\●/佐竹氏を語るスレ 其の2at SENGOKU
\●/佐竹氏を語るスレ 其の2 - 暇つぶし2ch551:(´ω`)
08/02/19 06:07:29 GB9DVL1L
>>543
領地(面積)は増えてないよ。
江戸、大掾等々の領地分は、すでに天正十八年の約二十二万貫の朱印状の中に含まれている。
これには明確な証拠がある。
------------------------------------------------------------
此度 殿下御催促付、家中上洛於義宣令祝着候、就之鹿嶋一郡進之
候、併其方本知行檜澤武部不可有相違候、南郷保内儀者返進、
令得其意候、恐々謹言

 天正十八年
   七月廿九日             義宣(花押)
     中務大輔殿
------------------------------------------------------------
『奈良文書29/茨城県史料中世編5』

約二十二万貫朱印状は同年八月一日だから、その一日前に義久に
上のように鹿嶋郡を与えると約束していることになる。
これでは鹿嶋郡だけだが、同様に佐竹の直接支配でない江戸領、
大掾領も、義宣が手中に収めるつもりでいたことは、十分に推量しうる。
オイラの推測によると、どうも義宣は、葦名滅亡後に家督を継いだときにはすでに、
江戸大掾その他の佐竹にあまり深くは従わない洞中の連中を
滅ぼしてやろうと計画していたらしい。
江戸と大掾は小田原にも参陣しなかったが、これも義宣が画策して、
小田原に参陣しないように情報操作を行っていたっぽい。

あと佐竹旗本と佐竹東の軍勢は併せて、最大でも3000を越えなかったと思うよ。
普通は精々2000とちょっとくらい。
ただし佐竹洞中全てを併せれば、最大で7000くらいは集められた(ちょっと多めかも)。
佐竹1500 東と旧白川・石川系1500 一族(大山など全部で)1000 小野崎500 江戸500
大掾と南郡一揆500 下野系500 旧小田系と真壁1000
7000という数は軍記物から推測(それしか情報がない)。
佐竹と東でその半分くらいはないと権力としては不安定なのでこんなもんと思う。
秀吉の知行割朱印状と併せて考えても、比率としては合っているはず。
たぶん天正三年の上杉の軍役帳に匹敵するくらいで、
これは義昭の最盛期頃からあまり変わってはいない。

552:奥七郡の人
08/02/19 19:19:46 Rzze1/mt
>>551
小田原征伐以前との比較だよ
戦国時代、独自に保有していた領地と天正18年以降に豊臣氏の後押しで保有するに至った領地では数倍差がある

でも何より豊臣政権下で洞という曖昧な支配体制を廃し中央集権化を進められたのが一番の収穫だろうね
義重も義宣も天正年間には積極的に試みていたのだけど
なかなか上手くはいかず自力では難しかった

553:人間七七四年
08/02/19 19:49:23 4jSrI5wL
>>552
外圧を利用して改革をするとは、今の日本みたいだな。

554:人間七七四年
08/02/19 21:25:07 Wh8LHV/J
守護大名の古い体制のまま活躍したのは佐竹と大友くらい?

555:奇矯屋onぷらっと ◆JUU/.JUU/.
08/02/19 23:04:54 CxAcNss6
ほとんどがそうだといっても差し支えないな。

556:人間七七四年
08/02/21 19:55:58 68sIqpa1
義昭存命なら戦国大名に転身出来たと思うが、
義重の代に外圧が高まってきたから、
体制を改めると現体制を支持してきた連中から
そっぽ向かれてしまうから、改革は困難だったろうな

557:人間七七四年
08/02/21 22:26:08 N0vfON7t
守護体制はバランス感覚が肝心だな

558:あ
08/02/21 23:23:15 7sii/2lq
伊達政宗より、チョウソカベ元親のほうが評価できる。

四国統一しているし、政宗は、陸奥も出羽も統一してない。

常陸一国を統一した佐竹のが上だろ。

石高の大きさ自慢は、秀吉政権以後の話しで、戦国時代は、国の数で勢力が決まる。

石高の高い国にいただけでは、ダメだろ。

559:人間七七四年
08/02/22 00:17:59 UyBRphNL
四国の面積18,803km2

福島県13,782km2(-浜通り約2,500km2)+宮城県7,285km2+置賜2,495km2

さほど変わりは無いですね

560:人間七七四年
08/02/22 00:27:04 LUNPbN8w
チョーソカベの場合は地の利(一応四国の外は海)もあるから
単純に比較は難しいんじゃないか?

まあその分北日本も冬季の戦争は難しいってのがあるが…

561:人間七七四年
08/02/22 00:28:40 leJiZDV4
長曾我部はスゴイよ。
一度は滅亡してからの復活だからな。

562:人間七七四年
08/02/22 02:29:10 9bVZxUnr
面積で考えないほうがいい。
例えば、尾張などは小さいが、甲斐などよりはるかに生産性が高い。
また、周囲との力関係などもあるし、単純な面積の対比では実像を見誤りかねん

563:人間七七四年
08/02/22 05:12:04 F3dY8Qj1
要するにID:7sii/2lqはオツムの弱い典型的佐竹厨ということですな

564:奥七郡の人
08/02/22 10:14:34 0h0EVbMB
佐竹厨と言うよりアンチ伊達だろ
常陸統一なんて間の抜けた事言ってるのは
常陸の大半を支配下に置いたのは天正18年以降に豊臣の天下統一事業の一端として行われたものであって
天正17年頃は常陸統一どころか悲壮感漂う防衛戦に終始していた

565:人間七七四年
08/02/22 14:13:51 leJiZDV4
>>564
的確な状勢判断による中央との遠交策が成功した佐竹の戦略的勝利だろ。
甘い見通ししかできず家康に見捨てられた低脳北条は滅亡したしな。
北条フィルターからの情報を盲信した伊達は会津召し上げで顔を潰されたしw

566:たられば君
08/02/22 15:02:28 IBrgGGcl
常陸が親王任国なのはスルー?

