\●/佐竹氏を語るスレ 其の2at SENGOKU
\●/佐竹氏を語るスレ 其の2 - 暇つぶし2ch250:人間七七四年
07/11/06 17:45:18 gSw3HaWS
>>249
俺、秋田のひきこもりだが賛成だ

251:人間七七四年
07/11/06 22:24:38 nPSu6v89
常陸の佐竹系の人間と
出羽の秋田系の人間が
どんな風に付き合って、混ざっていったかは興味があるな
豊穣な土地に名家が入ったことで、文化が爛熟したんだろうが

252:人間七七四年
07/11/07 09:37:45 aFJjoqqT
佐竹家が秋田へ入部したのって、厳密に言えば江戸時代ではなくて
安土桃山時代なんだよな?1602年だから

253:仙台藩百姓
07/11/07 10:30:27 l3Mz5wGi
佐竹\●/オワタ

254:人間七七四年
07/11/07 17:56:42 wIgYGli4
>>253
たしかにオワタに見えるw
ドンゴリ藩主の御領民降臨ですな

255:人間七七四年
07/11/09 08:54:30 yxQlje7M
>>253
意味を理解するのに1分ほどかかった
たしかに佐竹の旗印オワタにみえるわwwww

256:人間七七四年
07/11/09 09:56:26 oBH9S7cX
スレタイオワタ

257:人間七七四年
07/11/11 00:30:00 q3I0+RwN
太田城時代>>>久保田城時代>>>>>>>>>水戸城時代

258:人間七七四年
07/11/13 12:08:32 Z0prwzZ6
長さが?

259:人間七七四年
07/11/13 14:28:52 hnQewsin
石高でいえば水戸城時代だけどね

260:人間七七四年
07/11/13 18:35:22 STgKKYLK
佐竹は奥州の裏切り者

261:人間七七四年
07/11/14 10:52:31 GlaUxksP
佐竹が糞徳川なんかに味方するわけないだろw

262:人間七七四年
07/11/15 10:09:27 psSJ8o6R
>>260
秋田藩時代?

263:人間七七四年
07/11/16 17:03:28 Df1Fna55
戊辰のときの話でしょ

264:人間七七四年
07/11/16 21:59:01 bagAa3pr
一度相馬の家に入った血が、再び佐竹返りしたのが義堯公。

戊辰の前に、国学急進派の平田が江戸を追われた後、秋田藩にやってきて、そこを根城にした。
結果、秋田藩士内に尊皇派ができ始めた。

鳥羽の戦のあと、幕府か朝廷か義堯公は悩みまくった。
が、尊皇派藩士が義堯公に夜中に急襲、談判・・・というより半ば脅迫で、藩を尊皇派にしてしまう。
ここで、本来なら会津の救援に行くはずの庄内藩士、逆方向の秋田へ進軍を開始する。
秋田県南部は火に焼かれ、庄内軍は久保田城下まであと数里のところまで迫った。
秋田側は戦闘意欲gdgd。義堯公自ら城下で討ち死に覚悟の檄を飛ばす。
そこに騎兵隊こと肥前藩が、最新式の銃器携え土崎港へ到着。
戦線を一気に押し返す。

265:人間七七四年
07/11/16 22:56:13 bagAa3pr
・・やっぱ佐竹の大河は無理だ。
幕末までやるとなると、「平田国学」まで触れなければならない。
猛毒だ。

266:人間七七四年
07/11/17 00:26:06 RVz5GPX2
義昭篇、義重篇、義宣篇で1年できる。

267:人間七七四年
07/11/17 09:44:04 LRhFWQ/A
義宣が関ヶ原で家康を追撃するように作りかえれば一年間でも足りない。

268:人間七七四年
07/11/17 14:21:43 YZ0Tey6F
あのとき秀忠軍が3万で家康の本隊も3万ぐらいいたっけか
しんがりの秀康軍がどのぐらいの兵力なのかわからないけど佐竹軍が多くても1万ぐらいか
まともに戦っても無理だし奇襲かねえ
でも佐竹領の近くで油断はしてないだろうしねえ


269:人間七七四年
07/11/17 14:42:01 LRhFWQ/A
佐竹の動きはおそらく上杉の南下を誘引する。すると野心家の伊達も火事場泥棒で上杉に味方して乱を長期化し拡大させようとはかるかも知れん。
関東が混乱してるスキに西軍が福島の尾張を切りとれるまで進出したら田中・中村・山内ら東海道筋に離叛が始まり易々と箱根まで進出し三成の小田原包囲が始まる。
上田真田が道を譲り宇喜多軍が仙石の小諸城を開城させ関東に侵攻。
ここまできたら堀や蒲生や里見も石田方になるだろう。
こんな感じなら大河で一年は可能www

270:人間七七四年
07/11/17 19:00:21 0ANN2Qni
そういや佐竹主役の仮想戦記って聞かないな

271:人間七七四年
07/11/18 12:08:33 mu0C2BUJ
舞鶴城→ホテル大山城に宿泊→孫根城→東金砂山武生神社→西金砂神社→舞鶴城
あなたも義舜気分が味わえます
※暴風雨に見舞われたら機を逃さず敵を滅ぼしてください

272:人間七七四年
07/11/19 16:49:14 5fvLmJme
義舜が太田城奪還するまで十四年もかかっているから、苦難の道だね>>271

273:人間七七四年
07/11/20 10:08:43 9x5DhFxK
>>268
佐竹なら15000は少なくとも動員可能

274:人間七七四年
07/11/20 14:01:13 sUdrYvOL
佐竹の裔です
佐竹会に入れない分家の分家のそのまた分家

275:人間七七四年
07/11/20 14:30:40 m9xEqhFt
>>249実は大変外交的でチャレンジスピットの塊
古代から蝦夷・日本海・沿海州貿易が盛んだったんじゃないの?
中世以降は安東氏の十三湊が一大拠点だったはず

276:249
07/11/20 19:12:02 Ue4I2V+N
チャレンジ「スピリット」の間違いでした。スマソ。

>>275
転封以前の領内は群雄割拠状態で、最上・津軽・南部・伊達相手によく独自勢力維持できたな、と。
・・・関東の下野(栃木県)思い出した。

277:人間七七四年
07/11/21 01:19:02 ovqZUrZx
>>276
揚げ足取るつもりじゃなかったので気にしないでくれ。

安東氏を一例として挙げたけど、海を目の前にした人間の行動には
北も南も大差はないと言いたかっただけだ。

278:人間七七四年
07/11/21 11:16:17 XjpXsVQX
多良崎城て湊城だったんだね
今じゃ見渡す限り水田だけど戦国時代は海だったらしい(原発辺りも海だったのだろうか
多良崎城と水田を挟んだ真崎城は海洋に面した湊城だったとの事
多良崎城は江戸氏の持ち城であったが小田原の役の後
常陸統一に乗り出した義宣が水戸城を攻めたが
義宣と義重が二手に別れ、義重は東海→大洗→水戸の海岸ルートを辿り
その途中で多良崎を攻め落としたらしい(1日で落城
心霊スポットとして有名でTVでも放送されたけど
俺も5回ぐらい行ったが詳しい事は全く知らんかった
常陸に於いても海運業はそれなりに盛んで
佐竹や江戸氏も東海~那加湊~大洗付近で海運や製塩を行い重要な土地であった
今となっては沢畠城が一番城らしい風貌だがw

279:人間七七四年
07/11/22 10:01:06 7jxomsAF
ところで常陸宍戸ってどこのあたり?

280:人間七七四年
07/11/22 13:33:27 pABTak5A
茨城の宍戸の辺り

281:人間七七四年
07/11/22 13:59:36 fbzKkhfv
>>278
友部と笠間の間、友部も宍戸も今は笠間市になっていますが

282:人間七七四年
07/11/22 14:00:29 fbzKkhfv
ごめんなさい>>281>>279宛てです

283:人間七七四年
07/11/22 14:18:42 pABTak5A
宍戸駅に行きゃいいんだよ
駅から真っ直ぐ進めばすぐに陣屋アルヨ
まあ、陣屋は残っちゃいないが

284:人間七七四年
07/11/22 18:09:06 1hHn4RCF
>>278
江戸氏って強敵かと思ったら、そうでもないのな。

>>283
アルヨ大統領、ナビオツ。

285:人間七七四年
07/11/23 09:55:32 Y0GmNvji
>>284
結構力は持ってたと思うよ
支配範囲も広いし10万石程度はあったと思う
確かに最後はやたらアッサリ負けた
やはり大義を失うと弱いんだろうね
配下の離反もあったそうだし

286:人間七七四年
07/11/23 15:06:24 to2MahE8
真壁氏幹・・・鬼真壁がいてこそだよね!

287:人間七七四年
07/11/23 15:09:05 HVCUt0LE
氏幹の氏は北条氏の偏諱だが、佐竹と組んだ時に捨てなかったんだな。

288:人間七七四年
07/11/23 15:42:08 Y0GmNvji
北条から一字貰ったって本当の話しなのかな?
古河公方から貰ったと考える方が自然な気がするけど

289:人間七七四年
07/11/25 00:11:29 U8Ui1CWV
真壁重幹とか

290:人間七七四年
07/11/25 11:33:24 8VZ84InR
常陸北部は貧しいね
立派な御屋敷なんて全く残ってない

291:人間七七四年
07/11/25 19:33:20 lC4HMBTX
>>290
光圀が悪いんじゃあ!!って、声が聞こえそう。

転封後、水戸に徳川家が入ったのだが、江戸の宗家からは将軍を出さぬようにと言われた。
2代目光圀のころ、大日本史編纂のため、結構な出費を領民に強いて、常陸北部の連中から恨まれた。
幕末は、大日本史から水戸学が生まれ、藩士同士の血で血を洗う抗争勃発。


292:人間七七四年
07/11/26 11:14:03 gE3FaWsZ
>>291
ホントに同じ常陸でも水戸藩領と他藩領とではハッキリと差がある
県南は集落ごとに立派な旧家がいくつも見られるが水戸藩領に入ると滅多に見られない

幕末に郷士や豪農は藩の争乱に多数参加し
泥沼の争いで家財を焼かれ一族離散してしまった者が多いのも大きな要因だろう
水戸藩の重臣でなんとか中立を守った人物がいたが
水戸藩は狂気であり、巻き込まれたら一族は残らずすり潰されてしまっただろうと語っている
実際、水戸藩には佐竹・武田・今川・結城・宇都宮などの一族や旧臣が多く召し抱えられていたが
狂気の渦の中で消滅してしまった家も多い

293:人間七七四年
07/11/28 17:25:03 pB6Us9cX
南郷は常陸の佐竹領ではなかなか見られない大規模な山城が多いですね
あまり築城には熱心ではなかった佐竹がこれだけ堅固な城を築くとは
奥州戦線は熾烈を極めたようですね

294:人間七七四年
07/11/28 17:59:06 vSBIQ5x+
対伊達用に強化したんじゃないかな?芦名滅亡で須賀川まで伊達に降ったからね。
伊達の大攻勢に備えたんだよ。
北部戦線を要害として強化して前面の北条に備えるって事じゃないかな?
北方の痩せた土地を得る為についには伊達に介入しまくったのは芦名を失う事で結果的には大失敗で終わる。
そんなら謙信と組んで大敵北条から関宿を守り、その間に常陸一国支配を優先すれば良かったのにアホだね。
土台がもろく実力ないのに背伸び佐竹。

295:人間七七四年
07/11/29 10:30:38 uEG2SbxS
>>294
( ^ω^)( ^ω^)( ^ω^)


296:人間七七四年
07/11/29 16:33:05 Uv1Q3rPN
(^Д^)9m

297:人間七七四年
07/11/30 15:57:43 nidjiO0t
南郷の諸城は白河氏に対するものです
白河氏との対立は南北朝時代より続いていましたが
時代が下がり山入一揆で佐竹が急激に衰退する中で
岩城氏や白河氏の勢力圏は常陸まで深く入り込むようになりました
義舜によってようやく内訌を克服し旧領(奥七郡及び南郷)の奪還が佐竹の課題となります
特に白河・石川・岩城からの街道が集まる南郷地方は太田城の守りの要として非常に重要な土地でした
ここを抜かれると里美谷を一気に太田を突ける絶好の侵攻ルートになってしまいます
山入一揆で支配権を失った時は奥州勢力南下を奇跡的に退けたものの危機的状況に陥る苦い経験もあった為
この地方の支配は佐竹にとって早急に行わなければならない課題でした
義篤の代になると依上から白河氏を駆逐し常陸に組み込む事に成功します
そして義篤・義昭の代で東館を支配下に置き南郷攻略の拠点とし
羽黒山城や寺山城で激しい攻防戦が展開されます
しかしこの頃になると関東の展開が加速していく事となり
義昭は遠く南部まで出兵を余儀なくされていきます
その隙を突く白河氏の度重なる南下に苦しめられるようになり
この攻防戦の中で南郷地方の城郭は改修を続け巨大化していきます
義重の代になると寺山城や羽黒山城は完全に佐竹の支配地となり悲願の赤館奪取へ向かいました
だが、関東でも北条氏との戦いが激化し
関東で遠征する中、寺山城や羽黒山城は葦名・白河・田村などの大軍の侵攻を受けましたが
大損害を出しながらもなんとか防衛を続けていきます
後に義重により赤館が支配下に収められると寺山城や羽黒山城はやや重要性が薄れましたが
白河氏を降すまで赤館の詰め城として活躍を続けていきました

298:人間七七四年
07/12/01 23:29:17 6Toe/eH8
白河って藤姓だっけ?

299:人間七七四年
07/12/02 14:05:41 nab6CQzj
>>298
結城氏だしね

300:人間七七四年
07/12/03 21:04:38 dEpd6lbe
300get!

301:人間七七四年
07/12/06 10:05:12 lhmCDsZk
真壁氏幹は実は大掾氏

302:人間七七四年
07/12/06 14:20:44 /O14sZUU
幹からもわかるけど、その通りですね
しかしこの幹の広がりはすごい、繁盛の子維幹からずっとつついて、分家中に広がってるし

少しずれるが南方三十三館にも、
宮ヶ崎幹顕、徳宿矩幹、安房幹連、烟田通幹、札幹繁、田野辺胤幹、
玉造重幹、手賀高幹、芹沢国幹、行方忠幹、富田昌幹、永山知幹
と沢山いますね

303:人間七七四年
07/12/06 15:05:23 gZ9EmvYo
常陸統一に絡み大虐殺を義重がやったらしいけど
それらの人々を呼び集めて殺戮しまくったの?

