07/10/27 21:03:06 kHH6XopD
相変わらず牛は末枝端葉の事に無駄な単語をこねくりまわしながら噛みついてごまかすのが巧いな
317:人間七七四年
07/10/27 22:16:55 YrA9e5bW
>安芸の国人連合の傘連判状等は、西日本の合議制、横社会の影響で
>東日本の惣領から名子、下人の東国縦社会とは違う。
=゚ω゚) へえ~なるへそ、そうだったのか?勉強になるなぁ。オイラも調べてみよう。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
URLリンク(ja.wikipedia.org)
【 傘連判状 】
傘連判状(からかされんぱんじょう)とは、江戸時代の百姓一揆などに代表される署名形式。
通常の連判状では最初に名前が書かれているものや上部に書かれているものが
責任者とされがちなのを回避して、皆が中心より放射線状に署名した。特に首謀者を隠すためでもある。
この独特な署名形式を拡大解釈して「一揆では加盟者全員が平等の立場であった」とする
主にプロレタリアートによる歴史認識が学校教育の場などで広まっている。[要出典]
=゚ω゚) がははははははは!最後の2行は、ちょっと笑った。
318:人間七七四年
07/10/28 01:23:38 bOOPv5J2
牛語録
プロ市民活動の禁止=民主主義の否定
319:白馬青牛
07/10/28 02:13:10 ChAlkJDm
>>316
末枝端葉云々は、以前から騎馬民族スレ等で、わしに対し反論者が採った
つまらん常套手段じゃ。ほいでわしが誤魔化した云うんはどの部分かい
のう?具体的に云えーや。
>>317
最後の2行だけじゃのうて、全体の文が既に思想中毒に侵されとるわい。
加盟者が対等と立場で署名する合議制がプロレタリアにゃあ爆笑もんよ。
前衛たる指導者、独裁者がおらんのが気にいらんのかいのう。
>>318
民主主義じゃけえ、プロ市民だけじゃのうて、カルト宗教団体に率いられた
ネットウヨのプロ奴隷の活動も禁止されとらんよ。
320:人間七七四年
07/10/28 09:04:55 bOOPv5J2
特定アジアの犬となっての工作活動も自由だしな
321:白馬青牛
07/10/29 01:58:17 x3fSRQfD
>>320
特定アジア云う言葉自体、ネットウヨじゃ宣言しょうるようなもんじゃ。
中華文化圏の台湾は、中国や朝鮮と区別し、なんで特定アジアに
含まれんのか?要は文化よりも政治思想で云うとるだけじゃろう。
政治思想で他民族を排斥するんは、思想中毒にかかった洗脳された
哀れな人間よのう。
前線で闘うた将兵は、日中双方敵味方の彼我に分れても、敵軍将兵の闘志を
尊敬し合うたわい。お互いの健闘を讃える。それが日本人の武士道
(他民族の将兵も誇り高き戦士であった。)じゃないか。
他民族排斥政治思想中毒患者のネットウヨは、日本人の誇りを貶めること
甚だしい。これらのネットウヨらこそ、日本人の誇りを汚す売国奴に
ほかならん。風の悪りいことよ。
322:人間七七四年
07/10/29 08:29:24 YNXJAeXd
選民思想丸出しの牛に言われても失笑するしか
323: ◆26IT/WpOkg
07/10/29 23:31:17 2lYbp8N3
しかし県外人の広陵以外ダメダメだなヒロシマ
>>311
常一は西国厨
>>314
北陸と安芸じゃ濃さが違うだろうに
真宗は実に葬式仏教向き
以前に書いた仙道一揆とか
324:人間七七四年
07/10/30 00:34:30 63J1vaMy
=゚ω゚) 新約聖書か・・・まぁあれ自体は選民思想に結びつくとは思わんが
イエスの過激なユダヤ教改革がいつの間にか他宗派否定になってしまったんだろうな。
大友宗麟は教会を建てるため寺社に火を放ったとか。うーむ。
>真宗は実に葬式仏教向き
=゚ω゚)ノ 教行信証発祥の地、坂東もお忘れ無く。
325:白馬青牛
07/10/30 00:44:33 C52SuSeD
>>322
選民思想は排外主義のネットウヨの方じゃ。
>>323
高校野球秋季中国大会の県大会1位の総合技術高校が、下関商に9回表まで
6対2でリードしとりながら、9回裏にサヨナラ負けしたんが嬉しいんか。
まあ、残心が欠如しとった云うことよ。今年の夏の県大会決勝戦でも
紙一重で広陵に負けたわい。もし勝って甲子園に出よってもおよそ
優勝戦まで行くこたァ出来んかったろうのう。戦闘に必要な
「最後の五分間」の欠如じゃ。
そういやあ、宮本常一氏や江上波夫氏を援助した旦那は関東人の
渋沢敬一氏じゃったのう。安芸神機隊に討たれた渋沢平九郎氏と同じ
渋沢一族じゃ。
じゃけえ、北陸門徒、安芸門徒、三河門徒も含め濃さの違いが、
どう違うんか具体的に云わんかい。
326:人間七七四年
07/10/30 00:54:47 63J1vaMy
=゚ω゚) はははは。相変わらず渋沢平九郎一人に、てんてこまいじゃのう。
まぁ手負いの平九郎に脇差し一本で撃退されたのだから仕方がない。
>じゃけえ、北陸門徒、安芸門徒、三河門徒も含め濃さの違いがどう違うんか
=゚ω゚)ノ 教行信証発祥の・・・
327: ◆26IT/WpOkg
07/10/30 01:39:15 JfkCli31
>>324=゚ω゚)
茨城県民か?w
真宗は近世という時代に見事なシフトチェンジをしたよね。
>>325
つ如水、田植新庄がっかりだぜ。
だって著名な活動の北陸と違うやん。
安芸の同行講ってのも、近世小農の自立以降だろうよ。
葬式仏教たる檀家制度とも絡んで。
>>325=゚ω゚)
中央進出、カルト臭とともに勢いを増したからな(健康ランド)
328: ◆26IT/WpOkg
07/10/30 01:51:43 JfkCli31
延慶3年(1310)、『国牛全図』を置いとくか
「馬は関東を以て先とし、牛は西国を以てもととす」
329:人間七七四年
07/10/30 23:56:07 38h9O8Ts
正体は特定アジアの犬だったか・・・
330:白馬青牛
07/10/31 01:40:11 Zs9MAX4M
>>324-326
新約じゃのうて旧約聖書のことじゃろう。板東?関東は、特に茨城県は
儒教朱子学の発信地「水戸学」じゃないか。思想性が強い土地柄よのう。
テロリストの産地じゃし。広島人は、杉本五郎少佐のように、
天皇絶対主義であっても、自国絶対主義じゃないし、中国大陸でも
日本軍の掠奪を皇軍の恥とされる。元来現実重視の広島人は思想狂信者は
少ないよ。茨城人でも、桑島節郎曹長のように、日本軍の蛮行を隠蔽せず、
戦場の真実書いた方もおられるけえ、全ての茨城人が狂信者と云えん。
まだ、渋沢平九郎氏を美化したいんか。降伏せず暴れたけえ、安芸神機隊は
討ち取るしかなかったよ。脇差を返して貰いながら、神機隊を罵るんが
関東人の性格じゃけえ、恩義を知らん困ったもんよのう。
331:白馬青牛
07/10/31 02:06:26 Zs9MAX4M
>>327-328
真宗自体が、東日本人と違い、家に神棚を置かず、病んでも祈祷せず、
間引きをせん近代的な宗派じゃった。近世以前でも合議制社会の西日本と
主従隷属制の東日本は社会組織の構成が違う。カルト臭なら朱子学の
影響の強い九州、板東じゃわい。
牛生産と馬生産は列島東西の農耕形態の違いで、モンゴル等の牧畜民は、
馬を乗馬用だけで農耕や労働に使わん。農耕民の漢民族は馬を農耕に
使う。儒教的長子相続も含め関東は、半中華人じゃのう。
西日本から見た特定アジアは、中国・朝鮮・東日本の朱子学三兄弟じゃ。
三方から包囲されとる西日本は難儀なことよ。しかも九州まで朱子学の
影響が強いけんのう。>>329の排外ファシズム思想中毒患者さんよ、
わしから見た特定アジア(中国・朝鮮・東日本の朱子学三兄弟)の犬になれ
云うてもなれんわいのう。
332:人間七七四年
07/10/31 02:17:54 sFebMiCB
他県の人に率いられた肥後兵は強いぞ
肥後指導者の肥後軍はごみくず
333: ◆26IT/WpOkg
07/10/31 07:35:41 xN3SDCf6
>>330
広島人の中でもusiは異質のよう棚w
>>331
農耕牛の本場が畿内だろうに。
牛馬を酷使した京都の馬借・車借、酷いな(ノД`)
334:人間七七四年
07/10/31 23:56:14 KtilJF3a
様々な思想の否定は民主主義の否定だみたいなこと言っといて
自分は色々なのを否定しているな。民主主義者どころか独裁者タイプだ。
あー怖い怖い
335:人間七七四年
07/11/01 00:47:41 AziSQoQ5
>>331
=゚ω゚) ほう間引きか。長塚節だな。農村ではたしかに多いね。
だが水戸学は間引きを戒める学問でもあったぞよ。
『天より授かりたるたまものをわが物のように思ひ、生死を自由にするハいかなるこゝろぞや、
よくよく考へ見よ、わが身ハ父母のわけたる身、我が子ハ我みをワけたる身なれバ、
わか子を殺すハ、我身ころし、父母を殺すもおなじきに似て、天道において有るまじきことなり』(烈公)
烈公は百姓の像(農人形)を造り一汁一菜の質素な飯を食う前に拝んだと言う。
そういう人だから幕閣にも一目置かれたのだろうよ。
まぁ朱子学っつってもいろいろ有らあな。陽明学も朱子学から出ている。
朱子学も本来性善説を説く立派な学問だ。牛が好きなのは朱子学ではなく科挙の国家教学だろ?
336:白馬青牛
07/11/01 02:33:10 JlPUO81o
>>332
東国偏見の『人国記』じゃあ肥後は評価が低いが、肥後兵は勇猛じゃけん
のう。近代においても、>>211にもあるが、熊本師団は名高かかった。
熊本師団の中でも熊本聯隊と鹿児島聯隊は勇猛で知られるが、
特に熊本聯隊は命知らずで鼻息が荒かったけんのう。
>>333
わしが広島人の中でも異質?広島の風土に育った限り、広島人に他ならん。
モンゴル等の北アジアの牧畜民は牛を農耕や荷駄に使うが馬は騎乗用じゃ。
京都の馬借・車借が牛馬を酷使した云うて、どがいな根拠や?
>>334
「色々なの」云うて何なら?
>>335
間引きは漁村より農村に多く、西日本より東日本に多い。
真宗の影響の強い地域はほとんどないのう。為政者や思想家が、
どう考えようと、間引きをしたかせんかの結果の問題じゃ。
陽明学は、朱子学の影響も強いが、王陽明は、貴州の苗族が多い土地で
生まれ、李卓吾は、イスラム教徒の系統で、漢民族の思想と云いきれん
よ。中共では陽明学は評判が悪りいのう。陽明の哲学が主観的で、朱子学
の理を求める客観性から逸脱し、主観論は共産主義の科学的唯物論の
敵じゃけんのう。ほう朱子学が好きか。廃仏毀釈運動でもするんか?
科挙の国家教学は、現代世界中で採用されとるよ。試験制度は近代以降の
日本もそうじゃし。世界の中国文明化よのう。わしが、試験秀才を嫌うとる
んは、わかろうに。
337:白馬青牛
07/11/01 02:41:50 JlPUO81o
>>336
途中寝よったけえ、間違えたわい。王陽明は浙江省に生まれ、
貴州の苗族の多い土地で静座瞑想し大悟して、朱子学の「性則理」に
変わって「心則理」の陽明学が生まれた。云うこと。
338:人間七七四年
07/11/01 22:25:47 AziSQoQ5
=゚ω゚) 静座瞑想はもともと江南朱子学の基本行法じゃからふつうに
朱子学派だろ?
もっとも九州の博多ラーメンと関東の博多ラーメンぐらいの違いは有るかもしれんがな
>朱子学の理を求める客観性から逸脱し
>、朱子学の「性則理」に変わって「心則理」の陽明学が生まれた。云うこと。
=゚ω゚) 『理』とは何だか判って言ってるのかな?
理屈や理論では宇宙の根本原理の『理』は語れないぞよ。
広島のお好み焼きと関東のもんじゃ焼きぐらいの違いは有るだろう。
339: ◆26IT/WpOkg
07/11/02 00:43:27 JU8CNYww
>>336
人国記は信濃に文句言えや
馬は関東を以て先とし、牛は西国を以てもととす(国牛全図)
大抵、関東には馬多く牛少なし、関西には牛多く馬少なし(和漢三才図会)
『新猿楽記』
340:白馬青牛
07/11/02 01:44:21 encXCX2q
>>338
『理』は、この世の法則性のことじゃが、朱子学における「性則理」は、
心(性+情)の「性」は、先天的に与えられた人の性質や、
後天的に教育知識によって得られる外面的な教化で『理』に到達するが、
朱子学は、「情」は人が本質的に持っておる内面的なもんで個人的主観と
する。陽明学は「心」の内面的なものこそ人間の本質で、外面的知識から
『理』を頓悟するわけでなく、経験と認識は不可分ゆえ「知行合一」云う
ことじゃ。内面を重視する姿勢はイスラム学者のイブン=ハルドゥーンに
見られる。公権威が感化と訓育をもって臨むと、人は畏怖と恭順のうちに
成長し勇気を損なう。遊牧民は教育や感化といった権力から隔たって
いるので、勇気を損なわない。国家的訓育、教育による抑制力は外部
からで、道徳心の強い遊牧民の抑制力は内面に生まれとるもんじゃと。
李卓吾もイスラム教徒の家系ゆえ、陽明学に傾倒したんじゃろう。
341:人間七七四年
07/11/02 20:34:00 P+sCEF0t
=゚ω゚) ♪真ぁっ赤な太陽ぉ~萌え~ている~ぼくらーのハリマオ♪
日本の回教徒と言えば怪傑ハリマオじゃのう!牛。
あと、東京裁判で唯一の民間人被告人じゃった大川周明もおるのう。
朱子はおまいさんが思ってるほどお堅い偏屈ではないよ。
武学博士に幾度となく推挙され断り続け、禅を学び道学を極め
中央の命令をはねのけ貧民救済、地域教育を進めた思想界の巨人だ。
そして朱子学は偽学の禁により中央政府より大弾圧を受け禁止される。
そして日本の朱子学の最初の実践者は河内の悪党、楠正成だったとか。
どちらかというと反権力的思想ではなかろうかい。
>朱子学における「性則理」は心の「性」は先天的に与えられた人の性質や、
>後天的に教育知識によって得られる外面的な教化で『理』に到達する
=゚ω゚) そうではないんじゃない?
