07/10/15 13:55:18 DgMqdGoK0
>>730
>729あての質問ならば、 日本書紀 に書いてありますよ。
《崇神天皇六年(己丑前九二)》六年。百姓流離。或有背叛。其勢難以徳治之。是以晨興夕惕。
請罪神祇。先是。天照大神。倭大国魂二神。並祭於天皇大殿之内。然畏其神勢、共住不安。
故以天照大神。託豊鍬入姫命。祭於倭笠縫邑。仍立磯堅城神籬。〈 神籬。此云比莽呂岐。 〉
亦以日本大国魂神。託渟名城入姫命令祭。然渟名城入姫命髪落体痩而不能祭。
初代の御杖代は豊鍬入姫命、継いで倭姫尊。
二柱の神が宮中に同居しているので国が乱れたと考えた崇神天皇が、天照大神を豊鍬入姫命に託して奈良笠縫村で、、
また日本大国魂神を渟名城入姫命(場所不明)に託してそれぞれ祀らせた。渟名城入姫命はやせ衰えてしまった。
神威を畏れて宮中から出したのは間違いないようですが、そのすぐ後に
神明憑倭迹迹日百襲姫命曰。天皇何憂国之不治也。若能敬祭我者。必当自平矣。
天皇問曰。教如此者誰神也。
答曰。我是倭国域内所居神。名為大物主神
というわけで倭迹迹日百襲姫命に神が降りて、様々な災厄、国の乱れの元は大物主をその子孫に
祀らせていないことだったことが判明。子孫・太田田根子に祀らせ、ようやく国は安定した。
天照大神の祭祀はそのまま豊鍬入姫命→倭姫命と受け継がれ、宮中には戻ることなく伊勢に…。
とにかく神の力が強くて、常時そばに坐すことを天皇が畏れたということは歴史書にあるということで。