07/11/22 11:08:58 yq+5rTpV
だいいち戦国時代の利根川や渡良瀬川や江戸川や古河エリアなどの湿地帯の規模や渡河ポイントや大河の流れが明確にはわからないのが理解を難しくしてて致命的。
また臼井城で白井入道が謙信を破ったみたいな話が極めて講談話じみた内容なのが大嘘捏造話みたい過ぎて信憑性が余りに低すぎる。
698:人間七七四年
07/11/22 11:50:31 Pz1IOZkt
謙信が生きていたら、上杉家を滅亡に追込んでただろうね!
699:人間七七四年
07/11/22 12:09:09 Pz1IOZkt
リアル謙信は、タカ&トシのタカにそっくりだぞw
これじゃ、関東の大名ってか、越後の田舎豪族にさえもナメられるなw
700:人間七七四年
07/11/22 12:15:49 Fe118Nzz
>>698
謙信死亡時には佐竹らの為の支援ルートを確保し続けた挙げ句に越中・能登・加賀・出羽の一部・飛騨の一部に越前の一部豪族まで支配圏を拡大させたけどな。
701:人間七七四年
07/11/22 15:24:30 lx6idowN
ID:Pz1IOZkt、隔離スレから出てくるな
702:人間七七四年
07/11/22 16:05:13 ym63QSjM
>>700
概ね同意だけど、
関宿が陥落して「里見」への支援ルートは断たれちゃったよね。
里見が反北条方から脱落したのは致命的。
703:人間七七四年
07/11/22 16:26:26 Fe118Nzz
もともと里見支援ルートなんてないよ~。
里見が国府台に進出して敗北したり正木が臼井城を陥落させたりした時なんかも上杉との合流はなかった。
どっちかっていうと孤高の存在が里見義尭親子と言える。
去年は久留里城を見れて感動したなー。
704:人間七七四年
07/11/22 17:31:09 UpxpfhbR
>>695
里見以外については越相同盟以前にもう相当不和になってたよ。
705:人間七七四年
07/11/22 22:01:40 ce3NFdQs
「臼井城失敗以降、関東諸将は上杉謙信から佐竹義重を中心に北条へ
対抗するようになった」と、研究家の連中は言っているが、果たして
そうなのだろうか。謙信の要請を断ったり、越山を要請したり、
仙道方面に執着があったのか行動がチグハク。結局は、謙信亡き後は北条に劣勢に立たされる。
羽柴の力により北条討伐の宿願は果たされるけど、どうも文献調べる度に佐竹義重の行動の真意が読めない。
706:人間七七四年
07/11/22 22:12:14 UpxpfhbR
>>705
謙信も三戸駿河守内室宛書状で佐竹は「手を返した」と言っているよ。
永禄10年3月に武田・北条と結んだから断交して佐竹に攻められた白河義親への援助を約束している。
翌月ころには簗田も北条、足利義氏と誓詞を交わして和睦している。
反北条勢力はもはや里見くらいしかいなくなったので、中心に抵抗するも何もない。
これらの勢力が関宿攻めでまた謙信を頼るようになったのももう書いたはず。
>>704を書き込んだ時点でそう思ってたんだけど、そのうち佐竹の行動をまとめてみよ。
707:人間七七四年
07/11/22 23:57:26 q/TuRkI2
どんなに頑張っても臼井で敗北、謙信劣勢は定説
708:人間七七四年
07/11/23 01:04:20 qPZZzXpz
>>706
でも三次関宿合戦以降、佐竹と上杉の関係は修復していくんですよね?
天正四年に謙信が由良を金山に追い詰めた最中、
義重と親しい書状のやり取りがあったとか
謙信の死ぬ直前に計画されていた結城氏救援が実施されていた場合
佐竹も協力を惜しまなかった筈・・・?
(ここでも?を使うくらい義重の思考は理解出来ないケースが多い)
謙信が死なず、計画通り北陸の大兵力が関東に討ち入った場合、
どれだけの諸侯が謙信側に付いたか知りたいものです
709:人間七七四年
07/11/23 02:06:55 KbyoQs3G
天正三年に揚北衆を完全に傘下におさめ越後統一を完了し北への不安を払拭。さらに武田勝頼とも和議を結び信濃方面への備えも必要なくなり、
天正四年に本願寺と和議を結び背後に憂いなく、
天正五年には能登・加賀を攻略し織田軍1000余人を討ち果たし北陸安定化に成功。
天正六年に加賀・能登を織田への抑えとして固めさせ越中・越後に大動員令をかけ大挙関東へ向けて越山寸前に死去。
だが死去してなければ…今回は死活問題にまで事態が逼迫した佐竹・宇都宮・結城・小山がマジで積極的に協力予定。
謙信は今までと違い各戦線がこれまでになく安定。
北条がフルボッコ間違いなしwww
710:人間七七四年
07/11/23 02:21:41 P/91ndAS
取らぬ狸のなんとやら
711:人間七七四年
07/11/23 11:04:39 HNuoEdO0
ぽっくり逝っちゃったもんは仕方ないな。
佐竹は義重本人と謙信はそれなりに仲良かったが
佐竹の重臣が謙信と折り合い悪かった説があったと思うが
それで佐竹の行動がちぐはぐになったのでは?
712:人間七七四年
07/11/23 13:17:24 E/s+8TfQ
個人的な関係はともかく、
勢力のトップ同士だと、自身が所属する勢力の利益のために動かなければならない。
その差が如実に現れたんだろうね、佐竹の重臣の所為じゃなくて。
713:人間七七四年
07/11/23 15:28:48 JF3PGH3C
納得。
714:人間七七四年
07/11/24 02:49:17 yH0viF7S
まぁ佐竹は身内同士でもちぐはぐだからしょうがない。
715:人間七七四年
07/11/24 15:37:58 xYpIrxnn
結局、臼井城の大敗が言われるのは、その後に関東諸侯が一斉に謙信から離反しているからだよね。
佐竹だけでなく、他の関東諸侯の動きも良くわからないので、『臼井城で大敗したので離反した』と書くと整理しやすいし、
講談においては成田が下馬しなかったから引きずり落としたというような話も必要になる。
関東諸侯の動きを見て謙信の関東経略のなかに位置づけることで臼井城攻めがどんなものだったかがわかるだろう。
>>708
小山氏の没落の後、里見が追い詰められると天正五年初頭に関東諸侯から一斉に使者が送られた。
(正木、里見、梶原、宇都宮、結城)
謙信は水谷、結城に返事を送って近いうちに越山することを告げるが、この越山は結局行われなかった。
結局里見はついに北条と和睦せざるをえなくなる。
このことで関東諸侯の謙信への信頼も少し揺らいだかも知れない。
翌年、北条は再び北関東に兵を進めるが、佐竹、結城、宇都宮、那須らの抵抗で膠着状態に。
佐竹が反北条の中心になったと言えるのは、この時だね。宇都宮が一時離脱するも義重はまた復帰させている。
その翌年に謙信が急死。
>>711
その説は知らないが謙信は永禄九年(1566年)九月に江戸重通、佐竹義久に対し、
佞人表裏(高広の裏切り)で音問が絶えたが、義昭のころのようにまた仲良くしたいと言っている。
翌年の三戸駿河守内室宛書状でも北条高広に任せたので、佐竹、横瀬(由良)らをはじめとした諸侯に手を返られたと言っている。
実際に高広が佐竹との仲介役だったようだが、それでも高広のせいで裏切られたというのは謙信が言ってるだけで検証できないけどね。