本来の『性即理』は人間の本性として最初から存在する。
「赤心」の言葉が有るが人間本来の性。つまり「天真」に近いと思うぞ。
342:白馬青牛
07/11/02 23:18:36 encXCX2q
>>339
『人国記』は信濃人という東国人の偏見見解じゃろう。
「肥後の国の風俗、肥前に似たりといえども、その勇の甲乙を数ふるに、
百にしてその一なり。」、『新人国記』「武士の風俗は、肥前に替わりて
柔らかなり。」じゃと。文禄の役じゃあ加藤・小西に率いられた肥後兵は
イケイケ・ドンドンじゃったのに。
伊藤桂一氏は近代の九州兵について、「粘り強さはないが素質は良い。
もっとも九州といっても、熊本と鹿児島が中核になる。熊本人は竹を割った
ようなからっとした性格、鹿児島人は、小柄だが敏捷な薩摩隼人の伝統に
恥じない。第六師団の気質に対抗し、久留米師団は、炭鉱従事者の川筋気質
と肥前の葉隠精神が支えとなるので、理屈ぬきの行動性を尊ぶ。」と。
まあ、九州は古来政治的に、豊・筑・肥・隼人の国と区分されたが、
東シナ海側の隼人・肥・筑の気質が九州兵の勇猛なイメージじゃろう。
仮に熊本・鹿児島・大村・久留米の聯隊で兵員を構成した師団を作ったら、
より個性が強かったろうのう。
東国の馬は、主に農耕や荷駄馬用じゃけえ、馬耕民の板東人になろう。
343: ◆26IT/WpOkg
07/11/02 23:38:34 17aCC4kC
>>342
信濃は京に近い
>東国の馬は、主に農耕や荷駄馬用じゃけえ
農耕?(笑)
騎乗用と荷駄用は違うよ。畿内産は騎乗レベル(上馬)もウンコだったが。
常陸国風土記で古代坂東人達が騎馬で筑波山に登ってるぞ。そういう伝統もあるの。
>馬耕民の板東人になろう
犂耕目的は近代以降だし、朝鮮牛の移入。
344:白馬青牛
07/11/03 00:36:36 dfPl2YIr
>>341
ハリマオ、谷豊さんか。シンガポール攻略戦たけなわの頃、マラリアを
発病して亡くなられたのう。大川周明氏の東条英機氏の頭を叩いた映像が
残っとるのう。
朱子個人よりも、朱子学の影響を受けた方の問題じゃ。朱子学は、
現実よりも、攘夷思想性の強い排外性の強い性質で、周りの影響よ、
日本も現在でも、ネットウヨの排外思想の親分じゃけんのう。
反権力よりも反異民族じゃろう。
「赤心」は、孟子の「大人は赤子の心を失わず」からの引用で、朱子学
以前になるわい。
>>343
信濃は、フォッサマグナ以東で、地理風土から東国じゃ。
宮本常一氏が云われるよう、荷駄用に家畜を使うんはアイヌ人や東国に
発達したんじゃないか。騎乗よりも荷駄の要素が強い。荷駄の替わりに
騎馬武者を載せとるようなもんじゃ。騎馬用と荷駄用の分類はどう区別
したんか?犂耕「目的」は近代以降と曖昧な。犂耕は古代からあるど。
345:人間七七四年
07/11/03 02:32:28 Mj5sEGA5
んな無茶な
346:人間七七四年
07/11/03 11:40:47 MH7dmPkF
牛はインテリが嫌いなのか。
347:人間七七四年
07/11/03 12:34:57 E/O5b0UV
>荷駄用に家畜を使うんはアイヌ人や東国に発達したんじゃないか。騎乗よりも荷駄の要素が強い。
=゚ω゚) 【道嶋嶋足(みちしま の しまたり】
奈良時代の武人。陸奥国牡鹿郡の出身。武事に通じ騎射を善くした。
牡鹿連道嶋一族は丸子姓で、もともとは関東地方からの移民であったと思われる
>朱子学は現実よりも、攘夷思想性の強い排外性の強い性質で、周りの影響よ、
>反権力よりも反異民族じゃろう。
=゚ω゚) まるで聖書やムスリムが異教徒を排除した事が無いみたいな意見じゃな・・・
348: ◆26IT/WpOkg
07/11/03 20:42:40 5FgHkAxk
>>344
騎馬と駄馬はセットで考える必要もあるな。ところが鈴木厨は全て駄馬にしたいらしい(川合もかw)
騎馬用と荷駄用を比較すれば、主に馬体からして違うだろ。
戦国時代における夫役としての駄馬と、一般武士が騎乗する馬とじゃ別物。
江戸時代、武士の乗用馬で10両前後と高価だよ。
江戸時代だから儀礼的な使用だが、いわゆる農耕馬とは違うな。
駄馬のサイズを江戸期の馬で比較すれば、西国の土佐馬のような小型馬サイズ(120cm以下)だろうよ。
それで畿内の馬は土佐馬(チビでも頑丈で粗食)より低評価と、、、
関東における犂耕は大正以降の朝鮮牛。
農耕馬は耕ではなく厩肥目的。そして農耕馬は近世が盛期でもあるしな。
関東=畑・牧・馬、近畿=田・牛
>>347=゚ω゚)
関東の丸だったのか。
349: ◆26IT/WpOkg
07/11/03 21:46:00 5FgHkAxk
お国自慢板のusiは名無しになったのか
350:白馬青牛
07/11/04 01:39:59 GezYZCSY
>>346
インテリは、嫌いじゃのう。朱子学のエリート主義から、近代ドイツの
秀才登用、英国紳士の秀才軽視の方が、まだしもじゃが、英国の階級社会
制度は、いただけん。
>>347
道嶋嶋足の人骨が出土しとらんけえ、渡来系か在来縄文系か区別出来んが、
東漢氏や百済系と同一歩行じゃけんのう。確率上渡来系じゃないか。
朱子学の祖の朱熹は、女真の侵攻に憂いた攘夷思想じゃわい。
清朝の頃も、浙江省を中心とした江南地方に、頑固な朱子学派の文化人の
群れがわんさかじゃったのう。清朝のインテリ弾圧で「考証学」に転向
したんじゃろう。
考証学の功績は、客観的、科学的方法で近代文献学の精神に具現せされる
古文献にもぐりこむ実証主義であったが、当時の清朝に都合の悪い文書は
当然無視されるか、焚書処分じゃ。『四庫全書』なんかのう。
終戦後、日本の軍部が都合の悪い文書を焼却して、証拠がない云うのも、
その影響じゃろう。焚書と実証主義(為政者に都合の良い)はパラレルじゃ
けんのう。近代ドイツからのランケ流史学実証主義の19世紀の帝国主義も
同様で、こちらはヘーゲルの弁証法の影響を受け、科学的唯物論
(共産主義史観)とパラレルじゃ。文献史学実証主義は、客観性の乏しい
観念論で、権力者に近いエリートにとってのみ好ましい思考じゃろう。
351:白馬青牛
07/11/04 02:18:15 GezYZCSY
>>347
焚書で証拠がないから、残った史料で判断する文献主義も、
考古学や民族学的考察や、戦闘事情は日記や証言で、現代では根拠に
乏しいものになって仕舞うた。
ムスリム云うても、税金を払らやあ、中世まで異教徒を排除しとらんよ。
近代は都市部から宗教原理主義が出て排外主義的傾向が強まったが。
キリスト教の方が、中世宗教思想的頑迷さが強かったろう。
>>348
騎馬用と荷駄用の分類?日本列島の小型馬は、西南諸島や琉球のトカラ馬や
ミヤコ馬に残っとるだけで、本州のほとんどは中型馬じゃろうに。
まあ、山岳地では馬体は小柄の方がええか。
関東は犂耕に乏しい云うんは家畜飼育文化にも乏しい云うことよ。
東日本の農耕における大量の厩肥を投入のう、馬の糞は醗酵する時に熱を
出すゆえ耕地を保温する機能があるけんのう。騎乗より農耕や荷駄用が
優先された根拠になっとるど。
>>349
帝国陸軍師団スレか。後で気がついたけえ、そのままにしといたよ。
352: ◆26IT/WpOkg
07/11/04 02:38:22 xKR0PtKK
>>351
近代になってから大きくなってるんだよ。
日向都井岬の御崎馬は現在130㎝以上だが、近世では4尺ほど(120cm)だったといわれてる。
伊予の野間馬も115~125前後で小柄。
鎌倉材木座の馬骨128本の内、軍用と思われる馬の推定体高は概ね130前後~140まで。
戦国時代の交通制度でも、東国大名の馬に対して西国大名の船と牛だな。
田と牛と犂耕、畑と馬と厩肥
353:人間七七四年
07/11/04 17:13:18 0tknotWK
牛に都合の悪いもの=ナンセンス
ってすごい理屈だな
自己正当化もここに極まれり
354:人間七七四年
07/11/04 20:21:31 hw5Zdf/R
351>ムスリム云うても、税金を払らやあ、中世まで異教徒を排除しとらんよ。
=゚ω゚) ズィンミーの事かな?
対象宗派は同じ聖書系教派の『啓典の民』(キリスト教、ユダヤ教、サービア教徒)のみだったよ。
[ズィンミーの人権とその制限]
・イスラム教徒に改宗を迫った場合死刑。
・信教の自由は保障されるが、ムスリムへの布教を行った場合死刑。
・イスラム教徒の女性とセックスを行ったことが判明した場合、死刑。
=゚ω゚) うーん、たしかに「排除」はしてない鴨w
もっともレコンスタキアに合わせて異教徒弾圧は当然行われたが。
350>確率上渡来系じゃないか。
=゚ω゚) というか・・・ それはオマエの『 カ ン 』だろ?
355:人間七七四年
07/11/05 00:13:11 rOWkVdbz
usiは東日本が嫌いなのか。
356:白馬青牛
07/11/05 01:34:51 F6FkWcvQ
>>352
近代云うて、外来馬との交雑を含むんか?鎌倉材木座の馬骨がとりわけ
大きいように宣伝しょうるが、同時代の何処の馬骨と比較した結果は
無しか。日本在来馬は体高140以下で、だいたい大きい馬はおらんよ。
URLリンク(www.isonly.net)
下の方の東北地方産馬の後裔とされる道産子馬でも、体高130~135
cm。木曽馬や御崎馬も同程度。愛媛県の野間馬は112cmと小さいのう。
URLリンク(www.kis.janis.or.jp)
「木曽馬の起源」に、モンゴル馬も、平均体高は131cm程度で、
日本在来馬を小型と中型は今の処遺伝的に区別出来んし、モンゴル人
留学生が来たときに「モンゴルの馬に混じってもわからないですね」と
言っていました。とあるよう日本在来馬は、蒙古系の馬じゃろう。
URLリンク(www.okinawatimes.co.jp)
<1996年12月27日 朝刊 26面>
寄贈された韓国済州島の小型在来馬は、雄の体高107cm、雌105,4cm
じゃそうな。『東夷伝』の高句麗や穢の果下馬なんか、面積の狭い島で
飼うと小型化するんかは解らん。
357: ◆26IT/WpOkg
07/11/05 02:07:01 uTxIVsBO
>>356
御崎馬はトロッターの血が。
木曽馬も近代に多少大きくなってる。木曽馬は知名度の割に歴史も浅く、その発展は農耕的要素が強い。
鎌倉材木座の馬骨は、当時の軍馬としての大きさで130~135平均って話。
軍馬としての大きさは大陸の馬とさほど変わらない。秦でも130以上というそうだからな。
農馬としては4尺(120cm)が普通だから、サイズとしては小型。小さい馬は本州にも普通に居た。
ただチビでも、同じくチビの済州馬などよりは優秀。
土佐馬なども小柄だが力はあり、駄載に適していたという。
そんな小さな土佐駒に粗末な馬具でも、勇猛な長宗我部の一領具足は、馬上戦ったんだろうよ。
農馬としては小さい方が、百姓にとって餌が少なく済むので良い。
358:白馬青牛
07/11/05 02:11:59 F6FkWcvQ
>>353
わしに、都合が悪い云うてなんなら?具体的に書けえや。
>>354
ズィンミーの批判的見解から云うとるが、中世においてキリスト教圏と
比較してユダヤ人に対して過酷じゃったんはキリスト教圏じゃし、
イスラム教徒がキリスト教に改宗せずキリスト教圏で暮らしたか、
イスラム教圏以上に、つらいじゃろうのう。もっとも西洋の騎士道は、
節度、恥を知る心、婦人崇拝等は、イスラム文化の影響じゃけんのう。
ほいから、本土日本人が形質や遺伝子から人類学的に渡来系の末裔が
主流で土着在来系が傍流なんは、明らかなことじゃないか。
>>355
東日本が嫌い?先祖が暮らした地じゃけえ嫌いじゃないが、残忍な
関東武士を美化することは出来んし、東日本は社会組織も縦社会じゃけえ、
そういう面も好評価出来んのう。
359: ◆26IT/WpOkg
07/11/05 23:22:47 INkmmAI+
三寸(体高4尺3寸=約130cm)に足らぬ馬をばむかしより軍の馬にはきらふなりけり
乗下もまた扱いのやすきとて小馬を好む人とぞつたなし(武道歌選集 =゚ω゚)
360:人間七七四年
07/11/05 23:43:56 ZguQdTN4
=゚ω゚) はいはい、お呼びで。塚原ト伝遺訓抄(ト伝百首)ですな。
よく見つけたね。
・ 武士(もののふ)の 実(げ)に知るべきは 馬なれや 心掛けぬは愚かなるべし
・ 武士(もののふ)の 鎧の下に乗る馬は 癖あるとても 強き好めり
・ 馬はただ 普通に強く肝ぞよき 勝れる肝と無肝嫌えり
・ 武士(もののふ)の 狩り漁猟(すなどり)を好まずば いかなる事に身をさらさまし
・ 武士(もののふ)の 心の内に死の一つ 忘れざりせば不覚あらじな
361:白馬青牛
07/11/06 01:04:30 6tryd2gH
>>357-359
「木曽馬の歴史」のタルパン系は、汗血馬と同類の中央アジア産で、
蒙古馬と違うが、モンゴルで鮮卑時代の重装騎兵から軽装騎兵に変化する
段階で選択的に淘汰されたんじゃろうか。ほいで、現在でも中型馬と
小型馬の区分がはっきりしとらん。御崎馬も小型説中型説があって、
森浩一氏は中型馬とされとるけど。
中国の馬産地の雲南は小型馬とされ、唐から宋代にかけて「山間を走破する
のに優れた駿馬」(唐の『蛮書』巻七)「蛮人死すとも馬を人に与えず」
(宋の周去非『嶺外代答』巻九)と、小型馬も荷駄用だけじゃのうて、
騎乗用に重宝されとる。川喜多二郎氏は、モンゴル高原の第1次騎馬民族化
(中型馬)、チベット系民族の第2次騎馬民族化(小型馬)と分類される。
西洋なんかは、重い甲冑の重装騎兵で大型馬の方がええじゃろう。
どうも、蛙君は体高の背丈がある馬が好みなんか?