567:人間七七四年
08/02/22 15:23:02 rhltEv02
>>556
義昭が長命だったら・・・確かに興味深いところではあるね。
義重より積極策はとったろうから。
でも力量において義重が義昭より劣るかどうかは?なので
結果的にはあまり代わり映えしないような気も・・・

568:奥七郡の人
08/02/22 21:34:19 0h0EVbMB
でも義昭の子が大掾氏を継げば影響力は格段に違う
子が継ぐと言っても政を行える歳になるまでは義昭の傀儡となるのは目に見えているし
南部攻略の大きな足掛かりになるし江戸氏を押さえ込む事にもなる

569:人間七七四年
08/02/23 10:17:59 Cq5D9G/0
義昭が南に、義重が北にあり勢力を伸ばせた可能性はありますね
(義昭が義重に家督を譲ったのは、岩城重隆を怖れて=重隆も孫の義重のことは攻めないだろ、と言う説もありますね)

しかし名門とはいえ大掾の実力はさほどじゃないですね、小田や江戸には押され、
状況が激変したとはいえ後年は佐竹に、あっという間(水戸城奪取の二日後)に滅ぼされますし

570:人間七七四年
08/02/23 11:01:28 pg/g6NAQ
大掾の優れている点は血筋だけだからな

571:人間七七四年
08/02/23 13:57:42 7pES77sv
うちって釜田なんだけど
これって烟田なのかねえ…?家紋は全然違うんだが…

572:人間七七四年
08/02/23 23:55:10 qLYw8Lj7
ほほう・・・・

573:奥七郡の人
08/02/24 01:32:55 K3iuSNJ7
大掾、佐竹、小田が常陸三大豪族であり常陸を三分していたが
何せ大掾は最古だから一族は自立し室町末期には江戸氏に押されて著しく衰退した
それでも一族は県央、鹿行、県西に根付いておりそれなりに力を持っていた
真壁氏などが良い例
大掾一族でありながら小田や佐竹の洞に組していた
しかし江戸氏と大掾氏が争った時、真壁氏は大掾氏を支援し佐竹氏は江戸氏を支援し敵対する事もあった
この辺りが非常に難しい
江戸氏は一応形だけでも洞中にあり佐竹も支援しないわけにもいかなかったが
大掾氏を討伐しようとすると大掾系の諸氏から反発を受ける
だからいくら追い詰めても強行な態度をとれなかった
そして彼らは佐竹の意思とは別に勝手な領地争いを度々起こし続け
佐竹にとっては頭の痛い所であった
その点義昭が大掾氏の傀儡化に成功していればこの辺りの懸念が解消されたかもしれない

574:(´ω`)
08/02/24 01:41:37 zoyI/cFZ
>>552
こりゃ失敬。素で間違えた。
豊臣政権に属したあとの佐竹の領地=それ以前に佐竹が「洞中」と認識していた連中の土地だぬ。

>>554
実のところ、佐竹と似たような体制だった大名はかなり多い。
例えば「洞」を中心とした体制を持っていたのは北関東以北の領主がほとんどだし、
越の上杉や朝倉もそうだった。西国では大友、毛利なども使っているし、
島津は残っている文書の数が少ないので史料上には出てこないようだが、
たぶん使っていたんじゃないかと思われる。
上のほうで「佐竹は戦国大名じゃなかった」と自分で書いたが、ちょっと言いすぎだな。
「洞」による支配体制は紛れもなく戦国時代のものだから。
一方、北条や今川、武田、それと多分織田は使っていなかったらしい。
この東海道の諸氏は直接郷村と対話することで強力な支配体制を確立した(しようとした)
大名だぬ。伊達もどっちかつーとこっちに入れてもいいと思う。
こっち側の特色としては、検地、裁判、郷村支配、公儀、印判状というキーワードでくくられる。

そして驚くべきことに佐竹は義昭の時代に、その東海道の諸氏のような支配体制に
移行しようとしていたらしい。義昭は新しく手に入れた元小田系の土地に検地を
しようとしてたり、洞中の他家の本領中に統制の手を伸ばしていた形跡がある。
義昭は義重がまだ十代のうちに剃髪して源真と名乗って隠居するが、
そのように政治的な制約のないかたち(院政)になることで、佐竹さえも含めた包括的な
常陸の公儀権力として君臨しようとしていたと見る。
態々常陸の府中に入ったことも合わせて見ると、義昭の野望が垣間見えておもしろい。
この辺のことは多分まだ研究されていないんだが、誰かやって欲しいなあと思う。

575:奥七郡の人
08/02/24 22:47:22 K3iuSNJ7
>>574
全くもって同意だ
義昭の政策は実に興味深い
しかし郷土史研究家らは関心を示さないんだなこれが…
佐竹の戦国史に於いて義治~義昭の流れこそ重要なのに全く研究されていない

576:東義久ってどお?
08/02/25 16:30:49 vM00hUav BE:1336162695-2BP(1)
>>502-503さん
>>512-514さん
「アフリカのトト」さんの>>542
「奥七郡の人」さんの>>543>>552>>573
>>574さんへ
久しぶりにいいものを読ましてもらいました。リポートありがとう。

577:人間七七四年
08/02/26 08:54:19 uL/aCkSf
確かに義昭存命で中央にさしたる影響がなきゃ、
史実と同様、常陸一国支配で終わったかも知れないが
常陸統一を成し遂げ義重の代に千葉や北条と
バチバチやってたかもとか妄想する


578:人間七七四年
08/02/26 21:33:49 64Y0D0tg
イイハナシダナー

579:人間七七四年
08/02/27 21:24:20 XvYcDse+
千葉家には軍事力で圧倒するだろう

580:奥七郡の人
08/02/28 11:06:59 rL0GYYOT
今となっては有り得ない話しだな
でも平安末期には千葉氏や上総平氏と争っていたのに過去の栄光はいずこへ

581:人間七七四年
08/02/28 20:48:07 lVLj4vHr
義重・義宣時代も十分佐竹は輝いていた

582:奥七郡の人
08/02/28 22:03:13 rL0GYYOT
まあ、豊臣政権時代の十数年はかつてない隆盛を極めたわな
佐竹が転封にならなければ水戸も発展したろうに

