07/10/21 09:30:44 CJuzJajw
本能寺後、あの有名人信長の正室の動向がどの文献にもあらわれないほうが変。
安土城入城前に死んだのならば、公家の日記には残らなかったと思う。
公記は、妻妾の話は枝葉のこととして徹底的に排除したということで。
本能寺後生きていた濃姫の動向が何の記録にも現れないのと、
安土城入城前に死んでいた濃姫の葬儀の様子が描かれないのとどちらが不自然かと言えば、
本能寺後、正室の消息誰も記録せずのほうがありえない。
876:人間七七四年
07/10/21 17:02:38 STkFAEMr
濃姫の政治的な利用価値は、信長がまだ権力者でなかった頃の方が大きいよね。
道三の娘婿である自分が美濃の正統な後継者であるって立場だし。
尾張、美濃はしっかり押さえて大きな権力を信長が持ち始めれば
道三や道三の娘の利用価値は終わっただろうけど。
美濃攻略前後の頃の方が、濃姫自体の存在感は大きかったんじゃないか。
織田家没落後だとただの後家だけど。
877:人間七七四年
07/10/21 21:35:38 9FdH0Cvm
濃姫の本能寺後の記録がないのは確かに解せないけど
でも、織田家宗家を継いだ三法師の記録さえ満足に残っていないので
信長死後の織田家について興味が無くなったので記録されなかったんではないか。
せめて三法師で絶えずに後何代か織田家宗家が続いていたら
何らかの記録は残った可能性が高いけど、三法師で宗家は無くなり
織田家庶家の信雄は、秀吉などから改易になったり散々な目にあっている。
信孝は秀吉によって滅ぼされるし、秀勝は早死だしね。
記録をきちんと残すほど安定した立場だった子供たちはほとんどいなかったから
宗家の三法師の情報すら庶家に伝わらなかったんではないか。
もちろん濃姫の情報もしかりだと思うね。
なので、自分は織田家没後の死亡の可能性の方が高いと思うね。
878:人間七七四年
07/10/21 23:10:48 ZALt1V1d
そもそも信長の子たちの母親でさえ実証されているのは
稀だからな。
生駒腹とされている信忠でさえ異論が出る始末。
こうした中いくら正室でも子がなければ記録には
残りにくかったのではなかろうか。
879:奇矯屋onぷらっと ◆/6/o/w/o/6
07/10/21 23:15:58 Bdpdftmo
徳川の大奥に共通する要素があるな。正室の子が家光だけってヤツ。
880:人間七七四年
07/10/22 00:04:27 9FdH0Cvm
>>879
それはそうだね。
いかに側室制度が大事だっかわかるね。
当時の大名家で、正室の子供が後を継ぐよりも側室の子供が後を継いだ家が
圧倒的に多かったんじゃないか。
今の皇室存続の問題も側室制度を復活させれば、解決する話なんだろうけどね。
でも、日本も国際社会の仲間入りしたから、側室制度の復活は今後ないだろうけど。
881:奇矯屋onぷらっと ◆/6/o/w/o/6
07/10/22 00:14:13 XxuxY8BG
あと正室はそれなりの勢力を持った家から迎えるため、外戚権力を避けたという側面もあるでよ。
882:人間七七四年
07/10/22 01:44:56 bP/PGSqS
今側室制度を復活させたら
金持ってる男ばっかり女集めてハーレム作っちゃうから
貧乏な男は結婚できなくなるな
万が一出来ても不細工女しか残ってない悲惨だ
883:人間七七四年
07/10/22 01:56:24 TagQBBLf
>>880
戦国時代までは、割と(というか殆ど)正室の子が後継いでるが、
江戸の安定してきたころから、側室腹の子が跡継ぎになる
パターンが増えてきている感がある。
小五月蝿いしきたりや、環境の変化による武家の
上流層の弱体化がもろに出るようになり、大奥制度の
比重が増したような。
884:人間七七四年
07/10/22 02:08:21 bP/PGSqS
昔は母親の身分で息子の身分が決まったから(娘は父親の身分で)
正室はちゃんとした家柄の娘を貰って
正室から生まれた男児を嫡男としたけど
江戸時代になってからは、本格的に女はただの産む道具になっちゃったからなぁ
885:人間七七四年
07/10/22 08:52:38 WIeaRs0t
>>882
今どきそんな不細工女なんてほとんどいないでそ。
男はひどいけどな。
まあ整形すりゃいいじゃん。
芸能人なんてほとんど整形男、整形女ばっかしだしな。
886:人間七七四年
07/10/22 09:25:23 A1RAhTTQ
>>880
戦国時代は、まだまだ一夫一妻制が戦国大名の中に色濃く残っていたせいだと思うよ
大大名に出世すれば多くの側室を養えたが、1代限りで上がってきた成り上がり者にはそれができない。
信長本人は城主の子供だし、父親にも多くの側室がいたからその例ではないけどね。
天皇家や公家ではそれ以前から、当主の多くは妾腹に代わっていたし、
成りあがりだった戦国大名も、江戸時代に身分が安定すると妾腹が多くなる。
それだけ側室を多く持ったと言う事。
戦国時代には、妻の数が少なかった為、正室に子がなければ甥や弟に継がせる例がまだまだ多くあった。
(柴田勝家、山内一豊等。正室がいなかったという稀有な例では上杉謙信も甥に家督を譲った)
887:人間七七四年
07/10/22 13:40:39 HKQFCfuJ
>>886
ええっ?
>戦国時代は、まだまだ一夫一婦制が戦国大名の中の色濃く残って
えええ~www
ウッドベキア・・・の書き込み?じゃないよね?
888:人間七七四年
07/10/22 15:22:52 nWzmBibp
一夫一婦制というより、成り上がりものは妻以外の女性を養う程の財力がなかった。
戦に追われていて、子作りする暇がなかったっていうのが大きいだけだろ。
889:人間七七四年
07/10/22 21:54:19 H/psnQc4
山内一豊は生殖不能者だったのではないか、という説があるらしいね。
正室・見性院との間に娘が一人生まれたのみで
あの当時の家制度を考えれば、足軽大将だった頃はともかくとして
城持ちになった頃は跡継ぎを作らなければならないのにそれをしなかったのは
明け暮れる戦のストレスが原因で性不能だったのではないかという説を見た事がある。
890:人間七七四年
07/10/22 23:48:12 HKQFCfuJ
見当違いの思い込みと妄想、偏った知識、>886はウッドベキア。
891:人間七七四年
07/10/23 04:33:09 Bpn14y2M
>883
それって鉛入りの白粉のせいなんでしょ
天皇家でも後水尾天皇くらい
までは多くの子供が育っているし
892:人間七七四年
07/10/23 10:11:23 I6DnPibt
>887.890
ID:HKQFCfuJ
ウィキのどこにそんな記述が?
頭おかしい人?
893:人間七七四年
07/10/23 10:37:37 l9gRMtgl
>>891
鉛毒についてはよく言われるけど、
おしろいの成分的に大きな違いが生じていったのだろうか?