304:人間七七四年
07/12/06 15:16:18 /O14sZUU
義重が関与したかどうかはわからないが、南方三十三館謀殺をしたのは義宣だよ

305:人間七七四年
07/12/08 00:24:47 ni7LkSuz
義重が悪知恵入れたのかもね、佐竹家にとっては良いことだったけど

306:人間七七四年
07/12/08 01:14:11 o6Fv+Gzr
豊臣政権下での、国人領主の謀殺劇多いね
黒田・長宗我部・佐竹…



307:人間七七四年
07/12/08 01:22:06 bkV1iuzG
大崎葛西の乱や九戸の乱より謀殺は穏便に済むからね。
佐々成政の統治は失敗して切腹になったけど
佐竹も失敗して大反乱起きたらヤバかったろうから御家存亡を賭けた謀殺劇だったろうね。

308:人間七七四年
07/12/08 01:41:37 o6Fv+Gzr
>>307
やはり東北の一揆・乱が影響してそうだね
しかし、国人領主側も警戒しなかなったんだろうか?
呼ばれてホイホイ出仕しちゃった印象がある
(長宗我部は相撲大会が口実だっけ?





309:人間七七四年
07/12/08 06:41:23 Nonz3MjT
よばれて来なければ正々堂々と討伐されるから出席せざるをえまいて
佐竹の方も長い歴史から懐柔なんてできっこないことは分かりきってるだろうし
生き残りたければそうなる前に徹底的にすりよっておくしかなかったんだろうね、秀吉か義重に

310:人間七七四年
07/12/08 13:23:39 YspP/ely
そうしなかった那須とかの考えがわからない

311:人間七七四年
07/12/09 21:27:46 IYPALJXF
>>308
相撲大会は関が原後の山内じゃなかったっけ?長宗我部も同じ策でやったとしたら
関が原後に引っかかるやつも引っかかるやつかもしんない。

312:人間七七四年
07/12/09 23:47:10 zHjErXFJ
>>331
すみません、そうでしたね
土佐の統治でごっちゃにしてました

313:人間七七四年
07/12/10 09:46:30 a1KqOvLD
誰にレスしとんねんw

314:人間七七四年
07/12/12 09:49:27 xkXqH5w7
( ´A`)・・・・・・

315:人間七七四年
07/12/14 10:47:49 EWBXKvla
イイスレダナー

316:人間七七四年
07/12/14 21:11:21 0QYY+1j8
相馬家から養子が入ったのは残念だったね

317:人間七七四年
07/12/15 10:49:44 8uWBcjvy
江戸時代末期の話を言ってるのか?

318:人間七七四年
07/12/15 14:32:23 DBra9lco
関ヶ原のときに佐竹の戦力はどれくらいのものだったんだろうか。
なんかすごくばらばらで、一万も動員できていなかったようなイメージがある。

319:人間七七四年
07/12/15 23:01:02 6vAtNVSN
寄騎あわせて80万石くらいあったんじゃない?
常陸一国だけでも54万石だから、外地に動員できる戦力は
頑張れば2万4千くらいはあったかと。

320:人間七七四年
07/12/15 23:04:00 6vAtNVSN
ちなみに東義久が徳川秀忠の陣に参陣したとき数百騎しか連れていかなかったのは
関が原の大勢を見て火急に恭順の意を示さなければいけなかったための数だと思う。

321:人間七七四年
07/12/16 09:40:46 xyzTnBVw
>>319
それ、その部分。80万石。
どこの史料とか小説見ても、

「兵力集めました。すごいっす。どれくらいかって?
えーと佐竹が54万石で組下大名合わせると80…90万石くらいだから、
……3万くらい? まあ、4万集めて7万って号したよ」程度の記述しかない。

実際誰がどれだけ集めてはせ参じたのか、
どこにどれだけ配置したのか、戦略戦術がどうだったのか、
まったく見えてこない。
同じ50万石クラスの大名はあの金吾でさえ、ひとつの塊として動いている。
佐竹本家時代がgdgdで何もせず、
確実に動いた記録はそれこど数百騎というくらいだから、
正味な話、佐竹の数万と言うのは、佐竹のコントロールがまったく利いていない
常陸全域に勝手に集まって一応佐竹の旗だけは立てている張子の虎だったんじゃないかなー。


322:人間七七四年
07/12/16 10:12:13 BkQTjsku
三分の一くらいはいつ離反してもおかしくないだろうな

323:人間七七四年
07/12/16 10:39:42 WMW2AeWD
景勝が最上へ侵攻せずに小山を抜いたら佐竹も決意を促されたろうな。
さすがにフタを開けたら上杉・小野寺・真田くらいしか味方がいないんじゃなぁ…義宣は景勝から最上は味方になるが伊達は味方になるとはいうものの油断できないと聞かされてたらしいし。
そしたら全然違うし!
すでに組織化してんだから動員力はかなりあったろう。じゃなきゃ常陸南東部のヤツらを惨殺した意味がない。


324:人間七七四年
07/12/16 11:36:14 c/tnozWD
いわゆる80万石の内約は以下のようになっている
佐竹義宣26万6000石(内、豊臣1万石・石田3千石・増田3千石)
佐竹義重5万石
佐竹義久6万石1千石
与力衆16万8800石
蘆名盛重4万8千石(与力大名)
岩城貞隆11万5千石(与力大名)
多賀谷宣家6万石(与力大名)
相馬義胤6万石(与力大名)
計82万8800石

佐竹家譜では義宣は1万の兵でもって出陣したとある
軍記ものなどでは2万となっている
実際、義宣と与力衆が動いたとして1万あたりが妥当だろうね
義重や義久も別に豊臣から領地を与えられていた大名だし
与力大名もあくまで独立した大名だから全員同じ動きをするとは考えられない

325:人間七七四年
07/12/16 14:49:48 3xB/ODB+
佐竹氏は同属の武田氏から養子を取りべきだったと愚考する

326:人間七七四年
07/12/16 14:55:47 1A+jekP4
>>320
本日の間違い探し

ちなみに東幹久が徳川秀忠の陣に参陣したとき数百騎しか連れていかなかったのは
関が原の大勢を見て火急に恭順の意を示さなければいけなかったための数だと思う。


327:人間七七四年
07/12/16 17:57:24 EwdJTGOi
>>326
未来人がいる

328:人間七七四年
07/12/16 18:00:10 EwdJTGOi
>>324
そうか、義久が数百騎だったのは、義宣から兵力を預けられたわけじゃなく、
自分の旗下を連れてったからだったのね。
6万石ならその数もうなずける。

329:人間七七四年
07/12/17 23:21:41 BvNVA+39
佐竹配下で徳川に通じていた者や、戦後常陸に残って優遇された勢力って
保険のために本家承認のもとで動いた東以外にはいないの?
まとまらない有象無象の割りに抜け駆けして東軍につくほど行動力のある人間がいない。

330:人間七七四年
07/12/18 19:39:31 XgQglnq2
>>329
常陸内に関していえばほとんど一門衆や譜代だから
ぬけがけはないでしょ。
大将が曖昧だったから仕方なく黙ってたと思う
実際は曖昧がほぼ正解だったわけだが。

でも過半数はすぐにでも東軍に参加する頭はあったでしょうね

331:人間七七四年
07/12/19 08:54:56 XOFxfVZm
確かに東軍についていたら安泰だったかといえば
そうでもないだろうな

332:人間七七四年
07/12/19 09:55:32 vvbFBWOQ
>>326
Soi!

333:人間七七四年
07/12/19 12:12:18 LvXa5drS
佐竹一党80万石に加増する土地なんてないもんな。難癖つけられて改易がオチ

334:人間七七四年
07/12/21 10:30:42 f5FH8BhK
常陸じゃ江戸危ないもんな

335:たられば君
07/12/21 10:38:39 ToqviJfc
常陸で東幹久とは上手いなあ。

336:人間七七四年
07/12/21 12:51:37 pHezM6Ba
えっ!常陸出身なの?

337:人間七七四年
07/12/21 22:07:57 R9nB26Lz
>>334
まあ、家保がびびるのはわからんでもないけど、
関ヶ原みたいな大事にまったくうごけない、
一門で固めておいて実は役立たずの烏合の衆、が
54万石時代の佐竹の実態だからなあ。

338:人間七七四年
07/12/22 06:15:42 NYHppbaB
>>337
動けない、というよりも
当時10年の状況から名門の家名存続もかかってる中
趨勢も読みきれない状況下の最前線で両軍から声をかけられて
自家の行動が引き金になりかねない場合、
軽々しく動けるほうがおかしいと俺は思うぞ…

「常陸で」存続しようと思ったら
「徳川方について手柄を立てない」or「上杉方について徳川軍を撃破する」
しかないわけで

339:人間七七四年
07/12/22 09:46:07 +zL0OMhz
4万石の佐野、12万石の里見ですら改易になった事を思うと
徳川の本拠地が江戸(関東)の時点で
西軍勝利以外は常陸での存続は不可能な気がする


340:人間七七四年
07/12/22 14:27:35 ZGLRVx6+
そう思うよ、家康が関東に移って来ず東海が本拠なら話は別だけど
仮に東軍の積極的に参加してももしや出羽とか・・・石高は増えても

341:人間七七四年
07/12/22 14:35:21 Vl2X2iH7
>>338
軽々しく動けなくて、戦後損をしたら、
それは馬鹿とかいうものではありませぬか?
動かなかったのに理由があるのはいい、
だけど、理由があろうがなかろうが、負けは負け。
負けた以上、評価は出来ない。
負けても評価される戦はあるけど、
何もしなくて負けたのでは評価はされないです。

342:人間七七四年
07/12/22 15:58:58 IBqkW1gL
それはだね、直江兼続が最上義光は西軍になると過信してたんだよ。だけど秀次に連座して娘が殺されて以来すっかり家康に篭絡されてた。
当初の予定では最上を仲間につけて上杉が南下し佐竹が側面から討つ挟撃策だった。
だが実際に起きたのは最上義光の背信。
その為に背後の憂いを除く為に上杉の山形城侵攻が開始され完全に予定が狂った。
つまり直江兼続の読みが甘かった。
これでは佐竹は急遽方針変更せざるおえない。ただ若き義宣の野望は評価したい。
また義重の保険もうまくいった。
天下を狙いつつ保険もかけた動きは見事という他ない。
また最上義光が直江を信じこませた手腕で東国の乱を牽制。関ヶ原の勝利を呼び込み家康から激賞された。

343:人間七七四年
07/12/22 18:00:22 me0KEk3Z
その時のアホ宗は白石2万石しか掠め取れませんですたw
しかたないんで南部領で反乱をさせたらモロバレですたwww

義光は上杉追撃・庄内地方・由利地域・小野寺本拠横手城を落城させてしまう天才ぶり。


344:人間七七四年
07/12/22 18:09:42 NYHppbaB
>>341
戦後得をする選択肢がいかほどあったとお考えか?
宝くじの値段が一枚10万円なら連番で買う奴がどこにいる?

徳川からは対上杉の先鋒の意味で誘われていたのだから
動いて上杉を撃破→戦後論功、領地替えで石高増→場合により(高確率)難癖つけられ改易
徳川につくが動かない→先鋒なのに手柄なし→そのまま石高減ないし領地替え

上杉方について徳川軍を撃破→
小山に在陣する10万近く(誇張としても8万はくだらないはず)に2万で突撃???
上杉は最上戦で加勢に来れない&伊達が小高から乱入してくるのは必死、
本隊が敗走したら即お家断絶確定。狙うとしたら小山の退き口くらい

結局、得する選択肢のリスクが源氏の嫡流という立場上超ハイレベルすぎる。
その中で損は少ない方の形で収めたと思うが…

と長々と書いてて気付いたが、341氏はもしかして
佐竹の立ち回りの話じゃなくて、戦の話がしたかったのだろうか…?

345:人間七七四年
07/12/26 09:38:42 4S2n12o5
なぜココが過疎る・・・・

346:人間七七四年
07/12/26 10:32:11 kYl5MXrN
>>345
常陸の最強武将 佐竹 鬼 義重
スレリンク(sengoku板)


347:人間七七四年
07/12/26 10:52:55 PzEKQBuw
芦名義広14歳が自爆行為をやらなければ…当初に決めた佐竹プラン通りにしてれば田村滅亡→会津の地で政宗挟撃され退路なく敗死という完璧な作戦だった事実。

348:人間七七四年
07/12/26 14:24:47 gVikg70l
>>346
スレタイ見て嫌な予感はしたが、ひどい有様だな向こう…

349:人間七七四年
07/12/26 15:16:06 kYl5MXrN
>>348
こちらはマターリやりましょう。

350:人間七七四年
07/12/27 09:38:00 QjAHWWac
350get!

351:人間七七四年
07/12/29 08:24:55 SmNApcHQ
南北朝時代から南奥羽と関東を見てると、この地がカオスなのがよく分かる
戦国時代になって近代化とか厳しいよな、そりゃ

352:人間七七四年
07/12/29 11:04:15 laNu0+SY
清和源氏嫡流age

353:人間七七四年
07/12/29 12:54:23 oaMvOsPp
上杉に乗っ取られてるから認めない。

354:人間七七四年
07/12/29 13:17:37 3hBVxK73
>>353
上杉にのっとられてたら関東管領受けてたでしょうに

355:人間七七四年
07/12/30 08:11:13 x3cF+YI4
348>
いや、本当ヒドイよ。
誰か援軍頼むよ。

356:人間七七四年
07/12/30 11:51:58 7V0GZA29
>>353
乗っ取られる?捏造乙

357:奇矯屋onぷらっと ◆/6/o/w/o/6
07/12/30 18:49:06 omvzCBCi
URLリンク(www2.harimaya.com)

あながち間違ってもいない。

358:人間七七四年
07/12/30 23:49:23 g66U4Tzk
女系で佐竹の血が入ってるんだから乗っ取りでは無いだろ

359:人間七七四年
08/01/01 23:15:03 ZaG1ak2o
常陸上杉家?

