\●/佐竹氏を語るスレ 其の2at SENGOKU
\●/佐竹氏を語るスレ 其の2 - 暇つぶし2ch1:人間七七四年
07/07/26 00:05:28 +6ZT69UR
常陸の勇出羽転封と、その後の「秋田の四倒れ」。
戊辰の役における官軍への対応など等。
話題に尽きない佐竹氏を語るスレです。
スレリンク(sengoku板)l50

2:人間七七四年
07/07/26 00:10:54 ARdxxmUl
いやスレ立てるの早すぎですから

3:人間七七四年
07/07/26 11:01:40 vClu0D3e
>>1
よう!糞ムシ

4:人間七七四年
07/07/27 23:55:23 gCUPA23G
これじゃスレタイが\(^o^)/オワタに見える。

5:人間七七四年
07/07/31 22:29:50 AuRsmOhj
佐竹義重は戦国最強。
武田・上杉・北条全盛の中、常陸を纏め上げ葦名を傀儡化し支配圏130万石を
達成。 直接戦闘では劣勢で北条氏の大群を撃退。
謙信公に誓紙血判状を要求できる男など義重公のみ。

せめて東海あたりの生まれなら、家康のように秀吉に遅れを取ることもなく
速やかに勢力を拡大して、東国政権は築けただろう。
もちろん秀吉死後は楽勝天下人w

6:人間七七四年
07/08/01 03:04:02 6melt5CF
>>6
おれも義重は武将の中で一番好きだけど、天下人は難しいかもね。時の運もあるし。
上杉武田北条のラインより東は保守的な動きの方が主流だったから、
どんなに優れていても「天下」を取れる動きはなかなか出来ない。
伊達は憎いけど、実際東国で天下を取れる動きが出来たのは政宗だけだったんじゃないだろうか。

7:人間七七四年
07/08/01 07:27:13 3hkw0nTZ
佐竹は戦での情報戦が苦手そうなイメージだけど実際どうだったんだろ
専属の忍者集団いたのかな?

8:人間七七四年
07/08/01 07:30:43 YwJdwP/R
情報戦が苦手そうなイメージってのは>>7の脳内妄想か?

9:人間七七四年
07/08/01 22:46:28 3hkw0nTZ
オレのイメージだから、そりゃ脳内妄想だろ
だからなに?

10:人間七七四年
07/08/01 23:43:25 4ME9W83H
>>1
乙かれ

11:Y ◆nzdGjBH722
07/08/02 00:06:09 GXtmT9WR
>>5
そもそも佐竹程度が天下取れるんなら、信長秀吉家康氏康謙信信玄元就政宗その他諸々・・・
が天下取るのにここまで苦労しない罠。
ツマランネタふっかけるんなら書かんでよろし。


12:人間七七四年
07/08/02 00:20:22 8eSxteJA
こら、まだ前スレ100以上残っている

スレリンク(sengoku板)l50

先に消化汁

13:人間七七四年
07/08/02 00:33:47 7vFWojNU
まぁ佐竹厨の巣窟ですから
北条と伊達にボコられて家康には睨まれて涙目の義重

14:人間七七四年
07/08/02 01:15:28 Wm3QAu6G
北条と伊達でボコれなかったら問題だろw
数十倍の国力で南北から攻めてるのに
逆に押し返したりしたら人間じゃないよ
戦国自衛隊でもなきゃ無理だ

15:人間七七四年
07/08/02 11:13:36 0jr4tiGG
敗戦を勝利と捏造する糞伊達厨よりは千倍マシだな

16:人間七七四年
07/08/04 01:27:34 RrXyuUkt
あげ

17:人間七七四年
07/08/04 16:41:15 WqjbR548
かの謙信公も義重公には一目も二目も置いていたようだ。
関東北部を纏め謙信的な戦を何回もやってたからな。
しかも5千やそこらで北条の北進阻んじゃうくらいの猛者だから、謙信も義重公だけは
粗末に扱えなかった。
義重公は生まれた場所・時代が悪すぎた。 
もし越後に生まれてたら、政治・外交にも老獪な由義重公のことだ、確実に領土を拡大して
天下に覇を唱えていたことは間違いあるまい。


18:人間七七四年
07/08/04 23:02:36 6YrK9WQa
ダメな奴はどこへ行ってもダメwww

19:人間七七四年
07/08/04 23:04:04 eOg0sGOh
蝦夷あたりならなんとかなったかもな

20:人間七七四年
07/08/05 21:10:10 ZOmzrgCi
よく言われてることだが、
当時「天下に覇をとなえて」なんて思っていた国持ち(またはそれに準ずる)大名は
ほとんどいないよ。というか、そんな発想を持ったのは信長だけだった。

秀吉も家康も信長の行動を眼前でみてたからああいった動きが出来たわけで。
伊達あたりは近い動きをしてるけど。

ほかの大多数は少しずつでも所領を広げることと、領国内の安定のほうが優先事項だった。
他の大名だってバカじゃない。身の丈はしっかり把握してたんだよ。
武田だってそうだし、上杉や毛利、島津、北条だってそう。
佐竹もそちらの部類に入る。

自分が天寿をまっとうするまでに一国持ちから天下を手中に出来る動き、
なんて危険なことを実際に実践したのは信長だけ。
信長の行動はそのためだけに集中してる。実に合理的だ。
信玄も謙信も力はあったろうけど実際に天下を見始めたのは信長の動きを目の当たりにした後。1570年過ぎからだろうか。

佐竹は「本領」の回復を悲願として動いていた。その後の芦名との関わりも
北関東連合の盟主としての動きも自国周辺の安全保障のための動きにすぎない。
まあそれだけの力があったのは確かだが、、、

どちらにせよ、越後なんてもってのほか、尾張や上方周辺に生まれなければ
「天下に覇をとなえ」なんて、思った頃には40の身空を過ぎてる時代だったのだよ。
俺は史実の義重が大好きだからこれでいいと思っているけどね。

21:人間七七四年
07/08/08 19:59:29 03UKMVB1
>>21
よく言われてることを鵜呑みにしてるだけだよ君は。
大内義興は実際に上洛して一次的に京を掌握してるし、それらにくっついて行った
尼子経久なんかも天下のイメージが皆無であったわけではない。
今川義元は上洛ではないとか言われてるが、尾張を掌握できればもっとも天下に
近かっただろうし、まったく天下を意識していなかったなんて信じられないけどね。
もちろん信玄も信長うんぬん以前に信濃を統一して、その流れで越後まで乱入できれば
覇者に一番近いとのイメージで戦っていて不思議ではない。
今川や北条などが急速拡大すれば滅亡リスクが高まるからだ。
信長のみを挙げて天下のイメージを語るが、信長が天下布武の印判を使いだしたのも
美濃を制圧してからのこと。尾張・美濃を制覇したあとならそれくらいのことは
言えんでもないし、信玄や今川とどう違うというのか? 何故今川の上洛は天下を
狙ったものでなくて、織田は天下を狙ったもので信長だけが別格だと言い切れるのか?
単なる結果論でしかないのではないかね。


22:人間七七四年
07/08/08 20:40:09 XKjJ6C2D
>>21
概ね同意。
だけど、
>尾張を掌握できればもっとも天下に近かっただろうし、
>越後まで乱入できれば覇者に一番近い
三好。桶狭間のころは長慶兄弟も義興も生きてる。

あと、自分にレスすんな


23:人間七七四年
07/08/08 20:45:33 03UKMVB1
そうだな。三好忘れてたわ。
というか、各々天下のビジョンはあるんじゃないの?という話をね。
勝てば官軍で、何か信長だけがそうであったかのような話が一人歩きしてるからさ。


24:人間七七四年
07/08/08 21:04:06 1vn8rwTz
>>21
>>20は俺じゃないが、一応マジレス
君が考える天下と>>20の考える天下の形は多少違うんだろうが、
おそらく>>20は「天下を取る=名実共に武士の棟梁となる」と考えているんだろうな
>>20の考え方に則ってレスしてみる

>大内義興は実際に上洛して一次的に京を掌握してるし
諸大名の頂点に立つことを考えたのだろうか?
せいぜい幕政の中枢を担う程度ではないか?
最終的には領国すら危うくなって撤退している
山陰はおろか、山陽ですら掌握できていない

>尼子経久なんかも天下のイメージが皆無であったわけではない。
イメージを持つだけならともかく、経久は天下取りを実行できるような状況にない
時局で流動する彼の配下を見れば、ゆるやかな豪族連合の盟主なのは明らか

>今川義元は上洛ではないとか言われてるが、尾張を掌握できればもっとも天下に
結局掌握できなかったじゃないか。仮に掌握できたとしても、天下には程遠い
人材難の上に、頼みの綱が松平元康では…

>もちろん信玄も信長うんぬん以前に信濃を統一して、その流れで越後まで乱入できれば
信濃攻略で散々手こずった挙句、その勢いも当てにならず越後乱入できなかったのが史実だろ

>信長のみを挙げて天下のイメージを語るが、信長が天下布武の印判を使いだしたのも
>美濃を制圧してからのこと。尾張・美濃を制覇したあとならそれくらいのことは
>言えんでもないし、信玄や今川とどう違うというのか? 
当時の信長の勢力は各地方の群雄たちから頭ひとつ抜きん出ているという状態ではない
それでも天下取りを意識しはじめ、さらには「実行」に移し、ある程度は成功させている
義元・信玄・謙信・氏康たちが天下をどのようにイメージしたかは知らないが、
天下取りを「実行」に移したことがあっただろうか?

>何故今川の上洛は天下を
>狙ったものでなくて、織田は天下を狙ったもので信長だけが別格だと言い切れるのか?
>単なる結果論でしかないのではないかね。
まず今川の上洛などない
信長も初めは幕府の枠組みを利用していただけだが、諸事情があったとは言え、
足利氏を追放する前後からは、室町幕府ではなく信長自身による天下取りを意識し始めたのだろう
そんなことを実行に移したのは信長が初めてなのはまず間違いない
京から遠く離れて生涯を終えた武田や今川は勿論、細川や三好、大内とも大きく違う
歴史は結果を分析追求していく学問なのに、君は「たられば」や推測ばかりをを持ち出している

最初っからスレ違いだからこれ以上はもう控えるが…

25:人間七七四年
07/08/08 21:44:12 03UKMVB1
>>24
信長が足利追放から天下を意識しだしたんなら、別段俺の言うことと背反しないんだけど・・・
信長が尾張統一の段階から天下うんぬん言ってるなら別だけどもね。

よって、三国同盟締結して西進した今川と、家康と同盟して武田・上杉に下手に出て
西進した織田に天下のビジョンに於いて差なんて感じないんだよ俺は。
結果として勢力拡大が早かったというレベルでしかないとそういう話。
まあ歴史は結果だと言われれば、話が折り合うわけはないが。



26:人間七七四年
07/08/08 22:34:51 1vn8rwTz
>>25
尾張美濃伊勢を制圧した信長は、天下布武の印章に表されるように、
幕府ありきではあるが、はやくも天下を考え、更には迅速に実行に移している

そんな織田とほぼ同格の諸大名の例を挙げると、
駿河遠江三河の今川は、尾張制圧に手こずり
甲斐信濃に西上野の武田は、上杉相手に一進一退
謙信は関東管領の名にとらわれて無駄な関東攻略に腐心する始末
毛利は尼子の残党狩りと北九州攻略で精一杯

そんな彼らが信長と同じようなビジョンを描いていたとは考えにくいと思うし、
ましてや天下取り実行のプランなど持ち合わせていないのは明らかだと思うが

27:人間七七四年
07/08/08 23:17:33 03UKMVB1
だから、今川が尾張に手こづるのや、武田が上杉に手こづることが何故信長との
ビジョンの差に繋がるんだよ。 まあ支配形態の古い新しいはあるだろうけどな。

信長だって美濃制圧にどんだけの時間掛けてんだよ。
その厳しい美濃制圧前に天下布武の印章やらを使ってるなら、さすがにビジョン
が違うと思わんでもないが、群雄の一雄に伸し上がってから使い始めてるんだから
さほど別格だとは思わんがな。 
例えばさ、今川は天下を意識した侵攻でないとするならさ、一体その後何をするつもり
だったの? そこんとこ教えてよ。



28:人間七七四年
07/08/09 02:56:40 +lQ8aAGt
足利将軍家に日本を統治する力がないのは、ほぼ全ての大名が一致した意見だろう。
もしも戦国大名が天下を狙っていないとしたら、「日本の統治者」についてどう考えていたんだろう?



29:人間七七四年
07/08/09 03:50:12 sBqd7XUN
>>27
侵攻スピードの差は当然ながら
支配形態の新旧や大名本人の能力、さらには運など
容易に比較できない様々な要素が絡んでくるのは勿論だが、
初期信長が明確なビジョンを持ち、できるだけ正確に布石を打っていったから
瞬く間に美濃と伊勢を制圧することができたんだろうに

信玄は甲斐1国を父から受け継ぎながら、信濃攻略に生涯の大半を費やしている
義元に至っては駿河遠江の太守でありながら、結局は尾張の東半分まで
信長の美濃攻略なんて彼らと比べれば、ほんの数年だよ?
ましてや斎藤氏は織田氏と互角以上の国力を持つ国持ち大名
格下相手を支配下に入れていった武田や今川と比べて遥かに優秀な戦績だと思うが

なんか話が噛み合わないと思っていたが、
そもそも尾張時代の信長と、既に数カ国レベルの大名である今川や武田たちを
並べて天下に対するビジョンの差が見られないだとか言うことの方が、おかしくないか?
天下へのビジョンの差を比べるならば、信長が彼らと同格になった1567~1568年頃だろう

>例えばさ、今川は天下を意識した侵攻でないとするならさ、一体その後何をするつもり
>だったの? そこんとこ教えてよ。
そもそも、その後に何かするつもりで侵攻したわけではなく、
尾張の利権獲得を意識した上での、長年の尾張侵攻ではないのか?
その果てが桶狭間だろう?