あと将軍家に関しては、公家や宮家の出である御台所の子が
将軍職を継ぐことの政治的弊害という理由もあるのだろうけど、
旗本や御家人の娘で健康体である側室に比べ、
公家や宮家の女性たちの線の細さやひ弱さから、
健康な子が生まれにくかった・・・と説かれることも多いよね。
で、少しは濃姫の話題に戻らなければ。
894:人間七七四年
07/10/23 11:37:44 FdAcpmLy
信長本みたいなの見てもブコウヤワとかNHKドラマの引用って多いのだね。
濃姫の墓がなべの横にある、なんて書いてるのもあるな。
895:891
07/10/23 12:32:43 pFQW9E/m
>893
スレ違いですが当時の上流階級が愛用していた中国からの輸入品の白粉は鉛入り
その白粉を赤ちゃんに授乳するときも乳房にまで塗っていたものだから…
明治になってから無鉛の白粉が使われるようになって多くの子が育つようになったとか
896:人間七七四年
07/10/23 14:36:49 852derpn
昔から中国産は危険だったのか
897:人間七七四年
07/10/23 16:33:41 tbr0Gbt7
>>894
特に作家に多い>武功信奉者
藤本正行らの偽書説本を読めばとても
史料として使えないことは分かるはずなんだが。
このスレに関することでは、帰蝶(濃)の輿入れが
吉乃(武功による名)の懐妊と同時期とされてたり。
それでは信長と斉藤道三の会見はどこに入るのやら。
898:人間七七四年
07/10/23 21:38:36 3XV+3oBF
>>897
津本あたりは何か言ってるのかね、ブコウを信じてたことを。
信長の母とされる土田御前なんかの話もブコウからかなり取ってるから実際
今はかなりグタグタになってそうでこわい。
そういえば道三会見の日付なんかは公記でも明確にはなってないけど
あれ、ちゃんと史実で鉄砲500なんてのはどこまで信用できるのだろうね。
なんか疑い深くなってしまって困るな。
899:人間七七四年
07/10/23 22:15:53 QWsSn++U
>>898
「公記」には弓鉄砲500挺とある。
従って極端に言えば弓499、鉄砲1でもこういう
表現になる。
900:人間七七四年
07/10/23 22:36:17 QWsSn++U
連投だが、信長上洛以前の話は公記の「首巻」に
記されてるが、まとめられたのは上洛以降の話より
後らしく、そのため筆者の太田牛一の記憶違いによる
間違いなどもある。
また誤りでなくても月日は書いてあって年の記載の
ない場合も多い。
稲葉山城落城、美濃平定も年の記載がないため
いつのことか明治まで論争が続いていたし。
901:人間七七四年
07/10/23 22:41:53 IGWdK+Dc
でもこいつが変の黒幕だとしても
斎藤利治は殺させまいと思うんじゃないかな
902:人間七七四年
07/10/23 23:25:49 3XV+3oBF
>>900
わかるよ。
鉄砲と弓、それぞれ500とだって読めるしね。
ただ首巻が単に記憶違いなのかなって。
結構なメモ魔だし、かなり創作とか意図まで入ってそうでね。
スレチだからまぁいいが。
903:人間七七四年
07/10/24 10:57:39 Wbwfjp3E
「濃姫のひざまくら」って本読んだことある人いる?
どんな内容かちょっと気になる
904:人間七七四年
07/10/24 13:42:42 e/1ATLuz
>>877
>信長死後の織田家について興味が無くなったので記録されなかった
本能寺後、信長正室の消息がつかめないことに対し、
これはさすがに乱暴じゃないかな
信長の母土田御前の没年が分かっているのに
妻は消息不明
信長が有名になる前に死んだんじゃないのか
905:人間七七四年
07/10/24 14:40:39 cWVHs7PK
>>904
そういうけど、濃姫には実子がなかったんだからしょうがないんじゃないの。
信長の生母は他にも息子がいたから墓やその他もキチンと記録に残ったんだろうけど。
でも没年がわかってるっていっても、信長生母は土田氏だと確定に至る史料は皆無。
信長生母については複数の名前が挙がっているわけだし。
それほど重要視されていたんだったらこれほど諸説でるわけないじゃん。
それに信長死後の織田家宗家に興味がなかったから、三法師の記録なんかもろくに
残ってないんだしさ。信忠のあとを継いだ息子に興味がないのに、その信忠の養母だった
濃姫が生きていたとしても、よほどの出来事でもない限りは書かれなかったんじゃないの。
逆に信長生前に亡くなってんだったら、必ず何らかの形で記録は残るはずだよ。
小見の方などの没年などは記録されてんのに、濃姫がスルーされるのはおかしいと思うな。
なので、自分は織田家没後の死亡の可能性が高いと思ってるけど。
906:人間七七四年
07/10/24 15:04:38 N6rhAjHW
本能寺後に信雄が安土殿に600貫文の知行を受け取ってるから
信雄の元で大人しく暮らしてたんじゃないかな
世も世だし、織田家が急速に豊臣に飲み込まれていく状態で
正室には表立った行動はしないで欲しかっただろうし
生母ではないから、それほど信雄も気を使わなかっただろうし
下手なことされたら自身も危なくなるから
正室として知行を与えられて行動制限されてくうちに
歴史から姿を消して行ったんじゃないかな
907:人間七七四年
07/10/24 15:06:04 N6rhAjHW
×本能寺後に信雄が安土殿に600貫文の知行を受け取ってるから
○本能寺後に信雄が安土殿に600貫文の知行を与えてるから。でした
908:人間七七四年
07/10/24 19:24:01 SRPMMavf
そういえば、信長生母の出自って、本当のところ、どうなんだろうな。
生駒の親戚の土田氏出身ってことになったのも、確か武功からだろ?
909:人間七七四年
07/10/24 20:27:01 iVmWOjQQ
>>904
有名になる前ってのがわからん。
全国レベルでいけば無名でも、尾張一帯というローカルレベルでは超有名人。
さらに妻当人だって美濃一国の支配者というローカルレベルでも超有名人な
斎藤道三の娘。
ローカルレベルでも死亡の記録がないのなら、それは死んでいなかったと見る
べきでは?
910:人間七七四年
07/10/24 20:52:11 +LjjxZ4T
あの『言継卿記』に出てくる壺の一件は証明にはならんの?
911:人間七七四年
07/10/24 21:05:57 LecgAIK8
>>908
そうそう、それが気になってる。
公記ではどうなってるか詳しい人いないかな。
わしは信長の出自にはかなり疑問を持ってる方だもんで。
912:人間七七四年
07/10/24 21:10:49 SRPMMavf
公記に信長生母についての記述はないよ。
913:人間七七四年
07/10/24 23:29:40 LecgAIK8
>>912
でしたか。
同腹云々というのがあったぐらいだったかな。
とすると濃姫に限らず今流布してる信長の常識はかなり危ない感じだな。
914:人間七七四年
07/10/24 23:29:59 iVmWOjQQ
公記の記述をあげると
まず稲生合戦のくだりに「信長の御袋様」が弟信勝と末森いたこと、和議の仲介を
取り持ったこと。
もう一つ、信勝生害の記事で信長が病臥したことについて「御袋様」が見舞いを
信勝に勧めたとある。
この「御袋様」が具体的にどのような出自の人物なのかは公記には記述されていない。
915:人間七七四年
07/10/25 00:20:26 q+HYt7Jc
っうか・・
信長って本当に信秀正室の子供だったのか?