義昭のころのように…と言っているように、佐竹義昭の急死は佐竹にとっても謙信にとっても痛手だったろう。
佐竹と上杉の断交により、翌月、簗田、野田、相馬も北条と和睦せざるを得なくなる。
その後に北条は野田氏に圧力をかけその居城栗橋城を接収し、関宿城へも圧力をかけ、陣城を築いて包囲する。
そこであわてて佐竹らが上杉方に復帰し、越山要請。
なお、野田氏は越相同盟後に一時的に栗橋城に復帰するが、結局そのまま没落したようだ。
永禄十年の段階で謙信は佐竹に三国同盟の破綻の可能性を伝えているのに、武田・北条と手を組んでしまった。
永禄十年中に佐野の維持に協力していれば、赤城山麓から佐野に出るルートも確保できたのに。
716:人間七七四年
07/11/24 18:00:57 w7SMCFpr
>佐竹義昭の急死は佐竹にとっても謙信にとっても痛手だったろう。
それは言えるかもしれない。若年の義重を重臣達が、謙信との関係を
邪魔した感があるからね。
717:人間七七四年
07/11/24 19:05:52 Uh/Azdwm
やはり大雪のために謙信の救援が遅れに遅れ武田北条連合軍による松山城攻撃に里見太田の救援が失敗し正月酒盛りで国府台で勝手に大敗。
(このあたりで最前線の忍城の成田と弟の騎西城が北条へ。)
謙信に人質すら出さないために上杉軍自ら平井城を破却し西上野を一任することにした傲慢な長野氏の箕輪城が落城。
(太田金山城の由良氏と厩橋の北条が北条との和睦へ→越相同盟への複線)
重要な事件はこのあたりの推移であって臼井城の件は実際にはよくわからないことだらけだし大した事件はおきてないでしょ。
旧古河公方圏の下野・常陸・下総・上総あたりへの謙信の平和維持活動ボランティアがなければ戦線を維持できなかったのが佐竹ら。
そういう意味では由良・足利長尾兄弟や佐野・佐竹・宇都宮らが北条に挑んだ沼尻の戦いとその後の推移のようにミジメなものになる。
また忍城と騎西城の成田兄弟は小田原で拉致されるしなw
ほんと馬鹿な関東諸将だな。
718:人間七七四年
07/11/24 19:19:15 Fu25Fx4A
>>717
正月の酒盛りは北条の捏造で
実際は二年に跨った戦だったらしい
最初の激突で里見・太田連合が大勝
当時の氏康厨はこれを誤魔化す為、すぐ次の戦が始まったように捏造を始めた
要するに二回有った国府台合戦を、無理矢理繋げてしまったんだと
その繋げる要素として「酒盛り」なんて嘘をついた
まぁどっちにしろ決戦に持ち込まれてしまったのは、どうなんかなぁ?とは思うね
謙信が越山してる事を知っていながら・・・膠着状態に持ち込めなかったんだろうかと
「酒盛り」まではいかなくても、前年の大勝で奢っていたのかもしれない
719:人間七七四年
07/11/24 19:37:01 QRX4kOr/
>>717
佐竹は2月に佐野攻めを放棄し武田に内通し白河結城を攻める為に北上した。
これが4月に厩橋城の北条が謀反するスイッチになってしまってるから北関東同盟を崩壊させた佐竹の罪は重いね。
なんせ佐野攻撃は赤城山経由での小山と宇都宮への援助ルート確保が目的で、佐竹・宇都宮・結城婚姻養子同盟の支援の一環。
それなのに佐竹の裏切り。
720:人間七七四年
07/11/24 20:05:35 xYpIrxnn
>謙信に人質すら出さないために上杉軍自ら平井城を破却し西上野を一任することにした傲慢な長野氏の箕輪城が落城。
平井城破却でさえ怪しいんだが、それ以外のソースは?
謙信は倉賀野攻めや数度にわたって和田城攻めを行っており、西上野を一任してはいないよ。
和田城攻めの失敗については謙信自ら国府台で太田、里見が負けた時よりも『窮屈難儀』と言っているよ。
721:人間七七四年
07/11/24 20:25:00 w7SMCFpr
やっぱり、謙信は厩橋城には信頼出来る家臣を派遣するべきだったね。
関東諸将を統括できずにいたから、佐竹をはじめとする有力大名の独走を
許し、北条の侵食を進める事になった。
謙信の決定的な政策がないから、後年、口減らし出兵と疑われる所以になってしまう。
722:人間七七四年
07/11/24 20:32:37 xYpIrxnn
>>720倉賀野『救援』だった。スマソ。それで>>717宛てね。
>>721
色部の前に佐野に駐留させていた(誰だっけ…)のも勝手に帰ってきたようなものだし、
信頼できる手ごまが少なかったんだろうね。
723:人間七七四年
07/11/24 20:35:47 nvMPKO4O
>>720
平井城は謙信が廃城にしたんだろ
北条氏は平井城を北条幻庵に与えていた。越後軍が幻庵を1560年に敗走させて手中におさめて廃城にした
724:人間七七四年
07/11/24 21:15:11 6aPG0zKG
また謙信厨が入り込んできてるのかよ。
隔離スレに池や
725:人間七七四年
07/11/24 21:41:50 qkMtkYXH
お前はもういい
726:人間七七四年
07/11/24 21:44:23 w7SMCFpr
謙信厨ってどの方?。
727:人間七七四年
07/11/24 21:59:52 xYpIrxnn
>>723
平井城破却が怪しいと思う理由。
北条は浦野氏への書状で倉賀野城に人質を出すよう言っており、
この時点で既に平井城が北条側の拠点でなくなっていたようだ。
平井城はそもそも信濃からの鎌倉街道沿いにあった。
この為、信濃から内山峠、余地峠等の諸ルートを使って侵攻しようとする場合、平井城で迎撃、或いは行動を制限できる。
ところが、この平井城が破却されてしまっていたため、信玄は甘楽郡制圧後、
西上野は無論、東上野、北武蔵でも楽に北条と共同作戦を取ることができるようになってしまった。
和田城を離反させ、鉄砲を入れることができたのもこのルートがあればこそだろう。
これにより西上野は南から切りくずされた。
このように、平井城破却は結局信玄を喜ばせるだけだったが、謙信がわざわざそんなことをしただろうか。
もし仮に謙信が破却したのだとすれば生涯有数の失策だったと言っていい。
以上、謙信に破却する理由が無いことと北条が倉賀野を拠点としていたことにより俺は北条の侵攻によって破却されたと思う。
728:人間七七四年
07/11/25 00:04:26 uLy8Hx0G
平井城を落城させた時にあまりにひどい破損だったから西上野は長野に任せて上杉勢は修繕せずに破壊して去ったんだろう。
そして利根川を渡り厩橋に拠点を移しただけ。
平井城なんて目と鼻の先の鉢形城に藤田がいるし碓氷峠を通過してきた武田勢からも攻撃を受ける挟撃地帯で利根川上流に近い為に水量も勢いも激しく渡河ポイントも限られ上杉は背後を死地にして戦うハメになる。
松山城が武田北条にフルボッコされたのと同じになるだけ。こんなトコは箕輪城でも明け渡して拠点にでもさせてくれて和田城攻略でもしなけりゃ上杉で維持するのは難しい。
西上野は人質出さねぇからいつ裏切るかわかんねーけど、うるさく言わなけりゃ離反しなさそうな長野を尊重させて放任させてやり、謙信は利根川中流域を渡河し足利~佐野から小山・宇都宮・佐竹連合との連絡線確保に力をいれた方がマシ。
729:人間七七四年
07/11/25 00:56:56 T+yCbFOZ
>>728
>平井城を落城させた時にあまりにひどい破損だったから
ソースは?
