08/01/19 04:19:38 yK5azawp0
>>195
仏教的に言えばその人の人生はその人の物では無い。
その人がその人である事もその人の迷いの産物。
主体的に取り決める個は未だ存在せず、外縁の渦に巻き込まれている記録装置の
閾を出ていない。人間としては個人が其処に居ると錯覚しても、人間から見た
アンドロイドの様に主体の存在しない外的にインプットされたロボットでしかない。
そんな壊れたロボットに最終的な決定権があると思うのがキリスト教の思想。
仏教的に言えば世間法という世間的な考え方に染まりながら真実とは何かを探求は
出来ない。
魂に主体性を認めて自覚能力や選択権があるという傲慢な錯覚妄想がキリスト教だ。
つまり、裏を返せば神や仏や世界のルールを受け入れる権利も拒絶する権利も「自己」
の所有者である「私」が決定できるという思い上りが煩悩だ。