元寇って本当に台風で勝てたの?何かおかしくない?at ARMY
元寇って本当に台風で勝てたの?何かおかしくない? - 暇つぶし2ch73:名無し三等兵
07/11/11 20:59:35
元に率いられた高麗軍に上陸されて蹂躙され尽くした能古島、糸島半島先端の西ノ浦あたりは
今や特アからの密入国が頻繁にある場所です、よく巡視船「はかた」や「あそ」「みずき」などが警戒しています


74:名無し三等兵
07/11/11 21:04:15 3jV+gcKc
中国が作った、対モンゴル用要塞、万里の頂上は、容易にモンゴル軍に越えられたが。
日本軍が対モンゴル軍用として海岸線に築いた、石塁は越えられなかった。


75:名無し三等兵
07/11/11 21:18:25
>>73

あそって雲龍型空母阿蘇を連想させるなwwwwwwwwwww


76:名無し三等兵
07/11/11 21:26:38
>>62
急な計画だったから造船が間に合わずに、川の運搬船をいっぱい集めたんだよ。
しかも作った船さえ>>65のありさまw

77:名無し三等兵
07/11/11 21:29:25
>>67
いや、あれだけの大船団を作るには時間があまりにも足りなかったんだよ。
だから川の船を持ってきた。

78:名無し三等兵
07/11/11 21:36:02
日本史板でしろよな

79:名無し三等兵
07/11/11 22:50:26
中世の東シナ海を通しての日本と宋/元/明との貿易って相当盛んだったと思うんだが、
当時の中国人に外航に適する船を作る技術がなかったとは思えんのだが

むしろ元の命令で短期間に突貫工事で何千隻も作った粗悪な船だったからあっさり沈んだんじゃないの?

80:名無し三等兵
07/11/11 22:55:01
80そし

81:名無し三等兵
07/11/11 23:00:30
>>75
鋭いシェイプの「はかた」が一番好きですが
「あそ」と「みずき」は前部に載せた機銃が頼もしいですね、この2隻は遠くから識別するのが少し難しいです
高麗から押し寄せた軍船で埋め尽くされたという今津湾では巡視艇「とびうめ」もよく警戒しています

82:名無し三等兵
07/11/11 23:00:55
>>78
むしろあえて軍板でやるからには軍事的な考察をするのがよろしいかと

元軍は海岸付近ではわりと優勢に戦って博多を侵すことが出来たのに
水城の先(つまり筑紫山地以南)には侵攻出来なかったんだよな
俺が思うに、今北九州に中国なり韓国が攻めてきても以外と似たような結果になるような気がするんだよな
海岸線付近では艦砲と陸揚げした砲兵に阻まれて機械化の進んでいない第4師団が橋頭堡を叩くのは難しいだろうが、
かつて水城と大野城・基肄城のあったラインで陣地による抵抗を試みればそれ以上南に行くのは難しいだろう
それでも敵は元軍よりはまともな準備をしてくるだろうからおれだけで帰ったりはしないだろうが、
彼らにお引き取り願うには富士教か7師がくるのを待てばいいかと

ごめんやっぱ他スレでやったほうがいいかも

83:名無し三等兵
07/11/11 23:06:12
中国、韓国あたりが九州に侵攻してくる場合は
まず春日の駐屯地付近にミサイルによる波状攻撃を仕掛けてきそうな気もしますね

84:名無し三等兵
07/11/11 23:22:56
まあ波状攻撃をするほど機体とミサイルの余裕があるかどうかは分からんが、
航空攻撃が先に行われるのは間違いないだろうな

85:名無し三等兵
07/11/11 23:44:33
>>84
全国各地での市民?による反戦デモの方が先だろ。


86:名無し三等兵
07/11/11 23:50:38
最近の傾向だと10人以下の寂しいデモしか起きないと思うが。

87:名無し三等兵
07/11/12 05:04:42
攻めて来られて反戦デモやってたら
さすがに白い目で見られるよな

88:東条大将
07/11/12 07:09:05
武器が刀槍に過ぎない元寇の時代ならともかく、現代では他の方面軍が援軍として来るのを座視するほど中韓連合軍は甘くはあるまい。
上陸して来るくらいだから制空権は中韓連合軍のもの。第七師団は移動中に空爆で叩かれるだろうな。

89:名無し三等兵
07/11/12 07:42:03
>>76-77
高麗製の船は弘安の役の台風でも無事だった。
手抜きどころか精魂込めた立派な仕事。
元艦隊は外洋用の大型船300艘の他に、上陸や給水などに使用する使い捨ての小舟600艘も
装備していたから、発見された船はそれだろうな。

90:名無し三等兵
07/11/12 07:55:03
じゃあ明らかに人減らしの旧宋兵がそうやって・・・

南無

91:名無し三等兵
07/11/12 11:40:21 wwaxhfwW
>>89
中国の川は広大だぞ。
川の船だからといって、小さいものではない。

92:名無し三等兵
07/11/12 11:46:01
そういうレベルじゃないだろ海と川の違いは

93:名無し三等兵
07/11/12 12:49:28
>>92
おまえは対岸が見えないくらいの川を知らないのか?
当時の外洋船の大きさを過大視していないか?