360:人間七七四年
08/01/02 12:14:41 zphFyIB5
こっちがいい。某スレで可能性の一つを示しただけで客扱い。もうイカネ。

361:人間七七四年
08/01/02 13:57:04 +bYvb1mb
佐竹は善戦しても、結果に恵まれない

362:人間七七四年
08/01/02 14:33:29 IjGDYoK1
そうですな

363:人間七七四年
08/01/04 09:50:14 s9asPVSw
義重は優秀なのに、自分から苦労をつくっちゃうんだよな

364:人間七七四年
08/01/04 10:01:38 I2Mojq4C
もし鬼義重がいなければ秀吉が小田原にきた時には北条はすでに南陸奥まで支配下に組み込んでいただろう。
なんせ宇都宮・結城・佐竹連合が成立しないから楽勝で併呑し福島県弱小豪族は簡単に北条の軍門に降ってる。


365:人間七七四年
08/01/04 16:13:24 FLu2OgEl
うわ、来ちゃったよ…

366:人間七七四年
08/01/05 09:28:21 RdK2UKGc
守護大名のまま毅然とした強さをもった佐竹家はすばらしい

367:人間七七四年
08/01/05 23:54:57 KF2p0icO
>>360
客扱い??

368:人間七七四年
08/01/06 13:27:45 jn5CzSUv
>360
もしかして、鬼義重スレ?
あそこは、荒らし場になってしまっている

369:奇矯屋onぷらっと ◆/6/o/w/o/6
08/01/06 17:00:54 bnEUtUvT
きっちり使い分けすりゃええやん。

370:人間七七四年
08/01/07 09:25:31 NQThZeTx
佐竹こそ名門中の名門!

371:人間七七四年
08/01/07 09:40:16 2JOHxvcl
ここは常陸と出羽の田舎もんの巣窟ですか?
出羽はあれだが、ひとまず置いておいて
常陸のカッペにお願い

これ以上汚職議員を当選させないでください
視野を広げてください
あなたたちの生活にプラスになるからって他の国民がマイナスになるってのはお門違いだと思いませんか?

これからは分をわきまえて、首都東京のためにせっせと奉仕しなさい

372:人間七七四年
08/01/07 14:07:22 AaSm2j1v
征夷大将軍位ならば源氏、朝廷内叙官ならば藤原氏が有利とかいう話がある。
秀吉は源氏ではなかったから、藤原氏から「臣」姓をもらって「豊臣」となり関白位をもらった。
家康は新田系の源氏を名乗り、征夷大将軍位を拝命した。

佐竹は双方とも可能なのか?

373:人間七七四年
08/01/07 19:10:02 ISZM7FSu
どこぞは住人のほうのレベルもアレだよ。信者っぽいのもいるし。
マッタリいこう。

374:人間七七四年
08/01/07 20:57:25 3G5NyMMr
>>372
源氏として扱われるでしょう、家名的に

375:人間七七四年
08/01/09 07:59:03 B2W9VTwC
あっちは荒れまくってるけど、こっちは過疎ってるぞ
もっと、佐竹氏について熱く語れよ
グチってばっかいないでさー

376:人間七七四年
08/01/09 09:39:52 Tb231EWK
佐竹と上杉は仲良くしましょう

377:人間七七四年
08/01/09 22:56:22 BxWqpIQ9
>>375
そうだな。
多分、あんたいい人だ。

378:人間七七四年
08/01/11 10:40:47 EMijoF0G
長尾景基の娘が、上杉頼成の正室となって男子を四人産み、そのうち藤景と藤明が
長尾家へ養子に行って、佐貫長尾家として続いた。
上杉頼成の兄・上杉憲房の玄孫が、佐竹家婿養子となった佐竹義人である。

379:人間七七四年
08/01/11 17:42:00 uw5mSjGs
佐竹こそ名門中の名門

380:人間七七四年
08/01/11 23:11:13 yHG8aPvR
書籍でもネットでも佐竹は誤認だらけ

381:人間七七四年
08/01/11 23:56:53 i9rRl46e
誤認とはどういう意味か?

382:人間七七四年
08/01/12 01:01:34 qOPlVZGA
>>380
お前の誤認を棚に上げておいて良く言うよw

383:奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
08/01/12 01:35:47 UhJnaGB7
>>378
落ち着け。その書き込みでは意味がわからんぞ。

384:人間七七四年
08/01/12 04:17:25 L3yjxmYU
>>372
そもそも実力が無いからどっちも無理

385:人間七七四年
08/01/12 06:10:06 YYwAcfFN
アホ宗は
すっこんでろ

386:人間七七四年
08/01/12 11:34:37 Ddv/dS6f
佐竹軍の統率力>>>>>伊達軍の統率力

387:人間七七四年
08/01/13 00:14:00 dH4uwtsu
伊達創価信者が無効のスレで暴れてるなw

388:人間七七四年
08/01/13 00:49:04 kGx6dJAg
アホ宗は単なるアホ

389:人間七七四年
08/01/13 00:50:37 kGx6dJAg
眼帯野郎は
すっこんでろ

390:人間七七四年
08/01/13 12:26:13 SGbsW+ev
誰か、名家佐竹氏対伊達アホ宗のスレ立ててやれよ

391:人間七七四年
08/01/13 13:02:12 TrQ7OufD
それでなくても過疎ってるのに何故立てる必要がある?
むしろ一つに統合するべき

392:人間七七四年
08/01/13 13:32:33 /gtOsZca
佐竹家の末裔:秋田市長
伊達家の末裔:創価幹部(笑)

393:人間七七四年
08/01/14 12:59:33 u9y8RGUn
佐竹は秋田に、良い形で根付いてるね

394:人間七七四年
08/01/14 15:40:52 lwJRYsKB
>>393
少なくとも佐竹の末裔は謙虚で慎み深い。
嘗て千秋公園では佐竹家の家紋入りの菓子を売っていたみたいだが、佐竹宗家より「代々の家紋を"そういう形"で使わないで欲しい」と申し入れがあって売るのを止めたらしい。

「家紋を商標登録し、使用するなら末裔にいくら支払え」なんて守銭奴顔負けのどこぞの下品な大名末裔とは「家柄・家格、気位・品位」においてレベルが違うよ。


395:斎藤越後目
08/01/14 17:49:28 o3StFXBm
けち臭いのは全く同じじゃない
そういうの目糞鼻糞って言うのだよ
上杉家なんて伊達が上杉の家紋使って金儲けしてさえ相手にしてないよ
本物の貴人はそういうものさ

396:人間七七四年
08/01/14 19:46:45 lwJRYsKB
>>395
家紋を商売道具まがいに使用されていることに忸怩たるものを感じたからだろ。
越後上杉の血すら入っていない上杉の名と家紋を使用している長尾の末裔ごときが「本物の貴人」とは笑止千万、目糞はあんたのほうだ控えろw

397:人間七七四年
08/01/14 20:28:39 EN8WUBrB
ここも荒れてきたな
最初は平和だったのに

398:人間七七四年
08/01/14 20:46:43 XeuQTizv
>>395
つまり上杉家は韓国朝鮮中国のATMと化してる現代日本に比するというわけだ

399:斎藤越後目
08/01/14 22:39:45 o3StFXBm
なにを馬鹿な事を言っているのだね
米沢上杉家は正式に幕府から認められた正真正銘の山内上杉宗家ですよ
家格で言ったら佐竹や伊達ごとき田舎の土豪など比較になりません
佐竹など臣下に等しい存在でしょう

400:奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
08/01/14 23:39:42 WwuwLdyX
なあ、スレッド使い分けようや。

401:人間七七四年
08/01/14 23:43:21 XeuQTizv
家格で言ったら斯波氏である最上の遥か後方だぞ>上杉
上杉の御先祖様は浪岡の御先祖様にフルボッコにされたり
尊氏に敵対して追放されたりして、基氏に拾って貰ってよかったねって位情け無いぞ

402:人間七七四年
08/01/15 03:58:59 t/qMEjqg
眼帯やろう 池田アホ宗は
すっこんでろ!

403:人間七七四年
08/01/15 09:21:41 9H6iGUuG
君がすっこみたまえ。
佐竹氏のスレッドにくだらない比較荒らしを持ち込むな。

404:人間七七四年
08/01/15 09:30:52 4YOo8Uqw
>>395は佐竹と上杉の仲を裂こうとする工作員だぞ
相手にするなよ

405:人間七七四年
08/01/15 09:43:30 YwhXPau/
義昭が家督を譲ったのも本人が常陸統一に専念するためか?
あと5年あれば統一出来たか?
で、統一後、戦国大名に転身して義重登場
なんて、妄想してる

406:斎藤越後目
08/01/15 10:08:41 6NeUjQLx
佐竹の家格は昔から低い
佐竹が有数の名門と言うのは明らかな間違い
河内源氏が天下を取ったから「うちも河内源氏の末裔だ」と勝手に便乗しているだけで
頼朝も尊氏も遠縁の佐竹など一門とは見ていない
むしろ頼朝は同じ旗を使っているのを不快に思い変えさせたぐらいだ
官職も決して高くはないし
佐竹はあくまで自称名門である

>>401
斯波より上杉の家格が低いのと佐竹は全く関係ないでしょう
他人の褌で相撲を取るような情けない真似は止めなさい

407:奥七郡の人
08/01/15 11:32:59 mntSElDe
>>405
義重に家督を譲っただけでなく
義昭後室の大掾慶幹の娘との間に出来た子を大掾氏の世継ぎにする筈だったが
急遽、弟の義昌を大掾氏の世継ぎに指名している事から見て
恐らく1年ぐらい前から既に病に臥すようになっていたのではないかと思う
義昭は敵対勢力を次々降し佐竹宗家の直轄地に組み込んで力を蓄え戦国大名化しつつあった
常陸では小田氏以外を傘下に収め、小田領も北半分を自領に取り込んで追い詰めていた
一説には1万8千も動員できるようになっていたらしい(下野国誌、前佐竹氏譜など)
しかし、義昭の若死にで一気に瓦解し元の奥七郡10数万石に後退・・・
佐竹の戦国史においては義昭の早死には非常な痛手だね
でも、義昭の努力により江戸氏の反抗は治まり
敵対していた宇都宮氏・岩城氏は親密な同盟者となり、南陸奥では寺山一帯を支配下に置いて南郷攻略の足がかりを築いた
義昭の功績はかなり大きなものだよ




408:奥七郡の人
08/01/15 11:47:19 mntSElDe
>>406
確かに佐竹は義光の三男の家系である武田よりも家格が低い・・・
江戸時代にできた風説である「源氏じゃないと将軍になれない」に便乗して
「将軍になれる家」などと謳ってたりするし
江戸時代に全ての家でそういった御家自慢伝説をでっち上げたが
佐竹もその宣伝によるものが大きいのは事実だと思う

409:人間七七四年
08/01/15 17:05:13 yv5EvKvB
源氏じゃないと将軍になれない>>どちらかというと「ジンクス」に近いものか。

家格自身、「石高」で見られている部分もあるだろうが、佐竹の江戸時代の石高は実質40万石クラスと言われているとか。
名目は20万石前後だったけれど。

ネットで佐竹の支配はろくでもなかったというのを見かけるが、それをよくみると「共産主義的ルサンチマン」な香りを漂わせているのがしばしば。
本当にろくでもなかったら、東北を代表するような様々な行事や文化なんてもっと少なかった気がする。
たとえば某半島。

410:人間七七四年
08/01/15 21:03:24 aa4RYFvj
>>399
なにを馬鹿な事を言っているのだねw
景勝や米沢の上杉を僭称している連中に山内上杉氏の血が一滴でも入っているのか?名前と家紋を譲り受けただけの所詮越後守護代平姓長尾の田舎侍でニセ上杉だよ。
源氏の名門である足利・斯波・最上や佐竹とは家格が違いすぎる伊達と同程度の小賢しい成り上がり者w


>>408
でたらめを言うなよ。武田より佐竹のほうが家格は上だよ。佐竹氏の祖源義業は武田氏の祖である源義清の兄、義業は新羅三郎義光の嫡男であったが、義光の兄、加茂二郎義綱に後継ぎがいないため義綱を継ぎ、そのために義清が義光を継いだ。
義綱は義光の兄であり、義業もまた義清の兄、故に庶嫡の順は明白で武田が傍流で家格は下だ。義清親子は素行の悪さを常陸の吉田氏に訴えられ、甲斐に飛ばされた家柄だ。

411:人間七七四年
08/01/15 21:22:26 YwhXPau/
そうなんよ!
目立たないけど、義昭はかなりの実力者
鬼より宜より上かもね

412:人間七七四年
08/01/15 23:15:01 KnsADZlb
上杉&佐竹を陥れる伊達厨の策略に乗るなよ…

413:人間七七四年
08/01/15 23:45:02 w+iPZBwF
義昭のほうが堅実だったというか戦略に安定感があるね。
義重は謙信との関係を見ても少し癖のある人物に思える。


414:人間七七四年
08/01/16 00:32:45 WUExCWCx
謙信にとって痛かった出来事

第二次国府台合戦(太田何やってんだよ・・・)
佐竹義昭の若死に(40前に死ぬなよ・・・)
箕輪落城(これは俺も悪かった・・・)

由良が裏切ったのって義昭が死んだ翌年だったのな

415:人間七七四年
08/01/16 00:36:04 WUExCWCx
>>410
でも長尾が鎌倉権五郎景政の末裔だったら
ある意味上杉よりも格上なのでは
あと吉良から貰った上杉綱憲は扇谷上杉の女系子孫だって聞いた事が有る

416:人間七七四年
08/01/16 07:05:42 utbQPI3A
平和だったこのレスも伊達厨に侵食されてきたな


417:人間七七四年
08/01/16 09:31:07 oE5mE3IQ
>>410
オレは佐竹信者だが、おまえさんは謀略に乗りすぎだと思うぞ
佐竹スレ民と上杉スレ民ををケンカさせたがる奴の存在に気づいてくれ