まずその辺りからかなりあやしい。
「信長御袋様」って表現もなんかな~
「秀頼御袋様」って意味と同じにも思えるし。
916:人間七七四年
07/10/25 00:27:46 FoOKbG4V
つまり側室腹って意味だよな
お袋様って
917:人間七七四年
07/10/25 01:18:51 3vzLwZtW
あくまでも生母という意味での御袋様じゃないかとは思うけど
正室ではなかったとも考えられるよね。
918:人間七七四年
07/10/25 03:52:37 svjTVKlo
織田氏徳川氏=高潔で清貧なる騎士団 神の騎士
美濃斎藤氏=金津園と吉原の生みの親であり高潔で清貧なる天才織田信長を殺し
江戸260年の大平を築いた徳川幕府にソープランド(大奥)みたいな下品な施設を
設置して財政を食い物にし倒幕に導いた天下を嫉む卑しい連中wwwwwwwww
美濃斎藤氏なんて天下人に迷惑かけてるだけのクソ畜生共なんだよ
919:人間七七四年
07/10/25 07:29:17 svjTVKlo
斎藤家なんか華のある人間を嫉み嫌がらせする
卑しい連中じゃねーか
920:人間七七四年
07/10/25 08:26:45 5OXKuUVE
ID:svjTVKlo=生駒厨
921:人間七七四年
07/10/25 10:18:50 jRP6ka3T
「津島大橋記」「干城録」によれば、信秀正室、信長生母は小嶋日向守信房息女とされているって
本当?
また、父信秀には子供が多く、庶兄もあったにもかかわらず
信長が後継者に指名されたのは、信長の母親が正室だったからだと思うのだけれども。
922:人間七七四年
07/10/25 11:59:44 6eJkhbaz
>>921
津嶋大橋記
「信長母 号御大母 美濃国藪田小嶋日向守信房女也」
923:人間七七四年
07/10/25 21:54:39 q6sf/GIX
>>917
そう思ってる。
>>921
信長が後継者に指名されたならあんな織田家内紛が起きるのもおかしい。
信行と一緒に住んでだから信行の母ではあったろうけど、信長とは違ったのではないか。
権六あたりが信行についたのも嫡統は信行であり、庶子信長が本家に謀反を起こしたのではないか
そういう可能性を強く感じる。
喜六郎が殺害された時もすぐに守山城に向かったのは信行であり、信長はぐずぐずしてる。
このあたりも信行が本家というのを示唆してる。
スレチで悪いのだけど、このあたり牛一は案外内部のことを詳しく知っていたようにも思う。
924:人間七七四年
07/10/25 23:20:09 pKCVENd8
今更だけど信行じゃなくて信勝な。
本人が発給した文書には信勝とあり、
信行は系図にしか登場しない名。
925:人間七七四年
07/10/25 23:58:00 HT5/N5HT
>>923
織田家というか、正確には織田弾正忠家が内紛を始めたのは美濃の道三死亡以降で、
信秀死亡の時点ではまだ一族兄弟は信長に従っている。清洲織田家との合戦でも、
信勝は信長の命令あるいは要請に従って軍を出している。
なお柴田勝家が信勝についたのは信秀生前からの主君の命で、本人の意思で誰につく
かを決定したのではない。というか、その手の決断で信長についたのだが。
ついた背いたなら、例えば信長からは林一族が離反して信勝についているが、逆に
信勝付からは佐久間一族が本来は信秀から付けられていたが稲生の頃までには背いて
信長についている。また叔父たち(信光や信次)の対応、守護斯波一族の行動なども
「信長ではなく信勝こそが織田家の本嫡(信秀の継承者)」とは言えない。
926:人間七七四年
07/10/26 00:48:35 w+NNjj12
父親は信長が後継者だからこそ斎藤道三の娘と縁組させたんだろ。
927:奇矯屋onぷらっと ◆/6/o/w/o/6
07/10/26 00:56:22 zbCDlJZh
どうでもいいけど当時の尾張なら信行の訓みは「のぶつら」かも。
928:人間七七四年
07/10/26 01:10:35 iUHfDbDh
>>926
嫁取りからして違うわな。
信長の嫁は隣国美濃一国の太守斎藤氏の娘。信勝の嫁は尾張の土豪荒尾氏の娘で、
信勝生害の後に信長はその妻を信勝を刺した者に与えたという。このぞんざいな
扱いからして、程度が知れる。
929:奇矯屋onぷらっと ◆/6/o/w/o/6
07/10/26 01:19:04 zbCDlJZh
信澄の母親どうすんの。
930:人間七七四年
07/10/26 10:45:23 6nn4ie58
>>928
だが信長は信澄は自分の息子並みに扱ってるんだよな。
普通自分に逆らった者の遺児は生かしておかないものだが。
豊臣秀頼の子が殺されてるように。
信澄も結局本能寺のあおりで殺されてしまうが。
931:人間七七四年
07/10/26 11:40:29 kOjsZwfe
>>930
その辺りが、身内には甘いって言われる所以なのかもな。
932:人間七七四年
07/10/26 21:11:01 FlUans3B
>>925
よくわかるのだけど、信勝嫡統というのは正室の子、という意味ね。ちと大胆だけど
その前のスレの流れで、信長庶子、信勝本嫡、という意味なのですよ。
権六が生前信秀からそういう命を受けていたのなら、信勝こそ本嫡という傍証にこそなると思うし
一族の行動はあくまで付帯的なものでそれを元に、信勝本嫡、を導き出したのではないので
念のために。
あと、うつけ信長に対して信勝を「折り目正しき~」とか牛一が対比させて記述してるのも、別腹の傍証には
なる。
喜六郎もね、イケメンに記述してる。
だから信勝と喜六郎は同腹であり、事件で殺された時に信勝はすぐに行動し信長はぐずぐずしてた、
というのも素直に理解できる。
ま、他人の説で受け売りなんだけど首巻はいろんな解釈が出来るから興味のあるところで。
933:人間七七四年
07/10/26 22:38:00 8gPEO2Je
>>930
本能寺の変当時において、一門の№5の地位にあるんだよね。信澄。
徹底的な能力マンセーな信長だったから、いくら謀反を起こした弟の息子といえども
優秀なら可愛がるというのは不思議ではないけど・・・。
幼い頃から賢い子だったんだろうか。
934:人間七七四年
07/10/26 23:37:21 iUHfDbDh
>>932
>権六が生前信秀からそういう命を受けていたのなら、信勝こそ本嫡という傍証にこそなると思うし
意味不明。それだったら、信秀の命令で信長に付けられた家老たちをもって、信長こそ
本嫡とみなすことだってできるだろうに。
それと、信長と信勝が別腹という可能性は自分も同意ですが、だからって信長が庶子
ということにはならない。なぜならすででにでているが、信秀正室が複数名確認される
ので。仮に信長が庶子だとしたら、すでにでているがその他の兄弟との待遇の差が説明
できない。それと喜六郎の件については、公記の記述では信長は事情を知って、はっきり
と「弟の方に落ち度がある」と決断している。これは別腹からくる兄弟愛の差かもしれ
ないが、少なくとも「ぐずぐずしてた」なんていわれる程のものでもない。
(これについては、言葉尻の問題かもしれないが)
935:人間七七四年
07/10/27 02:05:59 H+x/eZf0
信長の生母は継室だった可能性もあるのかな
936:人間七七四年
07/10/27 08:53:04 jD66h4vc