94:名無し三等兵
07/11/12 12:55:00
どうしても「日本が遅れていた」「日本が弱かった」としたいのだろうな。

左巻きの史観だと、戦前、そして封建時代の日本が世界的に優れてると、
国民主権の時代、そしてその後(?)の社会主義の価値が相対的に無くなる。
左へ行けば行く程、素晴らしい世界になるんだよ♪としたい訳だ。

更に中朝は「日本が優れているのは我々のお陰」と言いたい。
「日本が独自に優れた国になった」とは死んでも認めたくない。

ここら辺の事情で歴史教育はバイアスがかかる傾向がある。


少なくとも後半は日本の国土で元軍と真っ向から戦えていたのは事実であり、
元軍の敗北の最大の原因であった「兵站」がしっかりしていたとしても、
日本全土が征服されるという事態にはならなかったであろう。

大陸型の機動戦法を島国の日本が知らなかったのは必要が無かったからで、
国として全てが大きく劣っていた訳ではない。わずか300年後には、
逆に朝鮮へ出兵し、明王朝滅亡の遠因となった程の大戦争を戦っている。
たった300年で、それ程に差がつくとは考えにくいがどうか?


ついでに「元寇」は「高麗」が元の皇帝に強要されたのではなく、
高麗が積極的に日本侵略を企図して動いたのだが、教科書にはあるまい。

95:名無し三等兵
07/11/12 13:01:50
URLリンク(www.lib.kyushu-u.ac.jp)
これの
後世加筆修正した部分のみ抜き出して教科書に載せてるくらいだもんな

96:名無し三等兵
07/11/12 13:52:43
新羅の時代から九州北岸部はたびたび半島からの侵入者に蹂躙されてましたからね
いきなりやってきては略奪をはたらき村を焼き女を襲い住民を虐殺する
こういう非道を小規模ながら何度も繰り返してきたことさえ教科書には載りません
元寇や刀伊の入寇と呼ばれているものはそれが大規模に行われたものですが
住民がこういうのに慣れており比較的混乱も少なく武士団に協力できたのも勝因のひとつではないでしょうか
博多の旧くからの名家や生粋の福岡人は伝統的にいわゆる嫌韓ですが、それはやはり理由のあることです
とくに自分たちのつくった街を焼き払われた宋人の怒りはかなりのものだったといいます
自分たちにへこへこそていたはずの高麗人が元をバックにつけるやいなや高圧的に侵略し街を焼いたわけですからね


97:名無し三等兵
07/11/12 14:12:33
>>94
戦前、戦中だと「日本は神の国」だと教えるために
元寇は神風で勝った、というのが定説になってたみたいね。
元寇はその時々の体制や国家のイデオロギーに応じて
さまざまにわい曲されて歴史教育に利用されてきた。

>どうしても「日本が遅れていた」「日本が弱かった」としたいのだろうな。
こうした史観は>>37の文献のように早くも明治時代から出現してたようです。
西欧の進んだ技術、思想を取り入れるにあたってこうした考えが
むしろ逆に必要とされていたのかも・・・
思った以上に根の深い話だ。

98:名無し三等兵
07/11/12 15:52:38
>>97
元寇は神風で勝った、なんて説は、戦前は定説じゃなかった。
>>37みたいのは少数意見。
白鳥庫吉博士が書いた昭和天皇のための歴史教科書では、文永の役は武士が奮戦して
元軍を撃退した事になっていて、「神風」なんて記述はまったくない。

昭和天皇の歴史教科書 国史(口語訳) 出雲井晶・訳 講談社
『元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、
数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に
迫りました。九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、元軍は深く侵入できずに
退却しました。文永末年のことでしたので、これを文永の役といいます。』

文永の役の勝因が神風という説が一般化したのは戦後になってから。

99:名無し三等兵
07/11/12 16:27:44
>>93
海と川は水のもつ力学からしてちがうんよ
波とかそういうのがいろいろ面倒な負荷を船に与えるらしい
俺も専門家ではないのでさわりの情報だが同じ大きさの船が作れても当時の川用の船は海ではもたないとのこと