>そして利根川を渡り厩橋に拠点を移しただけ。
拠点移したからって破却しないでもいいだろうに。
>目と鼻の先の鉢形城に藤田がいるし
近くに敵の拠点があるからこそ重要な軍事拠点になりうるんじゃないか。
藤田が秩父の大半を奪還するのは永禄五年の話で、その時点でもまだ御嶽城は上杉方であり、
平井城周辺の足利長尾氏領土(代官平沢政実)も健在。
>碓氷峠を通過してきた武田勢
碓氷峠は安中氏がいるから通行不可能。
仮に突破しても結局甘楽郡に出て内山峠越えルートと合流しなければならないので挟撃はされない。
実際には先に甘楽郡を制圧してそこを足がかりに安中氏を下している。
>利根川上流に近い為に水量も勢いも激しく渡河ポイント
利根川はあさっての方向。関東の地理弱いでしょ。
>背後を死地にして戦うハメになる
倉賀野があれば問題ないが。
>松山城が武田北条にフルボッコされたのと同じになるだけ。
信玄によって上野西南部が抑えられ、藤田によって秩父が押さえられたからこそフルボッコになったわけで。
先述の通り、平井城の周囲はまだ上杉方だった。
しかも要衝ならば攻められやすいのは当然で、その要衝を固めて守るのが戦略と言うものであり、
要衝ゆえ攻められやすいから放棄なんてやってたらどんどん領土とられるよ。
>こんなトコは箕輪城でも明け渡して拠点にでもさせてくれて和田城攻略でもしなけりゃ上杉で維持するのは難しい。
理解不能
>西上野は人質出さねぇからいつ裏切るかわかんねーけど、
安中氏、諏訪氏、和田氏は出していたよ。(羽田文書)
>長野を尊重させて放任させてやり
放任したらそれこそ戦略ミスだ。任せたっていうソースは?
>謙信は利根川中流域を渡河し足利~佐野
このルート確保のためには利根川中流域を渡河する必要はない。
730:人間七七四年
07/11/25 01:28:18 T+yCbFOZ
あと俺は謙信の関東経略の失敗は臼井城よりも西上野戦線の敗退だったと思うよ。
長野は当主が城を枕に討ち死にするまで、倉賀野、総社長尾は居城が落ち当主が落ち延びるまで戦うと言う
戦国の世に非常に珍しい義理立てっぷりなのに維持できなかった。
信玄は宇都宮にも西上野戦線での戦績を伝えており、佐竹に対してもその後の行動から言って信玄の宣伝は効いていたと思う。
731:人間七七四年
07/11/25 09:55:19 wgVJhcdW
ちゅーわけで北条・武田の二正面作戦をしていた謙信が悪い、と。
武田との同盟は無理だから北条と同盟するしかないがw
732:人間七七四年
07/11/25 10:03:17 KWBIHTKK
それを言ったら、身も蓋もない。
733:人間七七四年
07/11/25 16:30:55 xlgxcU7U
北条と同盟するのだって有り得ないと思うが
武田以上に有り得ない
里見、佐竹、簗田らが北条の軍門へと降っていくのを認めたら
それこそ国防どころじゃなくなる
734:人間七七四年
07/11/25 17:00:09 sRoNt2CQ
そもそも国防する必要自体がないからね。謙信は
関東の弱小を助ける為の関東出兵、管領就任なんだから
義に対して感謝せず、北条につく勢力なんか本当はクソ以下の存在
そんな奴等を目の当たりにして、北条と手を結んで何が悪いのか?と。。
何で謙信だけそこまで献身的な御人よしでいなければならないのか?と。。
そこに関東豪族や逃げるだけの北条の
謙信に対する甘えが感じられるよね
735:人間七七四年
07/11/25 17:06:38 xlgxcU7U
いや国防の必要はあるでしょ
上野から攻め入った関東管領上杉顕定に越後を蹂躙されたし
その為景時代の苦い思い出を持った家臣達も越後には多かったと思う
北条が常陸、上総を制圧し
上野~下野を併呑するのは越後の国防上、看過出来ない
だから里見や佐竹らを懸命になって助けた
736:人間七七四年
07/11/25 17:49:39 2e3VXc6G
>>734
お前が頭悪いのは理解出来たw
737:人間七七四年
07/11/25 18:11:54 b5IU7ERV
関東諸将助ける為に就任したとか認識違いにも程があるわな
738:人間七七四年
07/11/25 18:12:29 sRoNt2CQ
それより早く質問に答えろよ能無し
739:人間七七四年
07/11/25 18:23:42 sRoNt2CQ
>>735
質問なんだけどさ
越後国防の観点からも関東出兵が必要なのは確かに分るけど
なら、なんで北条から奪い返した領土を豪族にわざわざ返す必要があるの?
奪っては返して、本国に帰還すればまた取られる。
そのいたちごっこを延々繰り返してる理由を挙げてよ
ワザワザ里見や佐竹にやらすより武蔵も下野も直轄管理した方が防衛しやすいでしょ
でもそれをしなかった理由を説明願いたいよ
740:人間七七四年
07/11/25 19:00:45 wgVJhcdW
>>733
ばっかだなお前。
武田は既に和睦を破ってる前科があるから同盟できないんだよ。
北条はまだ同盟破るかどうか分からないから
国境を脅かさない条件で同盟する可能性があるってだけ。
741:人間七七四年
07/11/25 19:24:27 86cqV0Kv
新潟の歴史自慢は謙信だけ
742:人間七七四年
07/11/25 19:59:14 T+yCbFOZ
永禄十一年正月、謙信は広田直繁に対して
直繁一人が利根川以南で上杉方として『忠信』に励んでいることに対して
『輝虎一世中不可忘之候』と感謝している。(歴代古案)
これを見ても謙信の感覚では関東諸侯を助けてやってるとなんていうものではないということはわかる。
謙信の出兵が関東諸侯を助けるという程度のものになってしまったのは
関東経略が失敗したからこそそうなったわけで、
成功していれば諸将を動員して戦っていた頃の勢いそのままに武田を挟撃、上洛することだってできただろう。
743:人間七七四年
07/11/25 22:07:58 s4PBqON0
>>739
当時は血族&古くから仕えてきた民が一致団結して戦っていた。
那波や小田、佐野・・・等々
そこへ言葉が違う越後の重臣を下手に城主なんかに据えても、警戒感を生むだけ。
これが甲斐~信濃のような往来し易い地理なら
本国の威光や監視も届きやすいけど。
しかし越後と関東は三國峠や利根川で阻まれている。
よって無理は出来ない。
関東の城代を謙信から頼まれる越後豪族にとっても、不安と危険が伴う激務だった。
あと混乱していた越後が謙信の代で治まったばかりなので
信頼出来る家臣が少なかった、というのも有るだろう。
隔絶された土地を信頼して任せられる手駒が足りなかった。
五十公野も唐沢山から勝手に帰国してしまうし。
744:人間七七四年
07/11/25 22:45:43 8GE49TQk
厩橋においていた毛利北条も寝返っちゃうしな。
745:人間七七四年
07/11/25 23:16:44 T+yCbFOZ
そうだそうだ。五十公野だった。
返したとどころか那波領の一部を横瀬に、館林を足利長尾に充行ってるからね。
どっちも要地だから維持が必要だが手ごまが足りなかったんだろう。
北条だったら無理やり養子に入れたりするところだが。
746:奇矯屋onぷらっと ◆/6/o/w/o/6
07/11/25 23:35:23 ZW+fR2pf
五十公野
いじみの、で一発変換できるね。
747:人間七七四年
07/11/26 07:08:44 jklNiQy3
謙信は北条と同盟に踏み切った時に、岩槻城を返還してもらう
のを取り付けた。岩槻城を太田に帰そうとしたが、太田は北条の
配下になる条件は飲めない、として拒否。
謙信を嘆かせたのだ。
748:人間七七四年
07/11/26 11:40:16 /zx1u//l
息子の梶原を小田原の人質に出せと言われたからね。北条の配下になれと言われたわけではないんじゃないの?
