08/06/04 02:19:26
中国の核はきれいな核
3:名無し三等兵
08/06/04 02:28:34 KPMic671
(核爆)
4:名無し三等兵
08/06/04 02:30:54
●初心者歓迎 スレ立てる前に此処で質問を 474
スレリンク(army板)
5:ハインフェッツ
08/06/04 06:29:01 oAiEi3xQ
>>1
「爆縮レンズ」というパーツを完全にシンクロした状態で起爆する必要があるので
何かの間違いで起爆用の電気系統に火が入るというケースを除けば「核が誘爆する」
という事は現実的にかなり無理がある。
6:名無し三等兵
08/06/04 07:15:54
単発質問スレ立てる程の馬鹿には説明しても理解できない
7:名無し三等兵
08/06/05 13:17:47
日本の原子爆弾開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
URLリンク(ja.wikipedia.org)
第二次世界大戦(太平洋戦争)中の大日本帝国には二つの原子爆弾開発計画が存在していた。陸軍の「ニ号研究」(仁科の頭文字より)と海軍のF研究(Fissionの頭文字より)である。
昭和15年(1940年)、理化学研究所の仁科芳雄博士が安田武雄陸軍航空技術研究所長に対して「ウラン爆弾」の研究を進言したといわれている。
昭和16年(1941年)に日本陸軍は理化学研究所に原子爆弾の開発を委託、アメリカによるマンハッタン計画が開始された翌年の昭和18年(1943年)1月に、同研究所の仁科博士を中心に開始された。
この計画は天然ウラン中のウラン235を熱拡散法で濃縮するもので、昭和19年(1944年)3月に理研構内に熱拡散塔が完成し、濃縮実験が始まった。
他方、日本海軍も昭和16年(1941年)5月に京都帝国大学理学部教授の荒勝文策に原子核反応による爆弾の開発を依頼したのを皮切りに、昭和17年(1942年)には核物理応用研究委員会を設けて京都帝大と共同で原子爆弾の可能性を検討した。
しかし当時は、岡山・鳥取県境の人形峠にウラン鉱脈があることは知られておらず、ウラン鉱石はもっぱらナチス・ドイツの潜水艦(U-234)による輸入に頼る状況であり[1]、原子爆弾1個に必要な約2トンのウラン鉱石の確保は絶望的な状況であった。
また、熱拡散法は米国の気体拡散法(隔膜法)より効率が悪く、しかも、昭和20年(1945年)5月15日のアメリカ軍による空襲で熱拡散塔が焼失したため、研究は失敗した。同6月に陸軍が研究を打ち切り、7月には海軍も研究を打ち切り、ここに日本の原子爆弾開発は潰えた。