583:人間七七四年
08/02/29 15:24:14 F1fK0yJA
>>580
頼朝の常陸攻めで、一度没落、鎌倉時代は雌伏の時代。
南北朝で、一番の激戦地で一貫して北朝勢。
北畠氏の「親王正統録」に対し、後の山入氏祖先が「源威集」を著述。
南北朝期初期に栄光を取り戻すも、上杉氏からの入り婿巡って宗家と山入一揆が抗争。
義舜公の時、一度は太田城を追われるも、苦労の末奪還、山入一族を滅亡させる。
やがて部垂12年の乱を経て、義昭公の時代となる。

584:人間七七四年
08/02/29 17:06:29 TUOEtiRt
波乱万丈の中で生き延びたんだから 良しとしてます 個人的には。

585:人間七七四年
08/03/01 16:19:58 qkMBSySm
自称会津守護の蘆名盛興を佐竹義重が討ちとったという話もあるね。

586:人間七七四年
08/03/01 17:14:43 LmBOWU0F
>>585
ついでに自称奥州守護の片目のDQNも討ち取ってくれればよかったのに。残念でならん。

587:奥七郡の人
08/03/01 18:35:15 XUt+7R76
>>583
佐竹氏の戦国時代は山入一揆による100年に渡る内訌から始まった
義舜により山入氏は討伐されるも宗家の弱体に乗じて国内の諸氏は自立の傾向が目立ち始める
彼らを押さえ込み再び家中に収める事に専念するも
義篤・義昭の早過ぎる死もあって宗家の支配力は一定せず諸氏は離反と帰順を繰り返す
復権が一息ついた頃には半世紀が過ぎていた
義盛に男子がいなかったと言う一事が綻びを生み
一世紀半に渡る混乱が生じたのだから世の中はどう転ぶか分からないね
佐竹氏にとってこの大きな出遅れは不運だったとしか言いようがない

588:人間七七四年
08/03/02 00:30:24 Qm2+GE7x
>>585
盛興は酒毒で病死したんでしょ・・・・

589:人間七七四年
08/03/02 09:33:47 NmHISoOy
>>588
佐竹との戦いでの戦傷が原因で死んだがカッコ悪いんで酒毒と発表したのかもよ?
だいたい盛興ってまだ若かっただろ。

590:奥七郡の人
08/03/02 17:28:25 XYun8qdw
盛興が討死したって何が出典なんだろう
全く見た事ないけど

591:(´ω`)
08/03/02 21:00:12 vImxbc+1
オイラも盛興討ち死にの出典を知りたいな。
ちなみにアルコール中毒で死んだというのは『会津四家合考』に記されている。
『合考』は軍記物だが、内容の信頼性は『関八』や『奥羽永慶』などの軍記物よりは
はるかに信頼性が高いとオイラは考えている。
また盛興が六月四(五)日に死んだと『塔寺八幡宮長帳』にもあり(天正三年の巻に
裏書されているらしいが、その他の記述とあわせてみると天正二年のことだと推定できる)、
その前には「盛興が患ったので、酒が止まった」とあり、盛興が酒による病気であったことがわかる。


592:奥七郡の人
08/03/03 00:35:09 WHsYjqzc
>>591
やはり天正二年説の方が有力かな
白河古事考では天正二年秋に盛興と田村らが南郷に出兵し大勝を収めたとしてるようだが
他書ではこの戦いを元亀二年としているし
また、天正二年二月~五月頃に葦名と田村が争っていたと言う話しもある
いずれにせよ佐竹との間に盛興が討死するような合戦があったとは思えない
それにしても天正二~三年辺りは各書によって記述がマチマチで分かりにくい…

593:人間七七四年
08/03/03 01:54:41 R4NUto1p
奥七郡の人=(´ω`)=仙台百姓
同一人物の自演乙




594:人間七七四年
08/03/03 14:14:40 HtbSFnXm
後北条氏との小規模合戦について語れる人はいるかな?

595:人間七七四年
08/03/03 15:58:50 HcR1SXd8
小田野自義 対 山入祐義 の対立で
後者が勝っちゃったのがつまづきの始まり

596:人間七七四年
08/03/03 16:57:45 FNLYZZrf
佐竹贔屓だが、葦名盛重=佐竹義廣が天正17年に畠山義継の嫡子国王丸を常陸で殺害した理由は何?
義重は知っていたのか?事実だとしたらかなり引いてしまうのだが・・・


597:人間七七四年
08/03/03 17:03:01 dzKUBRRm
>>596
衆道のもつれという説があったな。

598:人間七七四年
08/03/03 18:02:42 FNLYZZrf
衆道のもつれ?
当方頭が悪いので詳しくご教示願いたい

599:596
08/03/03 18:06:00 FNLYZZrf
>>597
ググったら何となく分かった。
義重や義宣の命ではないということだな。
あくまでも葦名盛重の私的な成敗ということだな

600:人間七七四年
08/03/04 09:34:43 yBYJq9dg
600get!

601:奥七郡の人
08/03/04 10:27:52 HkEVjS2C
この時代、上意討ちなんて別に珍しくもないと思うが

602:人間七七四年
08/03/04 10:29:10 5j/pW38m
やはり葦名家再興時に、邪魔になる可能性を考慮しての処分かな?

603:人間七七四年
08/03/04 10:57:40 R5xL70wv
二本松が何で芦名再興の邪魔になるんだ?

604:奥七郡の人
08/03/04 11:16:05 HkEVjS2C
>>602
それは有り得ないと思う
葦名家が再興するに当たって畠山氏は何の関係もない
そもそも江戸崎で討たれたと言うなら既に葦名家は再興している
葦名家の再興は秀吉による処置だし、畠山氏は既に領地も失い葦名家に寄食している状態
葦名再興の為に義広が梅王に伺いを立てるの必要もないし梅王が義広に口を挟むとも考えられない

605:奥七郡の人
08/03/04 11:34:48 HkEVjS2C
二本松落城後の畠山氏の動向について解らない事が多すぎる
幼名に関しても梅王と国王が混同している
義広に従ったと言うが義広の会津落ち以降の動向自体が不明
天正十七年に江戸崎で討たれたと言うが義広が江戸崎に入ったのは天正十八年以降

606:人間七七四年
08/03/05 09:51:26 /UMTOot3
上杉家の畠山一族を頼って落ち延びたとか?