362:白馬青牛
07/11/06 01:31:15 6tryd2gH
>>360
?>>358の続きじゃが、近代においてもアメリカの黒人に対する扱いも
イスラム諸国から考えてもひどかったわいのう。今世紀の1960年代
アメリカのプロ市民(ネットウヨ用語)による公民権運動もあって、
だいぶ、ましになったが、人種排外主義の日本のネットウヨは、
kkk(クー・クラックス・クラン)と同類思想じゃけえ、当然プロ市民に
よる公民権運動に反対じゃろう。じゃが、日本のネットウヨも、アメリカの
kkkの連中から見たら有色人種(人類学的でなく、肌の色、白人の
創作概念)に過ぎんわい。「国民の創生」は夢物語になって仕舞うた。
363: ◆26IT/WpOkg
07/11/06 02:04:45 r8j4L3j4
>>361
用途による馬体の違いについて、usiの>342>344>351あたりに答えてるだけだよ。
本州産でも優秀な馬を乗用にしたのは当然だろ。駄馬は大きさも能力も違う。
たしかに中型・小型の区別は曖昧だけど、林田氏の分類(中型=125~135、小型100~125)に従ってる。
対州馬は中間型というが、元来は小型馬の部類だろうよ。
あと馬の能力が近世に劣化した事も想像できるが、比較的大きな木曽馬も軍馬としての能力は高くないだろうな。
雲南や四川の小型馬より日本の小型馬の方が能力も大きさも上。
肥前国風土記の白水郎も小型馬で騎射に巧みな連中だろう。
・・・小馬も子犬も子猫も小鳥も好きですが、何か?w
>>360=゚ω゚)
『ウマ駆ける古代アジア』からでつw
ほどほどの馬を好んだというのは『北条五代記』にもあるが、甲陽軍鑑にも似たような話はあるようだ。
体高4尺6~7寸とか、140㎝以上になると扱い難いという。
364:人間七七四年
07/11/07 00:25:55 CcTSgGJc
>>358
昔はともかく今は西と東の社会制度が違ういわれてもわからん。
具体的にどこがどう違うのかいってくれ
365:白馬青牛
07/11/07 00:37:12 wqHfZFq/
>>363
用途による馬体の違いがあったんかのう。武士の好みが、騎乗用に
優秀な馬と直結出来る根拠がないよ。雲南の小型馬の件もあるけんのう。
ほいで、また関東鎖国史観が始まったか。雲南や四川の小型馬より、
日本の小型馬の方が能力が上、云うんはどがいな能力で比較したんか?
まあ、騎乗者自身の上手、下手があるが、日本人は騎馬下手じゃけんのう。
水野祐氏戦争体験の話は以前書いたが、その程度のもんじゃ。
366:白馬青牛
07/11/07 01:35:57 wqHfZFq/
>>364
「習俗の社会学」で東京人の加藤秀俊氏は、「現代の職場というものを
考えてみても、東日本ではどちらかというと、親分子分型になっていく。
ボスがいて、手下がいて、末端にチンピラがいたりする。タテ構造に
なっていく。それにひきかえ京都では、仕事をしていた時は、わたしの
先生もいましたが、関係は常に横関係の仲間という感じなのです。(中略)
東京と関西の都市をくらべますと、東京ははるかに後進的です。東京の
悪口をいわれると、東京人としてあまり愉快ではありませんけれど、
江戸についてのもっとも優れた研究を残された三田村鳶魚先生の
著作など読みましても、江戸というところは、けっして洗練された
都市ではなかったということがわかります。
(中略)浄土真宗というのは非常に個人主義的な宗教です。個人の祈りに
よって支えられているのです。もう一つ心学というものがあります。
だいたい、関東あるいは東日本には無縁のものなのです。心学というのも
西国筋の町人層の中では非常に強い支持者をもっていましたけども、
江戸の町人というのは、要するに御用商人の集まりですから、江戸では
花咲いていないのです。」つまり、近代的、個人主義的な精神は
西日本で、東日本は後進地帯であると云われる。
現代では東西日本の相互影響も強いが、風土は変わらんよ。
367: ◆26IT/WpOkg
07/11/07 01:59:52 hMRP7XGF
>>365
前提として地域による能力の違いがある。
【平安期・駅馬価格】
常陸 上馬500束、中馬400束、下馬350束
河内 上馬250束、中馬200束、下馬150束
>348で書いた→戦国時代における夫役としての駄馬と、一般武士が騎乗する馬
高価な、或いは各個人にあった馬に武士は騎乗したろうし、実戦から離れた近世の武士でも高級な馬に乗ったんだから。
農耕馬より大柄な馬体、都市生活、江戸では飼料代も年10両掛かったという例もある。
上手く言葉尻を捉えられたがw、中国西南部の馬は西日本の小型馬より小柄だろ。
で比較の事だが、大正期の済州馬と伊予野間馬の事。
日本人じゃなく、近畿や中国地方の武士が騎乗下手なんだろ。畿内は下馬戦闘だもん。
関東の騎馬戦術に対抗したのが城郭戦やゲリラ戦。でも地の利がないとな。東国武士は東西奔走して戦ってる罠。
着到から見ても鉄砲戦術の西だろ。
>>366
西日本都市は大阪の物真似に過ぎないという話があるぞw
江戸幕末にもなると言葉の洗練度で江戸>京のようだな。大都市邪険脳。
368:人間七七四年
07/11/07 02:07:46 lBThVbSD
=゚ω゚) 既出かな?
軍馬の条件(武者物語)
・合戦のおりは平地を良く走る馬を選ぶ。胴の短い馬は野山を行くのに適し
胴長く頭高くもたげる馬は良く泳ぐ。
・体高3寸(約130cm)、歳は7,8才で扱いやすく片手手綱で乗り回せる物
・若い馬、手に負えない馬はよろしくない。合戦場へ進もうとする馬を止めようとするさまは見苦しい
369: ◆26IT/WpOkg
07/11/07 02:13:13 hMRP7XGF
知らない。
既出じゃないよ。
370:人間七七四年
07/11/07 04:48:03 imrBAzKD
てかさ戦国時代の馬なんてポニーやんwwwww実際wwwww
371: ◆26IT/WpOkg
07/11/07 21:49:58 Y6vEf+kz
モンゴルに代表される東アジアの蒙古馬は体高約125~140㎝。
日本の中型馬も同程度。
アラブ馬はポニーサイズのボーダーライン上。
戦前のサラブレットは平均160㎝以下。
まあ、英語で分類するところのポニー(体高145~148㎝以下)とホースで区別しても意味無いわ。
372:人間七七四年
07/11/07 22:48:33 CcTSgGJc
>>366
ただの自虐ネタみたいな感もするが・・・
それに日本は全体的に親分子分型だと思うけど。東日本の方が度合が濃いって
だけじゃないか?
373:人間七七四年
07/11/08 01:11:06 STaOMJnH
秩父鹿毛:七寸八分(145cm) ご存じ畠山重忠の愛馬
青海波:七寸(142cm) 頼朝の馬
生食イケズキ:八寸宇治川の先陣の名馬
鬼鹿毛:八寸八分!? 武田信虎秘蔵の馬
=゚ω゚) ・・・ホンマかいな?
つーか “いけずき” って変換できんがな。生口婁・・・ orz
木曽馬はわりとおとなしいタイプの馬だと聞く。
374: ◆26IT/WpOkg
07/11/08 02:05:04 9cQ88jYY
畠山重忠のような当代一の怪力で弓馬の名人は、4尺8寸近い「長に余るような大馬」も大きくなかったろうけど
肥えた馬を担いで急坂を降りるのは無理だ罠w
『太平記』の記述だと長崎や新田の乗馬などサラブレット級wさすがは太平記(´ー`)
木曽馬の歴史は、主に近世から盛んに生産されるようになったもので、
それも平安・鎌倉期の牧馬のような馬ではなく、各農家で馬屋と狭い範囲の馬柵で飼われてた。
家族同様に丹精込めて育てられたおとなしい馬で、乗馬向きではなかったそう。
375:白馬青牛
07/11/08 22:46:48 2QdfMuD/
>>367
言葉尻じゃのうて、能力について具体的に云うとらんじゃないか。
大正期の済州馬と伊予野間馬のどこを比較したんか。ほいから四川、雲南の
小型馬との比較もせにゃあ。
関東の騎馬戦術?迂回作戦でもしたんか?騎馬戦の本場、内陸アジアじゃあ
当たり前のことじゃが、関東兵は遁走を常套手段とした例がえっと(多く)
あったんか?騎馬戦は遊撃(ゲリラ)戦的要素が強いど。鉄砲の時代でも
騎馬は後進的東国よ。
水野祐氏は、日露戦争に参戦した父の例として旭川の騎兵隊がロシアの
コサック騎兵に散々やられたことじゃが、旭川師団は、開拓民には
西日本人も多少含むが圧倒的に東日本出身者じゃ。東日本(まあ日本全体
じゃが)の騎馬戦闘の弱さを示しとるよ。
376:白馬青牛
07/11/08 23:22:08 2QdfMuD/
>>372
自虐云うより東日本社会の真実じゃろう。神奈川県人の養老猛司氏も、
顔君の嫌いな甲野善紀氏との対談で、「基本的に日本は東の方が貧乏で
貧乏なところの方が官僚的な政治を敷きやすい。いまでも共産主義国家と
いうのは、どちらかというと貧しいところに発生してくるわけです。
豊かな西が、貧乏な東の官僚制に抑えこまれたのが江戸期だったのでは
ないか、という見方です。ですから、西と東の違和感みたいなものを、
おそらく江戸の為政者はずっと感じ続けていたんだと思うんですね。」
と、云われる。
まあ、東日本は北朝鮮のような共産主義が一番体質に合うんかも知れん。
昔から縦型隷属農奴社会で、同じようなもんじゃ。関東人の鎖国史観、
石母田共産主義史観の関東武士賛美は現代も蛙君にさえ受け継がれとる
んじゃけえのう。ほいで西日本の親分子分型は東日本型の輸入じゃ。
ヤクザ組織も東国発生じゃけんのう。
377:人間七七四年
07/11/08 23:53:05 STaOMJnH
=゚ω゚) 鉄砲伝来は西からじわじわ広まったワケではないよ。鉄砲先進国は九州じゃないかな?
北条五代記 十四 関八州に鉄炮はじまる事
相州小田原に玉瀧坊と云う山伏有。享禄はじまる年、和泉の堺へ下りしに、あらけなく鳴物の声する
是は何事ぞやととへば、鉄炮と云物、唐国より永正七年(1510年)に初て渡りたる
鉄炮を一挺買て、関東へ持て下り、屋形氏綱公へ進上す。
氏康時代、堺より国康といふ鉄炮張りの名人をよび下し給ひぬ。
根来法師に、杉房・二王坊・岸和田などといふ者下りて、関東をかけまはつて鉄炮ををしへし
=゚ω゚) やや時代が前後している感も有るが・・・ まぁ、鉄砲伝来以前からこの最新兵器は
ある程度は全国に知られていたのではなかろうか。
378:人間七七四年
07/11/09 00:25:18 9NHOz5eY
>関東の騎馬戦術?迂回作戦でもしたんか?
=゚ω゚) ふつうに騎馬集団による側面突撃、斬り込み、物見、などだが?
>旭川の騎兵隊がロシアのコサック騎兵に散々やられたことじゃが
=゚ω゚) 機関銃装備しちょる連中相手に互角に戦えるわけなかろう
>養老猛司氏も顔君の嫌いな甲野善紀氏との対談で
=゚ω゚) べつに甲野さんきらいじゃぁ無いよ。インキチじゃと言ってるだけだよ。
>顔君
=゚ω゚) ?・・・・・・・・オイラの事かい?
379: ◆26IT/WpOkg
07/11/09 01:14:16 0rJRt6l7
>>375
野間馬の減少、代わりに済州馬を移入した時のこと。
遁走は有名な富士川の惟盛。
畿内での騎馬は遊撃どころか南北朝期から下馬してるが。
千葉氏が指摘するように、戦で個人の力量に頼るのが日本人で、特に坂東人はその傾向も強いか。
『太平記』で描かれる楠木も指摘してる。
日露戦争って戦国から300年経ってるし、日本で馬の改良は長い間されて来なかった。
起伏に富んだ地形の狭い日本で、弓射騎兵・打物騎兵で戦う中世日本だし、体高130前後の国内中型馬で十分だったろ。
島国日本は国内で戦ってたんだし、国内で較べりゃいいものを。
北海道は名字の分布から見ても東北出身者が多いようだ。旭川限定は知らんが。
ていうか明治のデータによると、近畿地方は馬が極めて少ない。ロシアと比較する以前だなw
>>376
勝手に決め付けるusiの方が共産主義だな。
京文化と坂東武者と筑紫船に憧れる中国山地の百姓(田植草紙)
鎌倉の富裕さ(増鏡)
>>378
顔君にされたね^^
おめでとう
380:白馬青牛
07/11/10 01:41:50 c5bvGW7T
>>377-378
九州は西日本じゃないんか。鉄砲隊集団も西日本から東日本へじゃろう。
騎馬戦術の基本は、匈奴の「利則進不利則退不羞遁走」
トルコ系遊牧民の「一斉射撃、逃げながら矢を放ち、突然の攻撃」
つまり戦場の進退において奇策縦横なことじゃ。
機関銃じゃのうて、騎兵としてコサックの実力の話で。
水野祐氏は、「とにかく父は日本の騎兵は弱いんだといってました。
ロシアのコザック騎兵なんかに絶対かなわない」ご自身の蒙疆守備隊での
体験から「裸馬のようなものにまたがり、うしろを向いて銃をかまえて、
ちゃんと正確に射ってくるのですね。日本の騎兵はあんなこと出来ない
ですね。あんなものには、絶対かなわないと思ってみていたのです。」
その乗馬上手のモンゴル人が舌を巻くのがトルコ系カザフ族。
「なにしろ馬だけかと思うと、馬の横腹に隠れて走って発砲してくるのだ。
馬を倒すと、後ろから物凄い勢いで近ついた味方の馬に飛び乗り、
ふたり乗りで逃げ去る。神出鬼没とはこのことだ。先駆けした五、六騎が
思わぬ方向から死物狂いで襲いかかって来ては走って行き、婦女子の団体と
近つくと倒れた馬を盾として、一人が犠牲となって残り、死ぬまで発砲して
きては私達の追撃を一人でくいとめ、前に逃げて行く一行を私達から遠ざけ
ながら死んでいくのだ。」これこそ本場の騎馬戦術じゃ。
381:白馬青牛
07/11/10 02:22:43 c5bvGW7T
>>378
顔の絵文字じゃけえ顔君じゃろう。
>>379
野間馬の代わりに済州馬を移入して、どがいな能力を比較したんか?