418:人間七七四年
08/01/16 09:44:15 thWaOahX
そいつ自身が工作員だから。アホは放置の方向で

419:人間七七四年
08/01/16 09:49:24 gNEFyS6k
>>410
佐竹信者とかいうカルトじみた言い方やめろ。

して、「上杉憲政は景虎の嫡男・道満丸とともに和睦の交渉のため景勝のもとに向かったが、二人は景勝方の武士によって陣所で討たれた。」
事ほど左様に元関東管領の上杉のご隠居を殺したのは、家督譲渡を悪用して成り上がった長尾一味だ。つまりインチキ上杉の連中だ。
その逆徒を「源氏の名前を買って成り上がったトクガワ幕府公認の山内上杉の正統な後継者」だとは呆れ果てた物言いだ。
「山内上杉家」に対する侮辱冒涜の以外のなにものでもない。

そんなデタラメまで持ち出して源氏の名門佐竹家を貶めたいのかと呆れ果てるよ。

420:人間七七四年
08/01/16 10:13:57 oE5mE3IQ
>>419
誰へのレスなのかイマイチわからん

421:人間七七四年
08/01/16 10:35:03 pB0axfYm
長尾氏の出自をはっきりさせれば済む問題だが・・・

ここでやる問題ではないな

422:人間七七四年
08/01/16 11:00:42 2sLSUmVn
410 :人間七七四年:2008/01/15(火) 21:03:24 ID:aa4RYFvj
>>399
なにを馬鹿な事を言っているのだねw
景勝や米沢の上杉を僭称している連中に山内上杉氏の血が一滴でも入っているのか?名前と家紋を譲り受けただけの所詮越後守護代平姓長尾の田舎侍でニセ上杉だよ。
源氏の名門である足利・斯波・最上や佐竹とは家格が違いすぎる伊達と同程度の小賢しい成り上がり者w


>>408
でたらめを言うなよ。武田より佐竹のほうが家格は上だよ。佐竹氏の祖源義業は武田氏の祖である源義清の兄、義業は新羅三郎義光の嫡男であったが、義光の兄、加茂二郎義綱に後継ぎがいないため義綱を継ぎ、そのために義清が義光を継いだ。
義綱は義光の兄であり、義業もまた義清の兄、故に庶嫡の順は明白で武田が傍流で家格は下だ。義清親子は素行の悪さを常陸の吉田氏に訴えられ、甲斐に飛ばされた家柄だ。

639 :人間七七四年:2008/01/15(火) 21:56:55 ID:aa4RYFvj
人取橋の合戦で小野崎義昌を暗殺したのは伊達の忍だろ。



憐れ伊達厨w
上杉にも佐竹にも勝てない伊達厨が必死に工作しているだけだから相手にしなくていいよ
陰でコソコソやるあたりはさすが政宗信者だけあるw


423:人間七七四年
08/01/16 14:54:48 sc166L+w
ちなみに大船駅に隣接して玉縄城跡とともに長尾台という地名があるがこれが鎌倉郡長尾郷と呼ばれた守護代長尾氏の祖先を祭る場所だったらしい。
ここにお参りに行ってた隙をついて足利成氏が関東管領を討ち挙兵したとか。
長尾氏が上杉氏を支えてきた歴史も忘れんでくれ。

424:人間七七四年
08/01/16 18:45:23 PHd5XTr7
江戸氏の反抗が収まったのってなんで?
独立と水戸の支配を許したんだっけ?
そもそも江戸氏のルーツと佐竹家の関係がよくわからん

425:人間七七四年
08/01/16 21:38:39 il+hAryA
江戸氏は確か那珂氏(藤原系太田氏)の末裔で小野崎氏と同属だろ。
URLリンク(www.harimaya.com)

426:人間七七四年
08/01/16 21:43:57 2WfbKqHF
なんという伊達信者の工作・・・・

427:人間七七四年
08/01/16 21:55:46 il+hAryA
>>422
そういうお前が家紋で金儲けをしているクソ宗信者だろw

428:人間七七四年
08/01/16 22:16:02 60T0SqDO
>>422
無理すんな(笑)誰がどう見たってお前が伊達厨兼上杉厨でしょw

429:人間七七四年
08/01/16 22:55:28 2WfbKqHF
>>427>>428>>410

伊達の離間策はバレバレですねw

430:人間七七四年
08/01/17 09:33:14 AUQzVht3
>>422>>426>>429

sageに必死な同一伊達厨の攪乱自演工作バレバレですねwww

431:人間七七四年
08/01/17 09:50:30 ZXcsqND8
だからここでやるなおまいら。場を弁えろよ。
鬼スレや家紋商標スレがあるんだから。

432:人間七七四年
08/01/17 14:24:29 AUQzVht3
斎藤越後目とかいう糞コテ=w伊達厨が七七四で荒らしを開始した件www

433:人間七七四年
08/01/17 19:23:54 JqVlhENJ
アホ伊達厨菌が撒き散らされたね
ここも戦場と化す


434:人間七七四年
08/01/17 22:06:49 ZXcsqND8
そういえば武者家に詳しい人いませんか?

435:人間七七四年
08/01/18 09:36:10 FDa/odf4
創価大名伊達氏
スレリンク(warhis板)


436:人間七七四年
08/01/18 09:43:57 5iqceJix
>>433
お前が一人で戦ってろよw(´_ゝ`)

437:人間七七四年
08/01/19 08:29:45 d8nvzKun
うるせー馬鹿野郎

438:人間七七四年
08/01/19 18:44:58 ZCGIS/sW
>>435
創価大名伊達www

439:人間七七四年
08/01/19 21:37:50 9uxVG09m
アホ宗厨房は
馬鹿宗板へ
すっこんでろ!

440:人間七七四年
08/01/20 20:38:33 gZWEDAyC
大名→市長への転生は素晴らしい

441:人間七七四年
08/01/20 23:52:58 4zSwcNV7
大名→知藩事→県知事

442:人間七七四年
08/01/23 04:31:41 b1rf9bT9
佐竹は武田や上杉より家格は下。もちろん武力は遥か下。

443:人間七七四年
08/01/23 10:41:24 YnPybORC
>>442
キチガイ乙

444:人間七七四年
08/01/23 17:33:10 m3jbL5+F
伊達厨阿鼻叫喚www

445:人間七七四年
08/01/23 20:55:44 Q0n696ps
そろそろ実験してみていい?

446:人間七七四年
08/01/24 12:31:53 /oFZSFQb
厨って言葉使っているヤツはみんな同一人物だよ

447:人間七七四年
08/01/26 21:17:37 af/WtBc1
それはないっしょw

448:人間七七四年
08/01/29 10:09:43 k6AQ1nSD
佐竹義重の外交は、伊達植宗のように見事だった

449:人間七七四年
08/01/29 21:56:23 dj1gPnqQ
実験?

450:人間七七四年
08/02/01 10:11:25 H92+uA3q
450get

451:人間七七四年
08/02/02 22:39:02 17yI+OvN
真壁氏幹・太田資正は関東トップクラスの猛者

452:人間七七四年
08/02/04 09:47:48 qxJ3X/57
佐野昌綱は?

453:人間七七四年
08/02/06 02:02:33 jQnLoPF3
佐竹12万石(笑)

454:人間七七四年
08/02/06 09:58:11 OA8OK77U
>>453
キチガイ乙

455:人間七七四年
08/02/06 11:24:26 ZGmSoAL4
常陸一国をどうみたら12万石に見えるんだ・・・

456:人間七七四年
08/02/06 13:21:56 3fNSlkxU
佐竹は裏切り者

457:奥七郡の人
08/02/06 13:43:43 drjlvOI3
常陸一国が何十万石あっても佐竹領じゃないからね…

458:人間七七四年
08/02/06 22:04:45 o/ezx/ln
>>453>>457
伊達厨は本当に意味不明な発言ばかりだなw


459:奥七郡の人
08/02/07 18:39:31 nTAW56nc
川又に常陸佐竹氏の歴史とか言う本置いてあったけど相変わらず酷い内容

460:人間七七四年
08/02/08 09:39:35 zV1osRZv
秋田転封は佐竹家にとって、さほど悪い措置では無かった

461:人間七七四年
08/02/08 10:11:53 5V8F+9ti
やっぱ先祖伝来の土地を離れるのは嫌なもんだよ
なにしろ自分の歴史がさっぱりわからなくなる
自分なりにネットで調べてようやく秋田以前はどの辺にいたのかわかった
しかもうちは明治になって秋田も離れているし今後の子孫は秋田にいたことすらわからなくなりそう

462:奥七郡の人
08/02/08 11:47:34 UKFiyuSC
常陸にずっと住んでおりますが先祖の事よく分かりません
和田昭為から貰った書状から450年前には今の土地にいたのは間違いないようだけど
菩提寺は何度も焼けてるから過去帳も残ってないし
何より茨城(水戸藩領)では光圀と斉昭によって寺が何千も潰されたから良く分からなくなってしまった

463:人間七七四年
08/02/08 12:15:17 OHBBPF7P
奥七郡って茨城県内の常陸太田周辺を指すの?
奥州の南端の七郡ってわけではないんでしょ?

464:人間七七四年
08/02/08 14:37:11 kB9SgvPY
那珂・久慈・佐都が各東西+多賀郡だよね
今の那珂川から北の茨城県北全域

465:人間七七四年
08/02/08 14:56:48 OHBBPF7P
やっぱりそうなんだ~。
ひょっとしたら俺ずっと勘違いしてきたのかとちょっと不安になったもんで。
じゃあとうぜん東白河郡棚倉町なんかは含まなくてOK?

466:人間七七四年
08/02/08 15:52:39 kB9SgvPY
東白川郡は南郷と呼ばれた地域でしょ
ついでに今の大子町は依上保と呼ばれ陸奥国だったとか

467:奥七郡の人
08/02/08 18:55:21 UKFiyuSC
奥七郡は
常陸北部の七郡、久慈東郡・久慈西郡・那珂西郡・那珂東郡・多珂郡・佐都東・佐都西
現在の常陸太田市・常陸大宮市・那珂市・日立市・高萩市・北茨城市・東海村一帯で大子町付近は含まない
東白河郡は陸奥国だから関係ありません
これが佐竹宗家の所領で豊臣時代までこの域を出ていない
ちなみに奥七郡内でも旧里美村は関が原で転封になるまでずっと岩城領でした
大子町付近は依上と呼ばれ陸奥国に属していた
室町時代に佐竹一族が支配していたが山入一揆の混乱の中で白河結城氏の手に渡りました
その後、佐竹義舜(義重の曽祖父)によって奪還され大子町も陸奥から常陸に編入された

468:人間七七四年
08/02/09 10:00:20 vGN5k2Tn
那珂郡にはひたちなか市、水戸市の旧飯富・国田・柳河村も含むよ
そういう意味ではオレも奥七郡の人…

469:奥七郡の人
08/02/09 23:55:58 SNzkO9BG
そういや那珂川北部は那珂湊まで那珂郡だったか
戦国時代はひたちなかの大半が江戸氏領だったから何となく茨城郡のイメージがある
何気に広いな那珂郡って

470:人間七七四年
08/02/10 00:07:08 /TcDvGSQ
茨城は平野ばかりなのでダダっぴろく感じる

471:人間七七四年
08/02/10 08:37:35 7FkxRTFp
生まれて18年奥七郡で育ちましたが
佐竹のことは全然知らなかった
歴史に興味ある奴でもないと茨城=水戸黄門なんだよね
就職で故郷を離れもう何年も経つけどもっと早く興味持ってれば
色々調べられたのかも

472:人間七七四年
08/02/10 14:48:56 Mj4hbvPR
>>470
それは茨城南部。佐竹は茨城北部の山裾付近。

473:人間七七四年
08/02/10 15:54:58 C6lVZx0t
ウチは田舎が秋田だが、佐竹氏の末裔が秋田市長ということもあって
秋田市周辺の観光アピール度は佐竹>>>安東

474:人間七七四年
08/02/11 12:34:36 gQVKurP0
佐竹は、羽後各地に一門を配置して中世的な体制を取った

475:人間七七四年
08/02/11 14:45:13 ztc7KvoF
>>474
元の体制が中世的だったっていうのもあるけど
新領での一揆対策も多分にあったと思う。
義宣はほんとは中央集権体制を取りたかったろうし。

ていうか各地に一門ないし譜代や外様を配置しない支配体制ってどんな体制なんだ??

476:人間七七四年
08/02/11 20:11:39 GSyVuqZu
水戸黄門的な悪代官が跋扈する官僚体制だろ

477:人間七七四年
08/02/11 21:59:48 PsQ8gndk
>>475
佐竹は藩内に、城をいくつも持ったからその意味では変わってるよな
まぁ、一国一城でない状態は、大大名なら度々あるけどね

478:人間七七四年
08/02/11 23:43:50 rWd4PpkD
水戸藩を見ると中央集権も善し悪しだと思う
地域の実情を無視した政策ばかりとったから農村は荒廃する一方
そして中央が混乱して藩自体の機能が停止してしまう
結局、郡ごとに配置された郷校が拠点となって動くようになった

479:人間七七四年
08/02/13 13:04:25 vKMN7s/L
>>453
佐竹義重は直轄領で40万石以上のはず。
佐竹義宣は惣無事令違反しないように年が明けるまで南奥へ援軍に行かずに我慢し放置した2ヶ月間で伊達に5万石くらい削られたが
年明け2月に徳川先鋒隊が北条攻めに出陣し秀吉が関東奥羽征伐に乗り出したら常陸一国統一を許可され義重三男の岩城や二階堂旧臣を寄騎につけられた。

480:人間七七四年
08/02/13 13:15:56 ZJhlFNes
>>479
最大で54万石なのに直轄領で40万石ってことはないのでは?

481:人間七七四年
08/02/13 13:17:09 Nxei3nCm
だよなあ
12万なわけない
本にも直江兼続30万石より多い所領をもつ大名は少なくて佐竹もその一つって書いてあるし

482:人間七七四年
08/02/13 13:46:35 7/VnFOK3
>>474-475
一門衆が多いと、直轄地が少なくて財政が苦しそうだな。
時代が下っていくと、整理していったのかな?


