07/11/11 19:28:43 NW6P/xpS
双方の使者の派遣については2月6日に由良宛に北条の使僧天用院を派遣したことを伝え(上杉家文書)たが、
越後への派遣はなかなか進まず、3月4日に北条氏照が大沢下総守(由良の家臣ね)宛てに
交渉が暗礁にのりあげたので打開するようにと伝えている(志賀槇太郎氏所蔵文書)。
3月26日の氏康の阿久沢氏宛て書状(阿久沢氏は由良に従っていた国人で、先述の沼田往還沿いの領主。)では
使者の送迎のことを伝えて『いよいよ走り廻り肝要』としているので、このころに多少進展があったようだ。
とはいえ簡単にはいかず、5月18日にやっと天用院は越後塩沢についたという。(伊佐早文書)
五五四の文書は大日本古文書上杉家文書では4月のものとしていて、この交渉中に新しく北条側から提出されたと考えられる。
5月中に天用院は謙信にあえたはずで、閏5月に山王山砦破却の報告があり、
6月には上杉側から山吉豊守が使者に立ち、6月15日に新田についたという(上杉家文書)。
謙信からの文書も北条文書として北条側にあるようだが、山王山砦破却以前のものは確認できず。
(北条/北條文書で探すとあれだらけだな…w)