日本の風土じゃあ下馬戦闘の方が合うわい。ステップやその周辺地帯じゃ
あるまいし。千葉徳爾氏は個の闘いを重視されるが、陳瞬臣氏も戦国期、
日本に鉄砲が普及したんは、個人の技を重んじ、誰の手柄か明確になる
もんを好んだとされる。板東人のは、抜け駆けがお好きなようで、
個以上にスタンド・プレーじゃろう。
島国日本で?文禄や慶長の役もあるが、まあ騎兵じゃったら明軍の主力の
遼東兵にゃあ勝てんわい。当時人口が少なかった旭川兵団の兵員は
仙台師団管区からの兵もおったけえ、東北色が強かったのう。
ほいでも、自民族だけの歴史、自民族発展史は、共産主義史観そのもの
じゃないか。
382:人間七七四年
07/11/10 17:05:21 B6KfAMDu
>>381
> 当時人口が少なかった旭川兵団の兵員は
> 仙台師団管区からの兵もおったけえ、東北色が強かったのう。
それで旭川師団は弱かった理由が分かったよ。ありがとう。
ドンゴリ仙台人なんか混じってたら、朝鮮人にも勝てるかどうか怪しいもんだ。
383:人間七七四年
07/11/10 19:17:10 976cLH9A
>>376
いつ輸入されたの?具体的に
384:白馬青牛
07/11/11 00:01:34 C5kR7nRA
>>382
旭川師団は、旅順攻略でも感状を貰うとるし、関東軍の中でも訓練じゃあ
弘前師団と1,2を争う存在で、弱かったと断言出来んよ。ノモンハンや
ガ島の実戦じゃああんましパッとせんかったけど。韓国兵もベトナム戦争
じゃあ精強で鳴らしたけんのう。朝鮮人との強弱は解らんよ。
>>383
西国の武士団が東国の影響を受けたんは鎌倉時代の東国武士団の西遷
や、近世も幕府の置かれた江戸の影響もあろう。
西日本=年齢階梯制・末子相続、社会的に横の関係で結ばれた集団
(網野善彦氏は、伊予の忽那系図や肥前松浦党系図から西国では惣領家は
見いだすことが出来ない。とされる。そういえば、河内源氏・摂津源氏も
本家、分家の関係ではない。)から、東日本=親方旦那制・長子相続制の
社会的主従の縦の関係で結ばれた集団の影響が庶民層の社会集団まで
出たんじゃないか。中世のアウトローの西の悪党集団は横の連合じゃし、
縦型のやくざの祖は江戸の町奴からじゃろう。東国近世的結合が、
江戸期~近代にかけて西国に影響を与えたと考えとるよ。
385:人間七七四年
07/11/11 00:43:39 bM7tKt7P
それまでは西国には親分子分制度が無かったわけか。ほうかほうか
386: ◆26IT/WpOkg
07/11/12 00:18:10 zU4Qlt0r
>>380
馬具が違う件
>>381
甲斐のお侍はそう見てないようだ(詳細不明)>>238
>>384
広島は東国武士に占拠されたしな
中世からの解体
387:白馬青牛
07/11/12 00:49:22 ylLAC4Ro
>>386
馬具が違うたら、騎乗者にどう影響するんか?近代において、
日本軍の騎兵とロシア軍の騎兵の馬具の違いたあ、どがいなもんか?
安芸に移住した東国武士も西日本的横社会に同化したけんのう。
中世云うて、中世をどの時代からに設定するか見解が分かれよう。
生田滋氏の云われるよう平安期とするか、マルクス共産主義史観のように
鎌倉期とするか、あるいはは南北朝期とするかよのう。
その「中世からの解体」云うんはどがいな説かいのう?
388:白馬青牛
07/11/12 00:52:30 ylLAC4Ro
>>386
ほいで>>238の戦闘実例たあ何や?
389: ◆26IT/WpOkg
07/11/12 01:04:15 zU4Qlt0r
>>387
違いについては=゚ω゚)の書き込みがあったろ。
近代は使い慣れた和鞍を捨てた。
小農の自立。
390: ◆26IT/WpOkg
07/11/12 01:14:31 zU4Qlt0r
ぼんくらって・・・
391:人間七七四年
07/11/12 10:20:36 1CkKO57G
自分が突っ込まれたらはぐらかして人にはソース!ソース!と言い続けるナイスガイ牛
392:人間七七四年
07/11/12 22:45:16 t9IzOpQ/
=゚ω゚) 馬具が違うと言うより馬体がでかすぎると古来の責め馬調教法が通用しないんだよ。
だから西洋では調教法に重点がおかれ従順で多芸な馬が重宝された。
慶応年間江戸幕府はフランス式軍制に改変。小笠原常定が騎馬調練を開始。
そして明治以降、陸軍はドイツ馬術を採用したらしいが北清事変で上海出兵したさい
騎馬の整列もろくにできず貧弱で凶暴な国産馬は列強諸国に笑われたと言う。
日露開戦にあたり陸軍省は豪州へ軍馬3701頭を注文したが・・・その前に終戦w
しかし3701頭って・・・ハンパだ。秋山好古はおフランス帰りだった希ガス。
騎馬鉄砲で有名なのが仙台伊達兵な。
馬に鉄砲と言えば夕陽と拳銃の伊達順之助を思い出すのう牛!
♪満州うぅぅ荒野~♪竹にスズメは伊達男爵か
393:白馬青牛
07/11/13 23:58:08 kWY6/bSv
>>389-390
使い馴れの問題以前に騎乗者の技術を考慮せにゃあ。
小農の自立か。東日本じゃあ戦後じゃのう。
ぼんくら(盆暗)=ネット用語のDQN。
>>391
わしが突っ込まれたらはぐらかして、云うてどこの文かいのう。
>>392
馬体、調教よりも、日本馬は去勢をしとらんけえのう。北清事変の頃は
どうにもならん。秋山好古は、日本騎兵に騎馬戦を避けさせたけんのう。
三菱財閥が小岩井牧場に繁殖牝馬を購入輸入したんは、日露戦争の後、
明治40年じゃたろう。伊予宇和島藩主系の伊達順之助氏か。
URLリンク(art-random.main.jp)
下段の伊達順之助=張宗援の右の方に写真が出とる。胡桃沢耕史氏の
「闘神」はわしゃあ読んどらんのじゃが、若い頃からDQNじゃった
のう。次も伊達順之助氏について書こうかいのう。
394:白馬青牛
07/11/14 00:49:47 tIZ/7L7G
>>393の続き。松田隆智氏と張世忠氏の対談から。
張 「日中戦争が始まった時、私は許蘭洲将軍の関係で軍隊に入った。
山東省督弁の張宗昌将軍の義兄弟の伊達さんは中国名を張宗援と名のり、
青帮の二十一代の徐鉄珊が総参謀となって山東自治連合軍を組織した。
伊達さんはそれ以前は満州で馬賊の頭目だったが精鋭を選抜して山東省に
やって来た。体格の良い貫禄のある人で、毎朝早起きをしては馬に乗って
周辺を一まわりするのが日課だった。」
松田 「拳銃の名人だったでしょう。騎馬の状態で電線を拳銃で撃って
切断してしまうのは本当ですか?」
張 「本当だ。拳銃の腕前は大したものだった。」
八極拳の武術家である張世忠氏については、
URLリンク(www.tcat.ne.jp)
に出ておるが、【波乱万丈の青年期】に、徐鉄珊氏、伊達順之助氏、
小日向白朗氏と、歴史の裏面に登場する人物達と交流があったようで。
騎馬の状態で撃って電線を切断するんは、相当の腕じゃのう。
395:白馬青牛
07/11/14 01:36:19 tIZ/7L7G
>>394の続き。伊達順之助氏と広島第5師団との関連で、山東自治軍から。
「南満州及河北・山東の馬賊を集め、日本人の伊達順之助氏と名のる男が
指揮官だった。山東北部を本拠に、日本軍に協力した集団で、詳細不明だが
約4万人とされていた。師長級は日支(日本人と中国人)半数ぐらいで、
5・15事件の首謀者も居たという。昭和13年1~2月頃は、第21聯隊
(広島5D、浜田21i)がこの管理を担当し、武器・弾薬・資金など
支給した。もともと日照(青島西南約95km)付近で、製塩により
自活させる予定だった。2月20日片野支隊(浜田21i)が南下中、
この軍(伊達氏の山東自治軍)は支那軍と交戦して敗れ、わが軍の
招賢城攻撃の勇敢さに感激して、100円を置いて日照に帰った。
(浜田第21聯隊史・大塚氏記述から)。
馬賊じゃあ、相手が支那軍であっても、近代軍隊に勝てんのは云うまでも
ないが、よほど「強剛の二一」こと、島根県の浜田聯隊の勇敢さに
感動したんじゃろう。
396:人間七七四年
07/11/14 01:37:37 T1XrXV8I
>>393
わしが突っ込まれたらはぐらかして、云うてどこの文かいのう。
391ではないが↑自体もそうだしな。あんたの色んなレスみて勉強
させてもらったわ。というかアナタ一体ナニモノデスカ?ただの文学オタク
・・・てわけではなさそうな気がする。
397: ◆26IT/WpOkg
07/11/14 01:48:38 w6zilVcp
>>393
中世武士の馬術は幼少期からの訓練が必要だろうし、実戦ではいわゆる軍陣鞍を用いる。
日本の馬具は独自に培われた技術。それも関東を中心とする東国で。だからusiは嫌うw
近世馬は高級武士の移動用、ステータスシンボル。鞍は水干鞍全盛。
主流は木曽馬のような駄載や農耕。
そんな流れを受け継いだ騎乗に疎い近代日本人の能力で、人も馬も体格が違う外国と比較されてもな。
戦国時代でも馬上衆は限られた階層だろ。
里見や北条の馬上足軽など関東の軍役は馬と密接だが、でも着到の主流は歩槍。内陸アジア遊牧民とは違う。
だからって、畿内西国よりは↑↑↑↑↑↑
近世の百姓は結構浮き沈みの激しいシビアな社会。新たな富裕層も出てくるし。
usi自ら信奉する(電波)江上説を否定してる罠w
韓半島南部から入ってきた河内の馬飼は、去勢技術など持ってなかっただろ。
394と395はお国自慢板に貼れよw
398:人間七七四年
07/11/14 22:41:37 DbJPaxUX
=゚ω゚) 北条の足軽といえば関係ないが船足の速い船を『足軽舟』と呼んだらしい。
それが金太郎で有名な足柄山の舟材の語源だとか。伊豆水軍かのう?
>394
=゚ω゚) ほう満軍八極拳の張世忠老師と伊達順之助や紅卍会に面識が合ったとは
知らんかったわい。ただの中華料理屋のオヤジだと思っていたがwやるのう牛。
紅卍会は合気道の名付け親、出口王仁三郎や頭山の玄洋社との関わりも深いので面白い。
じゃがリンク先のサイト記事には重大な間違いがあるっ!
>雑誌「武術」の創刊とともに“八極拳ブーム”が起こり生徒が急増
=゚ω゚) “八極拳ブーム”が起きたのは『拳児』と『バーチャファイター』のおかげじゃ!
399: ◆26IT/WpOkg
07/11/15 00:00:34 nXaLa9aY
江戸城石垣の材料として膨大な量の伊豆石を、慶長~寛永期に西国大名が船で運んだね。
その影響か慶長期の墓石は旗本階級でも不足していた模様。
相模国足柄上郡大伴郷、大友氏発祥地。
ベタだが伊東の湯は良いな。
伊東漁港近く、歩道沿いの甘い香りも・・・干物だけどw
伊豆ってトコは曇ってる日が多いかも。
400:人間七七四年
07/11/15 11:46:53 gVdPbEnP
さすが汚いな牛汚い
401: ◆26IT/WpOkg
07/11/15 23:57:47 au9XQeA4
∧ ∧
( ゚∀゚) 近代広島は小作や被差別民の争論が激しかったか
_| ⊃/(___
/ └-(____/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
402:白馬青牛
07/11/16 00:20:02 AcV432so
>>396
じゃけえ、はぐらかしたじゃ思える文を具体的に書かにゃあ、わしゃあ
答えられんよ。アンタ一体ナニモノ云うても、わしゃあ広島のモンじゃ。
文学?嫌いじゃあないのう。
>>397
日本の古代~中世の馬術は、渡来系の末で畿内の職能集団の弓馬の家の
技術じゃっただけであろう。外来文化の終着点の島国の日本に独自性を
求めてどうするんかいのう。韓国人と東日本人は、起源やら独自云う
言葉が好きじゃのう。日本人が騎馬に疎いんは、ステップ乾燥地帯と
違い、湿潤地帯じゃけえ風土的に騎馬は無理じゃ。人や馬の体格?