607:人間七七四年
08/03/05 14:22:07 AGRElYhc
>>605
伊達や反佐竹勢による出鱈目な讒言ではないのか?

連中ならやりかねんからな

そもそも>天正十七年に江戸崎で討たれた、討ったのは葦名義広、という根拠は如何なる文献等に寄るものなのか?

608:人間七七四年
08/03/05 16:04:28 5KG4JDvu
>>607
じゃ、伊達以外の何者かによる捏造ではあり得ないな。政宗の容疑は真っ黒黒。

609:人間七七四年
08/03/05 21:56:34 MPOAFrCh
伝統的に自分達を良くみせようとするために他者をおとしめて平然と嘯くのが伊達の兵法だろw全然悪いとか思っていない連中。
義重スレで自演している宮城の百姓とかいう基地害をみて良く分かったw
佐竹に関する歴史的書の類はほとんど信用できないとか根拠の無い決め付けをしているからな、まるで自分は当時の真実を全て知ってるとでもいいたげ(嘲笑)

嘘吐きは伊達の始まりw


610:人間七七四年
08/03/06 03:16:21 Pnz8Hkum
佐竹に関する歴史的書の類はほとんど信用できないよね

611:人間七七四年
08/03/06 03:27:36 zNEK/C5s
そもそも信用できる歴史書なんて戦前にあるのだろうか?

612:奥七郡の人
08/03/06 11:54:36 y9EVVKT+
戦国時代ものは特に信用できないね
どこの大名でも冷静に書かれているのは極一部

佐竹関連では「佐竹家譜 上中下」がオススメ
入門本としてはこの三冊で十分
興味があったら権力構造についての論文と県資料で掘り下げてみるのも面白い
あと、地名や地形が結構変わっているから「新編常陸国誌」または「茨城県の地名」などを買っておくと把握しやすい

613:人間七七四年
08/03/06 11:56:16 /bvJ8FdO
>>610
伊達家に関する資料よりは信用に足るものばかり。

614:人間七七四年
08/03/06 14:58:17 7fLQ9Hr7
伊達厨の品位(笑)
ひどい自演だな(・∀・)


610 :人間七七四年:2008/03/06(木) 03:16:21 ID:Pnz8Hkum
佐竹に関する歴史的書の類はほとんど信用できないよね

613 :人間七七四年:2008/03/06(木) 11:56:16 ID:/bvJ8FdO
>>610
伊達家に関する資料よりは信用に足るものばかり

615:人間七七四年
08/03/06 20:02:16 qxHG+0CY
安土桃山時代までは佐竹寺にあったらしいが、火事で資料の殆どが燃えてしまったらしい。

616:人間七七四年
08/03/07 00:21:33 2iVCD/ok
個人的には義宣と政宗の争いをもっと見たかった。
義重だとどうしても年齢が離れているから、
ライバルというなら年齢的なものから息子の方だよね。いとこ同士だし。

617:人間七七四年
08/03/07 01:18:19 n0THyR0w
>>616
父親で勝てないから、今度は息子ですか?
また負けて泣いて帰るのは伊達ですよ。

618:人間七七四年
08/03/07 01:58:24 2iVCD/ok
勝ち負けの話ではなく、年齢でね。
義重は1547年生まれで、輝宗は1544年生まれ。近いからな。
ちなみに義重と政宗では20年違うからなんともいえん。
さらに血縁からいうと、義重の嫁はんの兄の子供が政宗。義重は政宗のおじさんだもんな。
そうなると義重は輝宗の義理の弟。正直ライバル以前の問題になってくるけどね。

だからまあ、人取のときも、郡山のときも、摺上のときも
「まーた梵ちゃん(政宗)が無茶やってんだって?んじゃ兵出すから
ちょっと懲らしめにいってきてよ」的なほんわかした話だったのかもしれん。
そんな展開ならさらに義重が好きになるが、多分それはさすがに違うだろう。


619:人間七七四年
08/03/07 02:29:12 UzqsDxGO
>>618
そんな展開も嫌いじゃないが、
もしそうなら鬼庭とかがかわいそうすぎるwwwwww

620:人間七七四年
08/03/07 02:47:19 Mh/mIKio
他家の話はどうでもいいよ。

621:人間七七四年
08/03/07 03:31:05 KRhBO3+B
イ左 ケケ 厨 は オ ヵ 儿 ├ 臭 い

622:人間七七四年
08/03/07 09:23:14 eSa7XfZ9
つか義重は伊達を滅ぼす気はさらさらなかったろう。
芦名の救援要請に付き合ったに過ぎないだろ。
妻からも伊達を追い詰めるなって言われてただろうし。
芦名滅亡までは佐竹に伊達に敵対する動機がない。

623:人間七七四年
08/03/07 09:59:23 xZ5raiYF
>>621
伊達厨変質者マルチコピペ乙晒しagew
お前のやっている事のほうがはるかにオカルト臭いwww


899 :人間七七四年:2008/03/07(金) 03:30:07 ID:KRhBO3+B
イ左 ケケ 厨 は オ ヵ 儿 ├ 

624:人間七七四年
08/03/07 14:54:31 2PdcoLuO
イ尹 達 厨 は ヵ 儿 ├


625:人間七七四年
08/03/07 16:04:10 kdZQHfYb
佐竹VS後北条の小規模合戦のことを知りたい。

後北条はなんとなく対佐竹の合戦を苦手にしていたような印象が
あるんだが、実際のところはどうなんだろ。



626:人間七七四年
08/03/07 16:17:26 2WP1h2OW
>>625
それはないだろう。
もちろん北条の圧勝ということはないが、4分6分あるいはもっとくらいには押されてた印象。