里見なんかも下総での優位を認めるって話だけど北条の配下になるわけじゃないし。
ただ千葉氏が里見を尊重するとは思えないから破棄してるけどね。
まぁ里見・太田組は北条に対して相当な憎しみがあったようだからね。
ただ旧関東管領山内上杉に近かった連中はみんな北条との和睦を願ってたからね。
旧関東管領とはもともと敵対関係だった旧古河公方勢力圏である利根川以東の下野・常陸・下総・上総方面とは利害は一致しないよ。
749:人間七七四年
07/11/27 17:22:01 QhRbfgXH
この城は関東7名城よりも堅固だから謙信が落とせなくてもしょうがないだろう。
小田原よりも強固なんじゃない?
750:人間七七四年
07/11/27 23:39:56 jtGirvR5
正木時茂は落としたけどね
751:人間七七四年
07/11/30 22:31:41 CuEI1pBF
でもその後すぐ奪い返されてるしな。
かなり不意打ちだったんじゃないかな。
そんなのは落としたとはいえないだろ。
その後家康は臼井に城は作らず佐倉に平坦な城を作ってることから
臼井城はかなりの堅城だっったといえる。
752:人間七七四年
07/11/30 22:47:46 gCmrNjUF
>>751
不意打ちでも落としたになるのでは?
藤原頼長じゃあるまいし奇襲は1つの戦法
753:人間七七四年
07/11/30 22:47:58 6nRzfUtJ
謙信もこんな僻地にわざわざ攻めにくるなんて、
何考えてたのかな。
臼井城なんて、これしかネタないだろう?。
その後に重要な出来事あったかね。謙信攻略失敗も重要な事じゃないんじゃないの。
歴史研究家が騒いでるだけで関東戦国史にさしたる影響のある事じゃないね。
754:人間七七四年
07/11/30 23:34:47 YzrKJm80
影響なんてほとんど無いね。
755:人間七七四年
07/12/01 00:22:27 Ed2DnnJ2
時茂が臼井を落とした際の背景はどうだったんだろう
「槍大膳」と囃された里見氏の軍奉行・正木時茂は小田原包囲の年・四月に亡くなってるようだけど
北関東に謙信が乱入、その為北条は臼井へ後詰を派遣する余裕が無い
そのおかげで時茂率いる里見軍単独でも臼井を落とせたのでは?
よく分からないけど
756:人間七七四年
07/12/01 09:13:46 en/ClBjr
臼井城はその昔、戦国期に入る前に鉢形城の長尾景春を討つべく侵攻した太田道灌が背後を安定させるべく弟を派遣し臼井城で激戦を展開し、落城したものの道灌の弟が戦死するハメになり、さらにすぐ奪い返されてしまい太田氏の下総国に対する野望が頓挫しました。
東京湾に注がれた利根川から東側の下総国は大湿原地で小舟を並べて侵攻するような難所だったので
東海道は相模から海路で安房→上総→下総→常陸となり相模→武蔵→下総ではなかったらしいです。
757:人間七七四年
07/12/01 11:14:10 WxF4OYij
御教授有難うございました!!
758:人間七七四年
07/12/02 13:19:37 7pdCiW6b
臼井城の戦いはもうひとつの川中島の戦いだな。
謙信は2つとも負け領土拡大に失敗した
謙信て重要な戦いにはぜんぜん勝てないんだながっかり
759:人間七七四年
07/12/02 23:09:07 a4yx7fTI
一人でがっかりしておきなさいw
760:人間七七四年
07/12/03 02:25:04 JpGXm0jp
歴史街道9月号に臼井城の戦いが特集されてるが
兵力1万5千対2千なんてほんとかな
関東では落ち目の謙信に関東の武将はそんなに兵を出したのだろうか
761:人間七七四年
07/12/03 08:57:52 f4/HsDyw
里見も来れなかったと聞くし、岩槻が落ちてるから成田も怪しい
そんなに集まらなかったのでは
762:人間七七四年
07/12/05 03:33:52 omV0PuBc
>>758
そもそも謙信は領土拡大を図ってませんが・・・
それに歴史読み物本は平気で講談話を史実のように書くのでアテになりません。
だいたい臼井城に謙信自ら出馬してないし里見の後詰めが北条を牽制してました。
そもそも攻城戦なんてのは失敗してもそれを負けとは言いません。撤退といいます。
臼井城は落城寸前で威嚇する目的は達成でき城下を燃やしてるのだから戦略的成功といえるでしょう。
763:上杉三郎ってどお?
07/12/05 11:10:59 E2N52N42
>>760
臼井城の前に攻略した小田城攻めに参加した上杉軍リストならあるよ!!
764:人間七七四年
07/12/05 11:38:19 Qk/Nwhil
おそらく小田城を破却してる最中に小山氏を通じて泣き付いたり小田氏の降伏交渉から小田城返還までの流れで謙信自体は忙しかったはずなので臼井城へはやはり足利長尾当主を派遣したってのが実相でしょう。
765:人間七七四年
07/12/05 16:48:40 HUh3nSj5
臼井攻めの時点でそんな落ち目だったのなら関東支配など夢物語だなw
結局威勢が良かったのは最初の小田原攻めの時だけか
とんだ一発野郎だw
花火管領上杉輝虎www
766:人間七七四年
07/12/05 16:57:02 omV0PuBc
そして越後統一・越中・能登・加賀をあっという間に平定。
謙信にあきれ見放された佐竹・宇都宮・結城らは謙信に関東来てくださいって哀願したんだぞw
そんであんまりにも頼るから仕方ないから越山するから待っててねって約束したあとに死んだんだが
越中・越後・上野に大動員かけてたから北条もビビって
「上洛して織田を討つなら北条もお手伝いに兵を派遣して協力します」って言ってきたくらいwww
767:人間七七四年
07/12/05 17:10:57 pplN8Fu4
社交辞令だろ
768:人間七七四年
07/12/05 17:56:22 omV0PuBc
矛先を変えるのに必死なのは明白w
769:人間七七四年
07/12/05 18:07:09 HUh3nSj5
10年以上かけても上野一国統一できなかったクズ虎がどうやったら織田なんて倒せるんだよwww
馬鹿も休み休み言えって奴だw
織田は北条よりなお強大だぞ
クズ虎は杉山元かwww
770:人間七七四年
07/12/05 20:08:07 pFdpDgLX
>>769
お前の理屈なら、上野を統一できなかった武田と北条もクズなんだろうなww
771:人間七七四年
07/12/05 21:06:14 aVNkL1UE
武田も信濃統一出来なかったよなあ。まあいいけど。
772:人間七七四年
07/12/05 21:36:20 DUOhbc9O
>>769
馬鹿だなぁ
マジレスすると信長とガチで戦うにしても石山本願寺や毛利家とも連携する。
773:人間七七四年
07/12/05 23:33:59 Qk/Nwhil
柴田・前田・佐々なんて敵じゃねぇよ。
次の一戦で越前と若狭と丹後までゴッソリいただいて毛利と合流目指すぞ!