トルコ系やモンゴル系の遊牧民の人と馬は西洋と比べ小さいが、騎馬戦闘が
有効な古代~中世じゃあ西洋より強かったで。ロシアのコサック騎兵なんか
は、トルコ系遊牧民の影響が軍事・社会組織的にも強い。
URLリンク(zarathustra-wins.net)
ウクライナ・コサックについて「選挙、全員集会の合議制といった
平等な制度を有して、経済面でも平等主義的な社会であった。」と、
あるよう遊牧民的な民主的社会(海洋性の強いカリブの海賊も平等性が
強い民主的制度)と、縦型のロシア農奴社会と違う。
関東が、馬牧畜社会じゃったら横社会にならにゃあいけんのに、
隷属農奴縦型社会になっとるけんのう。
403:白馬青牛
07/11/16 01:00:40 AcV432so
>>397
江上説の否定?古代の柔然すら去勢や家畜騎乗に乏しかったけんのう。
河内や大和の渡来集団を朝鮮南部に限定出来んよ。東漢氏は、鮮卑的要素も
強いし、列島大量移住を朝鮮南部だけの問題じゃない。伽耶自体も
楽浪木槨墓から北方木槨墓に変わっとるで。満州・朝鮮北部の連中の
南下現象じゃ。>>393の胡桃沢耕史氏は、継体天皇の継体王朝を高句麗系と
考えておられたが、わしは、敦賀・越前は角杯の分布から、新羅・伽耶系も
無視出来んと思う。胡桃沢氏は、昭和17年秘密任務で大陸に渡り、
モンゴルにも行かれたので、「江上波夫先生が元祖ですけどね。」と
アルタイ系を強調され、モンゴルの歌も「司馬(遼太郎氏)君と酒を
飲むとよく歌うんだよ。」と云われた。胡桃沢氏のマフィアに監禁された
話やご自身の射撃の腕の話も面白かったわい。(松田隆智氏との対談から)
404:白馬青牛
07/11/16 02:03:11 AcV432so
>>398
紅卍字会と植芝盛平氏の入信した大本教の出口氏、黒龍会の内田良平氏等
の関わりは深いのう。秘密結社の世界は謎がえっとじゃが。
関東軍の工作員であった時吉道仁氏は青幇に入幇されて、青幇員の
相互扶助について、綏遠特務機関の頃、風呂屋の青幇員の主人が、
「お前の家は町外れで不安だろうから自分の所へ移れ」と打診した。
「私は大丈夫だといっていたが、一週間もしないうちに、国民党軍の
襲撃があって多くの死傷者が出た。ところが、私のところには襲撃が
ありませんでした。風呂屋の主人が、事前に私の写真を重慶側に送って
いたんですね。青幇員同志として私に好意を示してくれたのでしょう。
その後、昭和十九年ですが、唐山の青幇の有力者から強制労働者として
送られる何人かの幇員を救出する方法はないかと打診がありました。
しかし、私は日本側機関に睨まれるので不可能だと申したのですが、何度も
懇請があるので、やむなく、「出発の前夜は警備が手薄になるから・・・」
と提案しました。一ヶ月ほどして帰宅したところ玄関口に多くの土産が
置いてあるんです。一年ほど後、土産を置いていったのは、私の入れ知恵で
助けられた人だと聞きました。(中略)こうして民族を超越して、いったん
契りを結んだ以上は親兄弟以上のつながりをもつわけです。」と、
相互扶助の精神は強いのう。
405:人間七七四年
07/11/16 02:05:36 XMtpfKTi
戦国の石高について知りたいんだが、100万石なら大体2万五千の兵を持てたらしいけど、100万石の半分の年貢だとしても50万石の収入あるわけだからもっと兵隊雇えたんじゃないの?
406:人間七七四年
07/11/16 07:38:15 lilhQpMZ
エセ広島人が居て驚いた
407: ◆26IT/WpOkg
07/11/16 23:15:58 GFJWzLKd
>>402
中世畿内に渡来系で弓馬の家?そんな家無いんですけどw
そこで【西日本の牛】【東日本の馬】。
馬の少なかった明などは相当のウンコだな。
小国日本には結構たくさん居たが(宗岡高助の乗馬のような近畿の痩せ馬を含めて)。
>>403
文化の受容
408:人間七七四年
07/11/17 01:18:12 gQvpwGPT
>405
=゚ω゚) あー兵力の動員数か・・・なんか一万石で250人とかよく聞くね。どうなんだろ?
あまり詳しくは無いが手もと資料だと時代や兵装によって変わるようだ。
北条の軍役規定は200石で騎馬1騎につき5人(槍2、鉄砲1、馬の口取り1、旗1)だそうな。
だが馬や鉄砲(硝石)は高価だし遠征だと乗り換え馬も必要。
そうすると荷駄を含めると数倍-十倍の人数が必要とかw
かなり金がかかるなあ。
ただ雑兵物語とか読むと雑兵、陣夫が騎馬武者とか討ち取ってたりするし、
黒田官ベエみたいに浪人どころか女子供まで兵に雇うヤツもいたりするし
石高制が浸透したのは秀吉以降と言う話しだし単純に割り切れるのかどうか?
?詳しい人プリーズ。
409: ◆26IT/WpOkg
07/11/17 02:09:30 2TBWh+8H
後北条氏の軍役賦課基準は、貫高100貫文で約11人(馬上3人、鑓6人)の負担。
同じく陣夫役、40貫文に1人(陣夫1人+駄馬1匹)の割合かな。10貫に1人の場合もあるようだな。
慶安期の旗本の規定、9000石で軍役192人(馬上8)。小荷駄(陣夫)は9人9疋の負担。
1万石だと235人。
410: ◆26IT/WpOkg
07/11/17 02:19:20 2TBWh+8H
旗本の馬上は本人が抜けてたかな?足せば計9人。
元和年間の一万石で馬上15人、慶安は11人と減ってる。
馬上15・鉄砲20・弓10・鑓50。
411:白馬青牛
07/11/17 23:15:29 GuD3UL20
>>406
あんたあ、エセ日本人か?
>>407
渡来系の坂上氏は「家世々弓馬を事とし、馳射を善くす」じゃが。
まあ、東日本人は共産主義史観じゃけえ、中世を鎌倉時代からに
したいんじゃろう。農業家畜としての西の牛と東の馬で、東国が
牧馬社会じゃったら、平等で民主的な社会を作ったじゃろうが、残念ながら
農耕に馬を使う隷属民じゃけんのう。
文化の受容も東国マルクス共産主義者らしい意見じゃわい。
URLリンク(www.bund.org)
「渡来人は縄文人に吸収された」-戦後歴史学の<民族主体性>論に、
出とる、マルクス主義者にして単一民族論者の関東武士マンセーの
石母田正氏の受け売りじゃろうのう。つまり教条的マルクス主義者や
共産主義者の転向組の藤岡氏らが執筆する「つくる会」とその手下の
ネットウヨと同レベルじゃないか。伊達順之助氏と交流のあった、
大川周明氏の日本民族起源論の方が真っ当じゃわい。
412:白馬青牛
07/11/17 23:50:41 GuD3UL20
>>405-408
石高制は秀吉の検地以降の制度じゃし、軍役以外にも掠奪集団ら、
他の戦闘参加者も含めると正確が兵員数は解らんよ。
薩摩の野郎軍団もそうじゃ。家族を連れて従軍したようじゃ。
折口信夫氏は、「応仁の乱や大阪の冬の陣・夏の陣などにも寄り集まって
やって来ます。大勢をつれています。移動村落です。それが落ち着いた
のは江戸時代です。」と、村落単位の集団も含むじゃろう。
>>409-410
確か?慶安二年じゃったか。軍役の員数が軽うなったんは。
1万石で馬上10・鉄砲20・弓10・鑓30。
旗本の軍役に主人は含まんよ。
413:人間七七四年
07/11/17 23:53:38 5RoVbwT0
>>408
一万石で300人と俺は先生に聞いたが。
414: ◆26IT/WpOkg
07/11/18 01:30:05 CP4FwD4o
>>411
軍事官僚としての坂上氏は9世紀初頭まで。その頃の最強はアテルイ。
近衛武官として残った渡来系の秦・下毛野らの馬芸は娯楽競技の競馬(くらべうま)であって弓馬ではない。
形骸化した近衛武官は戦士ではないし、武力も期待されなかった(続古事談)。
弓馬の家柄は10世紀「兵の家」で、アウトローな無法地帯の関東で誕生した。
で、中央に進出し伊勢平氏のような軍事貴族にもなったろ。
農耕馬は江戸期が盛期であって、それも主として厩肥と運搬用程度にしか使えない。
農耕馬は小食な小柄馬が好まれたし、武士(軍役衆)の軍馬とは区別すべきだろうよ。
縦型社会の頂点は京都貴族。
マルクスなんぞ知るかw
>>412
馬上15・鑓30は元和2
江戸期の軍役規定は戦国期より非戦闘員が多く、鉄砲は戦国期ほど重視してないようだ。
600石の旗本で本人分を除いて(慶安2年)、侍(若党)3・甲冑持1・立弓持1・鉄砲1・鑓持1・草履取1・挟箱持1・馬口取2・小荷駄2。
これを維持するのは普通に無理だが、その内容も近世らしく儀礼的な印象。
415:人間七七四年
07/11/18 02:22:47 LYIxsg2y
牛はネットウヨが嫌いなのか。ならブサヨ側の人間か
416:人間七七四年
07/11/18 04:09:52 9GKwI8I8
>>409
=゚ω゚) いつもながらまいどサンクスです。
おおよそ50貫=200石で換算すると一万石は2500貫。
100貫文で約11人(馬上3人、鑓6人)の負担。と言うことは
北条家推定で一万石あたり275名? 数字的にはほぼ通説どおりかな。
まあこれは普段から家で召し使う郎従たちの
最低限の戦闘員数の規定だろうから状況によって変わった鴨。
さらに食料が1日あたり人間5合の馬が大豆1升。
400石あたり11人×馬3で、1升を1.5kgで適当に計算すると
400石=(11×0.5)+3=8.5升。×25=212.5升=319kgで
1万石で1日5俵かな?3日で1トンの計算だね。
つーかこの計算でいいのだろうか?w
さらにこの荷を運ぶ駄馬と人夫数名も飯を食うわけだが・・・
私は計算しない。
=゚ω゚) ちなみにウチの近所の店には「1斗2升5合」の
御商売益々繁盛絵馬が掛かっておった。
これは暗号である。この謎が解けるか牛っ!
417:人間七七四年
07/11/18 13:32:42 jrg4WMG4
徴兵募兵の実状ってどんなかんじだったの?
418: ◆26IT/WpOkg
07/11/19 00:51:49 XqRnXf2y
>>416=゚ω゚)
貫高と石高を比較するのは難しいが、1590年頃で100石に4~5人程度の軍役負担のようだな。
1日玄米5合は平時で、戦時は米の量が増し1日3食にもなったようだよ。白米も食えたらしい。
419:白馬青牛
07/11/19 01:37:29 MBj7x/Uj
>>414
蝦夷のアテルイと闘うた主力は、近隣の東国兵じゃないか。
遠江・駿河の新羅人700人の反乱に動員された関東七ヶ国の援軍も
人海戦術で鎮圧した処、新羅人も最強か?渡来系にも土着系にも苦戦する
関東勢の弱さか。渡来系から馬術を学んだ関東や東北蝦夷が、競馬なら、
馬柄杓を必要とする関東武士は馬上お荷物じゃのう。
関東がアウトロー無法地帯?米国の西部もカウボーイとガンマンの世界と
19世紀そう呼ばれたが、ジョン・ホープ・フランクリン氏は、
『武装せる南部』(1956)で、「西部のフロンティアがその最も
凶暴な時代と同時期で、南部の方が、武器の使用、決闘、自警団、
大衆リンチ等がずっと激しかった。なぜ、西部の暴力のテーマが
誇張されているのであろうか。」と。それと日本の東国アウトロー伝説も
同じことよ。畿内の文筆に携わる者が面白う、可笑しゅう誇張して
書いた文が後世に残るわけじゃ。「東国フロンティア物語」として。
農耕馬に荷駄を載せるんも騎乗下手な武士を載せるんも大した違いはない。
騎乗上手なら馬の口取りや馬柄杓は必要ないけんのう。馬飼育に巧みなら
乗り換え馬は牧夫がまとめて連れて従軍すりゃあ人夫もいらん。
身分制縦社会の京都よりも縦社会の関東・東日本の方が頂点に近いわ。
マルクス左翼史観そのものじゃないか。あんたの鎖国史観は。
420:白馬青牛
07/11/19 02:13:43 MBj7x/Uj
>>415
ネットウヨは、米国のKKKや西欧のネオナチと何ら違わんじゃないか。
何でわしが、排外主義のファシストネットウヨを肯定出来るんか?
ブサヨなら、共産主義左翼史観の蛙君に云ええや。そもそもネットウヨの
方が>>411の挙げた文にあるようマルクス左翼史観の継続者じゃないか。
ネットウヨは、民主主義も左翼認定じゃけんのう。
ぜひ北朝鮮に移住することを薦めるよ。米国のKKKに反対したような
プロ市民は活動出来んし、政府に対する批判も出来ん。
ネットウヨの理想国家じゃないか。
関東の人間なら昔から隷属農奴体制が身についとるけえ苦労はないが、
横社会に馴れた西日本の人間にとっては業なことよ。
>>416
櫛屋が十三屋(9と4、くしや)云うような語呂合わせよのう。
「御商売益々繁盛」は、5升倍(1斗、ごしょうばい)2升
(1升+1升ますます)升半分(5合、はんじょう)の語呂合わせ以外の
暗号でもあるんか?
