07/11/21 22:48:12 t+zqjv61
>>434
道路がのうてもモンゴルじゃ牛車を使うとったよ。
森浩一氏は、東国の山麓馬牧が広く、河内の川原馬牧が狭い云われとらん
じゃろう。森氏は「五~六世紀ごろは、河内平野はわが国における馬の
文化の中心であった。」と、される。元来馬牧は水草を追うもんじゃ
ないんか。南満州~朝鮮北部の山麓に住んだ高句麗自体、果下馬で
小型馬じゃったよ。中型馬は満州平原の夫餘かモンゴル~西満州の鮮卑から
手に入れて重装騎兵が作れたんじゃないか。東国山麓の高句麗と共に、
関東低地平野部の新羅系の要素もあり、馬文化も日本海側から流入したと
考えられる。
一方河内の馬牧は、百済系云うても、東漢氏と新沢千塚古墳と鮮卑の関連も
あり、鮮卑、楽浪漢人、百済、伽耶の混合で黄海側の要素が強いんじゃ
ないか。
『年中行事絵巻』の貴族の方が見た目に騎乗姿が良いが、板東武者は、
源平合戦の絵巻でも馬が暴れて騎乗者が落ちまいと馬にしがみつき、
哀れな姿態じゃけんのう。これじゃあ、近代軍隊の弱いとされた日本
騎兵以下じゃ。騎馬戦闘の集団運用どころじゃないわ。
新羅じゃあ舎人は、豪族の郎党で大舎、舎知は上干、干と官位を持っと
るよ。馬の口取りから発生したかは、疑問じゃのう。
関東の実戦云うてどの戦闘か?具体的に云わにゃあ。出入りと戦争は
違うで。奥州や北海道の渡島等の馬を京都貴族が求めたことじゃが、
関東は馬の質が良うなかった云うことか?
安芸に移住した熊谷氏じゃけえ、熊谷クラス云いたいんかいのう。
まあ、セミプロじゃったんは、認めるが。熊谷氏が移住した処が、
安芸国漢弁郷(広島市安佐北区可部地域)じゃ。安芸に先に移住したんは
騎乗プロの渡来系漢氏じゃったんも面白い現象よのう。