>>28
実権を失っても名目上の統治者が足利氏であることは認識していただろう
偏諱や守護職補任などの例が多いことから見ても、
幕府という枠組みから脱却しきれていない大名が多かったと思う
だとするならば、実権をともなった日本の統治者の形というものを
明確に考えていないかもしれない
信長以前の戦国時代は幕府から実権が失われるにともなって
国家体制が更なる地方分権へ移行していった流れを考えれば、
信長のように再び権力を1つにまとめるという考えは異端だと言えるかもしれない

30:20
07/08/09 19:01:04 1ErRnx6X
なんか俺の長文で熱くなってるみたいで、、

信長以外の大名が上洛する目的といえばなんだろう?
おそらくは名声獲得が主な目的と思う。
その証拠に上洛途中の信玄は浜松を素通りしようとしている。
義元も目的が京だったとして、京かぶれの義元がなにかやらかすとは思えない。
謙信が上洛したとして将軍を推して足利幕府の再興が出来たかといえば、
用心棒くらいにしかならなかったであろう。

それに対して信長の上洛は名声獲得も含まれているものの、
明らかに京までの領土と堺が目的と見て取れる。
経済面を最高水準に保って、庸平をやとい天下布武の実行を年中可能にする。
他の大名はあくまで既存の権威を用い自国の拡大を進めようとしている。
三好長慶は確かに信長の原型に近いかもしれない。
信長と長慶の違いは京を手中にする大義名分。
長慶は将軍を追放し京を手に入れたが、反対勢力に押されて将軍を傀儡にするにとどまった。
それが信長の大義名分のきっかけになったのは皮肉な話だが…

あと尾張を手中にした段階で天下布武の印を使ってないのはおかしいだろとのことだが、
尾張は確かに肥沃な土地だが、尾張一国のみで天下布部など使い始めたら本当のうつけだと思う。

いずれにせよ、信長にしても美濃を手中にしてから15年。信玄は信濃を平定してから22年。
立身してからの2代目をのぞくほとんどの大名は十分な国力をもってから20年程度で
目的のビジョンを達成しなければならない。
このスピード勝負で農兵を使っている大名に勝機がないのは明らかだ。

義重なんかは、田植期や稲刈期に根比べして
退却する相手に追い討ちっていう戦法が得意だったみたいだけどね。

31:人間七七四年
07/08/10 01:07:31 U3wt/pk5
織田軍団の農兵云々の件だが、信長が荘園名主や地侍を本領や
荘園から切り離して、城下近くに新地を宛がい、城下に集住させた
ことなどは確かだが、これは多かれ少なかれどの大名でも
やっていることだ。佐竹さえも。
その荘園名主や地侍、在地領主は職業軍人的な役割も持つが、
結局のところ自分の移された新領地から足軽を動員するんであって、
それはやっぱり他の大名と少しも変わるところはない。
そもそも村人の逃散を止めようとしたり、占い師を農人にしようとするほど
人的資源が必要とされていたにも関わらず、戦争を遂行するためにも
なるべく多くの人衆を集めなければならなかった時代で、
軍人と百姓を完全分離するなんて効率が悪い方法を選択する余地はない。
「兵農分離」の目的は生産職を農村等に固定化することによって
農産等を安定させることで、職業軍人を作り出すことじゃない。
URLリンク(www5a.biglobe.ne.jp)

織田信長が天下布武の印章を使いはじめたのは、
足利義昭を奉戴することが決まったからであって、
独自の天下政権をつくることを前提としていたからではない。
三好は、後に信長が義昭を追放したのと同じように義輝殺害をしたが、
これによって京都を掌握して、もし信長が上洛してこなければ十分に
「天下布武」を行える下地はあったと見ていい。
三好と織田を比べて、三好のほうが「後進的」と見る向きがあるが、
これは後知恵に基づく余りに恣意的な見方だと思う。
信長だって義昭がいるときには奉書で文書を発給している。
三好ももっと政権が強くなり安定すれば、足利義栄を経なくても、
信長のように独自の路線を形作ったのは十分考えられることだ。
もちろん織田や三好に限らず他の大名でも、領国に将軍を迎え、
京都を領国に加えることができれば、同様のことを
達成できたと考えない理由は何もないはずだ。
現代に生きる我々は信長だけが天下に先鞭をつけたという事実から、
他の大名は天下を形作ることができなかったと考えてしまいがちだけど、
これは先にも言ったように、ずるい見方だと思う。

あと天下に覇をとなえるという考えを、大名達が持っていたかという話。
朝倉が将軍を擁したにも関わらず上洛しなかったのと、
織田が将軍を擁したらさっさと上洛したことを考えると、
各大名で温度差があったことは間違いなく、一概にどうとはいえない。
織田も朝倉も領内に不安を抱えていることは同じだからな。
そもそも信長未前は、大内、三好や茨木といった仮の「天下」を
手に入れた連中も、将軍-管領-管領代という機構を利用して
政務を行い得たに過ぎず、つまり「天下」=管領代という枠組みを
超えて考えるのはかなり難しいことだったんじゃないか。
さらに大内が途中で帰ってしまったことも考え合わせると、
遠国の大名ほど京都行きは困難と思えたのは間違いない。
信長が実質管領として行動することが出来たのは、
幕府政所伊勢氏が没落し、終には義輝が暗殺されるに及んで、
幕府の地盤政務能力ともに完全に失墜したからだ。
信長以後は、「天下」さえも実力によって押領できると
考えた大名はそれこそたくさんいた。


32:人間七七四年
07/08/10 17:04:00 nnYNlifl
20は31を見て勉強しろ。織田信者すぎて神視点で歴史を見すぎ。

33:人間七七四年
07/08/10 17:17:40 oItOAJ8T
>>31
信長は、最初から独自の天下を構想していたと思うよ。
足利の血をひく斯波義銀を追放。さらに義輝を暗殺した三好・松永を赦免。
上洛した後も、管領や副将軍を拒んだ。

室町幕府を尊んでいないのは明らかだろう。

34:人間七七四年
07/08/10 17:57:32 dwkcDs/b
そんなどこの誰だかわからん素人のブログをソースに出されても
どう反応していいのか分からないんだがw
失笑すれば満足なのか?

35:20
07/08/10 18:40:40 7RKFcgN/
俺は織田信者ではないよ。
信長もいいとこ悪いとこはあるし、実力もあるが運の要素も大きいことは承知してる。
でもある種パイオニアであることは事実。
「それまでの権威を撲滅して自分の支配体型を整える」という
外国では当たり前のことをこの時代までに誰かやったか?
足利尊氏だって天皇家は天皇家として扱っているし、
応仁以後の畿内の大勢力も結局は幕府の滅亡まではさせていない。
三好も結局は反対勢力に負けて将軍を利用する側に回っている。
これは事実上の覇者であっても名実ともにとは言いがたい。
おのれの政権をもって天下をまとめる「天下に武を布く」とは本質的な概念を異にする。

もとは義重にifがあったら天下に覇を唱えていたかという話。
結局どれだけ能力があっても本拠が畿内周辺にないと厳しすぎる。

>31
傭兵農兵のくだり、それは知らなかった。勉強不足だった。

36:人間七七四年
07/08/10 18:53:55 nnYNlifl
>いずれにせよ、信長にしても美濃を手中にしてから15年。信玄は信濃を平定してから22年。
>立身してからの2代目をのぞくほとんどの大名は十分な国力をもってから20年程度で
>目的のビジョンを達成しなければならない。
>このスピード勝負で農兵を使っている大名に勝機がないのは明らかだ。

>31
傭兵農兵のくだり、それは知らなかった。勉強不足だった。

おまえ・・・






37:人間七七四年
07/08/10 19:05:48 jRMsvZpo
\●/佐竹氏を語るスレ 其の2

38:人間七七四年
07/08/10 21:25:44 yNzOHCmV
>>37
気持ちはわかる、ここは佐竹スレだから。
ただ、「佐竹義重」が、織田信長と親交を深めていたからこそ、北関東の東のはずれにいながら、天下取りの情勢に(おそらく関東や東北では一番)詳しかったわけだし。
個人的には義重公が信長と何時の時点で知り合い、知己を深めて行ったのかが気になる。


39:人間七七四年
07/08/10 21:29:57 oItOAJ8T
>>38
「その時歴史は動いた」によると、信長が謙信を牽制するために佐竹に近づいたとのこと。

40:人間七七四年
07/08/10 21:44:03 yNzOHCmV
>>39
アプローチしたのは信長側から?佐竹側からではなく?

41:40
07/08/10 22:11:20 yNzOHCmV
この回の話かな?「謙信おそるべし」

URLリンク(www.nhk.or.jp)

->>36までの話をひっくり返しかねない、信長が謙信にこびへつらっていたという話。
で、「反織田同盟」の中心であった謙信に対し、佐竹に謙信の牽制を頼んだというわけか。
佐竹は佐竹で反北条の要として謙信には関東で出張って欲しい。
信長は信長で上方に謙信は来て欲しくない。

謙信が北条氏と同盟したという時期と、反織田同盟を結んだ時期が気になる。

謙信は、足利義昭からの要請で織田信長討伐のため、上方へ向かう必要が出てきた。
そこで、関東の安定のため、敵である小田原北条氏と同盟を結び、関東の憂いをなくそうとした。
これに収まらないのが佐竹や北関東の諸侯。「裏切りだ!」として、親類の武田氏と同盟を持ちかける。
だが、結局はともに破談。
謙信は織田勢の柴田勝家を破ったものの、直後に死去。

42:人間七七四年
07/08/12 13:59:56 zFJEjBtw
足利義昭を擁して信長が上洛した際に佐竹も同行したと言う話しはどうよ?
出典が何なのかイマイチわからないのだが佐竹義重の名があるらしい
まさか義重自身が上洛したとは考え難いが
誰か家臣を送ったのだろうか

43:人間七七四年
07/08/12 18:25:37 nWrL9tFA
>>42
はっきり申し上げて絶対有り得ない。
次は何故そういえるのかという証拠。

------------------------------------------------------------
雖未申通以事之次令申候、抑甲州武田事、対此方近年不議之躰、不
及是非次第ニ候、然而去五月於三信堺目遂一戦、甲信駿上
之軍兵多分討果、散鬱憤候、定不可有其隠候、武田四郎一人討漏候、
然間、向彼國令出馬、可加退治候、此砌一味、為天下、為自他、可
然候歟、委曲小笠原右近大夫可有伝達候、恐々謹言

     十一月廿八日        信長(朱印)
        佐竹左京大夫殿
------------------------------------------------------------
(飯野文書 織田信長書状 / 茨城県史料中世編5)


44:人間七七四年
07/08/12 18:32:05 kHF94dDp
>>43
一体それのどこが証拠なの?

45:人間七七四年
07/08/12 18:59:36 nWrL9tFA
念のため下し。

未だ申し通ざるいえども次のことを以って申しせしめそうろう。
そもそも甲州武田こと、この方に対し近年不義の態、是非及ばず次第にそうろう。
しかりしこうして去る五月三河信濃境目において一戦を遂げ、
甲斐信濃駿河上野の軍兵多分討ち果たし、鬱憤散じそうろう。
定めてその隠れあるべからずそうろう。武田四郎いちにん討ち漏らしそうろう。
しかるあいだ、かの国向かい出馬せしめ、退治加えべくそうろう。
このみぎり一味、天下の為、自他のため、しかるべくそうろうや。
委曲小笠原右近大夫伝達あるべくそうろう。恐々謹言。

念のため意訳。

まだ俺たち交際はないけど、この手紙送るから。
そもそも武田の野郎さ、この信長に向かって調子こきやがるっつー話、マジどんだけー。
まーでも今年の五月に三河と信濃の国境で武田と戦争してさ、
あの連中の将兵スゲーいっぱいぶっ殺したワケ。
ザマミロ&スカッとさわやかの笑いが止まらねーぜwww
あ、これマジだから。ウソじゃないよ。でも勝頼は逃がしちゃったんだよね。
つーことで今度はこっちから武田の国に出てってブチのめすから。
だからこの際一緒にヤラネ?天下の為でもあるしさ、あんたの為にもなるよ?
ま、そーいうわけで考えておいてよ。
細かいことは小笠原貞慶が伝えるから、じゃそういうことで。

念のためどういうことかっつーと、
設楽原合戦の時点で信長自身が佐竹と交際が無いと言ってるのに、
(つまりこの手紙が織田と佐竹の初めての文通ってことだ)
佐竹義重が、あるいはその家臣が足利義昭の上洛について行ったわけが無い。

46:人間七七四年
07/08/12 19:07:47 CrDnPbIM
>>44
文面を読むに長篠の戦いの始末を伝える手紙なのに、信長は義重に「雖未申通」、つまり「いまだ通ぜざると申せど」と言ってるからだろう。

47:人間七七四年
07/08/12 19:08:31 CrDnPbIM
ありゃ、遅すぎたw

48:人間七七四年
07/08/12 19:20:30 nWrL9tFA
ついでに補足しとくと、この手紙を見たとき義重はムッとしたろうね。
日下に宛名、しかも印章だし。ついでにこの朱印は(天下布武)。

でも左京大夫ってところに、義重はちょっとグッときたかもしれない。
義重は自分から自分の官途や受領を名乗ったことは無い(管見の限り)。
父の義昭は右京大夫を僭称していたが、
信長のすごいところはそれを知っていて考慮してあげたっつーことだ。
だから本来なら佐竹右京大夫と書きたいところだが、
右京大夫は管領の細川家にしか許されないので
信長は右から左へ受け流して、わざわざ左京大夫と書いてあげた。

49:人間七七四年
07/08/12 22:46:37 vGdvv5yE
佐竹を必死に侮辱する輩は名古屋辺りの人でなし守護代の片割れか(笑)

50:人間七七四年
07/08/13 07:02:55 xMOTvK2s
義重VS政宗って、ぶっちゃけ謙信VS信玄より上じゃね?
 
なんかこの二人は全てにおいて秀でてる感じするよな。


51:人間七七四年
07/08/13 09:43:42 mjLt2c9e
源朝臣新羅三郎義光公嫡流の佐竹常陸介義重公と「怪しい藤原系の武将を僭称し、敗戦を勝利と捏造する仙道きっての卑怯者の伊達有象無象」を一緒にするのは笑止千万也控えろ


謹んで申し上げるw



52:人間七七四年
07/08/13 12:08:23 huqXnXkc
>>45
信長と交流なくても義昭と交流はあったじゃないか
以前から将軍家に協力するよう全国の大名衆に書状送ってるし
こう言う場合は義昭から随行の指示が出るのでは?