421:人間七七四年
07/11/19 08:29:13 apQfiA5t
>>420
その熱湯浴はネオナチやKKKとはそもそもまるで違う、差別的だから同じ程度だろうが
世界で差別はむしろ当然でしかない
ネオナチなんかは実行組織
第一民主主義否定論者は居ない
by熱湯浴
422:人間七七四年
07/11/19 12:48:26 z8Jo3mFE
ウヨのあほさに涙目・・・
感情論しかないのに、ないからか?見下す相手がほしいんだよ。
極論しかできないし、ニュー速あたりだと数押せで自慰できるんだろうけど・・・
423:人間七七四年
07/11/19 22:09:22 9kTtOqWz
=゚ω゚) 寛永10年度江戸幕府の軍役令だと
200石で侍:1、甲持:1、槍持:1、挟箱:1、小荷駄1、草履取:1、口取:2で計8人。
900石で侍:6、甲持:1、槍持:3、挟箱:2、小荷駄2、草履取:1、口取:4、弓:1、鉄砲:1で計21人。
1万石になると人数規定の記載が無く
馬上:10、鉄砲:20、弓:10、槍:30、旗:3となる。
馬上武者は最低200石以上だから、それを10セット揃える事になる。
500石以上は計13人で>>414氏のデータとほぼ同じとなる。
=゚ω゚) 東西農耕と牛馬の違いは島原の乱にも見られる。
寛永15年からの牛の伝染病により西国地域の牛がほぼ全滅。
旱魃に加え耕作能力が低下し飢民は江戸まで流れてきた
これも西国飢饉の一因であったと言われる。
(東北はふつうに大雨と冷害だった)
>420
=゚ω゚) よくぞオイラの謎かけを見破ったな明智君。
他にも「望遠鏡にウサギのマークとはこれ如何に?」とか有るのだが
また今度にしちゃる。戦国に暗号は憑き物じゃけんのう。にんにん。
424: ◆26IT/WpOkg
07/11/20 00:52:32 UmuhIye7
>>419usi
その常一電波は論破されたろ>>109>>110>>119
律令的歩兵は弱小
>馬の口取り
口取りは貴族社会に見られる。舎人の「くとり」。
武士社会の馬口取りは容儀を整える意味でも必要なもので、もちろん全国共通。馬柄杓もだろう。
まぁ、畿内産の軍馬は関東甲信の駄馬より劣るしw
usiの東日本に対する偏見がマルクス史観。
425: ◆26IT/WpOkg
07/11/20 01:03:38 UmuhIye7
地理人類学板の鎮西人ワロス
鯉のドラ1は前商出身の篠田か。多田野獲れなかったね。
捻り嫌いのusiとしては多田野は好みじゃないだろうな。変な意味じゃなくてw
>>423=゚ω゚)
江戸泰平の世だと、旗本の殿様も若党や中間より女中を多く雇ったり・・・
本来は精鋭であるべき大番組番士クラスじゃ馬も飼えないだろうし、軍役も糞も無くなるね。
426:人間七七四年
07/11/20 01:10:33 wjI3UjaL
伝染病でusiが死ねば良かったのに
427: ◆26IT/WpOkg
07/11/20 01:18:08 UmuhIye7
∧ ∧
( ゚∀゚) あと、>>419の>畿内の文筆に携わる者
_| ⊃/(___ これって日本書紀の頃からだけど?坂東を重視する姿勢はね。
/ └-(____/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
428:白馬青牛
07/11/20 23:04:49 mOJnvj+2
>>421
ネットウヨは、ネオナチとKKKとまるで違うんなえら、キリスト教
福音派の原理根本主義者か?第一民主主義否定論者はいない?ネットウヨの
親分の幕屋、創始者の手島郁郎氏は民主主義を否定しとるじゃないか。
URLリンク(www.tokakushin.org)
3 キリスト教幕屋ーその教義と実践
◆強烈な民族主義と反民主主義
手島郁郎氏は「私は聖書を深く読めば読むほど民主主義というものに
反対です。」と、云う。操られたネットウヨも同類じゃろう。
URLリンク(www.ginzado.ne.jp)
URLリンク(www4.tiki.ne.jp)
URLリンク(homepage2.nifty.com)
これらのサイトからネットウヨの思考源流が宗教原理主義から来とることが
解るが、聖書を一字一句正しいと信じる根本主義者と歴史文献を文字面から
額面通りに受け取る板東蛙君は類似しとるのう。宗教を否定するマルクス
左翼ボーイがマルクス史観を神の経典としたんと、ネットウヨ宗教右翼も
狂信さにおいて変わりなきものよ。
429:白馬青牛
07/11/20 23:53:25 mOJnvj+2
>>428のに、出んかったんがあったか。
URLリンク(ww4.tiki.ne.jp)
じゃったかいのう。
>>423
寛永期の牛の伝染病で西国の牛がほぼ絶滅したかどうかは、遺伝子を
調べて見んことにゃあ解らんよ。寛永の飢饉は西日本だけじゃのうて、
東北地方にも波及しとるじゃろうに。
飢饉は小氷期には頻発しとる。15世紀には洛中の死者8万4千が事実か
どうか解らんが、戦国時代は小氷期によってもたらされたとも云えよう。
4世紀の氷期には、渡来系の大量移住もあったろうし、平安期の9世紀
頃には、西日本の小氷期に比べ、東日本は温暖化現象が起きて
西日本人の東日本へ殖民活動や温暖化による生産向上で奥州藤原氏や関東
武士連中の自立のきっかけにもなったんじゃろう。
430:白馬青牛
07/11/21 00:11:31 t+zqjv61
>>424
論破されとるんは、蛙君の方で。宮本常一氏は、家畜飼育文化から
東日本は欠落部分が多いとされとるんじゃ。
確かに、東日本は蒙古や高句麗の牛車文化や犂を使う部分に乏しい。
東日本は、馬を荷駄や農耕に使う要素が強いわけじゃ。
舎人を馬の口取りと語呂合わせしょうるが、新羅の舎人も同じ意味か?
畿内に馬を献上した東国の方が駄馬を使うとったんじゃないか。
自民族発展段階説で完結されるんがマルクス史観じゃ。東日本の
鎖国閉鎖史観が相当するよ。
>>426
人を呪うようなことを云うんは、われが恥を掻くんじゃのうて、われを
育てて下さった、ご両親が恥を掻くんで。どがいな育て方をしたんか
云われるんど。自分自身の汚名よりご両親の責任になることを自覚せえ。
親不孝もんが。
431:人間七七四年
07/11/21 00:13:29 WRJoIPTJ
=゚ω゚) だから東北はふつうに冷害と洪水だっつーに。
あと、噴火も有ったかな? 西国は旱魃だよ。
東日本は耕作に馬を使ってたから被害はやや少なかった。
>牛がほぼ絶滅したかどうかは、遺伝子を調べて見んことにゃあ解らんよ。
=゚ω゚) そんなもん調べなくても記録にのこっとるじゃろ。
九州、中国ら西国大名が幕府にその旨を申告している。
>428
=゚ω゚) フランチェスコ上人は福音書しか読んでおらんでも悟りを開かれたそうな。
432:白馬青牛
07/11/21 00:28:05 t+zqjv61
>>425-427
殿様の女色好みじゃろうが、戦国期のような男色(ホモ)ならええんか?
心配せんでも男色は、明治期には再び流行したよ。戦後は天下泰平時代が
続きよるけえ、男色の復権は難しい。あんたあ残念じゃったのう。
『日本書記』等の記紀が創られた時代は、東国ロマン伝説の時代じゃ。
5~6世紀に書かれたもんじゃあるまいし。
433:白馬青牛
07/11/21 00:52:45 t+zqjv61
>>431
冷害と洪水も旱魃も気候変動による現象云うことじゃ。
記録だけなら書き手の主観でどうとでも書けるど。
都合の悪りいもんなら、終戦時のように焼却して終わりじゃ。
『日本書紀』にしても、記録云うか記紀は、文学の一形態じゃけんのう。
飢饉の犠牲者を報告するんも戦闘報告の何人殺したかで、殺してもない
数が加算されるんと同様、飢饉の犠牲者数も正確じゃない。ただ飢饉が
あった事実だけが記録に残るわけじゃ。あんたも原理福音派聖書根本主義者
の一字一句を額面通り、解釈するんと変わらんじゃないか。
ほんま関東の連中は、妄想原理主義者がようけ(多い)じゃのう。
こんなあ、ローマカトリックの新約聖書の福音書解釈と根本主義者の
旧約聖書を文字通り解釈するんと混同しょうるわい。
434: ◆26IT/WpOkg
07/11/21 01:15:47 H9u9Y5iC
>>430
牛車が使えたのはは道路が整備されてたからであって、『方丈記』では乗馬と牛車が反比例。>>67
【関東・信濃】 馬牧=台地・山麓(広い) 高句麗系 畑作と牧(馬飼育複合文化=森、大林氏)
【畿内】 馬牧=川原(狭い) 百済系 田と牛
常一は絵巻の見方もいい加減で話にならないし、貴族に馬口取り(舎人)は付く。
なぜ、平安貴族は落馬するのだろうか?武士じゃない頼長だけがなぜ射られたの?戦わないのに?
頼長が豊原時秋に贈った馬は、鞍と舎人もセットだったようだな。
貢馬の制度は牧を武士に横領されて廃れた。貢馬といっても貴族に贈るわけだから、実戦に使わないコレクション。
京の軍事貴族は独自に奥州などから手に入れたわけ。
東国では熊谷クラスの小領主でも立派な乗馬を手に入れてたが、畿内の在地領主は体力の無い博労馬だろう。
>>431=゚ω゚)
富士山
>>432
そっち系の話じゃなく、彼独特のフォームの事よ。負担大きいから故障心配ね。
近世・近代のそれは薩摩武士。
東国ロマン伝説、新語キタアッ━━━!!!
435: ◆26IT/WpOkg
07/11/21 01:55:34 H9u9Y5iC
▽保元物語(半井本)
(為朝)「清盛ナンドガヘロヘロ矢ハ、何事カ候ベキ」
(為義)「合戦ノ道ニ調練不仕シテ、不案内ニ候ナリ」
(為義)「嫡子ニテ候義朝ハ、坂東ソダチノモノニテ候間、弓矢ノ道奥義を極タル上、付随所ノ郎等、皆関東ノ兵者共也」
436:人間七七四年
07/11/21 21:50:18 EI1qR/Kz
>>430
己が広島の恥なことに気づいてない件
437:白馬青牛
07/11/21 22:48:12 t+zqjv61
>>434
道路がのうてもモンゴルじゃ牛車を使うとったよ。
森浩一氏は、東国の山麓馬牧が広く、河内の川原馬牧が狭い云われとらん
じゃろう。森氏は「五~六世紀ごろは、河内平野はわが国における馬の
文化の中心であった。」と、される。元来馬牧は水草を追うもんじゃ
ないんか。南満州~朝鮮北部の山麓に住んだ高句麗自体、果下馬で
小型馬じゃったよ。中型馬は満州平原の夫餘かモンゴル~西満州の鮮卑から
手に入れて重装騎兵が作れたんじゃないか。東国山麓の高句麗と共に、
関東低地平野部の新羅系の要素もあり、馬文化も日本海側から流入したと
考えられる。
一方河内の馬牧は、百済系云うても、東漢氏と新沢千塚古墳と鮮卑の関連も
あり、鮮卑、楽浪漢人、百済、伽耶の混合で黄海側の要素が強いんじゃ
ないか。
『年中行事絵巻』の貴族の方が見た目に騎乗姿が良いが、板東武者は、
源平合戦の絵巻でも馬が暴れて騎乗者が落ちまいと馬にしがみつき、
哀れな姿態じゃけんのう。これじゃあ、近代軍隊の弱いとされた日本
騎兵以下じゃ。騎馬戦闘の集団運用どころじゃないわ。
新羅じゃあ舎人は、豪族の郎党で大舎、舎知は上干、干と官位を持っと
るよ。馬の口取りから発生したかは、疑問じゃのう。
関東の実戦云うてどの戦闘か?具体的に云わにゃあ。出入りと戦争は
違うで。奥州や北海道の渡島等の馬を京都貴族が求めたことじゃが、
関東は馬の質が良うなかった云うことか?
安芸に移住した熊谷氏じゃけえ、熊谷クラス云いたいんかいのう。
まあ、セミプロじゃったんは、認めるが。熊谷氏が移住した処が、
安芸国漢弁郷(広島市安佐北区可部地域)じゃ。安芸に先に移住したんは
騎乗プロの渡来系漢氏じゃったんも面白い現象よのう。
438:白馬青牛
07/11/21 23:13:56 t+zqjv61
>>434
そっち系は薩摩人に顕著じゃが、地域的に西日本の方じゃのう。
もっとも、江戸でも旗本奴や町奴らDQNは、その気も強かったんじゃ
ないか。男色は地域や時代と両面見んといけんが、戦前の昭和期では、
陸軍より海軍に蔓延しとったようじゃ。広島ヤクザを描いた
『仁義なき戦い』や日露戦争を題材とした『203高地』の脚本家、
新潟県人の笠原和夫氏は、広島県の大竹海兵団出身じゃったが、
海軍は「そっち系」じゃないと出世出来んと云われる。船の中の閉ざされた
環境か、海軍が薩摩閥が多かったせいか、それとも海軍がモデルとした
英国の紳士の男色習慣か、要因は様々あろうのう。
>>436
広島県の恥は、参議院議員になって無所属から自民党へ変節し、
反日分子発言をした漫画道場のK氏じゃないか。反日分子云うて、
ネットウヨの発言と同レベルじゃわい。市長選に落選してえかったのう。
439: ◆26IT/WpOkg
07/11/21 23:43:33 tW87S4EQ
>>437
京都貴族は馬にも乗ったがそれより牛車。モンゴル人は一にも二にも馬だから全く違う。
森氏は古墳時代から関東の優位性を認めてるよ。
高句麗の馬は小型だが、後に大陸から中型馬が入って来たろう。
それらが南下するなどして、朝鮮南部から日本に中型馬が入って来た。(日本書紀)
だから、信濃や上野の高句麗系の馬文化は中型馬。畿内のそれも中型馬だが、後世の評判は頗る低い。
絵巻なんてものは省略して描かれてるわけで、武士戦闘の場面で口取りが居ないのも普通にあるぞ。
貴族の見た目ってむくみ顔で肥満だろw落ちまいと馬にしがみついてるのは随身絵巻の近衛舎人だぜw
権太栗毛1200束、直実がセミプロなら教経や景清は高陽東か新庄か。。。
任那・百済系の漢氏(漢=韓)がプロ?戦闘が恒常化するのは東国だよ。漢氏は「兵の家」になれなかった。
>>438
京・奈良が本場だからな。それに較べりゃ信玄なんてかわいいもんだろw
440: ◆26IT/WpOkg
07/11/21 23:44:31 tW87S4EQ
浅間山の方が影響は遥かに大きいか ↓ココ
1083年(富士)1108年(浅間)1707年(富士)1783年(浅間)
富士や浅間も 何ならむ 君思ひねの 胸のけぶりは
441:人間七七四年
07/11/22 00:12:47 Zden2UtC
>433
=゚ω゚) 寛永18~20年の大飢饉は蝦夷駒ケ岳の噴火。
伊達領の洪水および冷害。五機内、中国四国の旱魃と虫害。
そして九州の牛死
これに先立つ寛永15年に九州筑後、豊前に始まる大量の牛死が発生。
国境を接する肥後、長門の牛もことごとく死んだ。
熊本藩は薬を注文しているが使うべき牛が死に絶えていたと言われる。
この事は萩藩毛利家も幕府へ報告すべきか黒田、細川らと問い合わせを
行ったと萩藩留守居役の日記に書いて有るそうな。
442: ◆26IT/WpOkg
07/11/22 00:59:48 thacp06l
貴族は米中心の偏食、魚肉を忌み嫌い、都市生活者ゆえ新鮮な食物も摂取できず酸性体質。
運動不足で肥満、顔もむくみ、その容姿が絵巻に描き出されてるか。
地方からの食料に依存してた京都が飢饉に弱いのは当然の成り行き。
>=゚ω゚)
馬は日本>朝鮮だが、明治~大正期に移入された朝鮮牛は和牛より力があり、役畜としての能力も高かったそう。
それで近代、関東でも耕起に畜力を利用するようになったのだが、牛の朝鮮&近畿と言えるか(usi激怒)
明治初期の肥後牛は体高111cm、それが品種改良で昭和初期には130cm前後まで体格アップしたんだってさ。
戦国時代、軍事物資輸送用に駄馬ならぬ駄牛も使われていたそうだけど、西国大名かな??