627:奥七郡の人
08/03/07 16:17:58 11OFIqPz
佐竹VS後北条の戦いなんて一度もないのではなかろうか

628:人間七七四年
08/03/07 16:25:24 kdZQHfYb
小規模な会戦はあったと記憶。

629:人間七七四年
08/03/07 16:30:55 kdZQHfYb
URLリンク(www5d.biglobe.ne.jp)

北条氏康は元亀2年(1571年)北関東に進出しました。
攻撃目標は下妻城でした。
城主多賀谷政経の要請を受けて佐竹義重は出陣し
北条氏との戦いが始まりました。
この戦いは鬼怒川を挟んで行われ、かなりの激戦になりました。
しかし、この戦いにおいては両軍とも勝敗を決する事が出来ませんでした。


630:奥七郡の人
08/03/07 16:48:32 11OFIqPz
それって言うなれば
三方ヶ原を徳川vs北条の戦い
関ヶ原を宇喜多vs徳川の戦い
と言ってるようなものだよ
複数の同盟国が後詰めをしてるわけで別に佐竹の一声で全体が動いていたわけではない

631:人間七七四年
08/03/07 17:00:53 kdZQHfYb
なるほど。

632:人間七七四年
08/03/07 22:31:21 eSa7XfZ9
佐竹が事実上の盟主と目されてたろうが。
和睦交渉からして北条に対して佐竹が代表してたろうが。

633:人間七七四年
08/03/07 22:47:51 UzqsDxGO
そうだね…
>>630の比喩はいささか極論に近いものがあるかも

でも佐竹と後北条が絶交外交だったわけではないと思うなあ

佐竹にしてみれば対後北条に全力!というよりも
後北条が近場に仕寄ってきたときに一応後詰ないし実質上主戦力として参戦して
「負けない」ことで常陸内ないし自己の版図内での影響力を高めよう
という意図があったと思うんだけどどうだろう?

634:奥七郡の人
08/03/07 23:17:38 11OFIqPz
まあ、分かりやすく例えたわけで正確に言うと組織や関係が違うから同じものではない
ただ、洞中の関係を例えるなら織田と柴田や佐久間の関係より
織田と徳川の関係に近い(洞中全てに対しては言えないが

>>632
どこまでに対して「盟主」であるかは明確ではない
宇都宮、結城、大掾、多賀谷などに対して盟主と言う立場であっかは怪しいものがある
軍記ものではそれらしい言い回しになっていたりするが
実際に佐竹が代表していたという確たる根拠がない
北条と取り交わした文書などはあまりないし

635:人間七七四年
08/03/07 23:21:41 eSa7XfZ9
アンチ佐竹の奥七郡=伊達厨の仙台百姓ってのはどうやら事実のようだなw

636:奥七郡の人
08/03/07 23:40:32 11OFIqPz
俺は佐竹を嫌う発言などした事はない
お前が言いってるのは「自分と違う意見なのが気に食わない」と言う事だろ
大体なんの脈絡もなく伊達伊達いうのが不可解である
お前は伊達のアンチだと言えても俺が佐竹のアンチだとは言えない

637:人間七七四年
08/03/08 00:13:32 PDk3+5e0
茨城人は理屈っぽい。身内だろうと理屈に合わない事は認めない。

638:人間七七四年
08/03/08 00:20:36 KjgKXDTE
頑固者ってことか。
義宣も頑固者っぽいしな。


639:人間七七四年
08/03/08 00:35:27 9cr+j9hV
>>636
どうしても佐竹を矮小化させたいようだな。

婚姻関係や一族関係を背景に宗主的な立場だったのが佐竹宗家。
北条の攻勢に対してご出馬を願ってる時点で緩やかな連合体の主家としての立場を確立してた。
由良らとの件でも皆川が北条との佐竹の交渉のマズさを指摘したりと交渉の代表者としてみている。

640:人間七七四年
08/03/08 03:28:09 GAU/OxM0
オラ達佐竹厨の主張は理屈じゃないっぺよ!屁理屈だっぺ!

641:人間七七四年
08/03/08 03:29:34 GAU/OxM0
イ左 ケケ 厨 は オ ヵ 儿 ├ 臭 い っ ぺ

642:人間七七四年
08/03/08 05:34:47 Z0q6WHOe
後北条は関東平野での戦闘を想定して作られているから
常陸みたいに沼だのあって地形的に入り組んだ場所での
戦闘(しかもアウェイ戦)は苦手だったんだろうか?

643:人間七七四年
08/03/08 05:46:17 8jJJDCI9
>>642
当時は小田原近辺はともかく江戸まで出たらすでに沼ばかりの湿地形じゃなかったっけ?

644:奥七郡の人
08/03/08 10:12:04 TlzlDaeC
常陸南部や下野南部は佐竹にとっても慣れた土地ではないよ
佐竹の領地周辺は山間部が大半を占めている
常陸南部や下総は湖沼、河川が密集しており
今と違って河川工事もたいしたものではないから周囲は湿原だったそうだ
大水が出るたび河川の流れる位置も変わるし住んでる方も大変だったろう
霞ヶ浦や北浦も元々は内海でのようなものであったし(霞ヶ浦が淡水になったのは最近)流域も今より広かった


>>639
義重に苦情言ってたのは真壁じゃないか?
佐竹が代表して北条と取り交わしたと見られる文書などは何も残っていない
佐竹洞中は一つとして交渉したのは間違いないだろうが
その他は各個代表を出して交渉したと見るのが自然だ
家中でない者の領分に対してまで勝手に交渉して条件決めていくなんて馬鹿な事は有り得まい

645:人間七七四年
08/03/08 10:19:21 ZqZNqONN
>>644
鎌倉時代の吾妻鏡で幕府がさかんに埋め立てして関東平野を開発したって書いてるから実際は平安時代みたいにそんなに湿原地帯じゃねーよアホ


