凡将を名将のように説明するスレ3at SENGOKU
凡将を名将のように説明するスレ3 - 暇つぶし2ch170:人間七七四年
07/07/25 20:21:34 6Gp3m6/H
高梨政頼
北信濃の豪族。隣接する越後長尾家とのつながりが代々深く、
政頼も長尾景虎(後の上杉謙信)が宗家を継ぐ際に与って功があった。

政頼の代の高梨氏は、信濃中北部で勢力を伸ばした村上義清に
しばしば戦を仕掛けられたが、彼の戦略眼は更に南の大敵、
甲斐武田氏を見据えていた。
このため、武田氏が村上領を侵す動きを見せた天文17年には
長尾氏の内乱鎮定に事寄せて敢えて越後に滞留し、
同じく19年には当時高梨領へ攻め込んでいた村上方からの
身勝手な和議申し入れに快く応じている。
こうして高梨家の脅威から逃れ自衛に専念できた村上義清が
武田に大打撃を与えたのが上田原の戦いと砥石崩れであり、
政頼のお膳立てが戦の趨勢を決めたことは当時から常識だった。

このように政頼の掌の上で北信への防波堤を演じた村上氏も
やがて自滅の形で勢力を失い、高梨氏は直接武田氏と対峙した。
このとき政頼の取った策は広大な自領を退却し続けることで
武田を懐に引きずり込むという大胆なもので、
決して押し捲られての敗走でない証拠に、永禄4年の
長尾氏の関東出兵に際しては自ら援軍として越後入りする
余裕を見せている。
政頼の来援により留守中の春日山城防衛の問題が解決したことから
景虎は勇躍征旅につき、政頼もこれに応え外敵を一切寄せ付けなかった。
このとき遠征の矛先となった北条氏政は「高梨殿が居らねばかような
憂き目は見なかったものを」と嘆いたと言われる。

遠征から戻った長尾景虎改め上杉政虎は政頼の功に報いるべく
直ちに信濃へ出兵、これにより起こった川中島合戦では
政頼の策により深入りしすぎていた武田軍は
一門の左馬助信繁をはじめ有力な大将と多数の兵を失い、
後の武田家滅亡の遠因をなした。

その後政頼は越後の地で静かに世を去り、
その末裔は上杉氏とともに会津へと移ったため、
信濃の地で高梨政頼の名を記憶する者も稀となった。
しかし、自らが戦わないことによって
大きな勝利を掴み続けた知将の生涯は深く人々の心に刻まれた。
後世、武田信玄がこの地方の英雄としてもてはやされ、
その姿を孫子の信奉者、戦わずして勝つを最上と唱える大将
として描く創作物が百出したが、その種の名将譚の源は、
皮肉にも武田に対してそれを実践した高梨政頼の伝承から
発しているのである。


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