08/08/27 05:12:46 cJGYsI0n0
思考は沢山の日常生活で考えたり感じたりした事柄をしまっておく棚がある。
これは思考のRAMという事です。
何かについて考える時に既にある雑念の棚から雑多なイメージ情報を取りに向い
それを元に答えを探そうとする。これではダメです。
正しい思考は消去法で、雑念の棚を空っぽにすることです。
空っぽになった棚があり、意識は棚に向わなくなります。
言って見れば肩に雑多な本を詰めたショルダーバックを担ぐようなものです。
肩の荷が下りてから、意識は自分の本当の知性に向えます。
座禅して無心になってから考えるとか無心無想無思で考えるというのはそういう事です。
念仏するというのも実は「なむあみだぶつ」という言葉の純粋な意味とエネルギーだけに
集中して幾つもあるそれらの本当の意味が内面から無心の内面から湧き起こるまで待つことです。
これが枝葉の知識情報に向わずに、根幹の理解に向う方法です。
自己の存在を無視して、自分の頭と心と身体とがズレている状態で何かを考えても
情報と情報が雑念と雑念、妄想と妄想の様に機械的に連結されて無意味で大切な何かを
忘れた状態での思考の空回りが起きます。
だから、座禅している状態で根幹から根幹の思索が湧き起こるのを待つ訓練が必要だと思います。