08/06/07 09:16:59 FpYbLJdv0
>>415
ダライラマを毛嫌いしているのではないぞ。罵倒するから嫌いという訳じゃない。好きかと言えば
好きでもない。嫌いかと言えば嫌いでもない。チベット密教は好きですか?と言われたら大好き
だと答える。チベットへの中国の弾圧反対運動は政治的な問題でチベットに味方しているのに、
日本人がチベット人の見方しているからと言って中国は悪い人、チベット人は良い人、良い人の
チベット人の代表者はもっと良い人という発想で見てしまうところに政治的人道的支援と反発を
信仰の問題とゴチャマゼにはするなと言っている。
これは宗教家としての指導者と政治的な指導者の両立は難しいという事でもあり、
良き政治家は宗教家としては必ずしも良き指導者である必要は無いという事だ。
この辺の問題を知的に厳しく分析していないと、それ自体が実は危険な状態なんだ。
これは日本の天皇制とも関連して考える事も出来る。天皇に政治的な実権が有って
戦争を実行した場合は負けても勝っても、司祭としての立場からは殺戮肯定は難しくなる。
それを法王とか司祭長としての天皇と政治的実権を分離した場合は勝っても負けても
権威そのものは失われない。
だから、ある時代になると法王、司祭長と政治的最高責任者の地位の兼任は難しくなる
ものだ。こけを宗教的な最高権威者が戦争責任者となると神仏の名の元に殺戮を支持する
事になるからその宗教的な国家は・・・・・・当然に危険な思想になって行き易い。厳密な
意味では本当に神仏の名の下に殺戮命令が下されるのかという疑問にぶつかる。これを
現実的な国家倫理としてならば侵略に対抗して国民を守るという大義名分が立つけれど、
精神的な悟りとかを目指す仏教教義の中ではそのまま肯定し難くなる。