消しにした。
劣勢の中でも家をまとめた義貞について、かのルイス・フロイスは
「詩歌に造詣深く、書道に巧みで、為政者としては老練慎重かつ賢明である」
と著書の『日本史』に書き残している。

義貞がよくまとめた有馬家はその子晴信の代に宿敵竜造寺氏を撃破。
豊臣家の九州征伐にも参加し本領を安堵している。
孫の直純の代では改易されるも奇跡的に復活した。
逆境の中でもその才幹で家を保った有馬義貞。
その一族ゆえに豊臣・徳川政権下でも生き延びることができたのだ。

233:人間七七四年
08/03/09 18:50:06 ZdQgTE3V
織田信邦…勤王を家訓とする名門織田家に生まれ、国持ち大名に準ずる待遇を受ける。
戦国最大の大名だった先祖信長の血を受け、兵法家や将棋棋士と交流し、
江戸城攻撃の議論に日夜興じた。
幕府にその才能を警戒され、左遷された後は、隠居ながら藩政改革に乗り出し、
将棋駒の技術者を上杉より派遣してもらい、今日の天童名産品の礎となった。

234:人間七七四年
08/03/09 19:17:04 ZdQgTE3V
堀尾忠氏…豊臣三中老の一人茂助の嫡男。
30歳以上も年上の山内一豊から相談役として敬われ、
関ヶ原では領土を城ごと家康に献上するというアイデアを思いつき、
かつ山内にアイデア横盗りすれても怒らなかったという大人物。
家康も抜かりなく堀尾を山内以上の二カ国の太主に抜擢した。
松江城には堀尾家の築城の才能が発揮され、今日も観光客で賑わっている。

235:人間七七四年
08/03/09 20:07:57 ZdQgTE3V
(逆)立花宗茂…城付き娘に頭が上がらなかった駄目亭主。
勝ち目の無い戦に籠城徹底抗戦を主張した戦略眼の無さは味方諸将を呆れさせた。
敗走の途中で仇の島津と出くわすも腰が抜けてしまい好機を逃す。
改易の際には多くの領民が惨めな姿を見に現れ、元領主に直接声をかけるという無礼な振る舞いに及んだ。
浪人時代には乞食同然の暮らしをしているのに家臣が粥を出すと激怒した。
あげくの果てに敵だった徳川にペコペコしてゴマをすり、大名に帰りざき、世間から「三成どのはあの世でさぞや良い味方を持ったと喜んでいるだろうよ」と物笑いの種となった。

236:人間七七四年
08/03/16 15:28:13 rugaeMnM
大崎義直 ?~1577
大崎家第12代当主。新井田頼遠の反乱が起きると、大崎家単独でこの乱世を乗り切るのは難しいと判断し、隆盛を誇った伊達稙宗に従属し、家名を保とうとする。
だが、稙宗の子・義宣が大崎家に入り、乗っ取りの危機を迎える。やがて天文の大乱が勃発するが、義直は義宣を敵として討ち、禍根を絶った。
それでも、伊達家は大崎家を併呑しようと、手先の葛西家を大崎家を戦わせる。だが、それも切り抜け最低限の独立を保つ。その一環として子・義隆に家督を譲り、名門大崎家はまだ朽ちていないことを内外に示した。
1577年、義直はついに逝った。名門の誇りは子・義隆にも受けつがれ、伊達政宗を一度は撃退している。だが、その後ついに大崎家は伊達の門前に馬をつないだ。
それはあたかも、蜜蜂の最後の一刺しにも似た名門の意地だった。

237:人間七七四年
08/03/17 00:57:04 B1w2zBNL
大崎義直って凡将なのか名将なのかようわからんわな

238:人間七七四年
08/03/17 07:31:13 njktPbZo
>>236


すげーうまい。

感動した。

239:人間七七四年
08/03/18 18:50:02 HMsWjkRb
今度は名将を凡将化 PART1
織田信長 1534~1582
信長は後年の広大な版図から、相当な傑物であると思われているようだが、実はそうではない。以下に真相を紹介しよう。

母親から疎まれ、十代は本当の不良少年であった。馬鹿なふりをしていたと言われるが、憶測に過ぎない。教育係・平手政秀の手を大いに焼かせた。
そういう状況だったので政秀は信長や織田家の将来を悲観し、1553年、ついに腹を切り諫死した。信長はこれをひどく悲しみ、ある程度はまともになった。