どうでもいいが佐竹義昭と足利義昭が紛らわしいな
年代も同じ頃だし

53:人間七七四年
07/08/13 12:57:10 PS9I4JIG
伊達はキライだが力は認める。
あの外道小僧のせいで…くやしいっ、くやしいっ!

54:人間七七四年
07/08/13 13:04:09 wk87HKrS
俺は伊達オタだが、北条をチンチンにした義重公の武力、政宗を完全に凌駕した
外交能力は凄いの一言。
政宗は、義重公と駆け引きを通じて磨かれたのは間違いないね。


55:人間七七四年
07/08/13 13:56:03 REdr/y+/
>>52
たしかに義昭は上洛の指示を送っていると見られるが、
仮にそれに従ったとしても、上洛の主催者の織田信長に
挨拶が無いということは全く考えられない。
また天下統一の時代ならともかく、京都もちゃんと治まってない時代に
義重ひとりで上方へのぼるなんてことは全く有り得ない。
大体義重が上洛するとしたら国中に上洛資金の融通を
はからなければならないし、義重自身に随行する家臣や兵も
相当数必要となる。



56:人間七七四年
07/08/15 20:35:53 xrlUL8J1
>>54
「小野崎義昌、その奴婢の為に弑される」

佐竹家譜より

お前のような卑怯者は所詮義昌殿を闇討ちした悪どい卑怯者w眼帯野郎贔屓のクズだw


57:人間七七四年
07/08/21 01:12:56 +Q6HW6g/
\●/佐竹氏を語るスレ 其の2
つづく

58:人間七七四年
07/08/23 00:11:39 KkehTY2V
\●/佐竹大算系

59:仙台藩百姓
07/08/23 00:38:27 wQWXfwlM
佐竹\●/オワタ

60:人間七七四年
07/08/24 15:02:56 8M+jVHWf
>>59
ブスの都w仙台の眼帯野郎必死だなw

61:仙台藩百姓
07/08/24 19:31:50 XzVe86oL
>>60
まあまあ
水戸も三大ブスのお仲間じゃないですかお(^ ω^)

62:人間七七四年
07/08/24 20:28:48 fvnbczvj
常陸の伊達

63:人間七七四年
07/08/24 23:33:58 f1K+dkNY
「佐竹市長が知事になればいい」という声が最近、飽きた県庁内では
よく聞こえます。

64:人間七七四年
07/08/25 23:24:25 ESYhv92n
>>61
眼帯野郎必死だなw事実を晒されたからって慌てるなよw

秋田は美人どころだ、ブス天国のお前の故郷船台で十分だバカw

>>63
当然だな、北家の敬久公が「県庁に居座る恩知らずの返り忠知事」を今すぐ追放し、就任すべきだ。
秋田の県知事職は佐竹家が世襲就任するが筋、声がどうのという問題に非ず、控えろ。

65:人間七七四年
07/08/26 16:10:09 hjHy/Pqz
義重なら家康追撃して、西軍勝利してたな。
まあ義重なら東軍に付いてるだろうけど。

66:人間七七四年
07/08/26 23:21:32 F7NOffb2
佐竹厨は必死すぎるなw
伊達スレまで出張してくるw

67:↑
07/08/26 23:24:46 0W4LPhf6
眼帯野郎厨は必死すぎるなw
佐竹スレまで出張ってくるしなw

68:人間七七四年
07/08/27 01:46:40 7CnBe3QO
戦国無双シリーズが新たに出たけれど、またしても義重公はハブにされてます・・・。


69:人間七七四年
07/08/27 01:52:37 HSq1j4Bw
関ヶ原では徳川からは常陸、下野、磐城、陸奥、下総百万石に封するという書簡があった。しかし佐竹義宣の観望反復を咎め、出羽久保田に18万石で転封

70:人間七七四年
07/08/27 07:45:21 tISv8+W5
実際に東軍についてもそんなにもらえんだろ

71:人間七七四年
07/08/27 07:58:44 UJiYl/WX
江戸に近すぎるしな

72:東義久ってどお?
07/08/27 10:28:40 5/JO3vwj
手元に資料がないのでうろ覚えなんだけど…ちょっといい?
『佐竹氏物語』によると…
家康と義久との間で、「双方存命の限り佐竹の領地を安堵する」とのやり取りが合ったらしいよ!!
(確か義久は東軍に参陣して上田城攻めに参加したらしい…間違ってたらゴメン)
だけど、義久は、1602年5月に死んだから、その後秋田に飛ばされたらしいね!!

73:人間七七四年
07/08/28 12:06:59 ZjsslJW7
関ヶ原後に戦勝祝いに江戸へ行かず
しばらく引き籠もったのはふてくされてたからか?
あるいは殺されると思ったのかな


74:人間七七四年
07/08/29 00:27:51 MQZKtLsu
>>74
恩義のある三成を結果的に見捨てたことを悔いて、喪に服していたとも・・・。

>>72
本多正勝は佐竹を転封すべしと主張、家康は東義久との盟約からなんとかのらりくらりはぐらかし。
義宣公もそのやり取りを伝聞で、耳にしていたと思われ。
泰久の死後、盟約がなくなったことで正勝の主張が通った。
転封を義宣公があっさり受け入れたのも、事前にやり取りを耳にしていたことから、うすうす覚悟を決めていたのだろう。


75:人間七七四年
07/08/29 00:34:44 SiMxCPaM
あっさり受け入れるのは当然
関が原終わっても
なお家康に歯向かおうなんて奴はよっぽどの馬鹿

76:人間七七四年
07/08/29 06:39:30 vB5+cnkk
関宿城って佐竹が北条氏に進呈してくれたようだね。
その以降は北条氏が北関東を攻略する為の重要な拠点になったんだろうな。
名君・氏康公は「一国分の価値が有る」って喉から手が出るほど欲しがった城なんだよね。

「これも関東の盟主たる北条氏の御為」と働いてくれた佐竹義重を褒めてやりたい。
しかもアホ謙信に大恥をかかせてるし。
俺にとっては戦国一、痛快な出来事。

77:人間七七四年
07/08/29 09:14:58 fsQp11kS
>>76
お前のような卑しい小田原下人に褒められる義重公ではないよw

78:仙台藩百姓
07/08/29 13:54:32 LrYrKyBR
御家が潰れたんじゃ関宿も糞もないおね(≧ω≦)プッ

79:人間七七四年
07/08/29 17:26:09 fsQp11kS
負けた戦を勝ち戦とホラ吹く「えげつない嘘吐き眼帯野郎の御家」に比べれば潰れたといえ小田原の伊勢一味はよほどまともだなw

80:人間七七四年
07/08/29 18:50:06 SiMxCPaM
伊達に言いようにやられたのが、よっぽど悔しいようです

81:仙台藩百姓
07/08/29 19:18:19 LrYrKyBR
伊達相手には完敗だものね( ^ω^)
でも佐竹も優秀だと思うお
義重が蛆政ぐらいの国力受け継いでいたらパクり北条氏ぐらい軽く滅ぼしたおね

82:人間七七四年
07/08/29 19:40:54 tYKaDkmp
>>81
そろそろ現実と向き合おうか

83:人間七七四年
07/08/29 20:25:48 YIT2Y2HZ
>>81
完敗?プッ眼帯野郎嘘八百の武勇伝を信じているバカ乙w
完敗のソース出してみろwほら吹き眼帯百姓w

84:人間七七四年
07/08/29 21:19:31 q0KAYw1g
煽んなハゲ

85:人間七七四年
07/08/29 22:57:04 SiMxCPaM
某巨大掲示板で最も馬鹿にされている大名の1つである伊達に
煮え湯を飲まされ続けて没落した佐竹の信者が最後の抵抗を見せています

86:人間七七四年
07/08/30 01:02:25 SvCnYocN
どうやら創価北条に目をつけられてしまったようです
本当の意味で信者ですから由々しき事態ですぞ

87:人間七七四年
07/08/30 01:56:27 jsILf1Dy
みんな仲良く

88:人間七七四年
07/08/30 02:08:57 UiT7bgKc
東軍についたとしても江戸に近すぎるからなんかいちゃもんつけられて取り潰されそう。か、もしくは加増の名目で陸奥の会津か米沢、福島あたりに75万石

89:人間七七四年
07/08/30 07:00:48 ZUz0c3Jd
佐竹が人取橋で怖じ気づき、敵前逃亡した事実に変わりはない。
この失態のため、翌年二本松城が簡単に伊達の手に入ってしまった。
つまり、佐竹は二本松城を支えきれる力量がなかったわけだ。

90:人間七七四年
07/08/30 09:28:10 ENLjjCro
>>89
↑の眼帯野郎贔屓の仙台の田舎者は大ホラ吹きだということが良くわかったw

人取橋では眼帯卑怯者の大負けだろヴォケw
眼帯野郎は黒脛巾組とかいう卑怯な殺し屋を使って小野崎義昌殿を闇討ちしたクズだ。

91:人間七七四年
07/08/30 15:05:08 SvCnYocN
そもそも佐竹が二本松城を守る義理などない
二本松の同盟国の葦名の友好国と言う間接的な関係
地理的にも遠すぎる
太田~二本松間は軽く150kmはあり、おいそれと行き来できる距離ではない
それに白河、石川、二階堂、田村など他勢力の土地を通過しなくてはならず
風向き次第でいつ退路を絶たれるかもわからない
更に北条でも侵攻して来た日には常陸や下野南部に引き返すとなると
太田からでも100kmぐらいはある
陸奥に入り込んでいたら400km近い距離を強行しなくてはならなくなる
昔は徒歩でよくこんな長距離移動したものだよな

92:人間七七四年
07/08/30 19:07:15 3d8+MQk3
>>90
>人取橋では眼帯卑怯者の大負けだろヴォケw
大負けの理由上げられるか? 罵倒しかできないお前じゃ無理だろーなw

>眼帯野郎は黒脛巾組とかいう卑怯な殺し屋を使って小野崎義昌殿を闇討ちしたクズだ。
戦国で勝つための作法に卑怯とか言うなよww

93:人間七七四年
07/08/31 00:46:03 JLbRRkiz
百姓は北条相手に変なアンチやってる時以外はそこそこまともな事を言ってる。

まぁなんつーか闇討ちとか卑怯とかって政宗信者からすりゃ褒め言葉だそりゃw

94:人間七七四年
07/08/31 01:10:31 nIqCs0VE
宇喜多厨ならともかく伊達厨にとって褒め言葉ではないだろう
まぁ卑怯とか言ってる>>90は末期患者
佐竹氏は正々堂々のリアルファイトだけしていたらしい

95:人間七七四年
07/08/31 09:40:34 RY8ZnSBq
>>90
>大負けの理由上げられるか? 罵倒しかできないお前じゃ無理だろーなw

完敗のソースお前が書くのが先だよヴォケw所詮眼帯野郎贔屓のあんたじゃ無理か(プッ

96:人間七七四年
07/08/31 10:21:19 LCIOTJB5
あららアンカー間違えて自分にレスしてるしw

97:人間七七四年
07/08/31 10:29:19 ZmS1y4tt
低脳だからしょうがないよ

98:人間七七四年
07/08/31 11:38:23 RY8ZnSBq
>>97
おまえがなw

99:人間七七四年
07/08/31 12:05:22 Fi9+zbPE
政宗を追い詰めたのはいいが、詰めを誤ってトンズラ。
佐竹って間抜けだわなw

100:人間七七四年
07/08/31 13:57:24 RY8ZnSBq
>>99
お前の日本語はかなり間抜けだがなw

101:人間七七四年
07/08/31 15:15:53 +ZfI3ZvX
義昭があと10年長生きだったら
常陸統一出来ただろうか
大じょう家は乗っ取ったし南は小田だけ
西はどうだっけ

102:人間七七四年
07/08/31 19:18:36 nIqCs0VE
ここまでレベルの低い信者はみたことねーなw

103:↑
07/08/31 20:54:19 5zzyavqI
と、創価北条のレベルの低い狂信者が佐竹スレで吠えておりますw

104:人間七七四年
07/08/31 21:02:31 t/6cgkpV
軍神謙信も、義重には頭を下げたのはまぎれもない事実。

105:人間七七四年
07/08/31 21:21:30 Eq1TvmF8
はー佐竹ちょいなちょいな

106:人間七七四年
07/08/31 21:41:40 5zzyavqI
>>102
佐竹スレまで出てきてご苦労なこったw
レベルの低い信者って、まさにお前自身のことじゃないのかw

107:人間七七四年
07/08/31 21:45:03 t/6cgkpV
戦国屈指の北条軍団も、鬼義重公の武神の如き軍略の前では児戯も同然。


108:人間七七四年
07/08/31 23:33:14 JLbRRkiz
何でいきなり北条なんだろう・・・今の話になんか関係あったか?