483:人間七七四年
08/02/13 21:04:15 VbvvKkMA
支藩ってあったような・・・・

484:人間七七四年
08/02/13 22:10:50 QG7xyqkV
>>481
何を読んだか知らないが、佐たけのことは置いておいて、
直江兼続が30万石と書いてある本は、とりあえず参考にしないほうがいいと思うw

485:奥七郡の人
08/02/14 00:09:20 0YlRaqe3
豊臣による小田原征伐時の石高は
佐竹義宣11万石
佐竹義重1万石
佐竹義久1万石
与力12万8800石
佐竹は当主義宣と隠居義重で12万石
義久は与力大名扱いなのか宗家家臣扱いなのかイマイチわからん…(調査中)
後は江戸、真壁、武茂、松野、茂木、梶原親子などその他大勢の与力衆が12万8800石

豊臣政権下では
佐竹義宣25万石
佐竹義重5万石
佐竹義久6万1千石
与力16万8800石
太閤蔵入1万石
石田三成3千石
増田長盛3千石
佐竹は18万石加増され30万石になった
その他与力大名を4家付けられた
葦名盛重4万5千石
岩城貞隆11万5千石
多賀谷宣家6万石?
相馬義胤6万石

それと佐竹が常陸一国支配した事は一度もない
豊臣から支配を許されたのは与力含めて常陸の四分の三ぐらいと下野・陸奥の数ヶ村
今で言う茨城県南地区はいくつかの大名に割り振られた
常陸54万石と言うのは誤りで佐竹54万が正しい

486:人間七七四年
08/02/14 00:42:48 sh+UqVsB
>>485
>その他与力大名を4家付けられた

佐竹家から入嗣してない相馬家も与力扱いだったんだ。
相馬は伊達憎しだったから、好都合だろうけど。

487:人間七七四年
08/02/14 10:43:03 t7rLtcJw
佐竹の支配が及ばなかったのは土浦・取手あたりか

488:人間七七四年
08/02/14 11:04:41 J+Of9PKA
実際には宇都宮や結城も支配下にあったんだが
宇都宮が改易され結城が家康の養子もらったからな。

489:人間七七四年
08/02/14 15:52:34 sPAodwFw
土浦は小田の勢力圏だから、滅亡後は佐竹の勢力圏でしょう
取手は下総

490:人間七七四年
08/02/14 18:23:42 5udbEpmf
>>488
宇都宮は下野における古河公方vs反古河公方派の戦いにおいて
義昭が北条氏康と義氏から要請され出陣したことで義昭の娘を娶るにいたるのだけど、
その後もずっと行動をともにしたとはいえないよ。
永禄九年閏八月に謙信を裏切って宇都宮氏は北条に転じているが、
これに対し佐竹が北条方になるのは永禄十年一月の話だよ。
また、天正五年にも宇都宮は佐竹が北条と対立している最中に北条に一味している。
宇都宮の改易と佐竹54万が定まるのは時期が違うでしょ。
結城も支配下でなかったからこそ家康から養子が行ったのであって、
しかもこのおかげで多賀谷重経がまた独立し三経を追放、宣家を迎え佐竹についた。
>>489
土浦は菅谷氏だよ。小田の没落後は菅谷、岡見、土岐氏らが北条について多賀谷と戦っている。
岡見氏は架空?の名将栗林義長で有名だね。
多賀谷重経は岡見の足高城を攻略するが、もう一つの岡見氏の拠点、牛久城で北条の援軍を得て多賀谷と戦っている。
小田原攻めで滅ぶと由良氏が入っている。
あとは敵対勢力ではないが下館城には水谷蟠竜斉がいて結城から独立し大名になっている。

491:奥七郡の人
08/02/14 23:37:48 0YlRaqe3
常陸の内、多賀郡・茨城郡・河内郡・新治郡・信太郡・筑波郡・真壁郡らの一部は佐竹領ではない
土浦は小田氏に従っていた菅谷氏が居城としていたが
天正18年に小田氏と共に没落し結城氏の持ち城となった
河内郡・新治郡・信太郡・筑波郡・真壁郡は佐竹、多賀谷、結城、水谷らの領地が入り乱れている
多賀郡の内、約2万5千石は岩城領で
茨城郡も約3万石は宇都宮領(宇都宮氏改易後は蒲生・浅野らが支配)

492:人間七七四年
08/02/15 03:09:22 xk7PH7JT
なんで佐竹だけそんなに厳しく分けたがるの?
上杉や伊達、北条とかみんなそんな細かい分け方して石高表示してねーじゃん。

493:人間七七四年
08/02/15 04:33:37 ZUI0xbXd
佐竹12万石は歴史通の常識です

494:人間七七四年
08/02/15 10:05:31 aElbsouO
伊達信者の妄想で12万石w

495:人間七七四年
08/02/15 14:43:23 TSFPnCpw
天正二年二月の土浦落城で、佐竹の勢力圏に入ったのかと思ったが、違うなら失礼しました

496:人間七七四年
08/02/15 14:46:56 TSFPnCpw
おっと失礼その年の二月に菅谷氏が回復してるね

497:人間七七四年
08/02/15 15:12:52 xk7PH7JT
>>479
ああぁそれなんかの本で読んだことある。
白河結城などを従属下にした最大版図の時はそんくらいあった。ついでに次男の葦名領を加えたら65万石以上とか・・・あぁもうそのときは義重でなく義宣時代だっけか?
政宗に削られたのが5万石くらいってのも正しい。


498:人間七七四年
08/02/15 17:26:59 cT1lZ6lt
伊達厨必死に細分化w
騎下に入ったやつらは親方様に従うのは当たり前。
そんなら上杉の北条や本庄や武田の小山田や穴山とかみんな細分化しろよwww

499:奥七郡の人
08/02/15 18:59:51 lEucxX2L
陸奥の佐竹領は3万石弱だから5万石削られる事は有り得ないかと…

500:人間七七四年
08/02/15 19:00:55 Q7cOO1/v
別におかしな意見でもないと思うが…

501:人間七七四年
08/02/15 19:05:51 Q7cOO1/v
あれ?500は>>498に対してね

502:人間七七四年
08/02/15 20:24:42 jkzRdOVC
相変わらず無茶苦茶な石高計算がまかり通ってるな。
本質的に好きな大名を理解したいと思うなら、
きちんとした認識はあってしかるべき。

まず太閤(文禄)検地以前以後に分けて考えるべし。
太閤検地以前は佐竹領は差出なので(どこの大名も大体差出だが)、
太閤以後と比べるとかなり少ないように見える。
天正十八年に佐竹領は約22万貫の朱印状を貰っており、
これは約25万石強となる(1貫あたり約1.2石)。
この25万石のうち、佐竹の旗本と東等で13万石、
その他与力などで13万石弱となる。
上のほうのレスで佐竹12万石とあるのは、この知行割で示された
義宣分11万石と義重分1万石合わせてのことなんだろう。
さてこの「与力」だが、これは別の言い方をすれば「佐竹家臣」のことだ。
適当に内訳を入れれば、江戸や大掾や太田梶原真壁茂木武茂
赤坂船尾車大塚山尾小田宍戸大山石塚小場戸村長倉等々の分が
ここに含まれる。この名前には本来「佐竹家臣」と呼び難いものまで
含まれており、実際にはこの連中の全てが佐竹に対して軍役の義務を
負っていたわけではないのだが、歴史的には「見なし軍役義務あり」と
して十分言っていい状態ではあった。
つまり太閤検地以前は佐竹は25万石といっていい。

そいでこの頃この25万石の佐竹がどれくらいの兵数を動員できたか、
ということだが、『国典類抄』に元亀二年(実際には沼尻合戦のときの
もの)の北条との対陣での鉄砲数があり、これを佐竹旗本と上記の
「佐竹家臣」の鉄砲数を合わせると約5500挺となる。試しに25万を
5500で割ってみると約45、つまり45石につき1人の動員をしている
という計算になる。これは豊臣政権以前の動員数としては極めて
有り得る数字で、『国典類抄』の数は鉄砲数ではなく、兵数を
表していると見てもよさそうだ。


503:人間七七四年
08/02/15 20:27:41 jkzRdOVC
さて文禄になって佐竹領はきちんと縄打ちされ、
改めて佐竹は54万石強の朱印状を貰う。
ここでおかしいのは、前回の天正の知行割から文禄の知行割まで、
佐竹には領地自体(つまり面積)は増えていないにも関わらず、
知行が加増されているということ(つまり領民から搾り取る量が増えた)。
その増加分はあまり家臣に割り振られることはなく、義宣と義重と義久に
分け与えられた。ちなみに佐竹領の「石高」は知行高であり年貢高では
あるが、収穫高ではない(おそらく少なくとも太閤検地後、日本全国で、
石高は年貢高であって、収穫高ではない)。
だからよく実際の石高は何万石だとか言われるが、そんなものには
何の意味もない。大名のランクを表す数字は知行高(=石高)しか
有り得ず、領内の収穫がどれくらいあろうと(あるいは徳川政権に
なってからどれだけ収奪しようと)大名の格付けには無意味。

また白川や葦名、宇都宮、結城、岩城、二階堂などは
佐竹と全く同格であって、佐竹の軍役に従ったこともなければ、
「支配下」にあったこともない(江戸は元佐竹の執権であり、
大掾は常陸守護佐竹義昭のときに一時的に「家臣化」されたことも
あるので歴史的に豊臣政権のもとで家臣化(領地的統合)される
必然性はあった)。
だから葦名や白川や宇都宮の「石高」を佐竹の「石高」に含めるのは
これまた全くのナンセンス。


504:人間七七四年
08/02/15 21:08:42 twSbMn09
一貫あたり何石かもまちまちで、場合によっては2~3倍で見積もることある。

505:人間七七四年
08/02/15 21:45:45 cT1lZ6lt
養子を押し付けた白河結城や岩城に芦名は騎下に組み込まれたと解釈しちゃならんのか?


506:奥七郡の人
08/02/15 23:53:30 lEucxX2L
この時代は支配体制が曖昧だから江戸時代のような感覚で一概に誰の配下だとは言えない
見方を変えるべきだよ
国人達でさえそうだから大名なら尚更
時期によって状況が違うから明確にするには区切って考えるしかない

507:奇矯屋onぷらっと ◆JUU/.JUU/.
08/02/15 23:57:59 WhlhHMo4
>>502-503
面白い。というか久しぶりにちゃんとした流れの論証を見た。

508:人間七七四年
08/02/16 00:52:11 OmLNnBzx
ついでに>>498が言うように上杉や武田。北条の細分化もお願い。
北条は小田原衆は直轄部隊だとして遠山や太田、上田、成田とかは厳密に精査したら違うよな。
玉縄衆は宗家家臣としていいのだろうか?

509:人間七七四年
08/02/16 01:04:07 O7aMTu2K
藤田も違うだろうな。氏邦は婿として入ったが正確にいうと藤田重利→藤田重連→藤田信吉改め重信と言う流れで一定の独自性と影響力はあった。
>>508
間宮林蔵で有名な玉縄領の間宮氏も違うだろ。

510:人間七七四年
08/02/16 08:34:53 O743e9eB
>>505
単純すぎる解釈

511:人間七七四年
08/02/16 10:17:45 kyvYbwA5
他大名は自分のスレでやれよ、何故わざわざ佐竹スレでやる

512:人間七七四年
08/02/16 11:36:15 M+JDlzMx
どこまでを、ある大名の家臣、与力、従属などと定義づけるか。
以下は大体義重治世でのはなし。

1。佐竹の場合、まず佐竹宗家に「合力(上納金=税)」を払っているのは
直下の家臣(近進、旗本)と見なしていい。現代の感覚で言えば
佐竹の社員のようなもの。これに属するのは和田昭為、
真崎重宗、小貫頼安、車斯忠、八木清次郎、中田駿河守等々。

A。佐竹御親類中(東北南家)。この三家は佐竹宗家の分身。
ゆえに彼等の行動には常に宗家の干渉が入り込むが、
同時に宗家に対して一定の意見も持ち得ていたと思われる。
またある程度独自の裁量を許されていたが、
最終的な軍事指揮権、外交権は佐竹宗家が持っていた。
彼等自身の「本領」と家臣を持ち、そこでは宗家が旗本にしていたように
「合力」を納めさせていた。彼等の所領のうち、本領に関する部分は、
宗家の干渉はとどかなかったと思われるが、新しく宛がわれた土地
(東領の南郷など)は宗家の干渉が入り得た。

2。一門、外様。大山、石塚、小場、戸村、山尾、長倉、松野、
茂木、船尾、赤坂、真壁、太田、梶原、宍戸、生瀬一揆等々。
彼等自身の本領を持ち、その内部に宗家の干渉は基本とどかない。
所謂佐竹と誓詞を取り交わし、主従関係を維持している家々。
現代の感覚なら、言わば佐竹の子会社。
軍役など役務には従わなければならないが、独自の軍事指揮権も持つ。
ゆえに彼等同士で戦争したりすることもある。
こうした争いに対して、宗家は擬制的な血縁関係や常陸守護を
拠り所としての最終的な裁判権しか持ち得なかった。


513:人間七七四年
08/02/16 11:38:20 M+JDlzMx
3。洞中最外郭に位置する家々。江戸、大掾、多賀谷など。
佐竹宗家はこれらの家々に対して軍役を要求することは不可能。
宗家は彼等に常陸守護として(つまり室町権力を盾にして)、
あるいは歴史的な経緯を持って、洞中としての繋がりを維持していた。
もちろん独自の軍事指揮権、外交権を持つ。
大まかな区分けで言えば「佐竹家臣」とは言いがたいが、
外からみると「佐竹洞中(分国)」ではある。

4。対北条、対伊達という構図において、佐竹と道を同じくする家々。
葦名、岩瀬、白川、石川、岩城、小田、宇都宮、結城、小山、佐野等々。
佐竹とこれらの家々は実力はともかく、儀礼上全くの同格であって、
佐竹宗家は彼等に対して一切の権利を持っていない。
葦名や白川などは佐竹から養子を貰ったが、その家政は
全く独立したものであって、佐竹の如何なる干渉も有り得なかった。
養子を貰うことにしたのも、あくまで彼等家中洞中の判断によるもの。
無論養子は血縁なので、心情的には佐竹寄りということはあるにせよ、
それだけのはなし。

実際には1~3をきちんと区分けできる訳ではなく、
例えば大山や山尾なんかはAと2の中間くらいだし、真壁、太田、
梶原なんかはかなり4のほうに近い。


514:人間七七四年
08/02/16 11:41:39 M+JDlzMx
伊達は人取橋の合戦の時点で、佐竹にとって2や3にあたる
連中をかなり1に近い位置まで押し込むことに成功している。
そしてさらに摺上原での勝利によって軍事的に4を1や2へと変えていく。
北条にとってAに当たるのは氏照、氏邦、玉縄など。
成田などは他国衆として把握されるが、実際には2くらいだし、
松山の上田、江戸の遠山などは1.5くらいの位置にいると思われる。