100:名無し三等兵
07/11/12 16:52:05
>>93
大きさの問題じゃなくて川と海じゃ
船の作り方が全然違う

101:名無し三等兵
07/11/12 16:53:04
>>99
だから、造船が間に合わずに川用の船を利用したから、大半の船が海の藻屑となったわけよ。

102:名無し三等兵
07/11/12 17:01:07
>>101
元艦隊全部に渡航能力が必要なわけじゃない。
川用の船は外洋航海中は渡航用の大型船に曳航したり収容すればいいだけ。
海の藻屑となったこととは関係ないよ。

103:名無し三等兵
07/11/12 17:11:37
外洋航行への向き不向きを別にして
単純に船体のサイズで見れば
黄河とかのでかい河で使ってた船でも
外洋航行できそうなでかい船はあるよ。

104:名無し三等兵
07/11/12 17:37:57
>>102
曳航って、海の波に耐えられない作りなのに何の意味があるんだよ。
収容ったって、おまえは川の船のでかさを知らんのか?

105:名無し三等兵
07/11/12 17:38:37
>>103
竜骨がないと、でかい船は海の航海には耐えられない。

106:名無し三等兵
07/11/12 18:08:20 3Hds+/0B
>>104
元艦隊には限定された目的のための小型船が多数含まれていたんだよ。
川用の船ってこれだろ。
だから最初から外洋航海能力は必要無いの。

107:名無し三等兵
07/11/12 18:11:38
>>97 >>98

イングランドがイスパニア無敵艦隊「アルマダ」を
破った時に、「神」が風向きをイングランド有利にした、
従って、イングランドは「神」によって正義と認められたんだ!
そんな戦勝記念メダルが作られた事があります。

「神風」も「日本=正義」としたい、そんな流れでしょうか。
戦時中に士気高揚のために一気に流布された考え方のようですね。

明治維新以前の日本を遅れた暗黒時代と考える史観が見直されて
来ていますが、少なくとも秀吉の朝鮮出兵の頃の日本の国力は
欧米列強・中国と比較しても対等程度であった考えられます。

室町期に日本の国力が相当な勢いで発展したのは間違いないのですが、
これも明治維新と同じで基盤が無ければ出来ない事です。

「白村江の戦い」の時代でさえ、既に5万超の兵力で
遠征して唐と戦える国力があったわけですから、
鎌倉時代だけ日本の国力が弱まっていたとは考え難いです。

108:名無し三等兵
07/11/12 18:50:57
>>1
要するに「日教組」「サヨ教師」を叩けばいいんだろ

109:名無し三等兵
07/11/12 18:59:33
学校によっては、アイヌはモンゴルに勝ったとか教えてる所もあるみたいだな。
実際には負けた記録しかないのに。
史料には勝ったと書いてある鎌倉武士は負けたと教え、アイヌではその逆をやる・・・
歴史教育で勝敗を決めるのは、史料ではなくイデオロギー。

110:名無し三等兵
07/11/12 19:06:35
秀吉の朝鮮出兵は小学校の社会の教科書に大きく書いてあるのに、
応永の外寇や刀伊の入寇は高校の文系選択者のみが使う日本史Bの教科書に小さく書いてあるだけのは何故だろう

111:名無し三等兵
07/11/12 19:09:22
本来こういう国難こそ歴史で教えとくものだと思うがな

112:名無し三等兵
07/11/12 19:31:29
私が中学生のときの若い社会教師は
「イムジンウェラン」という言葉を私たちに暗記するように言い
試験のときもそう書かないと正解にしないと明言していました
小学生のときの元軍国少年の先生は「朝鮮征伐」という言葉を使っていました
「唐入り」という言葉を知ったのは大人になってからです


113:名無し三等兵
07/11/12 21:22:13
>>106
ナショジオかなんかの番組で沈んだ船に竜骨がなかったというのをやってたよ。
かなり大きい船だったよ。

114:名無し三等兵
07/11/12 21:26:58
>>105
遣唐使や遣隋使の船って歴史の教科書でだと
平底で竜骨が無い形をしてたような記憶があるんですけれど

115:名無し三等兵
07/11/12 22:02:05
>>114
竜骨あるんじゃね?
URLリンク(www7a.biglobe.ne.jp)

116:名無し三等兵
07/11/12 22:11:35
700年前のネタで盛り上がれるなんて軍オタってすごいな

117:名無し三等兵
07/11/12 22:16:36
>>113
ジャンクって大型のものでも竜骨はないよ。
でも外洋ではまったく問題無し。

118:名無し三等兵
07/11/12 22:28:58
>>117
対馬海峡は波が荒いときくが、そんなとこでも平気なのかね?
川から持っていった船はそういうのとは構造も違うんじゃないか?