109:人間七七四年
07/09/01 02:32:00 spkmgo4w
佐竹義昭は上杉憲定の末裔

110:↑
07/09/01 12:12:15 JHR8+rtY
と、身分卑しい乞食の末裔が必死ですw

111:人間七七四年
07/09/01 12:26:26 N6vVjQTw
摺上原の一戦でそれまでやってきた対伊達戦略が全て御破算になっちゃったからな
芦名家に直系家臣入れて粛清やったのが仇に

112:人間七七四年
07/09/01 13:57:18 BKCJcUim
謙信厨によると佐竹はアホだそうですw

188 名前:人間七七四年 投稿日:2007/09/01(土) 13:44:41 ID:1MhTDAhP
>>184
あれは関東諸豪族(つーか佐竹と太田)がアホなんだと思うけど
佐竹って関宿の重要さが今一つ理解できてなかったのでは
落城寸前の羽生と関宿を救うのは越相同盟しかない状況
謙信は広田氏と簗田氏を救う為、北条と同盟するのは当然
救援する力の無い佐竹、散々ドジ踏んだ太田はこれに反対できる立場じゃない

一方佐竹は第三次関宿合戦でも散々救援を渋った挙句
あろうことか関宿城を北条へ渡す仲介役まで果たしてる
このような佐竹の裏切りを関宿城主・簗田晴助は終生、恨んだという
結果この関宿城が、北条による北関東侵攻の重要拠点になってしまった
もし仮に秀吉が数年でも遅れていたら、佐竹滅亡の因子になっていた

永禄~天正にかけて行われた関宿城を巡る謙信と佐竹の対処を比較すると
謙信に理が有ったとしか思えない
謙信自身も有り得ない佐竹の判断に「天魔の所業か」と驚愕してるし


113:仙台藩百姓
07/09/01 15:18:41 29pYHf+M
むしろ謙信が何考えていたのか甚だ疑問であるお
この頃三国同盟が破綻して武田の激しい侵攻が続き北条も手を焼いていたお
そこで北条を攻めるなら駿河に忙殺されてる今しかないと義重は謙信に持ち掛けた
一方、武田に苦戦していた北条も危機を感じて上杉と和睦を謀る
ここで何故か謙信は敵側の北条の話しに乗るわけで
北条と同盟という政策を180゜転換するような事をした
結局相越同盟は意味がなく北条に利するような結果になっただけであったお

義重の関宿明け渡しも確かに不可解であるお
謙信への当て付けだろうか
奥州で葦名・白河と対峙中であったから単に余裕がなかっただけかもしれんけど

114:人間七七四年
07/09/01 15:51:42 /czl8bkU
越相同盟の時はその前の永禄9年に厩橋の北条高広が離反して謙信の関東拠点が
沼田まで後退するという局面にあったわけで(きっかけは臼井城の敗戦と箕輪落城)、
謙信としては北条を攻められる状況になかった。

むしろ同盟交渉の中で厩橋はもとより武蔵の一部まで割譲を要求して勢力を取り戻す
のが今後の前提ともなる。佐竹・里見は反対するが、彼らの了解を得るためにも
北条には強く出なければならなかったわけで、交渉は難航した。
その一方で謙信は里見と北条との和解の仲介もしている(うまくいかなかったが)。

謙信は越相同盟で勢力を回復、同盟が破れた後の攻勢の足がかりを得たので、意味が
ないなんてことはない。

115:人間七七四年
07/09/01 16:09:27 A7DlVNkP
同盟が破れた後攻勢になんか出れてたっけ?

116:人間七七四年
07/09/01 16:41:16 /czl8bkU
>>115
現実には天正2年に北条が関宿城に攻勢に出て、謙信は佐竹との連携がうまくいかず
救えなかったわけだが(血判起請文の時)、これは佐竹側が越相同盟で謙信に不信感を
持っていたからだとも言われているから、そういう意味では越相同盟はマイナスに働いて
いるね。

その後天正4年にも謙信は出兵して金山城と思われるところを攻めた。
これにふれた謙信の手紙(5月30日付)は天正2年とされることもあるが、本願寺との
和睦後の情勢(天王寺付近で信長軍が敗北)に触れているので天正4年と思われる。
『上越市史 別編1』は天正4年としている。
その後は謙信が死ぬので越山はないが、最後に関東出陣を準備していた。

117:人間七七四年
07/09/01 17:13:12 VbL+D1/2
関宿は永禄十二年五月にはヤバい状態だったそうだし
急いで救援に駆けつけても遅い・・・っていうか
上杉が厩橋&金山を無視して関宿まで来るなんてなぁ
そんな危険を冒すのは無茶過ぎる

やっぱ確実に関宿を救えて、且つ厩橋まで戻ってくるのだから
越相同盟しかないわな
そこんとこ資正や義重はどう考えて反対してたんだか

118:仙台藩百姓
07/09/01 17:30:54 29pYHf+M
>>115
武田も上野に介入して来てグダグダになったお
武田と和睦した北条も盛り返して来て
北陸方面も忙しくなり関東支配どころではなくなった
再び関東に介入したが天正2年には佐竹に拒否された為
武蔵一帯を焼き打ちして帰国するに留まった
天正5年には房総方面が北条に攻められて危機に陥り
謙信に越山を求めたが今度は謙信が動かなかった為北条側に組み込まれてしまった
そして同じく上杉側の結城も北条の攻撃にさらされ危機に陥り
佐竹は奥州白河で葦名に敗れて苦戦し身動きが取れず
この状況を恐れた北関東諸氏はこぞって北条側に従ってしまう事になる
で、翌年に謙信が死に北条の独壇場と化してゆくわけだお

119:人間七七四年
07/09/01 17:51:05 njMhp862
越相同盟っていうのは結局のところ頭越しに結ばれたもの
それまで反北条で謙信に尽くしてきた連中からすれば、見捨てられたと見ても仕方無い
同盟で謙信は間違いなく利益を得るが、関東諸侯からすれば劣勢が頽勢に悪化するだけ
後北条を牽制してくれる大勢力が一気になくなるわけだから
謙信からすれば裏切りなどで喪失した領土を取り戻す話だろうが、佐竹らからみれば死活問題だよ

120:人間七七四年
07/09/01 17:58:51 VbL+D1/2
>>118
武蔵一帯を焼き討ちにしたのは関宿救援の前じゃなかったっけ?
とりあえず兵站を切ってから北に向かおうとしたら佐竹が同陣を拒む
そうこうしてる間に関宿が落ちてしまったので羽生を自落させ関東を去る
関宿を得た北条は房総へ北関東へ伸張

121:人間七七四年
07/09/01 18:18:47 VbL+D1/2
>>119
ひとまず関宿の危機が去れば北関東、房総も一安心だし
北条の伸張を大きく阻む事が出来たのでは
さらに厩橋が帰服すれば越後からの来援がし易くなる
実際、上杉は越相同盟が破棄された後
利根川の増水に阻まれたとはいえ、何度か羽生を助けにきてる
しかし同盟を結ばず永禄十二年の段階で関宿が落ちていたり
厩橋が北条方のままだったら
天正二年の関宿救援活動には到らなかった

122:仙台藩百姓
07/09/01 19:41:29 29pYHf+M
優勢だった上野支配を放棄してまで上杉と和睦を急いだと言う時点で
いかに北条が切羽詰まっていたか分かるお
氏照らに関宿攻めさせたものの同月に武田の駿河侵攻が始まり対応に追われた
氏政は駿河支援に赴くものの戦況は芳しくなかった
要するに関宿どころの話しじゃなかったわけだお

123:仙台藩百姓
07/09/01 20:00:50 29pYHf+M
相越同盟が関宿救援目的なわけないじゃんお( ´ω`)
なにせ関宿城の簗田氏自体が相越同盟に不満で上杉から即離反したのに
それに天正2年の関宿開城の際も佐竹ら諸氏は関宿を見捨てたわけではない
佐竹らの援軍は城内に入って長期に渡り激戦を演じている
要するに「上杉には」協力したくないと拒否したわけで
相越同盟は関東諸氏と思いの外深い亀裂を作ったわけだお
無論上杉の関東政策に支障をきたしたのは言うまでもない


>>120
帰りにも岩付などを焼き打ちして羽生城を落として帰国しているお

124:奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
07/09/01 20:04:42 tC0tY9Xt
ここ、佐竹スレだよな?

125:人間七七四年
07/09/02 00:39:38 6RP8pIts
佐竹は北関東以外に南奥州にも出張っていたから、そっちのほうとの兼ね合いですかね?
岩城氏や葦名氏とのやり取りはどうなっていたんでしょう?

謙信も織田信長討伐の神輿に乗せられて、そうそう関東に出張ることもできなくなったわけだし。

126:人間七七四年
07/09/02 00:55:02 5VV+ZYH3
>>123
でも相越同盟によって関宿城の現状維持と北条軍の撤退、山王山砦の破却が
行われた。謙信側が要求した通りになって関宿城は窮地を脱したと。まぁどこも
大抵そう説明してるわな。

三次関宿攻防戦で佐竹勢が数人城内に入ってもなぁ。包囲する北条軍が三万
規模じゃ気休めにしかならん。この急場に接して「上杉には」とか言える余裕。
後詰めする気が初めから無いと思われても仕方がない。

127:人間七七四年
07/09/02 02:47:51 Py1ephI3
>>110
佐竹義昭は上杉憲定の末裔って本当のことだし
事実を受け入れられないキチガイは氏ねよ

128:人間七七四年
07/09/02 03:14:34 xX+qqvZV
今まで北条討伐すると言うから協力してきたのに
北条と同盟するなんて本末転倒もいいところ
反北条勢力にとってあり得ない裏切り行為なのは間違いない
でも謙信にだって都合があるわけだから仕方がない
それだけの話しだよ

129:人間七七四年
07/09/02 06:57:25 VR0ZcgqH
反北条勢力って、もし仮に謙信の越山が無かった場合
ずっと早い年代(永禄初あたり)で既に青息吐息だったのでは
北条討伐だから協力したっていうより、生き残りを賭けていただけ
せっかく協力し合って築いた各勢力を保つ為にも
時として大義名分より、拠点の確保を優先すべきだった
それが相越同盟であり第三回関宿合戦だと思う

130:人間七七四年
07/09/02 07:48:26 qA0He/en
まぁそりゃそうだろうけど、そこで大義名分を捨てるぐらいなら
謙信って何の為にそこまで頑張ってたんだろな。

131:人間七七四年
07/09/02 10:16:14 2lJg2Jg1
>>130
人は変わるものだろ

132:人間七七四年
07/09/02 12:56:17 aWIv7uup
越相同盟は北条が武田に攻められてやむなく結んだものだから、その期間中は
北条も武田との対戦に忙しくて関東で攻勢に出にくい。
北条が武田と講和するようなら上杉は越相同盟を切る(実際には北条側から
切ったと思うが)というのが当初からの腹づもりなら、息継ぎ期間として関東諸将に
とっても悪くない話だったと思う。

いずれにしても関宿のときの佐竹は謙信が血判起請文を書いたら出兵するような
ことを言いながら、謙信がそれを書いても兵を出さなかったのはあまり褒めた話では
ない。

133:人間七七四年
07/09/02 13:28:40 xX+qqvZV
上杉が一方的に裏切ったのが原因だから文句言われる筋合いはないわな

134:人間七七四年
07/09/02 14:01:01 VnT7BoBs
>>130
直接的には良い格好する余裕がなくなったからでしょ
北条氏の北進を止められないどころか、子飼いとして配置したはずの北条高広らにすら離反された
さらに武田とは相変わらず泥仕合状態
我が身を思えば、協力者に過ぎない佐竹らへの義理は落ちる

135:人間七七四年
07/09/02 14:24:57 aWIv7uup
大義名分の面では、謙信は足利藤氏を氏康に殺されてしまったのが痛いね。
越後に連れて行けば安全だったろうがそれでは古河公方と言えないし(越後は
関東公方の管轄外)。

藤氏が死んだので謙信も氏康の手駒の義氏を古河公方として認めるしかなかったし
氏康も謙信を上杉憲政の後継者として認めて「山内殿」と手紙の宛名に書いた。
そういう風に大義名分を互いに認めたから越相同盟も成立したわけだが。

136:人間七七四年
07/09/02 15:01:46 KAqFSYmE
いずれにせよ関宿が落ちた事で、
里見が勢力を削られ、佐竹もジリ貧状態へ。
いかに重要な城だったかが証明される結果に。
謙信がナリ振り構わず保持しようとした訳だ。
一度奪われたら、取り戻すのは相当困難だと分かっていた。
佐竹義重や里見義弘は後悔する事甚だしかったのでは。

137:人間七七四年
07/09/02 20:14:34 AB0gSgXx
謙信は実力的に北条を抑えられず牽制にすらならない
外交譲歩に走って完全に当てにならないとわかった後、義重が取った行動は北進
白川家を乗っ取り、反伊達連合を画策して後背で勢力を拡大しようとした
一時これは成功し、芦名家も実質乗っ取ることで佐竹の勢力圏は百万石に迫る
が、ここで「独眼竜」伊達政宗は寄り合い所帯である反伊達連合を出し抜き、芦名を摺上原で各個撃破することで連合を瓦解させた
これで佐竹独力で後北条に対抗しうる芽は完全になくなり、秀吉に頼ることに

138:人間七七四年
07/09/02 21:54:55 IbNR/PHs
遠国から峠を越え、大河を越え、はるばる助けに来たのに。救援すべき要衝と隣接した大名は危機感0。
現実的な思考も出来ない。協力しようとすらしない。流石に救いようが無い。

139:人間七七四年
07/09/02 21:58:58 5G+VAhJQ
佐竹には佐竹の、上杉には上杉の都合があってそれがいつまでも一致しなかった
それだけさ
根本的な原因は、上杉や佐竹らが連合しても北条にはかなわなかったという根本的実力差
唯一のチャンスは小田原攻囲陣だったが、11万対3万で敗北していりゃ世話無い

140:人間七七四年
07/09/02 22:04:29 tqAWcGw2
謙信の本拠地が上野だったらまた別だったろうけどな。

141:人間七七四年
07/09/02 22:47:08 UZ6FrhoH
>>139
小田原包囲にも色々都合があったんだがな

大凶作の年で兵站を確保できなかった とか
よって一月弱包囲するのが精一杯だった とか
本陣が越後兵5,6千人程度じゃ数万を指揮するのは無理だ とか
そもそも11万どころか5万も居なかったんじゃないか? とか
関東諸侯も渋々参加していて、やる気が無かった とか

それでも小田原包囲まで漕ぎ付けたのは大したもんだし
以降は武蔵まで防衛ラインが一気に下がった
これって上杉は勿論、里見、佐竹、由良にとって実に大きかったかと

142:人間七七四年
07/09/02 22:57:22 TnOFKjFq
言っても仕方ないんだろうが
そもそも関東管領の本拠が越後にあっちゃねえ。


143:人間七七四年
07/09/03 01:01:51 qRsSGf/r
越後上杉が関東に介入するのは15世紀以来の伝統みたいなもので、結城合戦で
結城城攻めの主力になったのは越後守護代長尾実景で、春王丸・安王丸の首を
切ったのもこの男。
享徳の乱でも越後守護上杉房定率いる越後勢が長陣した。
また関東管領は越後守護家やその分家の上条家から養子で継いだ例が多い。

そういう意味ではおかしくないんだが、上杉憲政は祖父の顕定を謙信の父の長尾
為景に殺されているので、普通はそういう者のところに転がり込んだりしないだろう。
よほど切羽詰まっていたか景虎に人望があったのか。

また関東管領は関東が本拠の方がいいからといって、憲政が最初に話を持って行った
佐竹が管領を受けても謙信みたいなわけにはいかなかったろう。

144:人間七七四年
07/09/03 03:33:54 p5nDuuUw
近衛と南原以外で佐竹氏扱った小説ってありますか?