この2~4にあたる勢力を極力1へ封じ込めて行くことが、所謂「戦国化」。
そしてその過程で、「戦国大名」が生まれることになる。
これは中央政府であるべき室町幕府(関東府)が、もはや地方政権と
してしか機能しなくなり、各勢力が自身を自力で守る必要が生じたため。
別の言い方をすれば、各勢力が自身を小さな「幕府」としていった。
しかし残念ながら佐竹は佐竹洞中の「親分」ではあったものの、
「幕府」としては機能しなかった。幕府が司る最も重要な機能は、
国内の係争を治める「裁定者」であり、故に公平な「法の執行者」なのだが、
佐竹にはそれがなかった。即ち佐竹は「戦国大名」とは言い難い。

江戸時代には、概ね1と他家しかないという「近世大名」だけとなる。


515:人間七七四年
08/02/16 14:12:07 O7aMTu2K
ちょっと厳し過ぎる分け方だな。
佐竹を過小評価しようとしすぎだろ。そもそも太田梶原親子は長男から追放され謙信の元に行った後に佐竹に放浪してきた根無し草じゃん。
居城だって佐竹からあてがわれたようなもんだし芦名養子外交の時は佐竹外交を一任されてた。
資正死後に梶原政景は居城が南郷方面に転封してるのは家臣扱いだからだろう。
真壁なども北条の後ろ盾を持つ小田との抗争上で佐竹の家臣化したと言えるし
江戸は佐竹家宿老の家柄で小野崎との抗争から離れたり近付いたりしてるが佐竹家臣団には違いない。
養子外交は毛利であれ武田であれ北条であれやってる。
北条氏邦の藤田養子は良くて佐竹がダメな理由が意味不明で恣意的。
玉縄領からして北条為昌の養子で今川家臣福島正成の子の綱成の家系で
その子氏勝は小田原の陣の時に山中城にやむを得ず行ったものの
その後玉縄城に籠って小田原の意思に背いて独自行動を取り降伏してる。それは家臣団ではなくあくまでも寄騎みたいな独自性があったから
氏勝家臣である一方で北条家臣団の皆から氏勝は謀反者として殺害されずに氏勝に従ったからではないのか。

516:人間七七四年
08/02/16 15:44:26 OmLNnBzx
北条で言うなら千葉氏は4で対里見で道を同じくする者カテゴリーだな。
家臣の原が独断気味だったが。
武田は木曽氏なんか3・・・諏訪氏も勝頼の代前は3だろ・・・
つか武田も北条も合議制で家臣は一定の独自性あるからみんな3
上杉謙信の時は謀反相次ぐ揚北衆は3~4。旧守護家上杉系も3。
長尾系も上田長尾らは2~3

517:人間七七四年
08/02/16 16:22:16 O7aMTu2K
対上杉や対武田で道を同じくするやつらだけだぞ北条は。
やむなく従ってただけで自由にやらせてくれるなら主は謙信でも信玄でもどっちだって良かったんだから。
伊豆~小田原間以外はぜんぶ3か4だから伊勢氏直轄は20万石前後で源氏の名門佐竹より下。

518:人間七七四年
08/02/16 16:31:08 O7aMTu2K
甲斐武田は小山田なんて北条にも通じてたし直轄で10万石以下。
長尾は府内長尾といまの燕三条あたりの母の実家以外はすべて3~4…いや謙信初陣で栃尾城に入った時からの側近で奉行職になった本庄実乃は謙信の決裁に反対して謙信を出家に追い込んだし、
同じ奉行職の大熊は謀反したから奉行制度は建て前でまったくバラバラに豪族が権利を主張しあってただけ。
謙信の直轄は15万石もない。
やっぱり佐竹が一番でかい。

519:人間七七四年
08/02/16 17:09:18 XOnyfoPe
恣意→勝手気ままな考え
>>515から>>518までの方が…

520:人間七七四年
08/02/16 17:32:03 OmLNnBzx
いや合議制の大名なんてみんな3か4
親戚縁者だって裏切る世の中なのに1だって4とそれほど差はない。

521:奥七郡の人
08/02/16 17:32:32 iL4mGAmn
何故違う家同士を無理矢理同じ枠に入れたがるのかね
支配体制は大名によって異なっているのだから比較なんて無意味だよ

522:人間七七四年
08/02/16 17:42:32 OmLNnBzx
他勢力との比較の中で佐竹がどの程度の実力かはかるために
よい基準を提供してくれたからそれに準じて比較しただけでは。
そして長尾も伊勢も武田も直轄領は15万石前後で
源氏嫡流にして関東管領の資格すらある佐竹が一番の広大な直轄支配してたのがわかりました。

523:奥七郡の人
08/02/16 17:49:16 iL4mGAmn
なんで直轄地10万石前後の佐竹が一番広いんだよw
何だか変なのが湧くなぁ
三戦でも史板でもやたら佐竹や水戸家に粘着する奴いるし
一体何がしたいんだ

524:奥七郡の人
08/02/16 18:23:50 iL4mGAmn
>>512>>513で説明してくれてるように
佐竹が軍役を課せられる範囲は決して多くはない
つまりはおおよそ奥七郡の範囲なんだな
佐竹が飛躍するのは豊臣政権下で新たな支配体制を敷くまで待たねばならない
それも僅か10年余りで頓挫してしまうわけだが…
まさに佐竹は平安の頃より繰り返される挫折の歴史
地方領主の苦悩がよく顕れていて面白い

525:人間七七四年
08/02/16 21:47:07 eTaGX7B6
養子先の他家を即家臣扱いとか、(無理やり)佐竹が一番という書き込みはおかしいよ

526:人間七七四年
08/02/16 21:47:21 tpLHfw1Y
>居城だって佐竹からあてがわれたようなもんだし芦名養子外交の時は佐竹外交を一任されてた。
>資正死後に梶原政景は居城が南郷方面に転封してるのは家臣扱いだからだろう。

はじめに片野、柿岡に入ったところを見ると、太田親子は
当初小田の与力だった可能性が強い。その後佐竹に鞍替えした。
主従関係の対価として、一門外様の領主が奏者として馳走することがあるのは普通。
この時代、人間関係によって家々の繋がりを維持する傾向がある。
本来葦名に対する佐竹側の奏者は小野崎義政だったが、人取橋の時に
死んでしまったので、葦名家臣の佐瀬某と知己だった資正が奏者になったんだろう。
梶原の件に関しては義宣以降のことなので、全く関係がない。

>真壁なども北条の後ろ盾を持つ小田との抗争上で佐竹の家臣化したと言えるし
>江戸は佐竹家宿老の家柄で小野崎との抗争から離れたり近付いたりしてるが
>佐竹家臣団には違いない。

だからまず「家臣」の定義というのは何かということについて、
>>512-514に書いた訳だ。
だが少なくとも真壁や江戸は、本領内への佐竹の干渉を排除しえていたことは
確かであって、即ち独立した領主だった。佐竹との関係はあくまで「契約」による。
つまり起請文を差し出して、「私の本領内には手を出さないでいただきたい。
その代わり多少の役務は負担します」ということ。上記の太田と同じだ。


527:人間七七四年
08/02/16 21:49:00 tpLHfw1Y
>北条氏邦の藤田養子は良くて佐竹がダメな理由が意味不明で恣意的。

氏照にせよ氏邦にせよ、その所領は最終的に小田原に帰属する。
永禄二年の『小田原衆所領役張』には記されていないので、
その頃は小田原の権力は届かなかったようだが、
天正頃にはほぼ小田原の分身として行動するに至る。
では義広は佐竹の分身として行動し得たかというと、否。
佐竹は義広を通じて葦名や白川の所領に役務を科すことが出来たか、否。
諸役免除、棟別銭、矢銭、伝馬、過所、禁制、所領安堵、相続安堵、
感状、官途状などを葦名の上に立つ公儀として交付し得たか、これまた否。
北条は出来た。佐竹は出来なかった。つまり氏照分国、氏邦分国は
独立した領主ではないが、葦名、白川は独立した領主である。

>玉縄領からして北条為昌の養子で今川家臣福島正成の子の綱成の家系で
云々

つーか意味がわからない。「>小田原の意思に背いて」と自分で言っているんだが。
つまりは小田原は氏勝とその率いる玉縄衆に対して命令をし得る立場にあった。
そして氏勝はなんかの理由で従わなかった。ただそれだけじゃないか?
じゃあ佐竹は伊達に襲われた須賀川城に江戸や大山を派遣できただろうか?NO。
そんな命令を行使できるほどの強い権力を、当時の佐竹は持っていなかった。


528:人間七七四年
08/02/17 01:25:19 y+KsNMVE
俺にはお前らが何を導き出したいのかがわからない。

直轄領(もしくはそれに順ずる、政治的なまたは軍役等の介入権を持つ圏内)の
石高で佐竹、北条、上杉、武田あたりの大名を比較したいのか?

でもそうすると結局直轄領に対する与力勢力圏内が大きければ大きいほど
その時点での当主にカリスマ性、外交性、地理的な有利性があっただろ
的な議論になっていく気もする。

529:人間七七四年
08/02/17 01:51:53 vZibDhYr
佐竹は伊達に襲われた須賀川城に江戸や大山を派遣できただろうか
駿東郡で今川が軍事活動するかもしれんのに伊豆の国人に越後が攻めてきたから沼田城へ行けと言うような話じゃなかろうか・・・暴論だろ。

530:人間七七四年
08/02/17 01:53:36 vZibDhYr
葦名家臣の佐瀬某と知己だった資正
この話は初耳なんでkwsk

531:人間七七四年
08/02/17 08:45:09 GPMuK/AL
>>529
その部分で527が言いたいのは家臣化できていないということでは?
529が持ち出しているのは情勢とか地理的なものだから話が噛み合ってないよ

思い描いていた佐竹像とあまりに違っていたので、難癖をつけたいだけの人がいる印象(数名)

532:奥七郡の人
08/02/17 11:28:23 ZVnRYznd
>>529
あくまで援軍として参加しただけであって
軍役によって義務付けられていたわけじゃないよ
だから参加するもしないも勝手だし兵数や装備の数も江戸や大山が自分で決められる
また、彼らは自分の采配で勝手に戦起こすし領地も切り取って自分のものにしていた
佐竹はあくまで盟主的立場であって彼らの行動を抑制する事はできなかった

533:人間七七四年
08/02/17 15:30:05 L3VuMeiY
伊豆の国人が勝手に今川や武田と戦いを始めるわけねーじゃん。
佐竹領の周囲は巨大敵がいなかったからまとまりがイマイチだっただけだろ。
謙信の関宿救援だって常陸衆や下野衆が積極的じゃないのは北条の脅威がまだ切迫してない証拠。


534:東義久ってどぉ?
08/02/17 16:13:04 6HtgqHJX BE:534465263-2BP(1)
>>530さんへ
これは以前【太田資正】さいたま~の武将【成田長泰】 スレに書いたので、コピペしますね。

『関八州古戦録を読んでいたら、次のような話がありました。
1572年 奥州寺山城下の戦い。葦名・白河・田村7000、佐竹4000が戦い、
7/27 馬場都々古別神社で双方の代表が集まって、和睦を話し合った。

葦名代表…佐瀬源兵衛・松本源左衛門
田村代表…田村月斎顕頼
佐竹代表…太田三楽斎・車斯忠(一説には北義斯とも)





195 :梶原政景ってどお? :2007/08/03(金) 16:31:51 ID:oTPktiza
続き
かつて佐瀬源兵衛は青年時代、見聞を広めるため、
全国を放浪していたが、その時岩附城に立ち寄り、
三楽斎と兵法について一晩語り合った事があるという、旧知の仲であった。

この時、源兵衛は鎧を捨てて身一つで三楽斎の陣を訪れたのだが、
他の代表たちがこれを非難すると、
源兵衛は「三楽斎はそんな人物ではない」と鼻にも引っ掛けなかったと言う。

戦国時代の男同士の厚き友情物語でした。


535:人間七七四年
08/02/17 16:59:48 y+KsNMVE
和田が出奔したとき身を寄せたのも佐瀬のとこじゃなかった?

536:東義久ってどぉ?ってどぉ?
08/02/17 17:22:13 6HtgqHJX BE:2405093099-2BP(1)
近衛本『小説 佐竹義重』ではそうなっているが…
実際どうなったのか? 私はわからない。「東州雑記」「秋田藩家蔵文書二十」には「会津に逃げた」としか書かれていないらしいよ。

537:人間七七四年
08/02/17 23:39:06 vZibDhYr
>>534
むむっ1572年の時点ですでに
奥州方面の和睦の使者までやってたんか三楽。


538:人間七七四年
08/02/18 09:50:23 Yiw4klN4
>>534
イイハナシダナー

539:人間七七四年
08/02/18 14:48:41 zSubX02W
「守護大名」と「戦国大名」を混同しているのかなあ・・・。

本家・宗家直轄が12万、洞中(同盟や親類、家臣配下)合わせて54万石
いや、太閤検地以前は、耕作技術が未熟で出来高取り分が結構アバウトな部分が多いもので、実質12万で、
検地以後、取り分が水も漏らさぬくらいがっちりしたうえに、耕作技術の向上で生産能力アップで54万にアップ・・・?