吉川元春には船団で丹後勢牽制の為に但馬への奇襲上陸を命ずる。
日本海貿易の独占が目的だから近江に防衛線をはって完全に裏をかかれる信長w
774:人間七七四年
07/12/07 23:49:37 Oxhj9N5O
なにその厨臭いレスw
昭和の小学生かよww
775:人間七七四年
07/12/10 20:48:42 XFURaddd
昭和の小学生
776:奇矯屋onぷらっと ◆/6/o/w/o/6
07/12/10 23:29:16 6e1rvnCC
昭和のうちに小学校を卒業していたらゆとり世代じゃないな。
777:人間七七四年
07/12/11 17:24:27 B5iCBNz0
>>774平成のゆとり晒しあげ
778:人間七七四年
07/12/18 22:20:25 Et9KFm+7
上杉謙信が参加してないだの
たいした戦いではないだのひどい捏造だな
新潟人が知らないのはしょうがないけど。
何とか軍記には記述されてない戦いらしいし。
779:人間七七四年
07/12/18 23:01:19 VbxIPt0T
>>760
>歴史街道9月号に臼井城の戦い
の執筆者はテレビ『世界一受けたい授業』に出ていた「河井敦」、
ソースは『北条記』
河井敦は江戸時代の日本には、鎖国制度なんて存在しなかったと
テレビでも言ってたし、本にも書いてるがそれでいいのかね。
780:人間七七四年
07/12/19 01:13:48 /x0+0Vs/
まっ実際に臼井城へ派遣されたのは金山城の由良国繁の弟である足利長尾顕長なんだがな。
781:人間七七四年
07/12/19 05:28:51 /x0+0Vs/
>>780
こいつらが攻略失敗したあげくに北条に降るんだよ。ほんと卑劣漢だわ。
結局はこの兄弟は小田原で北条に拉致られて
金山城や館林城を北条に譲るハメになるんだからバァカだよな。
沼尻の戦いなんか佐竹や宇都宮も参加して北条に最後の抵抗。
このメンバーは上杉謙信さまがいてくれたらって心から思ったろうな。まさに後悔先に立たずだよなw
782:人間七七四年
07/12/19 06:34:05 MtePCrJS
由良と佐野は成繁、昌綱の代から仲悪いんだろうか?
どうも謙信と由良の関係が良好な時に、唐沢山が離れ
謙信から由良が離れた頃、昌綱が「長尾の養子をくれ」と言ってきたり
謙信も唐沢山に色部を城代に置いてるような気がする
由良と佐野が土地問題でギクシャクしていたから
両家同時に謙信の傘下へ入るって事が出来なかったのかなぁ
783:人間七七四年
07/12/19 14:46:13 E0ZR31B/
関東情勢は在地小名たちの代理戦争の観があるからな。
お前がそっちつくなら俺は今日からこっち、みたいな事が往々にして見受けられる。
784:人間七七四年
07/12/19 21:46:59 xc14Slwo
>>780
ソース教えて下さい。
残ってる感状が顕長のものだってこと?
785:人間七七四年
07/12/20 01:01:03 XOP6wGch
新潟w
786:人間七七四年
07/12/20 03:19:18 41fF97fX
ここに似たようなことが書かれてるね。。
URLリンク(www2.harimaya.com)
永禄九年(1566)、上杉謙信が長尾顕長を将とする軍勢を臼井城に向けたとき、
久胤も結城晴朝のもとで臼井城攻撃に加わった。
しかし、臼井城には原胤貞とともに名軍師・白井胤治が采配を振るっており、
落城寸前にまで追い詰められたが、よく上杉勢の攻撃を防いだ。久胤の臼井城奪還は夢と終わり
787:人間七七四年
07/12/20 12:46:54 ovHbqcyy
北条記は捏造の荒らし
788:人間七七四年
07/12/20 22:17:10 366TRm+y
>>786
そのリンク先の更に先にある、千葉氏のメチャ詳しいサイトには
上杉氏の臼井城攻めは2回あったって書いてあったような。。
789:人間七七四年
07/12/23 01:13:49 WXgQpgP3
おれの 精子臼井んだけど・・・
790:人間七七四年
07/12/24 02:56:25 dBa2b9eN
おれの 精子臼井んだけど・・・
誰jか濃くなるように混ぜて・・・
791:人間七七四年
07/12/25 01:46:35 0FbwB/6u
亜鉛でも摂取しておけ
792:人間七七四年
07/12/25 21:07:04 E/aTf8Sw
謙信が久留里城ならまだしも臼井城ごときを
落とせないわけはない
捏造確定だな
793:人間七七四年
07/12/25 23:56:15 IENzCA6R
いやー、
なんで○○はこんな小城を落とせなかったんだ?
って事例はゴロゴロしてますぜ。
農家に毛が生えたような城で信長の侵攻に耐えるとかな。
794:人間七七四年
07/12/26 01:21:57 PzEKQBuw
いくらなんでも臼井城は越後から遠過ぎる…例え落城させても維持が難しいのでは?
最初から城下を焼いて威圧して帰る予定だったのでは。
維持するったって佐竹や里見だって臼井城の後詰は難しいだろう。
795:人間七七四年
07/12/28 17:58:33 7S6Lpk0n
当時の人間にとっては眼と鼻の先だろ
796:人間七七四年
07/12/28 23:32:56 AQuJVO0E
>>795
アホでつか?
797:人間七七四年
07/12/30 10:02:26 rn8dDoxy
また謙信厨の捏造かw
ソースもないのに勝手に話つくっていくんだから凄いよなw
本気で狂ってるわ
798:人間七七四年
07/12/30 11:59:01 x3cF+YI4
ここも相変わらずだな・・・
799:人間七七四年
07/12/30 13:55:14 o2IbENz7
>>797
謙信厨(笑い)
800:人間七七四年
07/12/30 15:43:00 0eiT7vZ9
>謙信厨ってGacktか!
801:人間七七四年
07/12/30 15:53:10 /Ohvfa/l
伊達厨が必死に中傷してるw
伊達厨の特徴→具体的反論が欠如し
抽象的な中傷しかできない無能。
802:人間七七四年
08/01/03 18:01:10 xFH1atMG
ここも一時期有意義な議論が展開されてたのに・・・
荒れ放題じゃん。残念だよ。
軌道修正しなきゃだめだよ。
803:人間七七四年
08/01/03 19:22:21 xgGTGojG
役割を終えたということです
804:臼井入道ってどぉ?
08/01/08 12:28:12 ANqfguZv BE:296925252-2BP(0)
皆さん。明けまして御目出度う御座居ます。今年も宜敷お願いします。
>>669&>>679-689&>>693&>>707&>>760&>>764&>>778-780&>>784&>>786&>>792&仙台藩百姓さんなどへ。
割り込み失礼つかまつるが…
現時点で、私の手元にある臼井城攻めに関する史料を列記してみたよ!!
それらから臼井城攻めに謙信は加わっていたか否か?も考えてみました。答えは、3つ。
①臼井城攻めは事実。
②謙信率いる上杉軍も加わっていた
③足利長尾顕長だけではなく、景長も従軍していた。
ロングヴァージョンは、↓アップローダにあげておいたよ!!
URLリンク(www-2ch.net:8080)にある
「臼井入道ってどぉ?」.txt
を見てください。
ショートヴァージョンは、コレ!!
(3).永禄九年三月二十日付 足利長尾景長(当長)→(足利市にある)鑁阿寺千手院あて書状「鑁阿寺文書」
「(この度の出陣の必勝祈願の巻物ならびに抹茶一器をいただき、誠に有り難い。)
しかるに臼井城を(攻めまくって)実城(本丸、二の丸、三の丸)の堀一重にまで致しました。
諸軍は夜が明けたら隙なく本丸を攻めて、落城させるでしょう。
味方も敵も多くの人が『謙信が勝つ』と噂しています。
(私、景長が)お屋形様(謙信)に付き従っていた所、(謙信から)『尋常じゃないくらい大変細かなところまで気を配っていただいた』と聞きました。…略…
追伸、本陣(謙信)や河田長親の陣などにも、巻物と抹茶を届けたよ」
結論3
①臼井城攻めをしていた景長の近くに謙信と河田長親がいたことは確実であり、上杉正規軍が臼井城攻めに加わっていた事も、またしかり。
②3月20日の時点では、上杉軍が有利な状況にあった。
③『関八州古戦録』巻七では「長尾新五郎(顕長か?)」が出てくるが、先代の景長も従軍していたのは間違いない。
805:臼井入道ってどぉ?