145:人間七七四年
07/09/03 10:43:44 HRiiU6oU
>>143
上杉顕定は憲政の祖父ではないよ。憲政の父である憲房と
又従兄弟関係にあるから、血縁は意外に遠い。

ちなみに上杉顕定を討ったのは、正確に言えば高梨政盛。



146:人間七七四年
07/09/03 10:57:13 C4ZvR+pv
単純に、後北条周辺でこれと敵対してくれそうな最大勢力が長尾だったってことだろうよ
筋目からいえば、佐竹ですら管領家になるには家格不足
問題とされたのは実力という一点
実際は期待はずれもいいところで、一時期北条をかき回すのが精々だったわけだが
この手の野合が成功した例は滅多にないよ
仮に北条を滅ぼせたとしても、今度は反北条勢力間で争いが始まるだけ

147:人間七七四年
07/09/03 13:42:16 F2uby8Da
佐竹義重が敵七騎を一人で切り捨てたっていう武勇伝って出典は正確なの?

148:143
07/09/03 13:53:47 xouEqRw4
>>145
そうですか。私の見た系図は『新潟県史 通史編2 中世』205頁に掲載の系図と
井上鋭夫『上杉謙信』22頁掲載の系図ですが、いずれも

房顕=顕定=憲房―憲政 (=は養子相続)

という系図で、憲房は顕定の養父房顕の甥だったのが顕定の養子になったと
されているので、養祖父ですが祖父と書きました。

149:人間七七四年
07/09/03 22:55:14 CIUTZXch
\●/佐竹 伝家の宝刀 綱切

150:人間七七四年
07/09/03 23:06:27 XvxBLier
>>146
上杉憲正が頼った頃の越後ってさ
それほど期待できる状況ではなかったのでは
上田長尾と交戦中だわ
それが解決しても大乱に継ぐ大乱で
あまり春日山に心を寄せてない国人が多数存在
第二次(?)川中島の時点ですら、派兵依頼を無視する揚北国人が居る始末

商人や民も隣国へ逃げ散っていたそうで越後国内は疲弊
上野に逃げて来た商人や民から越後の内情を耳にしていた場合・・・
とてもじゃないが後北条のような強国と対峙出来るなんて期待は抱けない

小田原包囲直前の唐沢山城後詰も北条軍の三分の一以下だったようだし
そんな越後がよくあそこまで粘れたもんだと、逆に感心する

151:人間七七四年
07/09/04 00:08:46 JbtYkeZG
>>143
主力じゃないよ

152:東義久ってどお?
07/09/04 13:13:55 L45VZzNt
>>147
確か『名将言行録』『(人物往来社の)佐竹義重』だったと思う。
ちなみに1571年の下妻城攻防戦の時の5/28岩井の戦いでのこと。

他にも暗殺を恐れて、寝床を移動させたり…
朝起きて最初にすることは、近臣の刀を抜いて、ちゃんと手入れをしているか否かを毎日チェックしていた。
(生活指導の先生みたいにね!!)


153:人間七七四年
07/09/04 15:17:55 pnlb19rV
佐竹が出羽に移封になった後、なかなか石高が確定しなかったのは
幕府の嫌がらせですか?

154:人間七七四年
07/09/04 21:04:29 lkNSvZEW
佐竹が動いてたら改易かなんかされてたのかね。
まぁよくも21万で残ったわな。上杉ですら30万だし。

155:人間七七四年
07/09/04 21:51:38 sYP+qkb8
米沢上杉の実高は50万超、久保田佐竹の実高は40万超

156:人間七七四年
07/09/05 09:48:21 cr+6JIjG
山内上杉と越後長尾は長尾憲長がかなり頑張って関係改善したらしいけどね

157:人間七七四年
07/09/05 09:53:55 sYDLQnlu
長尾憲長の家系は山内上杉にかなり忠実だったな

158:人間七七四年
07/09/07 10:30:30 eP/nZDQL
>>153
未検地部分が多かった

159:人間七七四年
07/09/07 23:52:15 jhYJgnnz
放置プレーでいぢわるして所領安堵は島津のがまし

160:人間七七四年
07/09/09 20:31:56 W+87hFXJ
佐竹の1602年以降の持ち城は
久保田城と横手城と何処?

161:人間七七四年
07/09/09 22:44:57 MIwU4ZLB
六郷城、院内城、大曲城、浅舞城、能代城、檜山城、米内沢城、湊城、金沢城、十二所城、横手城、長野紫嶋城、角館城、増田城、湯沢城、比内城、大館城

162:人間七七四年
07/09/11 20:51:15 SHEypwJk
\●/天徳寺 あげ

163:人間七七四年
07/09/11 22:02:46 /XDtjyTV
源朝臣佐竹冠者千秋万歳!

164:人間七七四年
07/09/12 01:04:33 QzdQIq1c
問題。○の中には何が入るか?

義宣
義広
義隆
義○


165:人間七七四年
07/09/13 00:40:59 E7yAwCt2
(三)天寧寺 あげ


166:人間七七四年
07/09/15 23:08:57 QWl+SAkp
上杉憲定-佐竹義人-義俊-義治-義舜-義篤-義昭-義重-義宣

167:人間七七四年
07/09/20 20:46:14 vrJiIar7
実質、上杉の分家やないか

168:奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T.
07/09/20 23:14:16 3BJG1pM2
何をいまさら。

169:人間七七四年
07/09/21 00:51:58 etgliYHi
婿養子出しただけで乗っ取れるなら誰も苦労せんわ

170:人間七七四年
07/09/21 01:08:14 QPQXgtin
||●|| 天鷹??あげ

171:義広
07/09/21 08:40:52 /NT4dcBI
そうだ!そうだ!
169のいうとおり!

172:人間七七四年
07/09/21 10:21:41 lxKEsfOw
>>169
お前が言うな

173:人間七七四年
07/09/22 00:10:54 D8/1BqVJ
>>171
葦名義広www

>>172
( ^ω^)?

174:人間七七四年
07/09/24 14:08:28 N97D/vdr
>>172は間違えてるな

175:人間七七四年
07/09/26 09:49:54 lI4RjGie
佐竹義重の軍事的な最大の功績ってなんだ?

176:人間七七四年
07/09/26 13:37:43 mPNA4dZT
>>175 辛うじて奥七郡を守りきったこと

177:人間七七四年
07/09/26 13:51:01 g/C0lSFK
辛じどころか最終的に見ても佐竹最大版図築きましたが

178:人間七七四年
07/09/26 16:34:48 nfZUgn28
秀吉の覚えがめでたかったおかげだな
対豊臣政策は大成功だろう
そこでミスってたら北条と伊達に更に領土を削られて
せいぜい小大名、もしくは江戸時代に高家になっていた

179:人間七七四年
07/09/28 09:58:24 2lL1NfV9
>そこでミスってたら北条と伊達に更に領土を削られて

それ豊臣政策と関係あるのか?

180:人間七七四年
07/09/28 15:55:03 u6OD5dkn
>>177
最大版図(というか領地)は義宣の代、と言いたかっただけ
義重は直轄領拡大にはさほど熱心ではない、義昭や義宣と比較すると
外交上手で勢力圏は広げたけど

181:人間七七四年
07/09/28 17:34:59 WKYBEyX6
佐竹は小田を攻める際、よく謙信や宇都宮に手伝ってもらってるけど
小田の平城くらい佐竹だけで対処すれば良かったのに
そうすれば謙信も国府台や箕輪衆(倉賀野)救援に集中できてた筈

182:人間七七四年
07/09/28 19:20:00 slcTBpYQ
関東管領として北条と対立してた上杉を差し置いて
単独で北条派である小田に攻め込めるはずないだろ。
んなことしたら下手すれば上杉と佐竹が対立関係になる。

183:人間七七四年
07/09/29 00:03:02 BRC0m0cW
小田と上杉の仲が悪ければOKだろ

184:人間七七四年
07/09/29 01:43:46 Jg3Kugm3
>>182
里見(正木)は単独で臼井城~生実城攻めたじゃん
謙信が北条を牽制してる内に落とした

185:人間七七四年
07/09/29 03:29:46 dRKgfQej
単独で小田戦えるだけの力がなかったというのが真相じゃないか
江戸や大掾にさえ手こずっているのに、小田は腐っても関東八屋形

186:人間七七四年
07/09/30 23:57:22 tfFILZC6
小田は佐竹に連戦連敗

187:人間七七四年
07/10/01 12:34:40 vrggFCv6
佐竹はフィギュア筋肉オタク

188:人間七七四年
07/10/01 22:15:10 NwtrLSzG
小田は多賀谷にコテンパン

189:人間七七四年
07/10/02 01:49:44 aAeJB5w2
小田原参陣までは、佐竹に小田を潰す意図はなかった。
常陸守護ではあるものの、関東八屋形の顔を立て、宇都宮同様に味方になってくれればよかった。
だが、小田原参陣以降、世の動きから「それは甘い」という認識を持った。
三成を通じ常陸守護の正当を勝ち取った一方、佐々成政が肥後守護で現地とトラブル起こし、結果死罪したのを見て、常陸内の反佐竹勢の一掃にかかる。
あとは知るべし。小田原に参陣しなかった連中を関白承知の名の下、次々と葬り去った。


190:人間七七四年
07/10/04 13:30:04 6bPjGo+h
大縁一族(´;ω;`)かわいそうです

191:人間七七四年
07/10/08 17:19:44 65FKa/bM
復活age

192:人間七七四年
07/10/10 10:01:17 mjk86sYo
層化相加

193:人間七七四年
07/10/11 10:15:02 mwOgec59
>>190
ゆりしーポジかwww

194:人間七七四年
07/10/11 10:17:12 N/1xmGhh
せめて人取橋と沼尻の戦いで勝ってたらな…

195:人間七七四年
07/10/12 06:04:57 VuS7GzQu
それでも生き残ったんだから有能だよ。ご子孫が市長してるのが何よりの証拠。

196:人間七七四年
07/10/12 09:26:48 ajWNfy9c
秋田に飛ばされたけどな。
関ヶ原で徳川に明確に叛旗を翻した上杉景勝よりもヒドイ扱いだなw


197:人間七七四年
07/10/12 11:18:09 Qlvk6rvi
常陸に外様で50万石以上の大名を置くわけにはいかんだろう

198:人間七七四年
07/10/12 11:37:43 ajWNfy9c
だから上杉と協調して関ヶ原に向かう家康を追撃してればよかったのに。上杉が伊達を牽制してくれるんだし三成も尾張侵攻できたろうに。
佐竹の曖昧な態度に家康公は卑怯なりと大変ご立腹で島津や上杉よりも佐竹を憎んだという。


199:人間七七四年
07/10/12 12:32:33 tliONAuR
家康が佐竹不戦を恨むなんて捏造っぽくない?
小踊りして喜びこそすれど

上杉と佐竹が関東を攻めれば家康は江戸から離れられず関ヶ原の東軍は総大将のいない西軍と同じ条件になり、統率の取れない東軍が史実のような完全勝利を得るのは不可能と思われる

小早川の寝返りや毛利、吉川の不戦も覆る可能性があった

目立たないけど佐竹の不戦は関ヶ原にかなり大きな影響を与えたね

200:人間七七四年
07/10/12 12:44:05 ajWNfy9c
隠居した父の義重は家康に通じてたが息子の佐竹義宣は三成派で小山会議の時点でもいまいちどちらにつくか帰属を鮮明にしなかったから家康は結城を残し牽制させ、なかなか江戸から西上しないで様子をみていた。
ようは二股外交というか山崎合戦の筒井氏みたいな様子見してたので家康は怒り関ヶ原後の裁定も島津や上杉よりも憎みワザと佐竹に意地悪してた。
そのため上杉が先に米沢行けと言われても佐竹には何の発表もなく佐竹はそうとうな危機感があった。
まぁ常陸統一は石田三成の支持があったからで恩に感じてたってのがある。

201:人間七七四年
07/10/12 17:47:54 nz+z7ln4
関が原ではほぼ全てに近い大名が二股公約なり密約なりしていたよ
西軍の総大将である毛利ですらそうだからね
それと佐竹が上杉より扱いが酷いと言う事はない
上杉は120万石→30万石
佐竹は54万石→21万石
佐竹は一国一城令でも異例の三城(久保田、横手、大館)保有を認められている
そもそも転封の理由は関が原での動向ではない
関が原での佐竹は東軍方としての動きしか見せていないから佐竹を転封する理由がなかった
家康にも秀忠にも家臣を送り指示を受けている
佐竹が国許に留まっていたのも徳川の指示によるもの
だから家康も戦後処理を終えるまで言い出せなかった
徳川は何だかんだ理由をつけて関東から全ての外様大名を追放した
残ったのは1~2万石の小大名だけ
結局のところ関東大名は動向の如何に関わらず小大名や旗本になって関東に残るか
関東外に転封される運命しか残されていなかった
豊臣時代以前は10数万石だった佐竹とすれば
21万石で国替えも減封もなく幕末まで至ったのはまずまずであろう

202:人間七七四年
07/10/13 01:07:26 IlEdUSe4
佐竹常陸54万石
慶長7年1602年 出羽久保田18万石

上杉会津120万石っても30万石は直江兼続に与えたってな話だしな。まぁこういうので石川数正は秀吉についちゃったんだろうな。
慶長6年1601年 出羽米沢30万石

ちなみに毛利120万5,000石→周防・長門2カ国の29万8,000石(慶長5年1600年?)

