06/11/11 12:08:26 7M1HADEY
>>7
大雑把に日本の近代写真史を見ていくと、木村・土門などのリアリズムから中平・森山・多木のプロヴォークを経て、
混迷の70年代から、なんでもありの80年代(広告の時代=雑誌の隆盛)を最盛期とし、
90年代の私写真・ガールズフォト&ロンドン=i-D系ストリートファッション(ホンマ、高橋恭司など)から、
現在、畠山、野口などの現代美術に於ける写真表現と、
清水穣曰く、京王線沿線の午後の希薄なあたしの景色写真(大半が露出オーバーなもの)、
そして大御所になってしまった森山・荒木の二大巨頭と、その影響下の稚拙な模倣者たち、
別次元で写真そのものに肉薄し続ける中平卓馬という感じではないだろうか。
俺も草間・荒木展は観に行ったけど、確かに荒木の展示は酷かった。
彼の写真はああ云ったパブリックな場で大々的に観る(観せる)ようなものではないと思う。
それは逆に言えば、浅田の言う「猥雑写真の小部屋」として観るべきものとしての荒木写真の強度であると思うし、
そういった意味で、草間の行っている美術とはまったく地平の違うものだから、
比較するる事自体が実はナンセンスじゃないだろうか。
荒木自身、写真はアートではないと公言しているわけで
(これはたぶん逃げではなく写真が常に『私』を介し複写するメデイアであるということから)、
浅田の持つ写真の文脈(たぶんベッヒャーや杉本などの現代美術としての写真表現=アウラでまくってる系?)で批評しようとすると、
どうしても、荒木の持つ私的なセンチメンタリズムを持ち出して、批判する結果になってしまうのだけど、
荒木のセンチメンタリズムは実際は完全に作られた虚構であるから(妻の死にしても)、
その点を踏まえると、浅田の荒木批評は、>>7氏の言う通り、主観的意見の域を出ないんだよな。
そういえば、最近チロの写真をみないな…。 元気であることを願うよ。