540:人間七七四年
08/02/18 15:45:44 zSubX02W
>諏訪周辺は、昔の甲州占領地域だから、戦国時代の甲州の田舎臭い気風を色濃く今に残している。

>俺が俺がの気風が強く、自己主張だけは強く、出る杭は打たれ、お互いに足の引っ張り合いは日常茶飯事。
>まとまる話も互いに反対し、つぶし合って結局まとまらず。

>そんな地域だから、言わなきゃ損とばかりに勝手なことはまくしたてるが、もともとまとまりがない所だから、騒ぐだけ騒ぎ大山鳴動して鼠一匹の有様…

リニアスレで、諏訪地域についての住民気質について述べた文。
何でこんなもの引っ張り出したかというと、佐竹氏の南方三十三館虐殺について。
南常陸周辺もこんなものだったから、虐殺という手段によらないとまとまりつかないと判断したのかなあ、と。

541:人間七七四年
08/02/18 15:57:51 JkN6UL6G
オマイラ外交なら佐竹北家も評価してあげてくれ。
北義信→義廉→義斯(かつて東義堅を降伏させた那須資胤の娘と義宣の婚姻)→義憲(義重3男貞隆を補佐し岩城家政を岡本顕逸と一緒に担当)


542:アフリカのトト
08/02/18 17:04:39 BonLIVcW
>>539
天正十八年の朱印状に示された高は差出によるもの。
つまり土豪側が「うちではこれだけの年貢が取れますよ」と自ら差し出したもの。
だから過少申告する。
実際にはこのとき佐竹は差出さえ把握する時間がなかったと思われるので、
動員数から貫高を割り出したんじゃないかと推測。
また文禄四年の朱印状はきちんと縄を入れて検地をしたもの。
ちなみに豊臣政権は民衆からかなりきつめの収奪をやっている。
そんなんで豊臣は差出→縄入れで二倍以上の高が打ち出されることを経験で知っていた。

>>540
佐竹による江戸滅亡、大掾滅亡、南郡虐殺は、洞中最外郭に位置する連中を
スケイプゴートにすることでそれ以外の洞中での結束を図ったものと見られる。
つまり「場合によっては流血も辞さないよ」という大名側の覚悟を見せつけた。
佐竹は>>512-514のような状態から、佐竹二十二万貫を即座に領国化しなければ
ならなかったため、洞中の反乱を恐怖で封殺するために、あえてそのような方法を取った。
怨嗟も多かっただろうが、この方法は知ってのとおり非常に上手くいった。
佐竹と似たような体制だった島津なんかは相次ぐ反乱でわりと苦労したようで、
同様の大友はこの「領国再構築」をしなかったので豊臣に改易されてしまった。

ついでに佐瀬源兵衛はかつて壬生のところに仮寓していたらしい。
壬生が宇都宮を占拠していた時、佐竹と芳賀勢によって宇都宮城が包囲されたが、
佐瀬は芳賀高定を生け捕り、人質にして壬生を宇都宮から無事退去させたという。
また太田原資清を風呂場でとっ捕まえて、壬生への人質を返還させたとかいう
本当にどこまで信用していいのかわからないいろんな話が伝わっている。

543:奥七郡の人
08/02/18 17:12:01 gf/rAR/H
>>539
太閤検地の頃は領地自体増えてる
天正18年から19年にかけて江戸氏、大掾氏、小田氏、土岐氏らの領地を押収して直轄地に組み込んでいるから
戦国時代?にくらべると領地自体も3倍ぐらいになった



そういや東南北のうち何故東家だけ特別優遇されたのだろうか

544:人間七七四年
08/02/18 17:18:51 JkN6UL6G
だいたい12万石じゃあの動員力と鉄砲数は説明つかないだろ~。
金山収入って言っても上杉みたいな莫大な量じゃないんだろ?
12万石大名に大苦戦する伊達が超カッコ悪過ぎじゃないか…

545:人間七七四年
08/02/18 21:05:33 l91REqEB
大友は朝鮮出兵で、味方背走と誤認して
退却したのが改易の原因じゃないの?

546:人間七七四年
08/02/18 21:07:06 7YjtIFuI
>>543
>東家

佐竹義久が石田三成と懇意だったと聞いたことがあるから、それ故かな?

547:人間七七四年
08/02/18 21:27:50 Ol/7sNUX
上杉における直江とか毛利における小早川みたいなもんじゃないの?

548:奥七郡の人
08/02/18 22:35:23 gf/rAR/H
>>544
兵数てのは余り当てにならないよ
特に軍記などは大袈裟に書くのが常識になってるから
沼尻合戦については佐竹側の記録である古先御戦聞書には
北条3千5百騎
佐竹連合2千5百騎
となっている
鉄砲も国典類抄に御旗本千挺とあるように佐竹の領内から出した鉄砲は千挺
これにしてもかなり誇張はあるだろうけど
むしろ他の勢力の数の多さが不審

549:奥七郡の人
08/02/18 23:21:12 gf/rAR/H
>>547>>548
豊臣政権下ではまさに直江氏や小早川氏のように豊臣家との間を取り持つ存在としてかなり優遇されたけど
それ以前も義宣11万石に対して義久1万石とかなりの領地を所有していた
小田原の陣でも秀吉献上品は他将が黄金0~3枚に対して義久は7枚献上している
上記の沼尻での鉄砲も1100挺と、数の真偽はともかく義宣より比率は上回っている
義久が信任を得て力を得ていったのか前の代からなのかよく分からないが
東家は特別優遇されているように思う

550:人間七七四年
08/02/18 23:34:05 1/8pbDXn
北はともかく南はどこかで当主が病死して
まだ采配取れないような子供が継いでなかった?

その間北と東でフル回転して、特に義久の働きが目覚しかったんじゃないかしら。
もとは北が三家筆頭だったと思う…

あと、宗家本隊の動員はだいたいいつも三千~五千くらいだったはずだから
十二万石前後でもおかしくはないかと。

551:(´ω`)
08/02/19 06:07:29 GB9DVL1L
>>543
領地(面積)は増えてないよ。
江戸、大掾等々の領地分は、すでに天正十八年の約二十二万貫の朱印状の中に含まれている。
これには明確な証拠がある。
------------------------------------------------------------
此度 殿下御催促付、家中上洛於義宣令祝着候、就之鹿嶋一郡進之
候、併其方本知行檜澤武部不可有相違候、南郷保内儀者返進、
令得其意候、恐々謹言

 天正十八年
   七月廿九日             義宣(花押)
     中務大輔殿
------------------------------------------------------------
『奈良文書29/茨城県史料中世編5』

約二十二万貫朱印状は同年八月一日だから、その一日前に義久に
上のように鹿嶋郡を与えると約束していることになる。
これでは鹿嶋郡だけだが、同様に佐竹の直接支配でない江戸領、
大掾領も、義宣が手中に収めるつもりでいたことは、十分に推量しうる。
オイラの推測によると、どうも義宣は、葦名滅亡後に家督を継いだときにはすでに、
江戸大掾その他の佐竹にあまり深くは従わない洞中の連中を
滅ぼしてやろうと計画していたらしい。
江戸と大掾は小田原にも参陣しなかったが、これも義宣が画策して、
小田原に参陣しないように情報操作を行っていたっぽい。

あと佐竹旗本と佐竹東の軍勢は併せて、最大でも3000を越えなかったと思うよ。
普通は精々2000とちょっとくらい。
ただし佐竹洞中全てを併せれば、最大で7000くらいは集められた(ちょっと多めかも)。
佐竹1500 東と旧白川・石川系1500 一族(大山など全部で)1000 小野崎500 江戸500
大掾と南郡一揆500 下野系500 旧小田系と真壁1000
7000という数は軍記物から推測(それしか情報がない)。
佐竹と東でその半分くらいはないと権力としては不安定なのでこんなもんと思う。
秀吉の知行割朱印状と併せて考えても、比率としては合っているはず。
たぶん天正三年の上杉の軍役帳に匹敵するくらいで、
これは義昭の最盛期頃からあまり変わってはいない。

552:奥七郡の人
08/02/19 19:19:46 Rzze1/mt
>>551
小田原征伐以前との比較だよ
戦国時代、独自に保有していた領地と天正18年以降に豊臣氏の後押しで保有するに至った領地では数倍差がある

でも何より豊臣政権下で洞という曖昧な支配体制を廃し中央集権化を進められたのが一番の収穫だろうね
義重も義宣も天正年間には積極的に試みていたのだけど
なかなか上手くはいかず自力では難しかった

553:人間七七四年
08/02/19 19:49:23 4jSrI5wL
>>552
外圧を利用して改革をするとは、今の日本みたいだな。

554:人間七七四年
08/02/19 21:25:07 Wh8LHV/J
守護大名の古い体制のまま活躍したのは佐竹と大友くらい?

555:奇矯屋onぷらっと ◆JUU/.JUU/.
08/02/19 23:04:54 CxAcNss6
ほとんどがそうだといっても差し支えないな。

556:人間七七四年
08/02/21 19:55:58 68sIqpa1
義昭存命なら戦国大名に転身出来たと思うが、
義重の代に外圧が高まってきたから、
体制を改めると現体制を支持してきた連中から
そっぽ向かれてしまうから、改革は困難だったろうな

557:人間七七四年
08/02/21 22:26:08 N0vfON7t
守護体制はバランス感覚が肝心だな

558:あ
08/02/21 23:23:15 7sii/2lq
伊達政宗より、チョウソカベ元親のほうが評価できる。

四国統一しているし、政宗は、陸奥も出羽も統一してない。

常陸一国を統一した佐竹のが上だろ。

石高の大きさ自慢は、秀吉政権以後の話しで、戦国時代は、国の数で勢力が決まる。

石高の高い国にいただけでは、ダメだろ。

559:人間七七四年
08/02/22 00:17:59 UyBRphNL
四国の面積18,803km2

福島県13,782km2(-浜通り約2,500km2)+宮城県7,285km2+置賜2,495km2

さほど変わりは無いですね

560:人間七七四年
08/02/22 00:27:04 LUNPbN8w
チョーソカベの場合は地の利(一応四国の外は海)もあるから
単純に比較は難しいんじゃないか?

まあその分北日本も冬季の戦争は難しいってのがあるが…

561:人間七七四年
08/02/22 00:28:40 leJiZDV4
長曾我部はスゴイよ。
一度は滅亡してからの復活だからな。

562:人間七七四年
08/02/22 02:29:10 9bVZxUnr
面積で考えないほうがいい。
例えば、尾張などは小さいが、甲斐などよりはるかに生産性が高い。
また、周囲との力関係などもあるし、単純な面積の対比では実像を見誤りかねん

563:人間七七四年
08/02/22 05:12:04 F3dY8Qj1
要するにID:7sii/2lqはオツムの弱い典型的佐竹厨ということですな

564:奥七郡の人
08/02/22 10:14:34 0h0EVbMB
佐竹厨と言うよりアンチ伊達だろ
常陸統一なんて間の抜けた事言ってるのは
常陸の大半を支配下に置いたのは天正18年以降に豊臣の天下統一事業の一端として行われたものであって
天正17年頃は常陸統一どころか悲壮感漂う防衛戦に終始していた

565:人間七七四年
08/02/22 14:13:51 leJiZDV4
>>564
的確な状勢判断による中央との遠交策が成功した佐竹の戦略的勝利だろ。
甘い見通ししかできず家康に見捨てられた低脳北条は滅亡したしな。
北条フィルターからの情報を盲信した伊達は会津召し上げで顔を潰されたしw

566:たられば君
08/02/22 15:02:28 IBrgGGcl
常陸が親王任国なのはスルー?

567:人間七七四年
08/02/22 15:23:02 rhltEv02
>>556
義昭が長命だったら・・・確かに興味深いところではあるね。
義重より積極策はとったろうから。
でも力量において義重が義昭より劣るかどうかは?なので
結果的にはあまり代わり映えしないような気も・・・

568:奥七郡の人
08/02/22 21:34:19 0h0EVbMB
でも義昭の子が大掾氏を継げば影響力は格段に違う
子が継ぐと言っても政を行える歳になるまでは義昭の傀儡となるのは目に見えているし
南部攻略の大きな足掛かりになるし江戸氏を押さえ込む事にもなる

569:人間七七四年
08/02/23 10:17:59 Cq5D9G/0
義昭が南に、義重が北にあり勢力を伸ばせた可能性はありますね
(義昭が義重に家督を譲ったのは、岩城重隆を怖れて=重隆も孫の義重のことは攻めないだろ、と言う説もありますね)

しかし名門とはいえ大掾の実力はさほどじゃないですね、小田や江戸には押され、
状況が激変したとはいえ後年は佐竹に、あっという間(水戸城奪取の二日後)に滅ぼされますし

570:人間七七四年
08/02/23 11:01:28 pg/g6NAQ
大掾の優れている点は血筋だけだからな

571:人間七七四年
08/02/23 13:57:42 7pES77sv
うちって釜田なんだけど
これって烟田なのかねえ…?家紋は全然違うんだが…

572:人間七七四年
08/02/23 23:55:10 qLYw8Lj7
ほほう・・・・

573:奥七郡の人
08/02/24 01:32:55 K3iuSNJ7
大掾、佐竹、小田が常陸三大豪族であり常陸を三分していたが
何せ大掾は最古だから一族は自立し室町末期には江戸氏に押されて著しく衰退した
それでも一族は県央、鹿行、県西に根付いておりそれなりに力を持っていた
真壁氏などが良い例
大掾一族でありながら小田や佐竹の洞に組していた
しかし江戸氏と大掾氏が争った時、真壁氏は大掾氏を支援し佐竹氏は江戸氏を支援し敵対する事もあった
この辺りが非常に難しい
江戸氏は一応形だけでも洞中にあり佐竹も支援しないわけにもいかなかったが
大掾氏を討伐しようとすると大掾系の諸氏から反発を受ける
だからいくら追い詰めても強行な態度をとれなかった
そして彼らは佐竹の意思とは別に勝手な領地争いを度々起こし続け
佐竹にとっては頭の痛い所であった
その点義昭が大掾氏の傀儡化に成功していればこの辺りの懸念が解消されたかもしれない

574:(´ω`)
08/02/24 01:41:37 zoyI/cFZ
>>552
こりゃ失敬。素で間違えた。
豊臣政権に属したあとの佐竹の領地=それ以前に佐竹が「洞中」と認識していた連中の土地だぬ。

>>554
実のところ、佐竹と似たような体制だった大名はかなり多い。
例えば「洞」を中心とした体制を持っていたのは北関東以北の領主がほとんどだし、
越の上杉や朝倉もそうだった。西国では大友、毛利なども使っているし、
島津は残っている文書の数が少ないので史料上には出てこないようだが、
たぶん使っていたんじゃないかと思われる。
上のほうで「佐竹は戦国大名じゃなかった」と自分で書いたが、ちょっと言いすぎだな。
「洞」による支配体制は紛れもなく戦国時代のものだから。
一方、北条や今川、武田、それと多分織田は使っていなかったらしい。
この東海道の諸氏は直接郷村と対話することで強力な支配体制を確立した(しようとした)
大名だぬ。伊達もどっちかつーとこっちに入れてもいいと思う。
こっち側の特色としては、検地、裁判、郷村支配、公儀、印判状というキーワードでくくられる。