上杉・毛利と違い明らかに戦場に出陣しなかったにも関わらず大減封を受け、しかも家康はなかなか佐竹への沙汰を伝えず
あからさまに回答を先送りしてた。佐竹ではお取り潰しになるのではと恐れていた。
義宣は加藤清正など7将による三成襲撃事件で三成を助けたりと父と正反対に西軍よりだった。
西軍が岐阜城を落として止むを得ず祝福の使者を送ったが。

203:人間七七四年
07/10/13 01:13:46 IlEdUSe4
×西軍が岐阜城
〇東軍が岐阜城

204:人間七七四年
07/10/13 01:57:52 IlEdUSe4
家康は自称源氏ですが佐竹は源氏。そういう卑屈さからよりによって東北秋田の辺地に飛ばしたと精神心理から説く方もいらっしゃいます。

205:人間七七四年
07/10/13 02:06:45 RhYoJAqJ
>>204
佐竹を出羽へ飛ばし、里見と堀は後に改易。結城家は越前へ加増転封。
関東は徳川一色になった。単なる偶然ではあるまいw

206:人間七七四年
07/10/13 02:21:25 rEtBobdE
まぁ複合的な理由でしょ。すべて当てはまるよ。
ただ明確に敵対してないのに1/3に減封し名門中の名門佐竹を秋田にまで飛ばすなんて恨んでる以外の何者でもないと思うな。
しかも最後の最後までずっと返事をしぶって。


207:人間七七四年
07/10/13 09:12:51 QC78qHz3
家康ほどの人がそんな安易な理由で決めるわけないだろw

208:人間七七四年
07/10/13 09:58:03 ja9UcVON
けっこう有名でしょ佐竹の背信を恨んでるの。
宇都宮に結城秀康を置いたのも佐竹の動向がわからず追い討ちの危険からだし
江戸からなかなか家康が上洛しなかったのも佐竹の真意がわからなかったから。
なんせ故秀吉が家康牽制のために常陸一国統一を支持したからね。
こんなおいしい話はなかなかないことで、それゆえ佐竹義宣は三成支持だった。
難攻不落の岐阜城が速攻で落城したのにビックリして江戸に使者を出したらいまだに江戸にいた
家康はそうとう喜んでもてなしたが内心ではふざけんな!と思ってたでしょうから
その後に佐竹東家が兵を率いて江戸の秀忠に援軍できた時も信用できず兵は間に合ってると帰している。
また上杉でも密約の件を土壇場で動揺し反故にしたので佐竹の行動に不信感あった。


209:人間七七四年
07/10/13 18:44:02 LO/sPCLT
               .|   |  | |   |    |  | |   |   |   || | |
               .|   |  | レ  |    |  | |   |  J   || | |
    ∩___∩    |   |  |     J    |  | |  し     || | |
    | ノ\   ,_ ヽ  .|   レ |      |  レ|       || J |
   /  ●゛  ● |   .J      し         |     |       ||   J
   | ∪  ( _●_) ミ             .|    し         J|
  彡、   |∪|   |              .J                レ
 /     ∩ノ ⊃  ヽ
 (  \ / _ノ |  |
  \  "  /  | |
   \ / ̄ ̄ ̄ /
      ̄ ̄ ̄ ̄

210:人間七七四年
07/10/14 15:47:06 PBq0oQwW
佐竹領(秋田)久保田藩(1602~)は実高で言えば
40万石はあったので実際の収入として
大きく下がったわけではない。
常陸国における太閤検地はかなり正確だったけど
東北におけるそれはかなり大雑把だった

211:人間七七四年
07/10/14 16:17:08 n7drf6Py
>>210
それはどの藩でもいえること。

212:人間七七四年
07/10/15 07:59:49 /CagGpyt
常陸は異例。常陸時代の佐竹の実高は恐らく40万石以下

213:人間七七四年
07/10/15 10:04:34 T19f5BrL
んなこたーない。
大体「実高」って何のことを言っているのか、と。
石高ってのは年貢高なわけですよ。収穫高とか生産高ではなくて。
辞書には収穫高とか書いてあるのもあるけど、間違いだからね。
んで米以外にも塩とか材木とか、
あるいは市や宿からの収益など食料以外も含められてる。
実際に田んぼや宿などからあがる収入を計測して、
どれくらいの年貢が取れるかという数値をだしているわけ。
だから54万石といったら、「佐竹領内」のGNPはそれ以上ということ。
大体少なくとも半分以上は取っていたはずなので、
常陸の「佐竹領内」全体の生産高は100万石に近い。

この数値を出した太閤検地は全国一律に行われたので、
基本的にどこの国でも同じ状況。
仮に40万石しか生産高(取れる量)、もしくは収穫高(取れた量)が
なかったとしたら、確実に佐竹は破産してる。
公儀豊臣の軍役等を果たすことが出来ない高が設定されるわけがない。
だいたいそんな過重な知行高設定に何の意味があるのかと。

ついでに太閤検地が終わると同時にほぼ石高=知行高となり、
それが全国の大名の格付けに直結したために、
以降は石高以上の知行高を要求する行為もあったりした。
即ち時代が下るにつれて石高=知行高の原則は崩れていくことになる。

214:人間七七四年
07/10/15 20:46:01 gSpCDvfc
架空戦記で義宣が天下を狙ってる!
いまこそ真の源氏として天下に号令するそうです


215:人間七七四年
07/10/15 23:03:07 W/fl1B0x
架空戦記に佐竹が出ないまたはチョイでしか出ない訳・・・

やっぱり知名度のせいか・・・でも、知名度高い武将の共通点って何だ?
やはり作家が取り上げ、TVでメジャー化するせいだろうな。
「伝統」口走る香具師の知識レベルが、実は意外と浅薄なところがあるし。

佐竹家自体、何度も滅亡の危機があったが、土壇場で切り返した。
が、そういう「不死鳥」のような話は日本人むけじゃない。
一代で成功者として成り上がるか、花火のような判官びいきの散華を望む。
平安末期から始まり、いまだに現役で存在している。
加えて時代ごとのエピソードは、それぞれ日本人の生活の中に入り込んでいる。

信玄と同様、征夷大将軍位を拝命し、天下に号令する資格も十分あったにもかかわらず、常陸・出羽の武将で終わった。
ただ、「縁こそ運を強める」という昌義公の遺言からすると、下手に天下に号令出して人々のやっかみを受けて運をなくすこともなかったわけだし。

「地味であることが、運を強める」か。
亀田のような勘違いビッグマウスよりは断然まし。

216:人間七七四年
07/10/15 23:34:26 fGo/QDIg
>>213
その通り
佐竹の収入の主たる物は農産物ではなく金だった
常陸は全国で五番以内に入る産出量を誇る八溝金山があった
しかし豊臣時代頃にあらかた掘り尽くしてしまったらしく
徳川氏が入った頃には大半が閉鎖してしまった
水戸家は知っての通り極めて貧困な藩
荒れ地や山林まで耕作地として検地し超底上げして35万石を叩き出したが

実際は雑穀や水戸藩の代表的産業である紙やコンニャク
更に穀物以外の雑租を取れるものは何でも課税したが20万石にも満たなかった
佐竹は常陸一国と言われているが実際は3分の2ほど
県南と県西は佐竹領ではない
水戸藩領に石岡、茂木、棚倉周辺を加えたぐらいの範囲
これに支藩、天領、旗本領を加えても40万石に届くかも怪しい
最大の収入源であった金山を失った常陸は言わば「でがらし」同然であった

217:人間七七四年
07/10/16 13:17:41 W0WJDQ2+
>>215
佐竹がマイナーなのは現代の話であって
当時は他に比べて地味であったと言う事はないと思う
それに佐竹は好きで常陸に収まっていたわけではない
いつも好まざるとも天下人の争いに巻き込まれて伸び悩んだ
平安末期には常陸、陸奥、下野、下総にまで勢力を伸ばし屈指の大勢力なったが
たまたま伊豆に流された頼朝が関東で旗揚げした為に巻き込まれて槍玉にあげられ領地を失った
鎌倉・室町時代には頼朝や足利氏に従って一から勢力の回復を図り常陸守護に復帰したが
将軍家と関東公方の争いに巻き込まれてほとんどの領地を失った
室町末期には勢力の回復を図り家中をまとめて戦国時代を乗り切り
豊臣政権の下で大大名となることに成功したが
関東に移って来た徳川が天下を取った為に常陸を追われた
佐竹にも大望はあったがいつも思わぬ横槍で挫折した
佐竹討伐や山入一揆がなければ関東や奥州を支配して天下狙ったか滅亡したかだと思う
ある意味挫折したから程好い位置で生き残れたとも言えるかもしれない

218:人間七七四年
07/10/16 13:25:57 m3+YUVvy
織田・豊臣・徳川・伊達・佐竹・北条
上杉・武田・今川
毛利・長宗我部・龍造寺・大友・島津

どう見ても違和感がある
これじゃ架空戦記は無理だ

219:人間七七四年
07/10/16 21:34:16 ZF8KQmtl
でも義宣なら天下人として相応しく思える
七将から堂々と三成を救うなどの振る舞いから
諸侯からも尊敬集めていたに違いない


220:人間七七四年
07/10/16 22:14:09 BhcAtLTW
ポカリスエットふいた

221:人間七七四年
07/10/17 10:01:27 p/qR6hEP
義重>>>義宣

222:人間七七四年
07/10/17 16:44:03 IV7DaLBQ
実績はそうかも知れないが義重の古いセンスじゃなあ

223:人間七七四年
07/10/17 19:19:03 UzFFZi0F
少なくとも義宣は乱世よりも守成向き
義重の方がまだいい嗅覚を持ってると思うが

224:人間七七四年
07/10/18 06:49:05 ardINx3n
まあ秋田転封以後の藩政を鑑みれば義宣が創業より守成に向いてるのは明らか


225:人間七七四年
07/10/19 10:05:03 +48D8OGO
築城は義宣

226:人間七七四年
07/10/19 18:36:11 48Lstjgn
>>215
まあ、家系で見ても
佐竹>武田だしな

227:人間七七四年
07/10/20 12:05:35 pz6n8+Wl


228:人間七七四年
07/10/21 00:01:30 vVx2ic0U
佐竹は女系子孫

229:人間七七四年
07/10/21 02:04:10 vjblmCbP
>>227
多分>>226は佐竹は新羅三郎義光の長男が先祖、武田は義光の次男が先祖
だから佐竹>武田みたいなことを主張したいんじゃないかな

230:人間七七四年
07/10/21 15:19:00 +WyKZb4b
その程度の血統比較なんて、なんの意味もねぇw

231:人間七七四年
07/10/21 17:38:03 o7aQZvWf
>>229
エスパー乙

232:人間七七四年
07/10/22 10:00:51 CzM4kKhB
( ^ω^)???

233:仙台藩百姓
07/10/22 11:13:27 ks+kgA4j
武田の義清は義光の三男だけど

234:人間七七四年
07/10/25 09:43:29 /lDFAzQF
層化創価

235:人間七七四年
07/10/27 01:08:48 yCEPtlR2
創価は北条

236:人間七七四年
07/10/28 11:08:48 NJ7weeyK
北条厨が来るぞw

237:人間七七四年
07/10/29 20:44:42 lPK7eqvL
常陸太田で佐竹に関する展示があるみたい。

URLリンク(www.i-hitachiota.com)

238:人間七七四年
07/10/31 23:10:04 lDB3g2BZ
人取橋で政宗なんか殺しちまえばよかったのに
府中城に北条が来なければ・・・・・

まあ政宗自身も小姓の木村宇右衛門に人取橋の戦いでの敗北を認め、九死に一生
を得たことを語っているしな

239:人間七七四年
07/11/01 10:13:36 fPCOSuiA
負けても後に繋がれば良いさ

240:人間七七四年
07/11/01 23:12:58 sGe9t/zZ
太田市歴史資料館なんて聞いた事ねーぞ
存在すんのかよ

241:人間七七四年
07/11/02 16:54:16 Rd3098V3
郷土資料館のことだべか

242:奥七郡の人
07/11/03 09:37:23 G/48Ie9I
郷土資料館が2ヶ所
歴史民俗伝承館?とかいうのもあっけどよ
どこだっぺ?

243:人間七七四年
07/11/03 14:26:25 GltqNR0U
太田城居城期間>久保田城居城期間?

244:人間七七四年
07/11/03 16:08:52 ApbrxNFb
佐竹氏がでしょうか?であれば舞鶴城に入ったのは久安年間(1145~50)、水戸へ本拠を移したのが天正十八年(1591)三月二十日

義宣であれば、元亀元年(1570)生まれ水戸へ移ったのは天正十八年(1591)
久保田へ入ったのは慶長九年(1604)、死没が寛永十年(1633)…但し死没地は江戸神田邸

245:人間七七四年
07/11/05 09:54:51 hMCKH4u5
舞鶴城=太田城?

246:人間七七四年
07/11/05 09:57:39 34tIKNf8
そうだね。

247:仙台藩百姓
07/11/05 10:26:56 9OiV7oWy
舞鶴橋(ただの土手です)

248:人間七七四年
07/11/05 10:30:55 /tg2CPJb
だせ~

249:人間七七四年
07/11/06 12:10:35 pkQl4EsH
戦国時代から離れるが・・・

江戸時代中期の佐竹義和公が治めていたころ、菅江真澄が出羽の地を訪れた。
義和公が訪問したところ、菅江真澄は覆面を被っているから殿の前では非礼になるから会えないと言った。
義和公はそれでもかまわないといい、菅江真澄に会い、出羽の地理誌の編纂を依頼した。

亀田史郎のように誰がバックなのかわからんが、やたら非礼な振る舞いを強者の態度と勘違いしているのに対し、
義和公は、どこぞの馬の骨ともわからない輩に対し礼を尽くした。
「隗より始める」

秋田の人間って、外から見ると東北人の類型で保守的で頑固のように感じるが、実は大変外交的でチャレンジスピットの塊なんじゃないかと。
野球が外国から入ってくると、豪雪の中であろうとプレーする。
そんな人間が自然現象とはいえ、冬の数ヶ月家の中に閉じ込められるのはある種の拷問。
だから、秋田は欝で自殺する人間が多く、国の外に出ると帰らないのが多いというのがうなずける。

250:人間七七四年
07/11/06 17:45:18 gSw3HaWS
>>249
俺、秋田のひきこもりだが賛成だ

251:人間七七四年
07/11/06 22:24:38 nPSu6v89
常陸の佐竹系の人間と
出羽の秋田系の人間が
どんな風に付き合って、混ざっていったかは興味があるな
豊穣な土地に名家が入ったことで、文化が爛熟したんだろうが

252:人間七七四年
07/11/07 09:37:45 aFJjoqqT
佐竹家が秋田へ入部したのって、厳密に言えば江戸時代ではなくて
安土桃山時代なんだよな?1602年だから

253:仙台藩百姓
07/11/07 10:30:27 l3Mz5wGi
佐竹\●/オワタ

254:人間七七四年
07/11/07 17:56:42 wIgYGli4
>>253
たしかにオワタに見えるw
ドンゴリ藩主の御領民降臨ですな

255:人間七七四年
07/11/09 08:54:30 yxQlje7M
>>253
意味を理解するのに1分ほどかかった
たしかに佐竹の旗印オワタにみえるわwwww

256:人間七七四年
07/11/09 09:56:26 oBH9S7cX
スレタイオワタ

257:人間七七四年
07/11/11 00:30:00 q3I0+RwN
太田城時代>>>久保田城時代>>>>>>>>>水戸城時代

258:人間七七四年
07/11/13 12:08:32 Z0prwzZ6
長さが?