生母が信秀正室なら、継室だった事は間違いないでしょ。
信秀の一番最初の正妻は織田大和守達勝息女で
天文の始めに離婚している事は、史料に残っているんだから。
937:人間七七四年
07/10/27 12:07:00 k1npIoDD
>>934
なるほどね、よくわかりますよ。
で、喜六郎事件も信長の仕組んだこと、とまで言うとオカルトですがそういう説もありましてね。
他の兄弟との待遇の話ですが、当時はやっぱり強いものに家督をつがせたいわけでしょう。
複数の自分の子供を信秀がどうやって処していたか、これはまた別に検証すべきでしょうね。
つまり、結論言うとさらにオカルトで申し訳ないけど信長は自分が嫡統でないことを知ってて
織田家乗っ取りをはかった、これは1577の広信殺害から始まる、最後が信勝だましうち、
叔父も兄弟も全部信長にやられた、という説で。
ちなみに前にも書いたけど信秀葬儀でどうして信長があんな無礼な行動を取ったか、それは
葬儀によばれてなかったからではないだろうか、実際庶長子信広の記述もない、
これもよばれてなかったのではないだろうか、それに怒った信長が、なんていうといかにも
現代劇ですがうつけだったら十分にそういう行動取ったのも理解できそうで。
さらに平手自害も信長のした非道な行動を知ってたのではないか、そういう風に続きます。
受け売りなので反論というか詳しい人に聞いてみたいところ、というわけで。
スレチで申し訳ないが。
938:人間七七四年
07/10/27 12:37:14 w192PaAz
信長公記の「稲生合戦」の「御袋様」と書かれている前後の原文を知りたいな。
この時代なら御袋様とあると「側室の生母」という意味で使われていたから
信長の生母は側室=土田御前は側室、という可能性もでてくる。
信雄分限帳にある「大方殿様」は信秀の正室であって、信長の生母ではないと
いうことになるかもな。
正室腹に男子がいれば文句なく嫡長子が家督相続する。
でも側室腹にしか男子がいない場合は、長子優先に納得できないやからもでて
私利私欲に走る側近の意向でお家騒動が起きて来るんだと思うんだ。
家光や政宗みたいに正室同腹でもおきるぐらいだから。
そう考えると信長は側室腹の長子であったために、当初は庶子として
自由に育てられ(うつけと呼ばれるような自由奔放な言動)、
途中から正式な嫡子となったので、反対勢力が内部からでてきたのかもしれない。
939:人間七七四年
07/10/27 13:25:27 5QChId4D
>>938
すると、信長は当初は庶子として織田家を継ぐ予定がなかったが、
途中で嫡子となったというわけか
その場合でも父の正室の養子になる手続きがいるわな
それでは公記が、信長に養母と実母がいると書かなかったのはなぜだろう?
少なくとも濃姫が嫁いだ時点では織田家の跡取りは信長
正統な後継者でもない若造に、道三も嫡腹の姫を嫁がせたりはしない
信秀葬儀の喪主は後継者信長だろう、
そこまで否定したら、当時の史料も公記も嘘っぱちになる。
940:人間七七四年
07/10/27 14:24:54 w192PaAz
>>父の正室の養子になる手続きがいるわな
普通はそんなことしないよ。
側室腹のまま家督を相続するケースの方が圧倒的に多い。
正室と養子縁組しなきゃその資格を得られないというのは
信忠が濃姫の養子になったので、それが一般的と誤解している人が多い
だけで、実際は嫡子になるために養子縁組をしたのではなく
別の意図からだと思う。濃姫の養子にしなくても決定権は信長にあるわけだから。
それに世継ぎがいなくて親族の子供を養子にする時は
奥方ではなく当主の養子にするだけでOKだったよ。
信長と濃姫が婚姻した時はすでに家督は信長に譲られたのだろうということは
もちろんそう思ってるよ。信秀葬儀の喪主は信長だと思ってるよ。
他に該当するような喪主はいたの?
自分もあくまで臆測を述べただけ。
「御袋様」と表記してあるとどうしても当主の正室をさす言葉じゃないから。
うちうちでそう言うことはあっても、信長公記は公の文書なので
そのような表記をするかとても違和感があったので。
戦国大名なんて実両親さえも不詳のものも多く、父親だけでもはっきりしている
信長はましなほうなんだよね。実母が土田御前じゃない、もしくは正室の子じゃ
なかった、としてもなんの不思議もないけど。
941:人間七七四年
07/10/27 15:25:40 k1npIoDD
信長が庶子としても、その年上に信広がいるのではなかったっけ。
ほんで信秀葬儀の喪主は信長なの?
疑うようで悪いがそうではないような。
信長庶子とするならそうなる可能性が高い。
では誰かというと信勝ではなかったのかな。
庶子から正式な嫡子になったのではなくて、単に嫡統信勝を殺して織田家を乗っ取った、
そういう理解が妥当にも思う。
ちなみにいったんは許した信勝をどうしてあんなだまし討ちしたかと言うと、同じ年に
かわいいかわいい長男信忠が生まれたから、という説明がある。
つまり分家である自分が本家を乗っ取っても、自分がその織田家を継いでいける、そういう
立場になったから、というのね。
公記は嘘なのではなく、牛一はそのあたりの事情を知ってて書きたくても書けない、
なので首巻でいろいろ日付まちがいやあやふやな表現、創作的表現をしたというように感じる。
そしてそれは濃姫の記述がないことにも応用できると思うんだな。
やっとスレにつながった。
942:人間七七四年
07/10/27 16:56:16 w192PaAz
>>941 濃姫との婚姻時に信長が織田家当主あるいは嫡子でなければ
濃姫は信長に嫁がなかったと思うよ。信勝が嫡子だというなら道三は
信勝に嫁がせたはず。道三としては織田家とただの姻戚になるために
濃姫を嫁にだしたのではなく、織田家の家督相続者に嫁がせることに
意味があったはずだから。
なので信長が信秀葬儀の喪主であったことはまず間違いない。
信長が庶子であったのなら諸兄である信広に出自において何か問題があって
スルーされたか、信広は信正同様に信秀の庶子認定すらしてもらえない
立場だったのかもしれない。
それから信長公記は牛一が信長に仕える前のことは関係者から聞いた話や
噂話をまとめたものなので、幼少期の信長のうつけぶりや
葬儀でのエピはそんなに信憑性が高いとは言えないと思うし、
その頃の織田家の詳細なことは知らなかったと解釈したほうが自然。
濃姫の記述がないのは、意図的に書かなかったとかじゃなく
書く必要がなかったからじゃないの。濃姫が政治に介入してきて
織田家にとって欠かさぬ人物なら登場してきたかもしれないけど
普通に奥方の奥向きの仕事しかしていなかったら、
信長公記の史料としての性格上書かなきゃならないほどの重要性はない。
信長の戦略や戦歴、業績、信長のエピソードがメインの史料だし、
それ以外の織田家の女性に関する足跡だってないに等しい史料だし。
943:人間七七四年
07/10/27 17:03:49 aOK0qBpl
脳姫
944:人間七七四年
07/10/27 17:34:51 RQ+880Mp
>>942
信長公記自体、信長の表向きのことがメインだしね。
蒲生氏郷の家臣の子が書いた「勢州軍記」には信忠を
濃姫の養子にしたという記述もあるし、「言継卿記」の
壺の一件もあるから、少なくとも信長が美濃を平らげて、
義昭を奉戴しようとした時期までは存命だったと見ていい
んじゃないか?