同年、正徳寺で舅・斎藤道三との会見が行われる。信長は「正装なんて面倒くさいよお」と思い、道中はいつもの「うつけスタイル」であった。道三は秘かに信長の身なりを見た。
この無礼者には略装で十分、と道三は思いこんでしまった。一方、信長は正徳寺に着くと「こんな正式な会見の時くらい正装しなければ」と思い直し、正装に着替えた。やがて会見の時間を迎えた
道三は、信長の正装を見て気まずく感じた。
どうみても自分のほうが場違いである。道三は不安になった。「信長はうつけでは無い。うつけを演じられる相当な切れ者だ。この男には、儂の子や孫では太刀打ちできぬ。斎藤家は織田の門前に馬をつなぐであろう」と。
信長はうつけの姿をあえて晒し、道三を油断させ、会見の場で正装することで道三を圧倒したと言われている。
だが、真相は信長の気まぐれにすぎなかったのだ。道三は策謀家であったが、それが却って信長がとてつもない傑物だと誤解させたのであった。

1560年、今川義元が西進し、上洛の途上にある織田家を滅ぼそうとしていた。
信長は義元を桶狭間にて奇襲したとか、情報を最大限に活用したとか言われている。だが、実は信長は半ば絶望していた。今川は父以来の宿敵。命乞いなど通用しないと考えたからだ。
信長は、もはや自暴自棄になって小姓数人と共に数騎で駆けだした。家臣達もそのうち気づいて、あとを追った。
織田軍は桶狭間山の付近に到着した。見ると、今川軍が陣取っているではないか。信長はそこへ猛烈な勢いで駆け上がった。家臣らあとにも続く。
信長はあまりに動揺しており、我を忘れていた。だが、今川軍はその鬼気迫る表情に圧倒された。
そうしている中、信長も訳がわからないうちに今川義元が討ち取られた。
巧妙な奇襲や諜報活動ではなく、まったくの僥倖によって桶狭間の戦いで信長は勝利した。

240:人間七七四年
08/03/19 02:55:42 DOiy+owm
>>239
ちょっと凡将には無理がある
これだけ運があるなら十分名将扱いされてもおかしくないわ

241:239
08/03/19 08:17:45 VpIjPsx9
>>240
うーん、やっぱ無理か・・・
凡将を名将にするより、名将を凡将にするほうが難しいな・・・下手すればただのアンチになるし・・・

242:人間七七四年
08/03/19 09:55:40 wRbiGS7l
伊達 政宗
生誕 永禄10年8月3日(1567年9月5日)
死没 寛永13年5月24日(1636年6月27日)

陸奥仙台藩の初代藩主。独眼竜の勇将として知られるが実は
自身が片目であることに深いコンプレックスを抱いており、死後
つくられた木像、肖像画を両目にするよう遺言で徹底するほど神経質な人物。
また、短慮ゆえの失態も数多い。畠山義継への5カ村以外残り全て改易という処遇は
父・輝宗の拉致・殺害事件にまで発展。大内定綱討伐の際の小手森城の撫で切りは
その残虐性ゆえに他の奥州諸将の不審を招き伊達家をより苦境に立たせた。
当時、天下をほぼ手中にしていた関白豊臣秀吉の私戦禁止命令を無視し芦名氏を滅ぼす。
時節を読めぬこの判断が小田原参陣の際に伊達家中を割り、あわよくば存亡の危機に陥った。
大崎、葛西の一揆扇動を裏で扇動するも失敗。証拠不十分としてかろうじて処罰を免れるも
先祖伝来の地からの国替えという恥辱を受ける。関が原の際はそれらの所領を復帰させるお墨付きを
得るも、南部領での蜂起扇動の疑惑により約束は保護。ここでも同じ過ちを犯し100万石を得る好機を
みすみす棒に振る。他にも禁経令への幕府の動きを読めないままでの支倉常長の派遣。
娘婿の松平忠輝の改易の一件など、目先の利益にとらわれて失態を犯す先見性に疑問符のつく判断が多い。
一時は若干23歳にして150万石の太守となる武勇を誇りながら結局、60万石程度の一大名に納まったのは
ひとえに彼の後先を考えぬ短慮によるものである。


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