259:人間七七四年
07/11/13 14:28:52 hnQewsin
石高でいえば水戸城時代だけどね

260:人間七七四年
07/11/13 18:35:22 STgKKYLK
佐竹は奥州の裏切り者

261:人間七七四年
07/11/14 10:52:31 GlaUxksP
佐竹が糞徳川なんかに味方するわけないだろw

262:人間七七四年
07/11/15 10:09:27 psSJ8o6R
>>260
秋田藩時代?

263:人間七七四年
07/11/16 17:03:28 Df1Fna55
戊辰のときの話でしょ

264:人間七七四年
07/11/16 21:59:01 bagAa3pr
一度相馬の家に入った血が、再び佐竹返りしたのが義堯公。

戊辰の前に、国学急進派の平田が江戸を追われた後、秋田藩にやってきて、そこを根城にした。
結果、秋田藩士内に尊皇派ができ始めた。

鳥羽の戦のあと、幕府か朝廷か義堯公は悩みまくった。
が、尊皇派藩士が義堯公に夜中に急襲、談判・・・というより半ば脅迫で、藩を尊皇派にしてしまう。
ここで、本来なら会津の救援に行くはずの庄内藩士、逆方向の秋田へ進軍を開始する。
秋田県南部は火に焼かれ、庄内軍は久保田城下まであと数里のところまで迫った。
秋田側は戦闘意欲gdgd。義堯公自ら城下で討ち死に覚悟の檄を飛ばす。
そこに騎兵隊こと肥前藩が、最新式の銃器携え土崎港へ到着。
戦線を一気に押し返す。

265:人間七七四年
07/11/16 22:56:13 bagAa3pr
・・やっぱ佐竹の大河は無理だ。
幕末までやるとなると、「平田国学」まで触れなければならない。
猛毒だ。

266:人間七七四年
07/11/17 00:26:06 RVz5GPX2
義昭篇、義重篇、義宣篇で1年できる。

267:人間七七四年
07/11/17 09:44:04 LRhFWQ/A
義宣が関ヶ原で家康を追撃するように作りかえれば一年間でも足りない。

268:人間七七四年
07/11/17 14:21:43 YZ0Tey6F
あのとき秀忠軍が3万で家康の本隊も3万ぐらいいたっけか
しんがりの秀康軍がどのぐらいの兵力なのかわからないけど佐竹軍が多くても1万ぐらいか
まともに戦っても無理だし奇襲かねえ
でも佐竹領の近くで油断はしてないだろうしねえ


269:人間七七四年
07/11/17 14:42:01 LRhFWQ/A
佐竹の動きはおそらく上杉の南下を誘引する。すると野心家の伊達も火事場泥棒で上杉に味方して乱を長期化し拡大させようとはかるかも知れん。
関東が混乱してるスキに西軍が福島の尾張を切りとれるまで進出したら田中・中村・山内ら東海道筋に離叛が始まり易々と箱根まで進出し三成の小田原包囲が始まる。
上田真田が道を譲り宇喜多軍が仙石の小諸城を開城させ関東に侵攻。
ここまできたら堀や蒲生や里見も石田方になるだろう。
こんな感じなら大河で一年は可能www

270:人間七七四年
07/11/17 19:00:21 0ANN2Qni
そういや佐竹主役の仮想戦記って聞かないな

271:人間七七四年
07/11/18 12:08:33 mu0C2BUJ
舞鶴城→ホテル大山城に宿泊→孫根城→東金砂山武生神社→西金砂神社→舞鶴城
あなたも義舜気分が味わえます
※暴風雨に見舞われたら機を逃さず敵を滅ぼしてください

272:人間七七四年
07/11/19 16:49:14 5fvLmJme
義舜が太田城奪還するまで十四年もかかっているから、苦難の道だね>>271

273:人間七七四年
07/11/20 10:08:43 9x5DhFxK
>>268
佐竹なら15000は少なくとも動員可能

274:人間七七四年
07/11/20 14:01:13 sUdrYvOL
佐竹の裔です
佐竹会に入れない分家の分家のそのまた分家

275:人間七七四年
07/11/20 14:30:40 m9xEqhFt
>>249実は大変外交的でチャレンジスピットの塊
古代から蝦夷・日本海・沿海州貿易が盛んだったんじゃないの?
中世以降は安東氏の十三湊が一大拠点だったはず

276:249
07/11/20 19:12:02 Ue4I2V+N
チャレンジ「スピリット」の間違いでした。スマソ。

>>275
転封以前の領内は群雄割拠状態で、最上・津軽・南部・伊達相手によく独自勢力維持できたな、と。
・・・関東の下野(栃木県)思い出した。

277:人間七七四年
07/11/21 01:19:02 ovqZUrZx
>>276
揚げ足取るつもりじゃなかったので気にしないでくれ。

安東氏を一例として挙げたけど、海を目の前にした人間の行動には
北も南も大差はないと言いたかっただけだ。

278:人間七七四年
07/11/21 11:16:17 XjpXsVQX
多良崎城て湊城だったんだね
今じゃ見渡す限り水田だけど戦国時代は海だったらしい(原発辺りも海だったのだろうか
多良崎城と水田を挟んだ真崎城は海洋に面した湊城だったとの事
多良崎城は江戸氏の持ち城であったが小田原の役の後
常陸統一に乗り出した義宣が水戸城を攻めたが
義宣と義重が二手に別れ、義重は東海→大洗→水戸の海岸ルートを辿り
その途中で多良崎を攻め落としたらしい(1日で落城
心霊スポットとして有名でTVでも放送されたけど
俺も5回ぐらい行ったが詳しい事は全く知らんかった
常陸に於いても海運業はそれなりに盛んで
佐竹や江戸氏も東海~那加湊~大洗付近で海運や製塩を行い重要な土地であった
今となっては沢畠城が一番城らしい風貌だがw

279:人間七七四年
07/11/22 10:01:06 7jxomsAF
ところで常陸宍戸ってどこのあたり?

280:人間七七四年
07/11/22 13:33:27 pABTak5A
茨城の宍戸の辺り

281:人間七七四年
07/11/22 13:59:36 fbzKkhfv
>>278
友部と笠間の間、友部も宍戸も今は笠間市になっていますが

282:人間七七四年
07/11/22 14:00:29 fbzKkhfv
ごめんなさい>>281>>279宛てです

283:人間七七四年
07/11/22 14:18:42 pABTak5A
宍戸駅に行きゃいいんだよ
駅から真っ直ぐ進めばすぐに陣屋アルヨ
まあ、陣屋は残っちゃいないが

284:人間七七四年
07/11/22 18:09:06 1hHn4RCF
>>278
江戸氏って強敵かと思ったら、そうでもないのな。

>>283
アルヨ大統領、ナビオツ。

285:人間七七四年
07/11/23 09:55:32 Y0GmNvji
>>284
結構力は持ってたと思うよ
支配範囲も広いし10万石程度はあったと思う
確かに最後はやたらアッサリ負けた
やはり大義を失うと弱いんだろうね
配下の離反もあったそうだし

286:人間七七四年
07/11/23 15:06:24 to2MahE8
真壁氏幹・・・鬼真壁がいてこそだよね!

287:人間七七四年
07/11/23 15:09:05 HVCUt0LE
氏幹の氏は北条氏の偏諱だが、佐竹と組んだ時に捨てなかったんだな。

288:人間七七四年
07/11/23 15:42:08 Y0GmNvji
北条から一字貰ったって本当の話しなのかな?
古河公方から貰ったと考える方が自然な気がするけど

289:人間七七四年
07/11/25 00:11:29 U8Ui1CWV
真壁重幹とか

290:人間七七四年
07/11/25 11:33:24 8VZ84InR
常陸北部は貧しいね
立派な御屋敷なんて全く残ってない

291:人間七七四年
07/11/25 19:33:20 lC4HMBTX
>>290
光圀が悪いんじゃあ!!って、声が聞こえそう。

転封後、水戸に徳川家が入ったのだが、江戸の宗家からは将軍を出さぬようにと言われた。
2代目光圀のころ、大日本史編纂のため、結構な出費を領民に強いて、常陸北部の連中から恨まれた。
幕末は、大日本史から水戸学が生まれ、藩士同士の血で血を洗う抗争勃発。


292:人間七七四年
07/11/26 11:14:03 gE3FaWsZ
>>291
ホントに同じ常陸でも水戸藩領と他藩領とではハッキリと差がある
県南は集落ごとに立派な旧家がいくつも見られるが水戸藩領に入ると滅多に見られない

幕末に郷士や豪農は藩の争乱に多数参加し
泥沼の争いで家財を焼かれ一族離散してしまった者が多いのも大きな要因だろう
水戸藩の重臣でなんとか中立を守った人物がいたが
水戸藩は狂気であり、巻き込まれたら一族は残らずすり潰されてしまっただろうと語っている
実際、水戸藩には佐竹・武田・今川・結城・宇都宮などの一族や旧臣が多く召し抱えられていたが
狂気の渦の中で消滅してしまった家も多い

293:人間七七四年
07/11/28 17:25:03 pB6Us9cX
南郷は常陸の佐竹領ではなかなか見られない大規模な山城が多いですね
あまり築城には熱心ではなかった佐竹がこれだけ堅固な城を築くとは
奥州戦線は熾烈を極めたようですね

294:人間七七四年
07/11/28 17:59:06 vSBIQ5x+
対伊達用に強化したんじゃないかな?芦名滅亡で須賀川まで伊達に降ったからね。
伊達の大攻勢に備えたんだよ。
北部戦線を要害として強化して前面の北条に備えるって事じゃないかな?
北方の痩せた土地を得る為についには伊達に介入しまくったのは芦名を失う事で結果的には大失敗で終わる。
そんなら謙信と組んで大敵北条から関宿を守り、その間に常陸一国支配を優先すれば良かったのにアホだね。
土台がもろく実力ないのに背伸び佐竹。

295:人間七七四年
07/11/29 10:30:38 uEG2SbxS
>>294
( ^ω^)( ^ω^)( ^ω^)


296:人間七七四年
07/11/29 16:33:05 Uv1Q3rPN
(^Д^)9m

297:人間七七四年
07/11/30 15:57:43 nidjiO0t
南郷の諸城は白河氏に対するものです
白河氏との対立は南北朝時代より続いていましたが
時代が下がり山入一揆で佐竹が急激に衰退する中で
岩城氏や白河氏の勢力圏は常陸まで深く入り込むようになりました
義舜によってようやく内訌を克服し旧領(奥七郡及び南郷)の奪還が佐竹の課題となります
特に白河・石川・岩城からの街道が集まる南郷地方は太田城の守りの要として非常に重要な土地でした
ここを抜かれると里美谷を一気に太田を突ける絶好の侵攻ルートになってしまいます
山入一揆で支配権を失った時は奥州勢力南下を奇跡的に退けたものの危機的状況に陥る苦い経験もあった為
この地方の支配は佐竹にとって早急に行わなければならない課題でした
義篤の代になると依上から白河氏を駆逐し常陸に組み込む事に成功します
そして義篤・義昭の代で東館を支配下に置き南郷攻略の拠点とし
羽黒山城や寺山城で激しい攻防戦が展開されます
しかしこの頃になると関東の展開が加速していく事となり
義昭は遠く南部まで出兵を余儀なくされていきます
その隙を突く白河氏の度重なる南下に苦しめられるようになり
この攻防戦の中で南郷地方の城郭は改修を続け巨大化していきます
義重の代になると寺山城や羽黒山城は完全に佐竹の支配地となり悲願の赤館奪取へ向かいました
だが、関東でも北条氏との戦いが激化し
関東で遠征する中、寺山城や羽黒山城は葦名・白河・田村などの大軍の侵攻を受けましたが
大損害を出しながらもなんとか防衛を続けていきます
後に義重により赤館が支配下に収められると寺山城や羽黒山城はやや重要性が薄れましたが
白河氏を降すまで赤館の詰め城として活躍を続けていきました

298:人間七七四年
07/12/01 23:29:17 6Toe/eH8
白河って藤姓だっけ?

299:人間七七四年
07/12/02 14:05:41 nab6CQzj
>>298
結城氏だしね

300:人間七七四年
07/12/03 21:04:38 dEpd6lbe
300get!

301:人間七七四年
07/12/06 10:05:12 lhmCDsZk
真壁氏幹は実は大掾氏

302:人間七七四年
07/12/06 14:20:44 /O14sZUU
幹からもわかるけど、その通りですね
しかしこの幹の広がりはすごい、繁盛の子維幹からずっとつついて、分家中に広がってるし

少しずれるが南方三十三館にも、
宮ヶ崎幹顕、徳宿矩幹、安房幹連、烟田通幹、札幹繁、田野辺胤幹、
玉造重幹、手賀高幹、芹沢国幹、行方忠幹、富田昌幹、永山知幹
と沢山いますね

303:人間七七四年
07/12/06 15:05:23 gZ9EmvYo
常陸統一に絡み大虐殺を義重がやったらしいけど
それらの人々を呼び集めて殺戮しまくったの?

304:人間七七四年
07/12/06 15:16:18 /O14sZUU
義重が関与したかどうかはわからないが、南方三十三館謀殺をしたのは義宣だよ

305:人間七七四年
07/12/08 00:24:47 ni7LkSuz
義重が悪知恵入れたのかもね、佐竹家にとっては良いことだったけど

306:人間七七四年
07/12/08 01:14:11 o6Fv+Gzr
豊臣政権下での、国人領主の謀殺劇多いね
黒田・長宗我部・佐竹…



307:人間七七四年
07/12/08 01:22:06 bkV1iuzG
大崎葛西の乱や九戸の乱より謀殺は穏便に済むからね。
佐々成政の統治は失敗して切腹になったけど
佐竹も失敗して大反乱起きたらヤバかったろうから御家存亡を賭けた謀殺劇だったろうね。

308:人間七七四年
07/12/08 01:41:37 o6Fv+Gzr
>>307
やはり東北の一揆・乱が影響してそうだね
しかし、国人領主側も警戒しなかなったんだろうか?
呼ばれてホイホイ出仕しちゃった印象がある
(長宗我部は相撲大会が口実だっけ?