945:人間七七四年
07/10/27 17:40:32 z6u33u05
道三には娘も大勢いただろうけど、土岐の血を引く正室の産んだ娘なら
政略結婚の駒としては大事な存在だっただろう。
それを家督も継げない庶子に嫁がせても道三としては意味ないよな。
946:人間七七四年
07/10/27 18:39:52 zGIIuEjr
>>944 いつまで存命だったかは本当に謎だよね。
諸説あって、それぞれ納得がいく部分と矛盾を感じる部分がある。
ただ信雄分限帳の「安土殿」は濃姫と考えるのが一番自然じゃないないかと
思うんだ。当時の女性にとって住んでいた場所で呼ばれていたのは
ステータスシンボルで、城の名なら城主夫人となって
女性にとって最高のステータスだったんだ。そうなると
安土殿と呼ばれるのに該当していた女性は濃姫以外考えられない。
信長や信雄の未婚の姫に知行が与えられることはないし、
安土城に一時期居住したという信雄の夫人は御内様で別にいるし、
知行の高さと名称から信長の正室だった女性以外
考えられないんだよな。
ただその後の安土殿の消息がぷつっと消えてる。
すぐに出家して、自ら俗世間から離れてひっそり余生を過ごしたのか?
ということになるんだけど、それもどこかひっかかるね。
947:人間七七四年
07/10/27 19:22:26 MM5Q7BwI
>>941
信秀の後継者が信勝で、信長が本来庶子だったというほうが様々な問題が発生します。
それは「なぜ尾張の他の勢力は、信長と戦って信勝と戦わなかったのか」ということです。
信秀死後背いた鳴海の山口親子と戦った(懲罰戦争)のは信長です。清洲や岩倉と戦った
のは信長です。三河における有力な味方である水野氏が今川に攻められたとき、救援に
かけつけて村木を攻めたのは信長です(道三から援軍をもらってまで)。信秀の財力の
源とされる津島や熱田を押えていたのも信長です。これらの点は、単に公記だけでなく
一次史料から確認されることもたくさんあります。
で、信勝が信秀の本嫡で後継者だったというのなら、これらの織田弾正忠家の危機の
間、なにをやっていたんですか?
それから、あなたは牛一が書きたくても書けない事情があって筆を曲げたと主張して
ますが、一体その事情とは?ちなみに牛一がそれまでの記録をまとめて公記という
書物に編纂したとき、すでに織田家は権力者の座が滑り落ちて、まったく無力な一
小名が数家存続しているという状況で、信長本嫡の家すらのこっていませんでした。
もう一度聞きます。牛一は何にはばかって、信長の過去を改竄する必要に迫られたと
いうのですか?
948:人間七七四年
07/10/27 19:57:26 RQ+880Mp
>>941
そもそも斎藤道三がわざわざ娘を庶子になぞ嫁がせるかということ。
信勝が嫡男ならば、信勝のほうにこそ、道三も信秀も濃姫との縁談を
まとめるだろうし。そこについて納得のいく説明を賜りたい。
949:人間七七四年
07/10/27 20:10:36 Oz3uuYo4
ただでさえ評判の悪い信長が庶子だったら濃姫が嫁ぐわけないだろ。
950:人間七七四年
07/10/27 22:51:42 D86xBBB6
まぁ信長が庶子にしても、嫡男扱いであったという事には違いないと思う。
じゃなきゃ濃姫は信長には嫁がないで、織田家跡目の誰かに嫁いだだろうから。
951:人間七七四年
07/10/28 00:52:56 PhOdFKIp
お袋様=側室の生母というのはどうだろうか?
正室であっても、子供を基準に記述する場合、生母という意味合いだけで
お袋様と書く事は当時でもあった。
お袋様が、側室にしか使われない訳ではない。
信長から見て生母である場合、公記に関していえば、
正室か側室かは問題ない箇所であると思うが。
952:人間七七四年
07/10/28 01:04:07 PhOdFKIp
>>938
信長公記の「御袋様」の箇所
「信長の御袋様、末盛の城に御舎弟勘十朗殿と御一所に御座候によって、
村井長門・島田所之助両人を、清洲より末盛へ召寄せられ、御袋様の御使として、
色々様々御詫言にて御赦免なされ、勘十朗殿、柴田権六、津々木蔵人、墨衣にて、
御袋様御同道にて、清洲において、御礼これあり。」
つまり、信長の御袋様が側室か正室かはこの際置くが、
勘十朗信勝と同腹であった事は、この一文から推測できる。
953:人間七七四年
07/10/28 01:34:12 6Nsxelc5
いつからか信長生母=土田御前が当たり前のように言われるようになってたけど
信秀の正室や信長の生母もよくわからないんだよな。
954:人間七七四年
07/10/28 07:01:07 xRGWRERq
ここは本編よりカットオフ好きな荒らしが多いスレだな
955:人間七七四年
07/10/28 13:07:07 pmgh9eg+
ところで質問です。信秀の正室あるいは信長の生母として「土田御前」の名前が
でてくる史料ってなんですか?少なくとも公記には御袋様とはあっても名前は
ないようで。
956:人間七七四年
07/10/28 16:52:55 avzfEA3F
武功夜話
957:人間七七四年
07/10/28 18:59:54 KKklJvKa
よく考えたら信長が正室の長男である、と明確に示す史料ってないのか?
信長公記の「御袋様」だと正室腹、側室腹、両方とれるな。
信雄分限帳の大方殿様は信秀正室に間違いないだろうが、信長生母では
ないかも?ということになる。もしかしたら
みょーに知行の多かった御局が信長生母なんじゃない?
信雄の実祖母にあたるわけだし、信長の生母ということで奥で
丁重に扱われていたのかも。
958:人間七七四年
07/10/28 19:19:54 pmgh9eg+
>>957
公記には「嫡男織田吉法師殿」とある。さすがに側室腹で嫡男はないと思うが
959:人間七七四年
07/10/28 19:33:42 KKklJvKa
庶子であっても嫡子がいない時で、後継者と認められれば、
嫡男と称されたよ。信忠だって庶子だけど、嫡男として
家督を継いでる。
信長の生母がどこそこの○○氏で、と明言されているものもないし、
濃姫が嫁いだ15才頃には嫡男であったことは確実だけど、
正室腹であったかどうかは確定するだけの材料に乏しいな。
960:人間七七四年
07/10/28 21:40:53 vUjOnRsC
叔父信光と謀って清洲城を乗っ取ったのも信長。
信勝が嫡男なら清洲に入城するのも信勝のはずだが。
ところで自分も信長が叔父や兄弟を殺しつくしたと
する本を読んだことがある。
それによれば秀孝の死、浅井朝倉と戦って死んだ
とされる信治、長島の一揆攻めで死んだ叔父信次、
同じく庶兄信広などはすべて信長による暗殺だという。
確かに公記にも長島の戦死者は名前を挙げず
「御一門歴々討死」とあるだけでこの書き様は不審と
言えば不審だ。
一般には信長が殺した近親は兄弟では信勝のみ、あとは
叔父信光が怪しいとされてるが。
961:人間七七四年
07/10/28 22:35:21 vUjOnRsC
連投だが、自分が殺した信勝の遺児を大事に育てさせて
有力な一門武将にしているくらいだから、この説は自分も
信じていないが。
信澄への厚遇を見ても、信長が信勝を殺したのは本意では
なかったとも考えられるし。
別の話だが、谷口克広は普通信長の弟とされる信時は庶兄の
秀俊と同一人物で、その死に信長がかかわっていたのではと
している。これは肯定できるかもと思う。
962:人間七七四年
07/10/29 09:02:38 eQ0a9G+5
>>952
信長の御袋様が信秀正室だった場合とそうでない場合でまた
信勝と同腹かどうかは解釈が違ってくるかも。
正室なら騒動を最小限に治めようと仲裁に入っただけということも考えられる。
後家の権限で織田家のために兄弟、家臣間の諍いを好まず、穏便に治めようと
信長を説得したのかもしれない。同腹の可能性も高いけど
この場合信勝が自腹の子でなくても立場上そうしたんじゃないかな。
信長の生母が側室ならやはり同腹ゆえに血の縁で信勝の命乞いをしたという
解釈が自然だと思う。いくら信長生母であっても側室の立場で
家のためにお家騒動に介入して、自分の子供でもない
信勝の命乞いをするというのは不自然だ。
963:人間七七四年
07/10/29 12:23:51 Vp6yesI1
>>960
信長が、信光、信時を殺したという根拠は?