443: ◆26IT/WpOkg
07/11/22 23:41:56 lqdNfO5s
関東 筋肉労働者 濃味 辛味 塩分多
上方 知的労働者 薄味 甘味 塩分少
444:白馬青牛
07/11/23 22:52:35 7Cjhucj2
>>439
古代モンゴル人は、馬の少ない室韋や初期の柔然のように、牛に乗って
掠奪した連中もおったよ。日本では、大国主命が牛に乗って北陸の越を
平定した伝説を持つのう。馬が少ない場合は牛に乗りゃあええ訳じゃ。
東国に牛車文化や犂文化が乏しい云うことは、家畜飼育文化にも
乏しかった云うことで、牛馬の区別以前の問題じゃ。
森氏は、馬具の出土が長野県(高句麗系)に一番多いことからじゃろう。
『日本書紀』は8世紀に書かれたもんじゃけえ、あてに出来んが古墳期に
中型馬が流入した確率は高いのう。
そう云やあ、関東武士の佐奈田与一は、馬が暴走して討ち取られたんじゃ
ないか。後世の物語文献で信憑性が薄いとしても、書かれた鎌倉期も
騎馬戦を実戦として運用出来んかった云うことじゃのう。
後の文も妄想を云うとるのう。じゃけえ、何回も聞くが東国の実戦とは
どの戦闘のことか?
445:白馬青牛
07/11/23 23:42:00 7Cjhucj2
>>442-443
このスレのパート①でも挙げたサイトじゃが、
URLリンク(d.hatena.ne.jp)
■「史論」間違っている論理展開
「以下は恣意的な事例選択により、間違った解を導き出した例。」
『ビジュアル源氏物語 第5号』の文について、
「平安貴族は短命」や「ひ弱な貴族」「屈強な武士」と云うのが、
如何に根拠の無いものか書いてあるが、蛙君もマルクス左翼史観の見解から
堕落した貴族を倒した関東武士云う前提条件(妄想前提条件じゃが)を
造って云うとるけんのう。貴族が魚肉を食べんかった根拠も無いしのう。
建前で魚肉を嫌うても、ほんまは江戸期のように薬喰いじゃ云うて喰う
ことも出来るけんのう。蛙君よ、貴族の便所址からの寄生虫から魚肉は
喰わんかった云う根拠でもあったんか?
シベリアの狩猟民族や内陸アジアの遊牧民も味付けは薄いど。
日本では、畿内~瀬戸内食文化圏の味付けは薄い。ほいで関東人は
素材の味を知らん馬鹿舌と嘲笑すわけじゃが、逆に味付けが濃い云うことは
文明化云う面もあるけんのう。東国の長子相続制等、宗族概念も儒教色の
強い文明化とも云える。素材を生かす西国の食は野蛮人で、
関東はひ弱な文明人云うことかのう。
446:白馬青牛
07/11/24 00:03:54 S9mpbMRn
>>442
馬は日本>朝鮮かのう?騎乗者レベルじゃあ逆になるんか?
URLリンク(bbs.enjoykorea.jp)
「エンコリ」からじゃが、朝鮮半島の方が大陸の騎馬民族と直接接して
おるだけに、騎馬は上じゃないか。赤組の嫌韓低脳連中の方が、
火病を起こし、形勢不利じゃのう。まあ日本でも民間に馬の曲乗りは
あるけど。
447: ◆26IT/WpOkg
07/11/24 00:52:44 XB5waDrH
まあ、陰徳太平記よりはマシ
>>443
モンゴル人は牛を馬鹿にして乗らないらしい。プライドが許さないと言って。
森氏は関東の馬型埴輪を重視してる。ついでに家畜についても。
与一は勇者。
>>440の噴火の頃も戦ってる。
>>445
前に挙げてた下らないやつか
>>446
今の朝鮮は小馬が残っただけで、畿内と似て牛の産地。
創意工夫が足らず大陸の物真似だろ。日本は独自に進化した。
448:奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
07/11/24 00:59:18 DNC4e3ff
塩について一応言っておくと。
関東と関西では関東のほうが内陸が多いぶん塩に飢えている。
>>443が挙げてくれているところだが、それだけに塩分の消費は少ない。
薄味の旨味の昆布には塩が多くなければならない。
旨味が強い節文化の関東は、漬物以外に多くの塩分を必要としない。
449: ◆26IT/WpOkg
07/11/24 01:01:09 XB5waDrH
アンカー >>444usi
450:人間七七四年
07/11/25 01:22:02 pi9mb2pf
=゚ω゚) うむ。これは本場長浜博多ラーメンの方が関東しょうゆとんこつより
あっさり味である事に通じる部分が有るかもしれない。食ったことは無いが・・・
替え玉を使うのが本場の味らしいがこれは立花道雪の
早合にヒントを得たのではないかとオイラは直感したね。と言うのはウソぴょん。
味覚と言えば本州の米味噌。愛知三重岐阜の豆味噌。九州中国の麦味噌だな
そういや老子が牛に乗ったのは何故かのう?
日本では徳一や長野無楽が牛に乗っていた。
そして我々はusiにのせられている。はっはっは。
451:奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
07/11/25 22:27:52 ZW+fR2pf
誰うま(ry
452:白馬青牛
07/11/25 23:50:47 TBqZatf0
>>447
陰徳太平記は、古老を尋ね聞き取りしたもんじゃ。あんたの云う妄想
文書と同一視すなや。現代のモンゴル人は牛にあんまし乗らんが、
古代の柔然はどうか聞いとるんで。チベット系牧畜民は今でもヤクに乗る
ど。下らんのは、根拠の無い蛙君の共産主義的関東マンセーよのう。
創意工夫の進化云うより劣化じゃないか。西洋や日本はユーラシアの
辺境部で騎馬技術が発達せんかった。独自云う言葉を使うんはマルクス
左翼史観の影響じゃろう。
>>450
わしゃあ、ラーメンは滅多に喰わんよ。博多の屋台の替え玉を遠き昔に
なったわい。うどん等の麺の汁にゃあ瀬戸内のイリコダシが一番ええ。
まあ、ラーメンたあ、関東のソバの方が好きじゃのう。難点は汁が
濃すぎで塩辛ろうて、後に喉が渇くことじゃ。
広島の沿岸部は米の白味噌を多用する。県北に行くほど、味が濃ゆうなる
わい。瀬戸内沿岸と違うて、県北のもんの味覚は、関東人並み馬鹿に
するもんがおるけんのう。そう云やあ、広島県北部や島根県はソバ食
文化圏じゃった。
453:人間七七四年
07/11/26 01:10:29 aB+q2zwK
=゚ω゚) 九州、西国は麦ミソ、甘口しょうゆだと聞くが?
瀬戸内は米ミソなんか?
現代の関東は信州ミソで、しょうゆは千葉だな。
醤油の元祖は紀州のたまり醤油で漁民とともに銚子へやってきたのが
ヤマサ濱口儀兵衛一族の初めらすい。
やはり特殊なのは天下人の八丁ミソ文化圏か
454:白馬青牛
07/11/26 01:50:42 pgJs58Jw
>>453
瀬戸内沿岸部は、米の白味噌が多いが山間部は麦味噌も多用するよ。
URLリンク(www.my-styles.jp)
全国味噌の一覧も参考になろう。
ほいから、関東の食は濃口醤油の香りが強いのう。
455: ◆26IT/WpOkg
07/11/27 01:10:05 nzlwBoju
>>444
大国主命のソースは
>>445
平安の貴族社会は穢れちゃうからダメなの
奈良貴族>平安貴族(タンパク、ミネラル、ビタミン欠乏)
平安貴族にキレやすい奇人変人が多かったのも納得。
>>452
毛利家臣の香川親子が毛利家臣の古老に聞いたか。で、元禄8年(1695)の完成と・・・
妄想関八州古戦録とかネタにしてないよw
456:人間七七四年
07/11/27 01:30:03 0z+eLJQs
=゚ω゚) 大味必淡、大音必稀かのう?京の着だおれ江戸の食い倒れ
とは言うが江戸っ子自体は薄味好みだったようだ。
(だが、じっさいの塩分は関東の方が多い)
感覚的に関西は見た目より「塩味」が強く、関東は「醤油風味」がキツイの
ではないかといわれる。
寿司なんか見比べると一つは保存と手軽さが有ったのかも知れん。
あと昆布は北前舟の関係上、関西が先に発達完成したためと言う説も有るな。
鰹節は土佐産と言われる。水上流通だな。
>妄想関八州古戦録とかネタにしてないよw
=゚ω゚) うっ・・・ すんません使ってますた。
457: ◆26IT/WpOkg
07/11/27 02:05:28 nzlwBoju
=゚ω゚)
俺とusiはデムパ新人国記
京は水。
昆布は鰹節を使え(わ)ない貴族僧侶の食文化から発展した上方らしい。
鰹の話は徒然草にあるが、元来下等な魚だったのに世の中変わるもんだと。
北前含めて食い物は北海道最強。
458:白馬青牛
07/11/28 01:55:37 bHPwwKl2
>>455
大国主命のソースか。
URLリンク(www.cap.or.jp)
URLリンク(www5.ocn.ne.jp)
上の伝承は『山田村史』の悪者が多く住み農民を苦しめたので、大国主命
が、牛に乗って山を登り、悪者を平定したと云う。
下の方の奥山駒ヶ岳の話も牛に乗った大国主命の説話がある。
下記の沼河比売と、「その夜は結婚しないで、翌日に結婚なさった」と
あるが、<初夜の忌>(初夜の性的抑制)で北陸から美濃・三河や東北に
分布する習俗。折口信夫氏は「三河南北設楽郡(新羅系か)の山中では、
結婚の初夜は、夫婦まぐわく(SEX)ことを禁ぜられている。
花嫁は「ともおかた」と称する同伴のかいぞえ女[添い寝]と寝、
『お初穂(処女)はえびす様にあげる』のだと言ふ。」
ほいで、平安貴族のタンパク・ミネラル・ビタミン欠如の根拠は?
陰徳記は、日の目が出るんが遅かった云うことじゃ。完成期が遅かった
けえ、文体が物語風装飾要素が強うなったことは否定せんよ。
459:白馬青牛
07/11/28 02:22:17 bHPwwKl2
>>456-457
ひねりよるのう。江戸の着倒れ、大阪の食い倒れじゃろうに。
東京人は、気取っとる人種じゃし、普段不味いもんばっかし喰うとるけえ、
値段の高い、高級な料理とやらを喰いたがる傾向は現代まで及んどるんじゃ
ろうかのう。
ほうよ、北の昆布、伊勢湾周辺の鰹節、瀬戸内のイリコよのう。
北海道の食い物がまずい云う逆説か?
魚に関しては瀬戸内が最強で、外海の魚は大味じゃが、
確かに北海道の昆布類は、最強じゃのう。
わしゃあ今日もガゴメ昆布の汁を飲んだよ。
昆布はグルタミンじゃけえ、イノシンの鰹や肉類の組み合わせも旨い。
海藻類ならメカブでも、西国物より東北物のほうが旨いのう。
460:人間七七四年
07/11/28 21:26:49 LsQ44tb0
=゚ω゚) ひねるもなんも京の着倒れ、大坂食い倒れ、江戸の呑み倒れ
神戸の履き倒れ、名古屋の貯め倒れetc
特に江戸は着倒れ、食い倒れ、呑み倒れ、履き倒れ、買い倒れ何でも有りだ罠。
まあ、人口が多いからな。
>『お初穂(処女)はえびす様にあげる』のだと言ふ。
=゚ω゚) ほう、これは面白い。大国主命は縁結びの神でもあるな。
しかし「エビス様」ならセガレの事代主神や
同じ国造り神の、♪指に~足りない♪ヒルコ神だと思うが
いずれも水の神、マレビトの神、福の神だな。
だが漫画書きの蛭子さんは賭けマージャンで捕まったが・・・貧乏神か?
もっともオヤジの牛頭天王(武塔天神・スサノオ)も蘇民将来では福の神とされるが
疫病と戦争を撒き散らす荒ぶる神でもある。馬との縁も深い。
駒ヶ岳の話は、どちらかというと牛馬は供物としての性格に思えるのだが?
若狭、越前の民は牛馬を殺して漢神を祭ると言う。
牛を用いた戦術だと木曾義仲か?
461: ◆26IT/WpOkg
07/11/29 00:22:19 rgjPIJIC
>>458
越と大国主はただの伝説か。ソースになってないよ。
塩辛い魚介類の干物など、堅くて消化の悪い乾燥食品が中心の副食。野菜・肉、鮮度不足。バランス悪っ!
