06/12/20 21:17:05 2TIGHWZ8
ちょっと、スレ違いですが、某所で話題が出たので。
「信長公記」の古写本の一つ「安土日記」に「三州岡崎三郎(信康)殿逆心の
雑説申候、家康ならびに年寄衆上様(信長)へ対し申し勿体無く御心持然るべ
からざるの旨」の記載がある事が発表されてから、信長が信康の殺害を命じ
たという説は疑問視されています。
「家忠日記」によれば、信康が自害(天正7年9月15日)する一年も前の天正6年
9月の時点で家康は家臣らに信康の許へ出仕する事を注意しており(9月5日条
「岡崎在郷無用之由、被越仰候。」、22日条「吉田左衛門尉(酒井忠次)所よ
り、家康各国衆岡崎在郷之儀無用之由申来候。」)、徳姫が徳川家を離れる
のも、信康自害から半年も経っての事です(同書天正8年17日条「おハり(尾張)
御新造(徳姫)様、美濃江一円ニ御越候とて、浜松(家康)殿岡崎江御越候。」、
同月20日条「御新造様送りニ、尾州おけはさま(桶狭間)迄越候。」)。
信長や徳姫が主導したならば、自害後、早々に実家に戻った方が自然でしょう。
関ヶ原後、尾張に入封した松平忠吉が、生駒家の旧知を安堵し(慶長6年松平
忠吉朱印状)、生駒利豊(徳姫の従兄弟)を尾張衆として召し出した事からも、
信長・徳姫の策謀とは考えづらいでしょうか。