そして驚くべきことに佐竹は義昭の時代に、その東海道の諸氏のような支配体制に
移行しようとしていたらしい。義昭は新しく手に入れた元小田系の土地に検地を
しようとしてたり、洞中の他家の本領中に統制の手を伸ばしていた形跡がある。
義昭は義重がまだ十代のうちに剃髪して源真と名乗って隠居するが、
そのように政治的な制約のないかたち(院政)になることで、佐竹さえも含めた包括的な
常陸の公儀権力として君臨しようとしていたと見る。
態々常陸の府中に入ったことも合わせて見ると、義昭の野望が垣間見えておもしろい。
この辺のことは多分まだ研究されていないんだが、誰かやって欲しいなあと思う。

575:奥七郡の人
08/02/24 22:47:22 K3iuSNJ7
>>574
全くもって同意だ
義昭の政策は実に興味深い
しかし郷土史研究家らは関心を示さないんだなこれが…
佐竹の戦国史に於いて義治~義昭の流れこそ重要なのに全く研究されていない

576:東義久ってどお?
08/02/25 16:30:49 vM00hUav BE:1336162695-2BP(1)
>>502-503さん
>>512-514さん
「アフリカのトト」さんの>>542
「奥七郡の人」さんの>>543>>552>>573
>>574さんへ
久しぶりにいいものを読ましてもらいました。リポートありがとう。

577:人間七七四年
08/02/26 08:54:19 uL/aCkSf
確かに義昭存命で中央にさしたる影響がなきゃ、
史実と同様、常陸一国支配で終わったかも知れないが
常陸統一を成し遂げ義重の代に千葉や北条と
バチバチやってたかもとか妄想する


578:人間七七四年
08/02/26 21:33:49 64Y0D0tg
イイハナシダナー

579:人間七七四年
08/02/27 21:24:20 XvYcDse+
千葉家には軍事力で圧倒するだろう

580:奥七郡の人
08/02/28 11:06:59 rL0GYYOT
今となっては有り得ない話しだな
でも平安末期には千葉氏や上総平氏と争っていたのに過去の栄光はいずこへ

581:人間七七四年
08/02/28 20:48:07 lVLj4vHr
義重・義宣時代も十分佐竹は輝いていた

582:奥七郡の人
08/02/28 22:03:13 rL0GYYOT
まあ、豊臣政権時代の十数年はかつてない隆盛を極めたわな
佐竹が転封にならなければ水戸も発展したろうに

583:人間七七四年
08/02/29 15:24:14 F1fK0yJA
>>580
頼朝の常陸攻めで、一度没落、鎌倉時代は雌伏の時代。
南北朝で、一番の激戦地で一貫して北朝勢。
北畠氏の「親王正統録」に対し、後の山入氏祖先が「源威集」を著述。
南北朝期初期に栄光を取り戻すも、上杉氏からの入り婿巡って宗家と山入一揆が抗争。
義舜公の時、一度は太田城を追われるも、苦労の末奪還、山入一族を滅亡させる。
やがて部垂12年の乱を経て、義昭公の時代となる。

584:人間七七四年
08/02/29 17:06:29 TUOEtiRt
波乱万丈の中で生き延びたんだから 良しとしてます 個人的には。

585:人間七七四年
08/03/01 16:19:58 qkMBSySm
自称会津守護の蘆名盛興を佐竹義重が討ちとったという話もあるね。

586:人間七七四年
08/03/01 17:14:43 LmBOWU0F
>>585
ついでに自称奥州守護の片目のDQNも討ち取ってくれればよかったのに。残念でならん。

587:奥七郡の人
08/03/01 18:35:15 XUt+7R76
>>583
佐竹氏の戦国時代は山入一揆による100年に渡る内訌から始まった
義舜により山入氏は討伐されるも宗家の弱体に乗じて国内の諸氏は自立の傾向が目立ち始める
彼らを押さえ込み再び家中に収める事に専念するも
義篤・義昭の早過ぎる死もあって宗家の支配力は一定せず諸氏は離反と帰順を繰り返す
復権が一息ついた頃には半世紀が過ぎていた
義盛に男子がいなかったと言う一事が綻びを生み
一世紀半に渡る混乱が生じたのだから世の中はどう転ぶか分からないね
佐竹氏にとってこの大きな出遅れは不運だったとしか言いようがない

588:人間七七四年
08/03/02 00:30:24 Qm2+GE7x
>>585
盛興は酒毒で病死したんでしょ・・・・

589:人間七七四年
08/03/02 09:33:47 NmHISoOy
>>588
佐竹との戦いでの戦傷が原因で死んだがカッコ悪いんで酒毒と発表したのかもよ?
だいたい盛興ってまだ若かっただろ。

590:奥七郡の人
08/03/02 17:28:25 XYun8qdw
盛興が討死したって何が出典なんだろう
全く見た事ないけど

591:(´ω`)
08/03/02 21:00:12 vImxbc+1
オイラも盛興討ち死にの出典を知りたいな。
ちなみにアルコール中毒で死んだというのは『会津四家合考』に記されている。
『合考』は軍記物だが、内容の信頼性は『関八』や『奥羽永慶』などの軍記物よりは
はるかに信頼性が高いとオイラは考えている。
また盛興が六月四(五)日に死んだと『塔寺八幡宮長帳』にもあり(天正三年の巻に
裏書されているらしいが、その他の記述とあわせてみると天正二年のことだと推定できる)、
その前には「盛興が患ったので、酒が止まった」とあり、盛興が酒による病気であったことがわかる。


592:奥七郡の人
08/03/03 00:35:09 WHsYjqzc
>>591
やはり天正二年説の方が有力かな
白河古事考では天正二年秋に盛興と田村らが南郷に出兵し大勝を収めたとしてるようだが
他書ではこの戦いを元亀二年としているし
また、天正二年二月~五月頃に葦名と田村が争っていたと言う話しもある
いずれにせよ佐竹との間に盛興が討死するような合戦があったとは思えない
それにしても天正二~三年辺りは各書によって記述がマチマチで分かりにくい…

593:人間七七四年
08/03/03 01:54:41 R4NUto1p
奥七郡の人=(´ω`)=仙台百姓
同一人物の自演乙




594:人間七七四年
08/03/03 14:14:40 HtbSFnXm
後北条氏との小規模合戦について語れる人はいるかな?

595:人間七七四年
08/03/03 15:58:50 HcR1SXd8
小田野自義 対 山入祐義 の対立で
後者が勝っちゃったのがつまづきの始まり

596:人間七七四年
08/03/03 16:57:45 FNLYZZrf
佐竹贔屓だが、葦名盛重=佐竹義廣が天正17年に畠山義継の嫡子国王丸を常陸で殺害した理由は何?
義重は知っていたのか?事実だとしたらかなり引いてしまうのだが・・・


597:人間七七四年
08/03/03 17:03:01 dzKUBRRm
>>596
衆道のもつれという説があったな。

598:人間七七四年
08/03/03 18:02:42 FNLYZZrf
衆道のもつれ?
当方頭が悪いので詳しくご教示願いたい

599:596
08/03/03 18:06:00 FNLYZZrf
>>597
ググったら何となく分かった。
義重や義宣の命ではないということだな。
あくまでも葦名盛重の私的な成敗ということだな

600:人間七七四年
08/03/04 09:34:43 yBYJq9dg
600get!

601:奥七郡の人
08/03/04 10:27:52 HkEVjS2C
この時代、上意討ちなんて別に珍しくもないと思うが

602:人間七七四年
08/03/04 10:29:10 5j/pW38m
やはり葦名家再興時に、邪魔になる可能性を考慮しての処分かな?

603:人間七七四年
08/03/04 10:57:40 R5xL70wv
二本松が何で芦名再興の邪魔になるんだ?

604:奥七郡の人
08/03/04 11:16:05 HkEVjS2C
>>602
それは有り得ないと思う
葦名家が再興するに当たって畠山氏は何の関係もない
そもそも江戸崎で討たれたと言うなら既に葦名家は再興している
葦名家の再興は秀吉による処置だし、畠山氏は既に領地も失い葦名家に寄食している状態
葦名再興の為に義広が梅王に伺いを立てるの必要もないし梅王が義広に口を挟むとも考えられない

605:奥七郡の人
08/03/04 11:34:48 HkEVjS2C
二本松落城後の畠山氏の動向について解らない事が多すぎる
幼名に関しても梅王と国王が混同している
義広に従ったと言うが義広の会津落ち以降の動向自体が不明
天正十七年に江戸崎で討たれたと言うが義広が江戸崎に入ったのは天正十八年以降

606:人間七七四年
08/03/05 09:51:26 /UMTOot3
上杉家の畠山一族を頼って落ち延びたとか?

607:人間七七四年
08/03/05 14:22:07 AGRElYhc
>>605
伊達や反佐竹勢による出鱈目な讒言ではないのか?

連中ならやりかねんからな

そもそも>天正十七年に江戸崎で討たれた、討ったのは葦名義広、という根拠は如何なる文献等に寄るものなのか?

608:人間七七四年
08/03/05 16:04:28 5KG4JDvu
>>607
じゃ、伊達以外の何者かによる捏造ではあり得ないな。政宗の容疑は真っ黒黒。

609:人間七七四年
08/03/05 21:56:34 MPOAFrCh
伝統的に自分達を良くみせようとするために他者をおとしめて平然と嘯くのが伊達の兵法だろw全然悪いとか思っていない連中。
義重スレで自演している宮城の百姓とかいう基地害をみて良く分かったw
佐竹に関する歴史的書の類はほとんど信用できないとか根拠の無い決め付けをしているからな、まるで自分は当時の真実を全て知ってるとでもいいたげ(嘲笑)

嘘吐きは伊達の始まりw


610:人間七七四年
08/03/06 03:16:21 Pnz8Hkum
佐竹に関する歴史的書の類はほとんど信用できないよね

611:人間七七四年
08/03/06 03:27:36 zNEK/C5s
そもそも信用できる歴史書なんて戦前にあるのだろうか?

612:奥七郡の人
08/03/06 11:54:36 y9EVVKT+
戦国時代ものは特に信用できないね
どこの大名でも冷静に書かれているのは極一部

佐竹関連では「佐竹家譜 上中下」がオススメ
入門本としてはこの三冊で十分
興味があったら権力構造についての論文と県資料で掘り下げてみるのも面白い
あと、地名や地形が結構変わっているから「新編常陸国誌」または「茨城県の地名」などを買っておくと把握しやすい

613:人間七七四年
08/03/06 11:56:16 /bvJ8FdO
>>610
伊達家に関する資料よりは信用に足るものばかり。

614:人間七七四年
08/03/06 14:58:17 7fLQ9Hr7
伊達厨の品位(笑)
ひどい自演だな(・∀・)


610 :人間七七四年:2008/03/06(木) 03:16:21 ID:Pnz8Hkum
佐竹に関する歴史的書の類はほとんど信用できないよね

613 :人間七七四年:2008/03/06(木) 11:56:16 ID:/bvJ8FdO
>>610
伊達家に関する資料よりは信用に足るものばかり

615:人間七七四年
08/03/06 20:02:16 qxHG+0CY
安土桃山時代までは佐竹寺にあったらしいが、火事で資料の殆どが燃えてしまったらしい。

616:人間七七四年
08/03/07 00:21:33 2iVCD/ok
個人的には義宣と政宗の争いをもっと見たかった。
義重だとどうしても年齢が離れているから、
ライバルというなら年齢的なものから息子の方だよね。いとこ同士だし。

617:人間七七四年
08/03/07 01:18:19 n0THyR0w
>>616
父親で勝てないから、今度は息子ですか?
また負けて泣いて帰るのは伊達ですよ。

618:人間七七四年
08/03/07 01:58:24 2iVCD/ok
勝ち負けの話ではなく、年齢でね。
義重は1547年生まれで、輝宗は1544年生まれ。近いからな。
ちなみに義重と政宗では20年違うからなんともいえん。
さらに血縁からいうと、義重の嫁はんの兄の子供が政宗。義重は政宗のおじさんだもんな。
そうなると義重は輝宗の義理の弟。正直ライバル以前の問題になってくるけどね。

だからまあ、人取のときも、郡山のときも、摺上のときも
「まーた梵ちゃん(政宗)が無茶やってんだって?んじゃ兵出すから
ちょっと懲らしめにいってきてよ」的なほんわかした話だったのかもしれん。
そんな展開ならさらに義重が好きになるが、多分それはさすがに違うだろう。


619:人間七七四年
08/03/07 02:29:12 UzqsDxGO
>>618
そんな展開も嫌いじゃないが、
もしそうなら鬼庭とかがかわいそうすぎるwwwwww

620:人間七七四年
08/03/07 02:47:19 Mh/mIKio
他家の話はどうでもいいよ。

621:人間七七四年
08/03/07 03:31:05 KRhBO3+B
イ左 ケケ 厨 は オ ヵ 儿 ├ 臭 い

622:人間七七四年
08/03/07 09:23:14 eSa7XfZ9
つか義重は伊達を滅ぼす気はさらさらなかったろう。
芦名の救援要請に付き合ったに過ぎないだろ。
妻からも伊達を追い詰めるなって言われてただろうし。
芦名滅亡までは佐竹に伊達に敵対する動機がない。

623:人間七七四年
08/03/07 09:59:23 xZ5raiYF
>>621
伊達厨変質者マルチコピペ乙晒しagew
お前のやっている事のほうがはるかにオカルト臭いwww


899 :人間七七四年:2008/03/07(金) 03:30:07 ID:KRhBO3+B
イ左 ケケ 厨 は オ ヵ 儿 ├ 

624:人間七七四年
08/03/07 14:54:31 2PdcoLuO
イ尹 達 厨 は ヵ 儿 ├


625:人間七七四年
08/03/07 16:04:10 kdZQHfYb
佐竹VS後北条の小規模合戦のことを知りたい。

後北条はなんとなく対佐竹の合戦を苦手にしていたような印象が
あるんだが、実際のところはどうなんだろ。



626:人間七七四年
08/03/07 16:17:26 2WP1h2OW
>>625
それはないだろう。
もちろん北条の圧勝ということはないが、4分6分あるいはもっとくらいには押されてた印象。


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