646:人間七七四年
08/03/08 10:24:40 ZA5Fyrwd
義昭が長生きしたら、とついつい思ってしまうな……

647:人間七七四年
08/03/08 10:30:23 JG2VOSBE
戦国時代の真壁氏は
形式上は佐竹氏の家臣であったが
実質的には佐竹氏の格下の同盟者であったという説も
あるようだが。

くわしいことは知らん。

648:奥七郡の人
08/03/08 10:30:33 TlzlDaeC
>>645
県南部の編纂資料によると近代まで湿原が多かった事が記されている
明治時代頃でさえ今とは地形が大きく異なっているよ

649:人間七七四年
08/03/08 10:31:43 JG2VOSBE
>>645


平安時代ほどではないにしても
やはり湿地は多かったようだ。

650:人間七七四年
08/03/08 11:04:03 ZqZNqONN
それは江戸期の利根川東遷のせいだ。


651:奥七郡の人
08/03/08 12:06:26 TlzlDaeC
むしろ利根川が繋がったお陰で香取湾に土砂が堆積し新田開発が進んだわけだが
水域は大幅に減少し香取湾などは消滅してしまった

下妻城も元は沼や湿地に囲まれた水城だったのに今では跡形もなくなってしまった
土浦城なんかも今となっては…
50年ぐらい前まではまだまだ面影を残していたそうだが
都市化の波は恐ろしい

652:人間七七四年
08/03/08 12:22:21 JG2VOSBE
当時の下妻とか土浦は地形が守りに適して攻められにくかったらしいな。

だから城つくったんだろうが。

653:人間七七四年
08/03/08 12:23:29 ZqZNqONN
利根川がつながったおかげで海水の流入や、土砂が砂底に溜まり年々川底が浅くなり洪水水害や増大したんだが。
それで茨城側が水が少ない南千葉の議員と結んで千葉側から土地を買い取り治水をすると言い出したりしてる。


654:人間七七四年
08/03/08 12:54:53 JG2VOSBE
ハマコーみたいなのがたくさんいたから
安房の里見が(そこそこ)強かったんだろうなあ。

655:奥七郡の人
08/03/08 18:00:48 TlzlDaeC
>>653
もはや湿地と何の関係もない話しだろ
何がしたいんだお前はw

656:人間七七四年
08/03/08 18:03:35 4buz1DEX
奥七郡の人←知ったか


657:奥七郡の人
08/03/08 18:19:16 TlzlDaeC
>>656
何かおかしなとこある?

658:人間七七四年
08/03/08 18:34:36 NK8JvJw3
粘着してるだけだろ、放っておけ
(こいつ、よく他人を厨とか言えるもんだ)

659:関連スレ
08/03/08 20:09:11 5YkPWQKJ
困るほどの律儀者、佐竹義宣を語る
スレリンク(sengoku板)


660:人間七七四年
08/03/09 00:08:36 FfuX1AuH
ついでに立てました。
スレリンク(sengoku板)

661:人間七七四年
08/03/09 10:14:02 SUGwnMxv
佐竹総合スレだけでもいいじゃん・・・・・

662:人間七七四年
08/03/10 13:07:51 8LJy3au1
まったくだ、ココが過疎っては元も子もない

663:人間七七四年
08/03/10 13:10:10 bkxip6Ar
つーかぶっちゃけ佐竹なんて大名、架空大名だもんな

664:人間七七四年
08/03/11 02:10:44 iMYgpfS8
そうかもしれませんな

665:人間七七四年
08/03/11 10:00:32 R8R2SxVE
もち架空だよ
独眼竜政宗に出てこないもん

666:人間七七四年
08/03/11 11:30:18 FQAqnZMT
全盛期は平安時代かな

667:人間七七四年
08/03/11 19:44:54 OPKuXIBy
>>661-662
ほれ、ここに絞っちゃうと
>>663-666
みたいのがウジャウジャ沸くぞ。
こういう香ばしい方々に対する避雷針としてあったほうがいいかもしれん。

668:人間七七四年
08/03/11 21:37:26 SFyoX+qo
そっちにも行かれたら意味ないし、香ばしいのはこっちにもいる
(最近だとコテハンに粘着)
結局たてすぎだと思うがなぁ

669:人間七七四年
08/03/11 21:47:23 MptIupOP
>>667
どうやってこのスレから向こうへ誘導するんだw

670:人間七七四年
08/03/11 23:01:22 pa8ImJyw
茨城の佐竹高校の卒業式にガクトが来た。


671:人間七七四年
08/03/12 00:21:49 RDAl2Cyu
ええ?

672:人間七七四年
08/03/12 13:05:35 GEV9vTyT
ガクトは在籍したバンド「マリスミゼル」の元メンバーで亡くなったKamiさんの
ために卒業式ライブを行った。Kamiさんは佐竹高校の出身

佐竹氏と佐竹高校の佐竹が関係があることを地元の人でも知らない人が
いるみたい。

673:人間七七四年
08/03/12 17:41:25 GEV9vTyT
佐竹高校age

674:奥七郡の人
08/03/12 23:20:13 5Dh/0FsL
>>672
佐竹高校と佐竹氏はあまり関係ないと思うけど

佐竹高校はレベル的には微妙だけど案外有名人が出てるな

675:人間七七四年
08/03/14 09:12:18 iuiimvb5
開幕当時、久保田藩の財政は米沢藩より良かったの?