964:人間七七四年
07/10/29 12:37:57 kus/rXR8
>>947
自分の説ではなくあくまで他人の説なので聞かれて答えるのも変ですけど
織田家危機の時はまだ信勝は子供で実戦経験が少なかったからではないですかね。
信長は戦国武将としての片鱗を見せて庶子ではあっても多くの兄弟の中でも
年上の方ですし、自分が織田家の中での地位を築くためにもそういう行動を
取ったのは十分理解できる気がします。
もう1つ、牛一が何にはばかって、というのはまさに、信長は嫡統ではなかった、という事実を
秀吉に対してはばかった、というように説明されてました。
分家信長が本家に謀反簒奪しかも調略だましうちなんでもありのひどいやりかた、
これでは秀吉の主君としてはさすがにそのまま記述は出来ない、つまりそのくらい
他にもひどいことがあったのでしょうか。
例えば平手の自害をも説明しています、つまりあれは信長を諌めるためではなく
庶子なのに嫡統を主張し始めた信長を説得できなかった、そういう織田家全体への
面目と言うか責任のため、というようにね。
長男だったかが馬を譲らなかったのも信長が正嫡ではなかったから、というようにうまいこと
話をつなげてます。
オカルトなのでうまく反論してもらえるとこちらも助かります。
スレチで申し訳ないので、どうして道三が濃姫を信長に嫁がせたか、こちらにも
行きたいですね。
965:人間七七四年
07/10/29 14:25:21 6vFByQzH
>>どうして道三が濃姫を信長に嫁がせたか、
当時の美濃国守と尾張の織田家庶流の織田家との
力関係を比較しても、縁組として成立させるには
信秀の嫡子が婿でなきゃ成立しないよ。
仮に信秀>道三という力関係での婚姻なら、濃姫が人質みたいな
立場での輿入れとなるだろうから、その場合は嫡子ではなく
他の庶子の信長の弟たちになってもおかしくないだろうけど。
信秀が生前中に家督相続はされているだろうし、庶子であろうが嫡子であろうが
信秀の意向で家督を相続したのだから、もし家督問題がおこるとしたら
信秀生前中におこっていたんじゃないか?
家臣の反対が多く家臣団が分裂するほど反対があれば無理に信長を
嫡男にすることもなかったろうし、いくら年少とはいえ嫡子がいたのなら
年長の庶子よりも家督相続権は優先される、普通はね。
側近がきちんとしていれば、年齢より正嫡性を優先させることに問題はないはず。
すでに家臣も承諾の上、信秀から家督を相続していたのに、
親族を暗殺してその地位を維持したというのは不自然に思える。
牛一が秀吉にはばかったという点も不自然かな。
どちらかというと、秀吉に気を使ったのなら、信長の欠点
を強調していたと思う。
現に比叡山の焼き討ちや虐殺の規模などはかなり大げさに書かれていることが
後年の調査で指摘されてるしね。
そうすることで秀吉政権を正当化することにもなるから。
もし正嫡性がなく、力ずくで家督を奪ったというのが事実なら
牛一は秀吉のご機嫌取り?もあってそれを書いたと思うよ。
966:人間七七四年
07/10/29 19:23:34 GtoAHFja
>>963
まず谷口氏の著書を読め・・・と言いたいところだが、
信光の死は以前から他の研究者の間でも言われてきたことで、
その死が信長にとって都合が良すぎるので信長の関与が
疑われている。公記にも「上総介殿御果報」とあるし。
信時(秀俊)についてはその犯人が罪を問われることもなく
織田家に居残っているのが怪しいとしている。
普通なら処刑されるはずではないか。
967:人間七七四年
07/10/29 20:28:08 3Xa9vvfo
>>966
信光についてはそんなに都合がいいか?という疑問がある。当時の信長の状況では、
信光は一族の有力者にして信長の強力な味方。清洲織田は片付けたが犬山も岩倉も
まだ健在。東は今川が鳴海まで手を伸ばし、西は今川と組んだ長島服部党が蠢動。
こんな状況で信光を消すことに何のメリットがある?たしかに将来的なことを考え
ればわからなくもない。もし信光が長生きした場合、信長と対立することになった
可能性は私も否定しない。そういった未来の観点からすれば、信光が早死にした事は
信長にとって「果報」だったろう。しかし天文二十三年の時点では、信光の死は
信長にとってはメリットよりもデメリットの方が大きいのではないかと思う。
信時(秀俊)についてはたしかに怪しい。が、根拠は下手人が処刑されていないことと、
信時が「利口な人」と公記で評価されていたからというだけというのは、可能性は否定
できないというレベルで、説得力には少々欠ける。さらに処刑についても、当時の信長
には角田を処分する力がなかったという説もある(角田が守山衆の有力豪族だったことは
公記にも確認される)。無理に処分を下そうとして謀反を起こされたらどうなるかという
不安。また一説には信時が同じ守山衆の坂井に肩入れして、その結果角田のクーデターが
勃発したという事情を鑑みてのやむをえない措置だったという可能性もある。
ちなみに谷口氏の著作を読むと、角田がその後も織田家中に仕え続けたかのような
印象を受けるが、実際には角田は信勝謀反の際に信勝に加わり、稲生で戦死したとする
記述もある。別段、信長がその後角田を使い続けたというわけでもない。
968:人間七七四年
07/10/29 21:07:13 qweHJ3xr
>>967
主旨にはおおむね納得だが、
犬山の信清と対立したのは岩倉を落とした後だよ。
岩倉攻めには信清は軍勢を出して信長に協力している。
969:人間七七四年
07/10/29 21:30:03 3Xa9vvfo
>>968
そうでした。あと親信長の親父と反対派の息子が対立して、結果親父が城を
出奔して実権を握った息子が信長と対立したんでしたっけ。
>967に付け足すと、信時死亡後に守山城主に据えられたのは、前城主だった信次。
稲生合戦の時に信次は信長派か、せいぜい中立。にもかかわらず守山衆の一員
である角田新五が信勝についたのは、両者の関係を物語っているといえまいか?