08/01/08 12:31:53 ANqfguZv BE:593850454-2BP(0)
>>697さんへ
利根川の東遷物語のHP。まず、ココ↓を見て下さい。
URLリンク(ime.nu)
簡単に言えば昔は…
(1).荒川→元荒川→隅田川→東京湾
(2).利根川→古利根川→隅田川→東京湾 (江戸時代まではこれが武蔵の国境線でもあった。)
(3).渡良瀬川→権現堂川→太井川→東京湾 (一部は、上野と下野の国境線。) の三本の大河が東京湾に流れていた、と言われる。
※1 太井川(太日川とも書く。「ふといがわ」「おおいがわ」と読む。現在、江戸川の西を流れる庄内古川の事である。
※2 もちろん関宿から常陸川(広川)という小河川が、つまり現在の利根川が銚子方面に流れていたらしい。
※3 特に館林・羽生から古河のあたりにかけて(2).+(3).が、時には合流し、時には分離するなど入り乱れていた。
※4 現在の埼玉県栗橋町付近で、(1).(2).(3).が入り乱れて流れていたらしい。
806:臼井入道ってどぉ?
08/01/08 13:10:50 ANqfguZv BE:890775465-2BP(0)
>>703&>>794さんへ
里見氏については
うぬぬ…里見家は戦国最強
スレリンク(sengoku板)l50#tag805に書き込みました。
>>705-706&>>708&>>715さんへ
なぜ義重が北関東の旗頭(盟主)になったのか?については
常陸の最強武将 佐竹 鬼 義重
スレリンク(sengoku板:462番)に書き込んでおきました。
以上、宜敷お願いします。恐々謹言、正月三日。
807:臼井入道ってどぉ?
08/01/08 13:13:13 ANqfguZv BE:1039237875-2BP(0)
訂正
誤
うぬぬ…里見家は戦国最強
スレリンク(sengoku板)l50#tag805に書き込みました。
↓
正
うぬぬ…里見家は戦国最強
スレリンク(sengoku板)l50#tag380
808:人間七七四年
08/01/08 13:28:34 J8EJ+NxB
それだけで謙信が同陣した証拠にはならないと思うなぁ
オレは館林~小田間で総指揮をしてたと思うな。
それに傀儡足利義氏に対してはかなりのウソの情報をしてたと思うんだよね。この件に限らず。
最大の疑問はどうやって5000人も死傷者がでてるのか明確にならないと即断できず曖昧さが抜けない。
北条記だと白井入道が呪術者っぽくて事に吉凶や敵軍の気を見たりして、凶日に攻める謙信をあざ笑ったりしてるが
そういう妄想軍談的な話で勝てるとは思えないし自ら城壁を崩して下敷きにしたとかでそんなに被害がでるだろうか?つか防御を自分から破壊?
809:人間七七四年
08/01/08 14:17:58 RYW8o5kJ
なぁ、別に負けたっていいんじゃない?
つうか、それでも落城寸前まで追い込んでるだよなぁ。すんげぇ~
一回くらいいいじゃん。
それで他の負け数多い部将のヲタが満足するんなら・・・
810:人間七七四年
08/01/08 14:39:38 721GviVe
数千~五千人死んだら名の有る武将も死んでる筈なんだけどね
この重要な点を上杉側、北条側双方ともに何一つ記してないのが不自然
つまり北条側の記録なんだけど
「数千人の死傷者を出した」確認を報告書で受け取った~というのは・・・
直属の後詰部隊(この時は松田を派遣か)が襲撃した場合「討ち取った」という表現になると思う
よって「数千人の死傷者」発表は臼井城が発信してるっぽいよね
形はどうあれ、守りきった城側による誇張が大分有りそうな印象を受ける
811:人間七七四年
08/01/08 14:41:22 J8EJ+NxB
>>809
なんか誤解してる?
いやね攻城戦の失敗ってのは結構あるからどっちでもいいんだが・・・
812:人間七七四年
08/01/08 15:13:50 RYW8o5kJ
なぁ、別に勝ったっていいんじゃない?
つうか、それでも落城寸前まで追い込んでるだよなぁ。すんげぇ~
一回くらいいいじゃん。
それで他の勝ち数多くて負け数も多い部将の負け数少なくなるわけじゃなし・・・
813:人間七七四年
08/01/08 15:35:49 tp+s8EKr
>>812
あなた知池?
謙信が館林で兵の集まりを待って後詰の準備してたと思うんだよね。
謙信が臼井城に重臣を連絡役に派遣してたんだと思う。
なんせ臼井入道がたまたま居合わせたとか偶然性を匂わせたり、軍配の天才みたいな前評判があるがすごい事蹟など皆無。
明らかに北条の捏造としか思えんからなぁ。
814:人間七七四年
08/01/08 17:00:33 QKT5UDvG
>>813
憶測ふたつ、事実ひとつはさんで、推測ひとつ
憶測ふたつはいらない
反論のはじめに憶測持ってくるあんたのほうがよっぽど池沼だよ
815:人間七七四年
08/01/08 17:22:37 tp+s8EKr
>>814
知池と書いてるんだ。
池沼とは書いてない。あんたはまず文章をよく読む力を学ぶ事だ。話はそれからだ。
816:人間七七四年
08/01/08 17:45:25 QKT5UDvG
>>815
屁理屈は結構
817:人間七七四年
08/01/08 18:42:01 J8EJ+NxB
ID:RYW8o5kJが2度も同じレスするから文句言ってるだけなんじゃないの?
ID:QKT5UDvGが執拗にからむ必然性がないように思えるけどもしかして自演厨?
818:人間七七四年
08/01/08 18:48:34 721GviVe
>>804
あとこれをお伺いしたいんだけど
>味方も敵も多くの人が『謙信が勝つ』と噂しています。
この頃は謙信じゃないですよね?
実際は何て書かれてるのでしょうか?『輝虎が勝つ』?
それとも『山内殿が勝つ』?かな
819:人間七七四年
08/01/08 18:50:03 QKT5UDvG
いいや
反論としておかしいと指摘してるだけだが
仮に文句だったとして、たったの2レス、それも中身のあるレスでもないのに目くじら立てて、必死になって文句言う気が知れないが
820:人間七七四年
08/01/09 01:51:16 kVpfGrBn
>>819
必死すぎw
821:人間七七四年
08/01/09 09:22:47 /oud4IdY
結局謙信厨はまともな反論はできませんでしたwwwwwwwww
822:臼井入道ってどぉ?
08/01/09 14:43:47 fg5cm56V BE:593850645-2BP(0)
>>808&>>810&>>818さんへ
今度は原文を載せるからね。
823:人間七七四年
08/01/16 16:38:00 EOFzRJjx
謙信は城攻めが苦手だったんだよ。
野戦の方が得意だった。ただそれだけのこと。
824:人間七七四年
08/01/16 18:34:00 sc166L+w
>>823
謙信に限らず誰であろうと堅城は攻めあぐねるぞ。
もちろん物理的な意味の堅城に限らず。
825:人間七七四年
08/01/16 19:01:07 7CMHRaqo
>>823
信玄は箕輪攻撃を何度か失敗してる
謙信は和田攻撃を何度か失敗してる
しかし箕輪は落ちて、和田は落ちなかった
この違いは何かというと補給路確保の差
あと敵勢力が派遣する後詰の規模、後詰自体の有無
謙信の場合は三國峠&利根川で阻まれてる分、補給路が困難
後詰も簡単には往来できない国へ帰らなければならない
季節も雪で峠が遮断される前に越山しても、兵糧が尽きたら帰らなければならない
信越国境や親不知峠(越中方面)も心配だし
これら諸条件が絡んで、攻城出来る期間がかなり限定されてしまうのが謙信
この悪条件で沼田、騎西、小田、唐沢山、松山(?)あたりを落としたのは大したもんだと思う
ほぼ同じ条件だったら越中神通川以西の城、七尾や末森などを落としてるし
826:人間七七四年
08/01/16 21:20:13 utbQPI3A
謙信はなんで不信感のある毛利北条高広を厩橋城に派遣して
上野領を任せたのだろう?
もっと信頼できる家臣を派遣できなかったのだろうか?
