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西南の役で攻囲を受けた熊本城。
当初三倍の兵力で攻め寄せた薩軍に対し、立て篭もる官軍は後方との連絡
を絶たれた上に、失火により城内の糧食の大半を失うという大ピンチ。
だが寡兵良く耐え、籠城40日を超えるに及んだ後に、南下してきた官軍主力
に対し薩軍が迎撃のため分散した隙に出撃、攻囲を破った。以後薩軍は各所
で守勢に回り、戦場も南へ南へと移り、長い追討戦へと局面を移す事になる。
その熊本城の天守が燃えていた頃、城下では「清正さんの城が」と人々が悲
しんだという。しかし江戸時代に肥後を治め、熊本城を居城にしていたのは
細川氏であった。
当初より重大攻略目標と見なしてこれに攻め寄せ、遂に落とせなかった薩軍
率いる西郷どんも悔し紛れに呟いて曰く「官軍に負けたのではなく、清正公に
勝てんかった」と。加藤清正が熊本(当初は隈本)城を築いたのは天正~慶長
年間のこと。三世紀も後の戦場で伝説になる英雄というのも珍しい。
加藤清正は後に、明治政府から従三位を追贈された。
熊本城の完成より300年余も後の明治43年の事である。