676:人間七七四年
08/03/14 12:20:26 l9XW9373
詳細はわからんが米が多く取れる状態ではあったらしい。

677:奥七郡の人
08/03/14 14:29:48 +qwIl/ww
阿鼻叫喚の水戸藩政から見たらどこもよく見えてしまう

678:人間七七四年
08/03/16 21:22:21 pLCyg7Vd
ウボアー('A`)

679:人間七七四年
08/03/16 22:49:33 iBeTeWZL
クソスレ上げんなクズ

680:人間七七四年
08/03/17 02:33:34 juh4bjIN
たまにこの板に来るたびに、なぜかこのスレの下に安土城スレがあって
\●/
◆◇◆
ってなってる。必ず。

681:人間七七四年
08/03/18 19:06:45 ShmWMo5G
通字が徹底しすぎw

682:人間七七四年
08/03/20 22:26:45 eH3K+Zhi
江戸時代に入っても将軍家のヘンキがない・・・・

683:人間七七四年
08/03/22 22:40:36 7DLOrDav
もうほっといてやれよ。12万石なんだから。。。

684:人間七七四年
08/03/22 23:01:13 RJTUM/mn
「義」を大事にしているのだよ

685:人間七七四年
08/03/25 22:45:50 RC+rnnAJ
>>683
捏造石高乙
創価伊達は本当にうざいな

686:人間七七四年
08/03/28 00:13:17 t3SsOcvQ
伊達の子孫:ヤスムネ、創価
佐竹の子孫:秋田市長

687:人間七七四年
08/03/28 05:49:39 b4+7mA0K
対馬の宗氏の子孫は教師らしい。

688:人間七七四年
08/03/30 04:19:20 RTWQc11s
12万石でも頑張るっぺ

689:人間七七四年
08/03/30 16:11:49 x2Dp4ibD
家康が自分の隣に外様大大名を置いとく訳がない。


690:人間七七四年
08/03/30 20:54:51 1huU9TfC
>>688
12万?伊達のこと?

691:人間七七四年
08/04/02 21:32:50 UwMokaDe
少なくとも、佐竹は54石だから違うな

692:人間七七四年
08/04/02 23:06:08 342rwA5+
54石ってすごい釣りだな

693:東義久ってどお?
08/04/03 11:11:58 1eFs5Gk5 BE:1247085476-2BP(1)
>>627-629さんへ
以前、佐竹氏を語るスレでカキコったヤツに加筆・訂正したよ。
佐竹vs.後北条の歴史。他の事件付き。
元亀二年(1571)
5月 下妻城攻防戦。義重・多賀谷6000、氏政軍2万を破る。
(例の「鬼義重」のあだ名が広まった戦い)

元亀三年(1572)
12月 多功原の戦い。義重・宇都宮5700、氏政軍2万を破る。

天正二年(1574)
氏政、関宿を攻める。
11月 関宿論争。関宿救援のため出陣した謙信と義重は、小山で会合するも、話し合いは物別れに終わる。
閏11月19日 関宿開城。義重、氏政と和睦。

天正四年(1576)
6月 高道祖原(たかさえはら、現下妻市高道祖)の戦い。義重・多賀谷、氏政に対し局地的勝利を収める。
(12月 下野小山城、北条軍に攻略され、小山秀綱は義重の下に亡命。)

天正六年(1578)
(3月13日 謙信急死。御館の乱発生。)
5月~6月 常陸小川台合戦。義重連合7000と氏政軍が鬼怒川を挟んで対陣。謙信亡きあと、義重が正式に北関東の盟主になる。

天正八年(1580)
(6月17日 南奥の盟主葦名盛氏没。義重に後事を託すという。)
9月~10月 勝頼の上野出兵と共同し、義重は北条方の下野足利・上州館林・新田の近辺を荒らしまくる。ただし同陣はせず。
氏政、武蔵本庄まで進出し、利根川を挟んで勝頼と対陣するも、退却。
11月下旬 義重・結城晴朝、北条方の下総栗橋城・飯沼城を攻める。飯沼城は攻略に成功したらしい。

天正九年(1581)
4月下旬~5月 義重・佐野宗綱、北条方の下野榎本城を攻める。
6月~7月 義重、小山・榎本城下を焼く。
8月 氏邦、氏長、政繁ら15000、下野唐沢山城を攻める。
義重勢3000、唐沢山城救援のため出陣。氏邦、戦わずして撤退。

天正十年(1582)
(3月11日 武田氏滅亡。)
(6月2日 本能寺の変。)
10月上旬 義重、北条方の上州金山・館林を攻め、帰途、小山・榎本の周囲を焼き払う。

天正十一年(1583)
2月中旬、氏政、上州厩橋城を攻めるも、義重来援のため退却。
(4月21日 賎ケ岳の戦い。)
4月5日 北条高広、景勝と義重に救援を求める。
4月中旬 義重、下総古河城を包囲するも、氏照は前もって栗橋衆を古河城に入れて守りを固める。
4月 氏照ら、厩橋・沼田・唐沢山の各城を攻撃するも、義重が古河から皆川に進むと、撤退する。
氏直も厩橋に出陣するつもりだったが、4月29日予定の家康娘との挙式(同年8月15日まで延期)により、出陣見送り。
4月29日? 義重、景勝に秀吉と誼を通じる仲介を依頼する。
(以降、関東諸将、続々と秀吉と誼を通じる。)

天正十二年(1584)
2月 北条勢、下野に出陣、宇都宮国綱を攻撃する。
3月12日 義重・多賀谷・晴朝・壬生・皆川ら国綱救援のため宇都宮城に入る。北条勢退却。
(3月28日、4月9日 小牧・長久手の戦い。)
4月~7月 沼尻合戦。 義重2万と氏直8万が下野の各所で、約110日間、小競り合いを行う。
(以後、関東諸将、次々と北条に降る。)

694:東義久ってどお?
08/04/03 11:15:13 1eFs5Gk5 BE:1454933077-2BP(1)
続き
天正十三年(1585)
4月28日 義重・国綱、氏直と鹿沼で戦う。
(7月11日 秀吉、関白就任。)
7月18日 第一次大谷口の戦い。義重・国綱、北条方の小山秀綱を破る。
(8月~9月 第一次上田城合戦。神川の戦い。家康、敗北。)
8月28日 国綱、多気山城に本城を移す。その城普請に佐竹からの援助あり。
(10月2日 秀吉、九州停戦令を発布。その中で関東遠征を宣言。)
(11月17日 人取橋の戦い。)