970:人間七七四年
07/10/29 21:38:17 naNOBH5L
そういや信光の死因については痴情のもつれという説も見た事が・・・。
971:人間七七四年
07/10/29 21:49:50 Vp6yesI1
>>966
信時が殺害されたのに、犯人の角田が家臣の有力者であるために処罰できない。
つまりこの時期の信長はまだまだ国人領主の盟主であり、後の独裁者にはなれていない。
一族の協力は不可欠な状態。
だからこそ、信行の謀反も一度だけは許した。
信時は、「利口な人」と評価されていたという。
信長も仲がよく、期待していたかもしれない。
守山城は、前城主の信次が秀孝死亡の関連で逐電したために動揺している。
そこへ庶弟の信時を城主にすえたばかりだ。
この段階で、信長が信時を殺すという理由がない。
信光については、牛一が、信長に疑惑をかけていたために、あんな書き方(御果報)になったと思う。
実際には、領土分割の密約などあったことが真実とは考えられない。
信光は、信長にとっては父の死後、有力な支持者で協力者。
その死は痛手だったはず。好都合ではない。
また、信長が庶子で、織田家を乗っ取ったというが、
一族である信光、信次、信時、みな信長を総領として従っている。
名前は忘れたが、信長の大叔父に当たる人物も、信長を心配している手紙を残している、とどこかのスレで見た。
972:人間七七四年
07/10/29 21:59:01 Ej5tSE46
信長庶子説の一番の根拠って、信秀正室が土田氏なのに
土田氏以外の小嶋氏や六角氏が信長生母として史料に残されているから
出てきた説だと聞いた事がある。
信長生母として土田氏が記されたものが、当時の史料にないからな。
しかし、土田氏が正室であったとする根拠である武功夜話があのざまじゃ
本当は庶子説をひねり出す必要は無くなったともいえる。
だが、一度庶子説が出てしまうと、生母からという部分を無視して
庶子説が一人歩きし始めたというのが、真相だと思う。
だが、武功夜話には信長生母も信秀正室も土田氏であるのに、
信秀正室だけ残されて、信長生母の方をスルーしたのは
信秀の正室織田大和守達勝息女が離縁された以降の継室が不明だからなんだろうか?
973:人間七七四年
07/10/29 22:06:52 nYA9Ba7j
>>965
最後のとこだけちょっと質問したいけど、やっぱり信長の部下だった秀吉の手前は
その主君をよりよく表現するほうが普通ではないですかね。
その素晴らしい主君を討った逆臣光秀を討った、忠臣いうことにもつながるしね。
ところで秀吉が信長の下についたのはいつぐらいでいいのかな。
もし1554前後というのなら秀吉自体が信長の叔父兄弟皆殺しに加担してることにもなる。
なのであくまで推測だけど、牛一が首巻ではそのあたりをぼかしている、というのも広義の意味で
成立するようにも思える。
974:人間七七四年
07/10/29 22:30:07 nYA9Ba7j
>>972
信長庶子説は自分の知ってる限りはブコウヤワとかはあまり関係ないです。
公記にも明確になってないし、要は信長は誰の子かもはっきりしないですよ、ぐらいが出発点で。
>>971
その信時を殺す理由がない、なんですけど、信次逐電は信長と気脈を通じていた、というのはどうでしょう。
つまり信長は信時をワンポイントで守山城主にすえたわけで最初から信次をほとぼりがさめたら
呼び戻すつもりだった、と。
そして呼び戻した1月後に信勝が兵を起こす、これは信長が季考、信時を殺したことに気付いた、
そのようにも解釈できるように思います。
ちなみに、信次逐電の理由は信次が信勝の報復を恐れたためではないか、信長信勝は別腹で信勝と季考は
同腹、さらに信勝が嫡統とするならばこれも十分考えられるような。
個々の死の理由はいろいろ考えられるでしょうが、そのすべてに信長がからんでいる、又は利用した
というのも最終的に信長が信勝を殺すことによって織田家を実力で把握した、ことにつなげると案外
成立しそうな説だとは思いましたね。
そしてその根本にあるのが、信長庶子、男の兄弟はない一人っ子、そこからすべてははじまった、とまるで
小説なんですけどね。
975:人間七七四年
07/10/30 00:46:19 INW7ppfp
>>974
小説としても、ひねりも何もないつまらない話になりそう。
短期間におじと弟が何人か死んでる~、全部信長が殺した、、なんて、単純すぎる。
そんなに簡単に身内を殺して、家臣や国人衆が付いて来るのか?
この時期の信長の苦労をないがしろにする暴論だ、許せん(w
信光と信時、秀孝の死因は、前に別スレに書いたから省略。
976:人間七七四年
07/10/30 00:56:52 Mf1KABKm
でもなんで、信長ってやたらとすぐ人を殺したとか言われるんだろね。
これも徳川の捏造が原因か?
濃姫だって、信長が殺した説唱えている人いまだいるし・・
977:人間七七四年
07/10/30 02:51:39 cKCj+XNF
徳川以前に既に秀吉が織田家乗っ取ったあとに
信長を狂人扱いしてますがな
そして光秀寄りの側近が多かった徳川時代に
明智軍記なるものをこしらえて
光秀の母親見殺しetcといった極悪人像も定着していった
978:人間七七四年
07/10/30 03:14:04 v3FSyl6a
>>974
で、なんで信時殺しの下手人である角田新五が、稲生合戦で信勝側についていたの
ですかね?これも信長の差し金で、信勝を内部から裏切って敗北に追い込むための
間諜、埋伏の毒だったんだよ!すべては信長の陰謀だったんだ!とでも主張しますか?
(それだと、なんで信長の陰謀を察知して挙兵した信勝が信長の手先を悟っている
角田を受け入れたやら)
あなたが想像で説を展開するのは勝手ですが、はっきりいって
信長は庶子 信長はそのため一族を殺しまくった
という結論ありきで、その結論に導くために想像を加えまくって論を展開している
だけです。それでは自分以外の誰一人も納得させる力はありません。
だいたい陰謀論を展開するのなら、信長に強力している一族の有力者(信光は信長と
示し合わせた上で清洲の陰謀を実行、信時も信長の差し金で守山城主へ)が次々と
死んでいるのは反信長勢力の陰謀、つまり弟信勝の差し金だったんだよ!くらいも
成立するでしょう。むしろ、この方が勝手な根拠のない想像を加えて考察するより
はるかに通りがいいと思いますが?