米中心、甘い酒を大量に飲んで、飲水(糖尿)病の平安貴族。
お姫様は髪が臭いw
畑中心の関東は生産性が低い分、主食として雑穀も食ったろうし、弓馬狩猟は武士の生業、軍事訓練も兼ねた。
日々豊富な運動量で、新鮮な野菜・魚・肉を食った。
戦国武士の味噌は栄養価が高いけど、塩分取り過ぎのようだが。
>>459
江戸っ子も普段は質素、明治期から山の手と下町(江戸っ子)は仲悪い。
北海道は何気ない物でも美味いよ。
>>460
あのおっさん所沢か。青チアカワエエ( *^ω^)
牛が出て来るのは盛衰記かね。猛き義仲も牛車は苦手>>67
462: ◆26IT/WpOkg
07/11/29 01:32:16 rgjPIJIC
拾い貼り
↓
NHK 知るを楽しむ 『歴史に好奇心』 教育テレビ 6月7日 午後10:25~10:50
「藤原道長の食卓・衝撃の偏食」
平安時代、宮廷や貴族の祝宴で出された「大饗料理」は、第一に見せる料理である。
塩辛い「乾きもの」が多く、味付けはいたってシンプルだったが、素材の切り方、盛り付け方には異様なほど
神経を使った。
「この世をば我が世とぞおもう」の藤原道長は毎日のように大饗料理を食べ、糖度35パーセントという猛烈に
甘い日本酒を愛飲して中年期から糖尿病に苦しんだ。
しかも牛乳を濃厚なチーズ状にしたものにたっぷりと蜜をかけた「道長スペシャル」ともいうべきデザートを
手放せず病気を悪化させていく。見栄えは良いが多すぎる塩分と糖分で生活習慣病を頻発させた平安貴族の
食生活を描く。
463:人間七七四年
07/11/30 19:28:46 FBLxRpSp
ぶっちゃけこのスレ戦国板にある意味無いよな
牛の隔離スレとしては一応有用だが戦国話なんてほとんどしてないし
464:人間七七四年
07/11/30 19:31:49 HGlWCSex
ココは異質な戦国板の中で更に異質な存在なのかもしれない・・・
465: ◆26IT/WpOkg
07/11/30 19:53:39 aJudx2TD
今の日本史板は・・・
466:白馬青牛
07/12/01 00:25:39 OqXjI1Ka
>>460
旨い物がなかった江戸に食い倒れ云うてものう。
蘇民将来、漢神みな渡来系じゃないか。
>>461-462
伝承の方が、史実を隠蔽し切れんけえのう。ほう、文化人類学的考察、
神話学はソースにならんのか?事物の本質は史料に残らんのじゃないか。
文献史料は、まつりごと物語じゃけんのう。
NHKの教育TV云うて、落語家の柳家花緑氏の見解をソースにしとるが、
柳家花緑氏は、考古学的考察でもしたんか?
平安期の十世紀頃から気候温暖化じゃったんに、、関東の生産力が低かった
たあ、わしでもよう云わんわい。関東でも低地平野部は弥生・古墳期以来
伝統の水稲農耕じゃないいんか?豊富な運動量なら徒歩で狩りをする
専門猟師じゃろう。平安貴族も板東のセミプロ親方階級も上層階級なん
じゃし、さほど違わん。
江戸っ子より、物や食を粗末にせん上方の「しまつ文化」の方が質素じゃ
ろう。シジミの身を捨てる関東人よりも。北海道も味覚音痴の関東人に
美味しい云われたら、複雑な心境じゃろうね。
467:人間七七四年
07/12/01 01:04:04 wMwe+TEX
史料に裏打ちされない文化考察や神話学なんぞ
トンデモ理論の温床や妄想にはなり得てもまともな論拠にはならんよ
468:人間七七四年
07/12/01 11:51:44 lTTNz1zU
>関東でも低地平野部は弥生・古墳期以来伝統の水稲農耕じゃないいんか?
=゚ω゚) いや、そうでもなかったかもしれない。
オイラも詳しくはわからんが古代関東の水田は「谷津田ヤツダ」だったはずだ。
当時の低湿地帯(現代の水郷)は日本最大の暴れ河川の利根川水系、
とても耕作などできない。
てか、風土記では内地の稲敷で藻塩を焼いていたりするw つまり汽水だ。
また、台地部に畑を開墾しようにも、茫漠とした原野と1mを超える酸性土壌
ローム層。火山地帯にお茶の産地が多いのはこのためだ。
茶産については修験の時に書いたが茶は酸性に強い。
北関東は軽石。大谷石や鹿沼土は有名じゃろ。つまり火山灰地帯だな。
明治の開拓記を見ても関東の台地耕作には失敗が多かったとの記録がある。
つまり馬牧ぐらいしかできなかった。
ちなみに上総カズサ、下総シモウサ、結城ユフキとは「ユフ(木綿)」の事じゃ。
九州の湯布院なども語源はユフからきている。
つまり桑科のような植物しか育たなかった。黒澤の用心棒の世界だな。
まともな作物なんて当時は谷津田以外では育たんかったと思うぞ。
469:白馬青牛
07/12/01 22:49:25 OqXjI1Ka
>>467
史料崇拝は、宗教じゃのう。経典を読むように一字一句額面通り受け取る
んか?それこそトンデモ理論じゃないか。伝承、神話も、他民族と
類型説話があれば、近縁関係と判断するもんじゃし、説話類型から、
伝承物語が真実かどうかの話じゃあるまい。
戦国期の『人国記』も、畿内五国から東西辺境と、都から辺境に向かう
過程の気質の変化を書いとる訳じゃ。安芸の「気自然と狭くして」
駿河の「気狭くして」を対応させとるよう、畿内を中心にして、中国地方
と東海地方を対応させ、関東と四国西部や九州と対応せる構成になっとる。
そういう構成の癖を読む方が、単に書かれた文章を読むことより大切な
ことじゃ。蛙君も全体から推理して読む訓練せにゃあのう。
『人国記』は、近代郷土兵団の兵の気質の座標軸にもなったけんのう。
畿内は都会兵で信用できんし、関東は東都で都会兵化して弱兵に等しい。
九州や東北の辺境へ行く程、強兵云う実戦と関係ない思い込み見解が
風評を中心に構成されたわい。まあ、広島師団は、戦闘、実績をもって、
実力で最強師団を築いたわけじゃが、他師団は人気優先や、人気、実力も
パッとせん地域もあるけんのう。
470:白馬青牛
07/12/01 23:18:35 OqXjI1Ka
>>468
利根川が暴れ河川でも農民は生産せにゃあいけんわけじゃし、
相模も水稲遺跡は弥生期からある。
関東の火山地帯の山麓馬牧も畑作との複合で、遊牧民の水草を追う生活と
違う。明治期でも犂耕作の普及度の低い関東農地開拓は、農耕技術が
必要となろう。桑科は、水郷地帯より山麓の畑作複合文化に含まれるん
じゃないか。
471: ◆26IT/WpOkg
07/12/02 00:59:11 xGl6c3En
>>466
田舎者がほざいてろと(ry
神話じゃねーだろ、それ
三浦カズの運動量か?
472:人間七七四年
07/12/02 01:07:29 yxO6GBpA
>469
=゚ω゚) 牛の好きな畿内悪党か。
近江の甲賀とか、ちょっと外れて丹波の赤井悪右衛門とかカコいい
>明治期でも犂耕作の普及度の低い関東農地開拓は、農耕技術が必要となろう。
=゚ω゚) 単に地質の問題だよ。酸性土壌は石灰等で土壌改良しないとね。
水稲は作っても河川の氾濫ですぐ流された。
だから徳川が最初に行ったのが利根の治水。まあ、当時に田中角栄はおらんからのう。
>桑科は、水郷地帯より山麓の畑作複合文化に含まれるんじゃないか。
=゚ω゚) それは水郷部ではなく台地部分な。海抜10m程度のトトロの森が
葦原の水上にモコモコと広がっていた。
その境目の谷間に作られる小さな棚田が谷津田だ。
黒澤明の用心棒こと桑畑三十郎が、映画の冒頭で土埃の荒野を歩くと
延々と続く桑畑と絹織物の農家が見えてくる。そして博打とヤクザの喧嘩。
これは浅間や赤城の火山灰が積もって、ろくな作物が育たなかった
上州の風景だ。桑ぐらいしか育たない。
473: ◆26IT/WpOkg
07/12/02 01:14:07 xGl6c3En
上州の山野の殺風景な情景が目に浮かぶよ
上州の桑が横浜を育てた。
精強な騎兵西上野衆、剣聖、海野能登
474:人間七七四年
07/12/02 03:49:25 YlsJBSo7
関東人はシジミ汁を捨てr
どkの学校で習ったんだ?とういうか、たかが数十年生きた程度で長く続いてきた
食文化を偉そうに語るな。関東人は味覚音痴だとかすごい失礼だぞ。親が聞いたら
悲しむぞ人様を平気で愚弄する人間になってしまったって。反省せいバカタレが!
475:人間七七四年
07/12/03 01:41:52 paRrgvh5
=゚ω゚) あ、ちょっと書きそびれた。谷津田は水稲。桑畑は台地部な。
>473
=゚ω゚) むむっ。新当流、海野能登じゃな。
力は100人に対し、荒馬を御し、武田家に仕える。
沼田落ちのさい、敵、田口又左衛門押し来るを海野取って返し
これを一刀に下げ斬りに斬って捨てる。
さらに利根川郡内に名のある早業の剣士、木内八左衛門が打ち掛かる。
海野三尺三寸の備前長船を上段に構え、木内の突き入るを引き外し
唯一太刀に梨割りに仕る。 時に海野能登72歳・・・ 超人やねw
まぁ、オイラ的には林崎流の長野無楽を推しておこう。
476:人間七七四年
07/12/03 15:08:49 7kqiBNyD
300の島津版映画化希望
477:人間七七四年
07/12/03 16:49:15 lKHj1i/Y
>>469
少なくとも自分の脳内妄想を垂れ流すよりはマシだな
そもそもその辺のはあくまで「推察される」レベルの学説にしかならん
いいからお前は日本史板でお仲間とキャッキャウフフと戯れてろ
訳の分からん話題そらしで誤魔化してくるだけの卑怯者とまともに付き合う気はない
478:白馬青牛
07/12/03 23:08:28 6aIswrKB
>>471
田舎者と違い贅沢で軟弱な関東じゃ云いたいんか?神話でも伝承でも
同じこと。現代に受け継がれた習俗と比較することも大切じゃ。
サッカー選手の運動量は知らん。
>>472
地質云うても、日本は酸性土壌がえっと(多く)じゃけんのう。
関東だけの問題じゃない。関東は谷住みの稲作民と台地の畑作じゃのうて
畠作民じゃろう。
>>473
シジミ汁じゃのうて、シジミの身を捨てる関東人の食物を粗末にする
精神を云うたんじゃが。戦前から関東はそうじゃったらしいのう。
わしの祖父の従兄弟は、確かに東京のKが付く大学出身じゃったわい。
ほいで、関東の味覚音痴ぶりも戦前から云われとったことじゃし、
失礼以前の問題じゃ。わしの親類縁者で関東で暮らしたことがあっても、
関東の食を誉める人がおらなんだよ。事実を云うて、わしの親が悲しむ
わけあるまい。まあ、あんた自身が謙虚になる方がええんじゃないか。
479:白馬青牛
07/12/03 23:45:18 6aIswrKB
>>478の>>473は×で>>474○じゃった。
>>474
大正十五年生まれの山口瞳氏も、司馬遼太郎氏との対談で、「残念ながら
、瀬戸内や裏日本をバックにしている上方と違って、東京にはウマイモノ
がないんです。」やら東京人は「権威に弱いんです。それは私自身の中にも
あります。それに臆病です。五月の鯉の吹き流しで、ハラワタはない。」
と山口氏は、江戸の食が不味く、隷属社会のせいか権威に弱いことは
自ら認められた。上方人の司馬氏が、「小田原以東の家の屋根はイモリ
みたいな配色で、日光の建物は許せない。あんな田舎の建物はない。
浅草の雷門を見ると、よくもまああんなものが見えるところに人が住んで
いると思ってしまう。」と建築物の美意識の欠如も云われたわい。
山口氏は「京都は閉鎖的で田舎なり、テレたり恥ずかしがらん関西人は
臆面がない。それが耐えがたい。対陣関係において気の使い方に欠ける
田舎者は自己本位。」と云われ、司馬氏の攻撃に、旗色が悪かったのう。
ついでに>>473
上州が精強?なわりにゃあ上杉軍の越後の百姓どもに隷属しょうる。
480:白馬青牛
07/12/04 00:01:23 XuD2qZNQ
>>477
具体的な言もない、おどれの方が妄想じゃ。
わしゃあ、最近「日本史板」に行きょうらんのう。「考古学板」か
「人類学板」よのう。
訳の分らん(解らん)のんは、われの低脳さの問題で、わしに押し付け
られてものう。人に「卑怯者」云う言は吐く処、育ちもようない思うど。
最大の侮蔑語の「卑怯者」じゃ云われたら殺し合いにもなるんど。
そがん事も知らん糞外道かいのう。わりゃどこの人間なら?
こんなこそ親に恥を掻かせる典型じゃわい。
481:人間七七四年
07/12/04 00:34:00 DdgsLy8p
歴史地理学的に関東は江戸川鬼怒川を結ぶ線によって東西に分けられとした上で次のように言える。
東関東においては平野部はほぼ沼沢地であり、沖積低地にもほぼ手がつけられなかった。
耕作の中心は谷田地となり、結果として古墳の分布が非常にまばらである。
西関東においては古墳は密度が高く、その地域に稲作による強大な権力があったことを示している。
(ただし、武蔵野台地をはじめ台地部や古利根川の沖積低地には手がつけられていなかったようである。)
利根川と烏川流域の平野部には関東でも最大規模の条理遺構があり、稲作遺跡も多い。
相模を除いては谷田地を基盤とせず、鏑川では谷にまで条理遺構が及んでいるが、烏川、神流川ではそうではない。(小出博の説)
この東関東の後進性の結果として、在地領主の発達が遅れたが、後に都から貴種系の下向によって
小規模な領主が団結することとなり、後に東関東では貴種系の大豪族が分立することとなり、
西関東では在地領主が発達したことがかえって貴種系の大豪族の土着を阻むことになり、
西関東には中規模の豪族が多数存在することになった。(峰岸純夫の説)
後にこれらの中小豪族が白旗一揆として団結し、
関東管領はこの白旗一揆の勢力を基盤にしようとするが、戦国大名への成長には失敗した。
烏川、利根川の間の条理遺構地域を基盤としたのが、布留社石上寺別当、物部系の長野氏であり、
長野業正が古代の稲作遺跡もある地域をさらに開発して長野堰を作った。
しかし、江戸時代になると利根川東岸が豊富な伏流水を有するのに対し、
長野堰流域はその発展に伴い徐々に水不足に陥り、養蚕が発達することになった。
また、西関東の山間部には丘陵、山の斜面を利用した古代牧が発達した。
勅旨牧があったのは甲斐信濃上野武蔵のみであり、信濃滋野氏や武蔵児玉党は
これら古代牧の別当になることで武士団として発展した。
戦国時代には小幡氏が南牧、西牧を有し、『関東衆馬上の巧者』と言われた。