309:人間七七四年
07/12/08 06:41:23 Nonz3MjT
よばれて来なければ正々堂々と討伐されるから出席せざるをえまいて
佐竹の方も長い歴史から懐柔なんてできっこないことは分かりきってるだろうし
生き残りたければそうなる前に徹底的にすりよっておくしかなかったんだろうね、秀吉か義重に

310:人間七七四年
07/12/08 13:23:39 YspP/ely
そうしなかった那須とかの考えがわからない

311:人間七七四年
07/12/09 21:27:46 IYPALJXF
>>308
相撲大会は関が原後の山内じゃなかったっけ?長宗我部も同じ策でやったとしたら
関が原後に引っかかるやつも引っかかるやつかもしんない。

312:人間七七四年
07/12/09 23:47:10 zHjErXFJ
>>331
すみません、そうでしたね
土佐の統治でごっちゃにしてました

313:人間七七四年
07/12/10 09:46:30 a1KqOvLD
誰にレスしとんねんw

314:人間七七四年
07/12/12 09:49:27 xkXqH5w7
( ´A`)・・・・・・

315:人間七七四年
07/12/14 10:47:49 EWBXKvla
イイスレダナー

316:人間七七四年
07/12/14 21:11:21 0QYY+1j8
相馬家から養子が入ったのは残念だったね

317:人間七七四年
07/12/15 10:49:44 8uWBcjvy
江戸時代末期の話を言ってるのか?

318:人間七七四年
07/12/15 14:32:23 DBra9lco
関ヶ原のときに佐竹の戦力はどれくらいのものだったんだろうか。
なんかすごくばらばらで、一万も動員できていなかったようなイメージがある。

319:人間七七四年
07/12/15 23:01:02 6vAtNVSN
寄騎あわせて80万石くらいあったんじゃない?
常陸一国だけでも54万石だから、外地に動員できる戦力は
頑張れば2万4千くらいはあったかと。

320:人間七七四年
07/12/15 23:04:00 6vAtNVSN
ちなみに東義久が徳川秀忠の陣に参陣したとき数百騎しか連れていかなかったのは
関が原の大勢を見て火急に恭順の意を示さなければいけなかったための数だと思う。

321:人間七七四年
07/12/16 09:40:46 xyzTnBVw
>>319
それ、その部分。80万石。
どこの史料とか小説見ても、

「兵力集めました。すごいっす。どれくらいかって?
えーと佐竹が54万石で組下大名合わせると80…90万石くらいだから、
……3万くらい? まあ、4万集めて7万って号したよ」程度の記述しかない。

実際誰がどれだけ集めてはせ参じたのか、
どこにどれだけ配置したのか、戦略戦術がどうだったのか、
まったく見えてこない。
同じ50万石クラスの大名はあの金吾でさえ、ひとつの塊として動いている。
佐竹本家時代がgdgdで何もせず、
確実に動いた記録はそれこど数百騎というくらいだから、
正味な話、佐竹の数万と言うのは、佐竹のコントロールがまったく利いていない
常陸全域に勝手に集まって一応佐竹の旗だけは立てている張子の虎だったんじゃないかなー。


322:人間七七四年
07/12/16 10:12:13 BkQTjsku
三分の一くらいはいつ離反してもおかしくないだろうな

323:人間七七四年
07/12/16 10:39:42 WMW2AeWD
景勝が最上へ侵攻せずに小山を抜いたら佐竹も決意を促されたろうな。
さすがにフタを開けたら上杉・小野寺・真田くらいしか味方がいないんじゃなぁ…義宣は景勝から最上は味方になるが伊達は味方になるとはいうものの油断できないと聞かされてたらしいし。
そしたら全然違うし!
すでに組織化してんだから動員力はかなりあったろう。じゃなきゃ常陸南東部のヤツらを惨殺した意味がない。


324:人間七七四年
07/12/16 11:36:14 c/tnozWD
いわゆる80万石の内約は以下のようになっている
佐竹義宣26万6000石(内、豊臣1万石・石田3千石・増田3千石)
佐竹義重5万石
佐竹義久6万石1千石
与力衆16万8800石
蘆名盛重4万8千石(与力大名)
岩城貞隆11万5千石(与力大名)
多賀谷宣家6万石(与力大名)
相馬義胤6万石(与力大名)
計82万8800石

佐竹家譜では義宣は1万の兵でもって出陣したとある
軍記ものなどでは2万となっている
実際、義宣と与力衆が動いたとして1万あたりが妥当だろうね
義重や義久も別に豊臣から領地を与えられていた大名だし
与力大名もあくまで独立した大名だから全員同じ動きをするとは考えられない

325:人間七七四年
07/12/16 14:49:48 3xB/ODB+
佐竹氏は同属の武田氏から養子を取りべきだったと愚考する

326:人間七七四年
07/12/16 14:55:47 1A+jekP4
>>320
本日の間違い探し

ちなみに東幹久が徳川秀忠の陣に参陣したとき数百騎しか連れていかなかったのは
関が原の大勢を見て火急に恭順の意を示さなければいけなかったための数だと思う。


327:人間七七四年
07/12/16 17:57:24 EwdJTGOi
>>326
未来人がいる

328:人間七七四年
07/12/16 18:00:10 EwdJTGOi
>>324
そうか、義久が数百騎だったのは、義宣から兵力を預けられたわけじゃなく、
自分の旗下を連れてったからだったのね。
6万石ならその数もうなずける。

329:人間七七四年
07/12/17 23:21:41 BvNVA+39
佐竹配下で徳川に通じていた者や、戦後常陸に残って優遇された勢力って
保険のために本家承認のもとで動いた東以外にはいないの?
まとまらない有象無象の割りに抜け駆けして東軍につくほど行動力のある人間がいない。

330:人間七七四年
07/12/18 19:39:31 XgQglnq2
>>329
常陸内に関していえばほとんど一門衆や譜代だから
ぬけがけはないでしょ。
大将が曖昧だったから仕方なく黙ってたと思う
実際は曖昧がほぼ正解だったわけだが。

でも過半数はすぐにでも東軍に参加する頭はあったでしょうね

331:人間七七四年
07/12/19 08:54:56 XOFxfVZm
確かに東軍についていたら安泰だったかといえば
そうでもないだろうな

332:人間七七四年
07/12/19 09:55:32 vvbFBWOQ
>>326
Soi!

333:人間七七四年
07/12/19 12:12:18 LvXa5drS
佐竹一党80万石に加増する土地なんてないもんな。難癖つけられて改易がオチ

334:人間七七四年
07/12/21 10:30:42 f5FH8BhK
常陸じゃ江戸危ないもんな

335:たられば君
07/12/21 10:38:39 ToqviJfc
常陸で東幹久とは上手いなあ。

336:人間七七四年
07/12/21 12:51:37 pHezM6Ba
えっ!常陸出身なの?

337:人間七七四年
07/12/21 22:07:57 R9nB26Lz
>>334
まあ、家保がびびるのはわからんでもないけど、
関ヶ原みたいな大事にまったくうごけない、
一門で固めておいて実は役立たずの烏合の衆、が
54万石時代の佐竹の実態だからなあ。

338:人間七七四年
07/12/22 06:15:42 NYHppbaB
>>337
動けない、というよりも
当時10年の状況から名門の家名存続もかかってる中
趨勢も読みきれない状況下の最前線で両軍から声をかけられて
自家の行動が引き金になりかねない場合、
軽々しく動けるほうがおかしいと俺は思うぞ…

「常陸で」存続しようと思ったら
「徳川方について手柄を立てない」or「上杉方について徳川軍を撃破する」
しかないわけで

339:人間七七四年
07/12/22 09:46:07 +zL0OMhz
4万石の佐野、12万石の里見ですら改易になった事を思うと
徳川の本拠地が江戸(関東)の時点で
西軍勝利以外は常陸での存続は不可能な気がする


340:人間七七四年
07/12/22 14:27:35 ZGLRVx6+
そう思うよ、家康が関東に移って来ず東海が本拠なら話は別だけど
仮に東軍の積極的に参加してももしや出羽とか・・・石高は増えても

341:人間七七四年
07/12/22 14:35:21 Vl2X2iH7
>>338
軽々しく動けなくて、戦後損をしたら、
それは馬鹿とかいうものではありませぬか?
動かなかったのに理由があるのはいい、
だけど、理由があろうがなかろうが、負けは負け。
負けた以上、評価は出来ない。
負けても評価される戦はあるけど、
何もしなくて負けたのでは評価はされないです。

342:人間七七四年
07/12/22 15:58:58 IBqkW1gL
それはだね、直江兼続が最上義光は西軍になると過信してたんだよ。だけど秀次に連座して娘が殺されて以来すっかり家康に篭絡されてた。
当初の予定では最上を仲間につけて上杉が南下し佐竹が側面から討つ挟撃策だった。
だが実際に起きたのは最上義光の背信。
その為に背後の憂いを除く為に上杉の山形城侵攻が開始され完全に予定が狂った。
つまり直江兼続の読みが甘かった。
これでは佐竹は急遽方針変更せざるおえない。ただ若き義宣の野望は評価したい。
また義重の保険もうまくいった。
天下を狙いつつ保険もかけた動きは見事という他ない。
また最上義光が直江を信じこませた手腕で東国の乱を牽制。関ヶ原の勝利を呼び込み家康から激賞された。

343:人間七七四年
07/12/22 18:00:22 me0KEk3Z
その時のアホ宗は白石2万石しか掠め取れませんですたw
しかたないんで南部領で反乱をさせたらモロバレですたwww

義光は上杉追撃・庄内地方・由利地域・小野寺本拠横手城を落城させてしまう天才ぶり。


344:人間七七四年
07/12/22 18:09:42 NYHppbaB
>>341
戦後得をする選択肢がいかほどあったとお考えか?
宝くじの値段が一枚10万円なら連番で買う奴がどこにいる?

徳川からは対上杉の先鋒の意味で誘われていたのだから
動いて上杉を撃破→戦後論功、領地替えで石高増→場合により(高確率)難癖つけられ改易
徳川につくが動かない→先鋒なのに手柄なし→そのまま石高減ないし領地替え

上杉方について徳川軍を撃破→
小山に在陣する10万近く(誇張としても8万はくだらないはず)に2万で突撃???
上杉は最上戦で加勢に来れない&伊達が小高から乱入してくるのは必死、
本隊が敗走したら即お家断絶確定。狙うとしたら小山の退き口くらい

結局、得する選択肢のリスクが源氏の嫡流という立場上超ハイレベルすぎる。
その中で損は少ない方の形で収めたと思うが…

と長々と書いてて気付いたが、341氏はもしかして
佐竹の立ち回りの話じゃなくて、戦の話がしたかったのだろうか…?

345:人間七七四年
07/12/26 09:38:42 4S2n12o5
なぜココが過疎る・・・・

346:人間七七四年
07/12/26 10:32:11 kYl5MXrN
>>345
常陸の最強武将 佐竹 鬼 義重
スレリンク(sengoku板)


347:人間七七四年
07/12/26 10:52:55 PzEKQBuw
芦名義広14歳が自爆行為をやらなければ…当初に決めた佐竹プラン通りにしてれば田村滅亡→会津の地で政宗挟撃され退路なく敗死という完璧な作戦だった事実。

348:人間七七四年
07/12/26 14:24:47 gVikg70l
>>346
スレタイ見て嫌な予感はしたが、ひどい有様だな向こう…

349:人間七七四年
07/12/26 15:16:06 kYl5MXrN
>>348
こちらはマターリやりましょう。

350:人間七七四年
07/12/27 09:38:00 QjAHWWac
350get!

351:人間七七四年
07/12/29 08:24:55 SmNApcHQ
南北朝時代から南奥羽と関東を見てると、この地がカオスなのがよく分かる
戦国時代になって近代化とか厳しいよな、そりゃ

352:人間七七四年
07/12/29 11:04:15 laNu0+SY
清和源氏嫡流age

353:人間七七四年
07/12/29 12:54:23 oaMvOsPp
上杉に乗っ取られてるから認めない。

354:人間七七四年
07/12/29 13:17:37 3hBVxK73
>>353
上杉にのっとられてたら関東管領受けてたでしょうに

355:人間七七四年
07/12/30 08:11:13 x3cF+YI4
348>
いや、本当ヒドイよ。
誰か援軍頼むよ。

356:人間七七四年
07/12/30 11:51:58 7V0GZA29
>>353
乗っ取られる?捏造乙

357:奇矯屋onぷらっと ◆/6/o/w/o/6
07/12/30 18:49:06 omvzCBCi
URLリンク(www2.harimaya.com)

あながち間違ってもいない。

358:人間七七四年
07/12/30 23:49:23 g66U4Tzk
女系で佐竹の血が入ってるんだから乗っ取りでは無いだろ

359:人間七七四年
08/01/01 23:15:03 ZaG1ak2o
常陸上杉家?

360:人間七七四年
08/01/02 12:14:41 zphFyIB5
こっちがいい。某スレで可能性の一つを示しただけで客扱い。もうイカネ。

361:人間七七四年
08/01/02 13:57:04 +bYvb1mb
佐竹は善戦しても、結果に恵まれない

362:人間七七四年
08/01/02 14:33:29 IjGDYoK1
そうですな

363:人間七七四年
08/01/04 09:50:14 s9asPVSw
義重は優秀なのに、自分から苦労をつくっちゃうんだよな

364:人間七七四年
08/01/04 10:01:38 I2Mojq4C
もし鬼義重がいなければ秀吉が小田原にきた時には北条はすでに南陸奥まで支配下に組み込んでいただろう。
なんせ宇都宮・結城・佐竹連合が成立しないから楽勝で併呑し福島県弱小豪族は簡単に北条の軍門に降ってる。



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