979:人間七七四年
07/10/30 08:05:06 eoFWwYMq
>>973 秀吉には織田宗家を事実上滅亡させたという負い目があるでしょ。
三法師を早々になおざりにして、信長の息子達を支配下においての
秀吉政権だったから、信長そのものを否定したいという暗黙の
空気はあったと思う。
正嫡性もなく、下克上で成り上がった残虐の限りをつくした暴君信長、
という庶民へのイメージ定着に信長公記が利用された、という印象もなくはない。
信長への敬意が秀吉にもあったのなら、残虐シーンは最小限にカットさせたり
名君と思われるように編集させたと思う。
光秀や一族の処遇は徹底してたけど、騒動がおさまってからは
関係者の末裔が不遇だったということもないので、秀吉や家康は
内心光秀に感謝してるという解釈してる専門家もいる。
でも信長が悪人と思われれば思われるほど光秀に庶民の同情が集まって
人気があったから、残りの関係者一族を優遇してあげただけ
じゃないだろうかとも思えるけど。
信長が庶子であったかどうかは生母の出自がきちんと判明しない限り
確定は難しいけど、どっちにしても嫡男として信秀から家督を譲られた
ことは事実なのだし、庶子であったところで正嫡性は立派にあったと
解釈すべきだろうな。その後の身内のごたごたは織田家に限らず
どこの家でもある話なので、そのごたごたの原因が全て家督のからむ
問題ばかりではないと思う。
戦国期なんて、はしかや肺炎ぐらいであっさり死んでたわけで、
そういう急死が「暗殺」「一服もられた…」と伝わって、犯人は信長だろう、
となっていったという根拠薄のものもあると思うけど。
980:人間七七四年
07/10/30 08:07:36 cKCj+XNF
吾妻鏡で頼朝が悪人にされてるのと同じだな
981:たられば君
07/10/30 09:30:55 gCGPK1FG
いつになったら帰蝶の話題が出てくるのかな
982:人間七七四年
07/10/30 11:45:31 yj+ooUId
>>978
そうなんですよね。
自分の説ではなくてそういう説があって、詳しい方がどのように否定するのかぜひ
教えて頂きたかったわけなのですよ。
元から井沢ではないですが学会等からは無視されているわけなのでとても勉強になります。
もしよろしければ、定説ではない、根拠がない、想像でしょ、というのを承知の上で
いろいろお聞きしたいと思いますがどうでしょう。
例えば信光、信時、季考の個々の死因は十分に理解できます。
ただこんな短期間にある程度関連づいてまとまって死んでる、その結果信長が織田家を把握
そして天下をも手中に収めようとする。
その手法は戦争が強い、というよりかは調略、謀略、そういった戦国特有の戦術を駆使したことは
このスレの皆様なら十分ご承知のこと。
なので陰謀論と言いますか信長の出自、さらにうつけとしての振る舞い、そういったかなり遡るところから
信長の人生と言うか人間性というか教えていただくことにとても関心がありまして。
織田家内紛は確かに時代的にはよくあることなのですが、その後の行動を見ていても
個々の内紛をバックにうまく立ち回って織田家を把握した、それは事実ですがその一歩先まで
推測することはどこまで可能なのだろう。
そのあたりが出発点となっています。
どうかご理解のほど頂けたら、と思います。
983:人間七七四年
07/10/30 12:06:55 yj+ooUId
>>979
ふむふむ。
信長を否定したいという暗黙の了解、ですか。
どちらかといえば宗家を滅亡させた負い目から元主君を名君と表現する、そんな感じを
想定してました。
叡山攻めの誇大表現にしても、当時としてはそれは悪ではなく反逆の徒をより多く殺した
みたいに逆に良い方向で表現したのかな、みたいに。
当時としては下克上で成り上がる、残虐の限りをつくす、そういうのは100%マイナスイメージ
だったのでしょうかね。天下統一した秀吉を褒めるのならそういう成り上がり信長は
逆に評価されてたぐらい、なんてのはいいすぎですか。
でも秀吉はその後継者でしょうし実際にその信長の命に従ってたわけですからね。
話戻して当時の庶民は信長を悪人とか思ってたのでしょうかね。
それより光秀を三日天下なんて評価してなかったぐらいではないのかな。
秀吉、家康が光秀に感謝してる、からおかしな黒幕説が広まってますが、やっぱり秀吉、家康
からみると一生部下だったかもしれないのに、天下取りのチャンスを与えてくれたのは直接間接
光秀だったので、感謝、というかラッキ、ぐらいには思ってたでしょうね。
で、はしかや肺炎で死んだのも信長のせいにされてる、ですけど、事実はどうあれそう思われている
ということが重要である、なんて言ったら井沢100%ですね。
半分冗談ですけど、父親の葬儀であんな振舞したら「あいつは危ねぇ、いつかなんかやらかす」
と絶対に思われてたでしょうね。
親類の葬儀であるんだ、見たこと・・・お寺の人に文句言われた・・わし・・
984:人間七七四年
07/10/30 13:32:00 FHMYxlsV
江戸時代の光秀の人気は絶大でしたよ。
江戸歌舞伎の影響だけど。
光秀を苦労人、糟糠の妻だけを愛し、耐え難きを耐え、しのび難きをしのび、
最後に爆発、あえない最期…
という脚色で上演されていたそうです。
江戸庶民の人気有名人が一位が家康、二位が秀吉、三位に光秀、という
説もあるそうで、信長はかなり悪役だったようです。
信長公記は牛一が秀吉に仕え秀吉の命で書き上げたという背景を考えると、
秀吉が読んで不快にならない程度の上げ下げの
手が加えられていることは想像できるので、全部が全部事実である、
という前提での考察は難しいだろうけど、率直に書きにくいところは
牛一なりに含みのある書き方をしているとも思われるので、
あれこれ推測していくのも楽しみの一つだとは思ってる。
985:人間七七四年
07/10/30 14:08:13 v3FSyl6a
>>984
描きにくいところってなに?
仮に信長が側室腹で本嫡を排して下克上で家をのっとったのだとして、それが
秀吉にとって都合が悪いことってなに?
むしろ信長がそういった悪人なら、その悪人の家を排して(息子や孫に対する扱い)
自身が代わって天下人となる大義名分になると思うのだが?
>あれこれ推測していくのも楽しみの一つだとは思ってる
楽しみは人それぞれだが、根拠がなければ個人の妄想でしかない。
それと公記の記述のみをもって牛一がどうこう言うが、信長を正室腹とする
史料は公記以外にもあるし、残されている一次史料をみても信長でなく信勝を
正嫡とするような記述は見当たらない。このような現状を無視して公記のみを
取り上げて、しかも公記にすらはっきりと記述されていないようなことを想像
で導いて結論を出しても、なんの説得力もない。
こういうとき陰謀論者は「権力者が都合の悪い史料を廃棄させたんだよ!」と主張する。
しかし例えば徳川は二世紀半におよび天下人の座にあり、その間都合の悪い文書を
処分するような動きもあっただろうが、それでも家康やその後の歴代将軍の都合の
悪い文書はけっして少なくない量が今に残されて歴史学の材料にされている。
なのに、織田信長だけは都合の悪い史料を完璧に抹殺したとでも言うんですか?
986:人間七七四年
07/10/30 14:23:55 FHMYxlsV
>>それと公記の記述のみをもって牛一がどうこう言うが、信長を正室腹とする
史料は公記以外にもあるし、残されている一次史料をみても信長でなく信勝を
正嫡とするような記述は見当たらない。このような現状を無視して公記のみを
取り上げて、しかも公記にすらはっきりと記述されていないようなことを想像
で導いて結論を出しても、なんの説得力もない。
私は↑のようなことは考えたこともないので、これこそ貴方の妄想。
私が主張してもないことを勝手に決めつけ、思い込みで責められても迷惑。
歴史の楽しみ方は人それぞれで、それについても文句をつける筋合のことでも
ないだろうと思うけどね。第一「戦国時代」スレのカテゴリーは趣味でしょ?
987:人間七七四年
07/10/30 16:41:52 QtOxaVKA
そろそろ、信長のスレに移ってやればいいのでは?
ここは、一応濃姫のスレなので、スレの趣旨と外れると思います。
988:人間七七四年
07/10/30 17:37:29 Fx79I9vm
>>985 >>信長を正室腹とする史料は公記以外にもあるし、
具体的に教えて
武功の元史料以外で
989:人間七七四年
07/10/30 17:44:51 Hll3j6x5
信長だけの話題でスレを消費しちゃった人たちは
とりあえず新スレを立ててください。