天正十四年(1586)
1月12日 義重・国綱、北条方の壬生・日光山を破る。
(3月9日・11日 家康、氏政・氏直父子と対面。)
3月~4月 義重・国綱、壬生領に侵攻したが、氏直・那須が壬生を救援したため、義重・国綱帰城す。
(4月19日 秀吉、第一次関東・奥両国惣無事令を発布。)
4月中旬 氏直、皆川広照を攻め降す。
4月末 氏直、佐野を攻め、義重撤退する。
(5月15日 家康、秀吉妹と結婚。)
(5月25日 秀吉、関東停戦令を発布し「家康討伐」を取り止める。)
5月下旬~6月上旬 氏直、多気山城・宇都宮城の近辺で戦う。
7月下旬 義重・晴朝・国綱、壬生氏を攻撃、北条・那須勢その救援のため出撃す。
8月初旬~9月 義重・義宣父子&国綱、北条・那須勢と戦う。
この一連の戦いで宇都宮家臣今左京が、北条家臣大道寺又五郎が戦死した。
(8月~9月 秀吉、九州征伐。~天正十五年(1587)5月まで。)
(10月~11月 家康、上洛。)
(11月15日 帰国した家康は、氏政へ関東・奥両国惣無事令を伝達。)
(11月21日 葦名亀王丸没。葦名家中、後継者を巡って佐竹派と伊達派に分かれる。)

天正十五年(1587)
(2月~3月 義重次男の白河義広が葦名家を相続す。以後葦名家中、親義広派と反義広派に分かれて争う。)
(5月 秀吉、九州平定。)
7月 義重・国綱、壬生勢と鹿沼で戦う。
(12月3日 秀吉、第二次関東・奥両国惣無事令を出す。)

天正十六年(1588)
(6月~7月 郡山の対陣。)

天正十七年(1589)
(この年、義重は義宣に家督を譲るという。天正十四年説あり。)
(6月5日 摺上原の戦い。葦名滅亡。 佐竹も高野郡を除く奥州の所領ほぼ失う。)
11月24日 秀吉、北条氏へ宣戦布告。

天正十八年(1590)
4月16日 義宣・国綱、壬生城攻略。
5月27日 義宣・国綱、秀吉と対面。
6月7日 三成、忍城攻略開始。義宣・国綱も同陣。(~7月16日まで)
7月5日 北条家滅亡。
あと、宜敷!!

695:人間七七四年
08/04/03 12:02:17 JKdXNkzB
高野郡ってどこ?棚倉あたりの事かな。

696:東義久ってどお?
08/04/03 16:42:05 1eFs5Gk5 BE:237540342-2BP(1)
>>695さんへ
だいだいJR水郡線の福島県側。
東館(東義久の居城)。寺山城。赤館(のちの棚倉城)の辺りかな。

697:人間七七四年
08/04/04 13:11:00 +jrwW6ge
そういえば、佐竹と織田信長って交流あったんだっけ?

信長と伊達氏はたまに贈答品を送って薄いながらも親交していたようだが。

698:人間七七四年
08/04/04 13:13:59 +jrwW6ge
5月 下妻城攻防戦。義重・多賀谷6000、氏政軍2万を破る。
(例の「鬼義重」のあだ名が広まった戦い)

元亀三年(1572)
12月 多功原の戦い。義重・宇都宮5700、氏政軍2万を破る。


         ↑

大軍の北条が劣勢なのは、地形のせいか?
将卒の士気か?


699:人間七七四年
08/04/04 13:31:51 nWDCf1Tt
>>697
信長と贈答品の応酬なんて多少目端の利く大名なら大抵の大名がやってる

700:人間七七四年
08/04/04 17:44:17 ZVwyxLe4
義重の常陸介就任は、信長が朝廷に斡旋したから
それなりの交流は有った筈
秀吉との外交もその延長だったんじゃないか?

701:奇矯屋onぷらっと ◆JUU/.JUU/.
08/04/04 23:00:31 i+Cj4+5y
鬼の名称を取る戦いってのは、大概が防戦を切り抜けたときに付くイメージ。
領土拡張に結びつかんのよね。

702:人間七七四年
08/04/04 23:23:04 xZjCJyHN
鬼弾正・真田幸隆
鬼美濃・原虎胤、馬場美濃
鬼道雪・立花道雪
鬼柴田・柴田勝家
鬼五郎左・丹羽長秀
鬼武蔵・森長可
鬼玄蕃・佐久間盛政
鬼真壁・真壁氏幹
赤鬼・井伊直政
鬼作左・本多重次
鬼の半蔵・服部半蔵
鬼十河・十河一存
鬼九郎・戸沢盛安
赤鬼青鬼・赤井籾井コンビ

ちょっと思いつくだけ適当に上げてみたけど、
そーでもないと思う。

703:人間七七四年
08/04/05 14:30:48 owzBwbBt
ただ現代の感覚だと鬼ってのは強敵って意味で使われないんだよね
鬼の中国とか鬼の韓国とかって言わないように

内部で嫌なヤツに対して鬼の課長補佐とか言うかも知れないけれど

704:人間七七四年
08/04/05 16:56:25 8P5N4Yqt
シューティングゲームの難しいトコやボスキャラ相手に鬼と言うな

705:人間七七四年
08/04/07 21:35:49 LP4c09T3
鬼常陸   

706:人間七七四年
08/04/08 12:53:08 nZuaHIrh
>>693
1580年代前半までの戦では、佐竹の動員数は数千規模だったんですね(しかも連合で!
数の少なさが意外でした

北条側との動員数差が気になりますが…
当時の記録の常で、北条側にある程度水増しがあったと考えていいのですしょうか


707:人間七七四年
08/04/10 22:03:40 twxJwYH4
北条>>>>佐竹>結城≧宇都宮

708:人間七七四年
08/04/11 08:46:39 ihAtbTdB
佐竹の強さの一つは関東一の鉄砲数と言われてるね。
財力も佐竹家の金山開発技術者が優れていたとか。
大軍相手の時は長対陣で粘り相手が撤退するのを待ち続けて強烈な追い討ちをかける戦法を好んだとか。

709:人間七七四年
08/04/11 19:31:32 jVbtPkGg
佐竹は持久戦になると粘りを発揮するし、
沼だの湿原だの山だのと
入り組んだ地形での戦闘を得意としていたらしい。


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