08/02/22 16:49:29 yhTxo6Xa
別所長治
所司を務める赤松家を氏族とし、播磨に強大な影響力を持っていた。
当時日の出の勢いで近畿諸国を支配下に置く織田信長と早くから誼を持ち、時勢に迎合する姿勢を見せた。
しかし、織田軍の中国方面司令官が雑兵上がりの羽柴秀吉である事を知ると名族の節度を重んじ反信長勢力となる。
播磨の成り上がり者の織田家に与する勢力を駆逐し、中国地方の雄、毛利家と同盟し織田軍に対抗した。
一時は強大な織田軍を播磨から撃退し、播磨武士の気概を存分に発揮したが、
毛利家の消極的な支援により次第に劣勢に移り、播磨の攻防は籠城戦となる。
非常な織田軍の干攻めに二年も耐える等、非凡な将才をみせるが、
城兵の惨状を耐え忍ぶに及ばず、一族の命と引き換えに城兵の除名を懇願し切腹して果てた。
気概ある中にも情の深い良将であったと言える。