だから、関東の支配も不安定だったのだ
827:人間七七四年
08/01/16 22:12:40 gqUTRvNW
謙信は相当なお人よしだから、裏切った事のある人間ばかり重用するよなあ。政景とか本庄とか。
わざとそうやって「出直してやる機会やるから頑張れよ」とか言ってたんじゃないかと思ってしまうぐらいだw
828:人間七七四年
08/01/16 22:44:39 sc166L+w
謙信の攻勢が激しいからか北関東の金山城や唐沢山城は早期に石垣要塞化したらすぃ。
和田城も武田軍が相当数の鉄砲を持ち込んだとか。
もうね謙信にみんなビビっちゃって籠城力アップばっかりになっちゃうだよな専守防衛と調略ばっか。
829:人間七七四年
08/01/17 00:14:26 lGqTEKvG
それは正しい戦略なんだが。
830:人間七七四年
08/01/17 00:39:47 Djyb0Mh1
防衛力を上げ過ぎて
結局関東統一勢力が現われないうちに天下の軍に襲われますた。
北条5代の苦労を一気に手に入れた家康が関東に移封されてきた時には
さぞや野望が生まれたでしょう。
831:臼井入道ってどぉ?
08/01/26 16:49:25 7n3zFkmn BE:1870628279-2BP(1)
皆々様、様々な意見どうもありがとう。では原文を。
1,上杉側の資料
(1).は前回掲載のためカット。
(2).永禄九年二月二十一日付 小山秀綱→謙信あて書状「上杉家文書」
「貴札披閲、抑小田之事、被応御刷(※注…あつかい)候上、被任御兼諾、為総州口御出馬、至于当地館林御著(※注…着のこと)、然者味方中御触ニ附而、委砕蒙仰〓〓〓得其意候、諸毎追而可申達之段、不能〓〓〓謹言
二月廿一日 良舜(花押)(※注…小山秀綱のこと)
山内殿 御報」 (〓は「欠字」です)
私の意訳
「貴公からの(出陣命令の?)手紙を拝見しました。(私が降伏を仲介した)小田の事は任せてくれるのですね。
(山内殿は)総州口(下総)の出馬(準備)のため、(小田城から一旦)上州館林に戻り、味方中に(出馬の)陣触を発して将兵を集めているとのこと。(私も)了解し(早速、兵を出しましょう)…以下略」
832:臼井入道ってどぉ?
08/01/26 16:58:07 7n3zFkmn BE:118770522-2BP(1)
(3).永禄九年三月二十日付 足利長尾景長(当長)→(足利市にある)鑁阿寺千手院あて書状「鑁阿寺文書」
「就出陣衆中有御祈念、巻数・守越給候、千秋万歳目出度令存迄ニ候、
殊貴院別而有御精誠之段、是又祝着之至候、仍抹茶一器送給候、賞翫無極ニ候、
(↓ココに注目して下さい!!)
然ニ臼井之地実城堀一重ニ致之、諸軍取詰、夜白無隙被責之候間、落居不可有程候、
(↓ココに注目して下さい!!)
御人衆先年小田原陣ニも被勝候之由、各風聞ニ候、
隋而屋形(※注…謙信)不尋常御懇切ニ候、被聞召及、可為御大慶候、
彼是畢竟御祈念故二候、猶御精誠之儀頼人迄候、万賀帰陣之上可申達候条、不能詳候、恐々謹言
追啓、旗本へ巻数・抹茶以書中進申候、万端御取籠候間、此程者御返無之候、重而相調、
自是可進之候、并河豊(※注…河田豊前守長親)へ巻数・抹茶、定隣軒(※注…信楽)・境大学助所へ之抹茶届申候
但馬守
三月廿日 景長(花押)
千手院 御報」
私の意訳
「(この度の出陣の必勝祈願の巻物ならびに抹茶一器をいただき、誠に有り難い。)
しかるに臼井城を(攻めまくって)実城(本丸、二の丸、三の丸)の堀一重にまで致しました。
諸軍は夜が明けたら隙なく本丸を攻めて、落城させるでしょう。味方も敵も多くの人が『謙信が勝つ』と噂しています。(私、景長が)お屋形様(謙信)に付き従っていた所、(謙信から)『尋常じゃないくらい大変細かなところまで気を配っていただいた』と聞きました。…略…
追伸、本陣(謙信)や河田長親の陣などにも、巻物と抹茶を届けたよ」
>>818さんへ、 原文はこう。
「御人衆、先年、小田原陣ニも被勝候之由、各風聞ニ候」
↓直訳
たくさんの人が『(あの)かつての、小田原包囲戦に勝るであろう』と、噂しています。
>>808さんへ 「たくさんの人があの小田原包囲戦に勝るであろうと噂している」から、やはり謙信は直率していたんじゃないかなぁ。
833:臼井入道ってどぉ?
08/01/26 17:07:50 7n3zFkmn BE:1068930566-2BP(1)
2,北条側の資料
>>681&>>684さんへ。これが原文です。
(1).永禄九年三月二十五日付 氏政→信玄あて書状写「諸州古文書」
「急度申届候、仍一昨廿三攻臼井、敵数千人手負死人出来、注進状為御披見進之候、
如此者敗北必定候、一日も早々御陣寄専一候、従城中之使如口上者、手負死人故、房州衆酒井陣者、悉明、廿三之晩景越衆少々相移之由申候、以奚可有御校量(※注…考量か?)候、委細安伊(※注…北条の家臣で「安」の姓で「伊」の受領名って誰だろう?)可申候、恐々謹言
三月廿五日 氏政(花押影)
武田殿」
私の意訳
「…略…『おととい23日、臼井城を攻めた敵が数千人の死傷者を出した』という報告書が届きました。
(彼らの)敗北は必定です。一日も早く出陣して下さい。死傷者が続出したことで、房州衆(里見)と酒井(上総土気の胤治か?)の陣は(引き上げたため)空っぽになりました。これにより23日夕方の時点で、上杉軍の兵力は少数に転じたようです…以下略」
834:臼井入道ってどぉ?
08/01/26 17:11:56 7n3zFkmn BE:801697493-2BP(1)
(2).永禄九年三月二十八日付 足利義氏→(北条派の)家臣豊前山城守あて書状写「豊前氏古文書抄」
「就今般凶徒臼井令張陣、節々(※注…切々か?)様体(※注…様態)申上候、一入御感悦候、
抑去廿三致大責(※注…大攻か?)、五千余手負死人令出来、廿五敗北之段注進、孚以簡要(※注…肝要)御満足候、
今度氏康父子至于後詰一戦者、其地へ可被出御馬御逼塞候処、無相違令退散候、御無念候、巨砕(※注…巨細)両人被申遣候、謹言
三月廿八日 (花押影)(※注…義氏の花押のみ)
豊前山城守殿」
私の意訳
「今回は凶徒(謙信)の臼井城攻めについて、その様子を是非話したい。一層喜びを感じています。
(敵は)23日の総攻撃で5000人の死傷者を出し、25日には敗走したとの知らせをもらいました。大事な所で勝利し、とても満足しています。
氏康父子が後詰めに出陣したが、(敵は)姿をくらまして、退散したのは間違いありません。(これを取り逃がしたのは)すごく残念です。両人(氏康父子)から一部始終を聞いたよ。謹言」
>>810さんへ >>808さんも言っていたけど…。
氏康父子から足利義氏に、死傷者を水増しして報告していたんじゃないかと思います。
835:臼井入道ってどぉ?
08/01/26 17:24:42 7n3zFkmn BE:534466229-2BP(1)
>>826さんへ
当初は「河田長親」を厩橋城に入れていたが…
近隣の領主だった那波氏の代わりに「北条高広」に変えたらしい。
なぜなら、那波氏も高広も先祖は、鎌倉幕府政所初代別当の大江広元だから。
↓ココを見てください。
武家家伝_那波氏
URLリンク(www2.harimaya.com)
高広は裏切ったのではなく、領主化してしまったので、成田氏みたいに謙信と北条の間を行き来していたのだと思う。
どちらかというと謙信は、厩橋城よりも沼田城にいる三人衆を重んじていたのではないか?
836:人間七七四年
08/01/27 14:06:40 kIm5pUUW
【最強】千葉氏【関東の覇者】
スレリンク(sengoku板)
837:人間七七四年
08/01/28 00:45:09 voMtKPRv
あれこの時代の金山城主の由良氏の領土の西端は伊勢崎市あたりも領有してたんだっけ?
838:人間七七四年
08/01/28 20:08:19 y8TVEvWO
>>835
謙信も後で「佞人表裏」のせいで関東諸将との中が…といっており、北条高広が佐竹義昭からも土地を充行われたように
高広が関東諸将との交渉を仲介していたと考えられるので、離反前は謙信は関東経略の窓口として高広を重んじていたのではないですか。
結局、謙信の組織作りの拙さの問題では。
>>857
謙信の最初の越山のとき、由良成繁は大胡城とともに那波氏の赤石郷を与えられ、
これを喜んだ成繁が赤石郷の一部を伊勢神宮に寄進、伊勢宮を建てたので同地が「伊勢の前」と呼ばれるようになったそうです。
『武家家伝_那波氏』のとは異なりますが、天正二年頃に由良攻めを行った謙信は赤石城の向かいに今村城を建て、
ここに那波顕宗を入れた(取立)とか。
顕宗は『上杉家中名字尽』でも上杉方として書かれている。
839:人間七七四年
08/01/28 23:24:50 jzcRBpsf
『武家家伝_那波氏』は「天正六年(1578)三月、謙信が死去すると北条高広とともに小田原北条氏に従った。」とも書いてあるし文体として微妙だよな
俺は1577年12月に編纂された『上杉家中名字尽』に那波顕宗の名前があることを重視するけどさ
840:臼井入道ってどぉ?
08/02/08 14:26:58 8yZt0OBb BE:623542673-2BP(1)
>>838さんへ
伊勢崎の地名の由来、勉強になりました。
1.地形的に見て反論するね。
沼田を失うと、関東⇔越後の出入り口がなくなるわけだから…
地形的には厩橋よりも沼田の方が重要じゃないのかな?
2.厩橋は対北条・武田の前線基地に当たり、
謙信が「越山」出来ない時は、代わりに高広が軍勢を率いている。(永禄八年か九年)
だけど関東諸将と交わした書状の枚数を見ても、高広よりも沼田城将河田長親の方が多いのは気のせいかなぁ。
3.『武家家伝_那波氏』はちょっと違う。
そうですね>>839さんも言ってますね。
(1).天正二年から天正五年の『上杉家中名字尽』の間に上杉家に取り立てられたのではないか?
(2).「天正六年(1578)三月、謙信が死去すると北条高広とともに小田原北条氏に従った。」とあるが、
これは「小田原北条に従ったのち勝頼に従った」が欠けている。
参考文献
柴辻『武田信玄大事典』
黒田基樹『戦国大名と外様国衆』
841:人間七七四年
08/02/08 16:47:04 xGcx+cNF
長い
842:人間七七四年
08/02/10 07:09:00 0GIzxBrg
そんな事言わずに読んでやれ
843:人間七七四年
08/02/14 18:40:57 5udbEpmf
>>840
三国街道が沼田を外れているように、出入り口がなくなるわけではありません。
難しくなるのは確かでしょうがね。
三国街道ルート
三国峠→猿ヶ京→白井領→和田(高崎)
清水峠越往還、沼田往還ルート
清水峠→沼田→厩橋
白井長尾系図には沼田が落ちてからそれまで潜伏していた上杉憲政は越後に亡命したが、
白井長尾領は越後への出入りが自由であるのでその際に憲景が忠節を為したとあります。
この史料は他にも史実と異なると考えられる記述が多いのでこの話もやはり史実とは異なるのでしょうが
こういう話があってもおかしいわけではありません。
近衛前久の書状にあるように人質を集めておいたのも厩橋でしょう。
沼田には猿ヶ京周辺の小領主の人質は入っていたようですが、
他の地域の人質も集められるようになるのは北条離反以降ではないですか。
謙信も最初に関東に配置する時点で沼田まで後退することを予想してはいなかったのではないですか。
そしてそうであれば対北条の為の拠点はもっと南に置くでしょう。
永禄八年七月十七日に謙信は河田長親に至急沼田城に入るように指示しますが、
同十九日に中越の諸将に河田豊前守が遅れているので沼田に行くよう指示しています。
河田はずっと沼田の城将だったというわけではないのです。
永禄十一年に越中へ出陣しているので関東方面担当というわけでもない。魚津城を任せられてもいます。
河田豊前守宛書状は永禄九年の足利義昭からのものもあるように
交渉面でも関東方面担当ではなく広く謙信の交渉ごとを受け持っていたのではないでしょうか。
844:人間七七四年
08/02/14 19:09:44 J+Of9PKA
河田はもっとも信頼できる男ゆえ謙信が頼りに頼った感がある。
もともと近江の者だったから拾って抜擢してくれた謙信に恩を感じてたろうし河田は休むヒマなし過労過ぎる激務になった感じだよな~。
北条は激務に嫌気がさしたって感じで謀反したから河田の仕事がやたら増えた。
そんな河田がすげぇ好きだな~応援したくなる。
845:人間七七四年
08/02/15 01:01:41 5pyzGt71
>>840
臼井城の次には、生野山の戦いをやってもらいたいなあ
資料がないかなあ
846:人間七七四年
08/02/17 12:04:44 CL/AUJ0z
うぬぬ…里見家は戦国最強!
スレリンク(sengoku板)
【最強】千葉氏【関東の覇者】
スレリンク(sengoku板)
千葉氏の系図が理解できない
スレリンク(sengoku板)
【若狭】武田氏総合スレ【上総】
スレリンク(sengoku板)
847:臼井入道ってどぉ?
08/02/17 16:03:02 6HtgqHJX BE:831390847-2BP(1)
>>843さんへ
1.そうだ、そうだ、猿ヶ京ルートを忘れていました!!
2.河田長親は永禄十一年まで、ずっと沼田にいたと思っていましたが…
そうじゃなかったんですね。新情報 thank you!!
長親は>>844さんの言う通り、謙信からとても信頼されており、何でもオールマイティに使われていた感がありますね。
「信長・秀吉」ペアみたいにね。
あとは、じっくり読んで見ますね。
>>841さんへ
長くてスマンね。私は回りくどいので…、今後も付き合うなら見逃してください。
あと、どこが、どう長いのか? どこを直せば良いのか? 是非、忌憚なきご意見が聞きたいです。
>>842さんへ
ナイス・フォロー
>>845さんへ
それに関して手持ちの資料がないし…正直、あまり乗り気ではない。
まずは「三増峠」だよ。
以上、恐々謹言。如月拾七日。
848:人間七七四年
08/03/05 09:52:27 Ltn5H8vb
なんで止まってるんだ
849:人間七七四年
08/03/06 23:50:49 AERjW36e
臼井城のネタはもうこれで出尽くしたんじゃないかな?
そしてそもそもこのスレは他のネタで伸びたんだし。
850:人間七七四年
08/03/07 00:44:56 rtuSuget
否定のしようが無い史料の提示なので、返答のしようが無いのかもw
851:人間七七四年
08/04/05 20:50:18 9kJTMkyL
age
852:人間七七四年
08/04/05 21:22:38 IpBzZQlP
謙信は臼井城を攻め落としたらどこへ攻めるつもりだったのか?
もう一度小田原を攻めるつもりだったのか古河城を奪還するつもりだったのか