119:名無し三等兵
07/11/12 22:30:09 ri0PYmvD
まず鎌倉時代の日本は世界の中でも大国だったという認識持つべき。
中世のヨーロッパでの戦争は数千程度だけど、日本は源平、奥州藤原氏など万単位の軍隊動員できる政権がいくつもあり、
一応東国のもと統一された承久の乱で鎌倉幕府は10万以上動員している。
こんな国は当時それほどない。
そして鎌倉時代は米の二毛作がほぼ全国に普及したのに中国では南方でやっと始まったばかり。
それから時代は少し下るけど日明貿易では日本の日本刀や鎧などは主要輸出品。
ようするに鎌倉時代の日本は大国で農業先進国で工業先進国でもあった。

明治維新までずっと遅れていたなんて歴史観をまず拭い去るべき。


120:名無し三等兵
07/11/12 22:34:45
まぁ中世欧州なんて辺境のド田舎もいいとこだしなぁ

121:名無し三等兵
07/11/12 22:41:39
>>118
川から持っていった船とか言われてるのは、もともと雑事用の小型船だろ。
そんなの外洋航海能力なんか無くて当然。

122:名無し三等兵
07/11/12 22:46:50
>>121
兵士や大砲運ぶんだから川のでかい船を流用したんだろ。
ナショジオの番組でやっていたのはそれなりにでかい船だったぞ。

123:名無し三等兵
07/11/12 22:54:33
>>119
え、なんで先進国なのに室町将軍は日本国王臣源道義なんて名乗って明に臣称してんの?

124:名無し三等兵
07/11/12 22:56:51
>>123
つ 天皇

125:名無し三等兵
07/11/12 23:01:33
カクリコン・カクーラー

126:名無し三等兵
07/11/12 23:01:46
室町になってから明のポチに成り下がったわけね・・・

127:名無し三等兵
07/11/12 23:06:03
日本国王臣ってのは日本の国王である天皇陛下の臣ってことじゃないの?

128:名無し三等兵
07/11/12 23:22:53 7K/9REQ8
そのとおり

129:名無し三等兵
07/11/12 23:49:00
明の使者が携えてきた国書には、次の一文があった。

「爾日本国王源道義」

即ち、日本を明の属国とし、義満をその国王として認めてやる。という事である。
 それに対して義満は、属国視を立腹するどころか、逆に易々諾々と受け入れ、明皇帝への国書でも、
「日本国王臣源表す」
と記すありさまであった。明皇帝の臣である日本国王源(義満)が申し上げます、という意味である。

130:東条大将
07/11/12 23:51:57
↑たわけっ! それは日本国王・臣源道義と読むのだ。 
大明国の臣下である日本の王(つまり天皇を否定している)である源(足利氏は源氏)道義(義満の法名)と言う意味だ!
売国奴足利義満が、日明貿易の利益を得んが為に臣礼をとったのだ。
ああ、嘆かわしい。 はるか昔の聖徳太子以来、我が国は決して大陸に臣下の礼をとった事は無かったのに...義満のアホが。


131:名無し三等兵
07/11/12 23:54:11
>>130
誰に言ってるんだ

132:名無し三等兵
07/11/13 00:01:15
確かに義満だけは死ぬべき

133:名無し三等兵
07/11/13 00:04:20
なんか今とかわんねーな。あ、でも当時は戦争で負けてないか

134:名無し三等兵
07/11/13 01:21:29
>>122
鄭和の艦隊とかにも川用の船を改修したのが含まれていたよ


135:名無し三等兵
07/11/13 02:34:46
>>122
当時はまだ大砲はないよ、てつはうという爆竹の大きいのがあるだけ

136:名無し三等兵
07/11/13 08:39:11 aXLFWNZD
>>123
経済的な利益から名を捨て実を取っただけ。
実際その後の日明貿易では表向き明に臣下の例を取っていたけど
細川氏、大内氏などはトラブルが起きたら中国で乱暴狼藉を働き
明の役人殺したりなどといろいろやってる。心底明を尊敬なんかしてない。
こんなとき威力を発揮したのが日本刀。
当時の中国の文献に「倭刀は剣で受けてはならない。こちらの刀が折られる」
といったものがあるが日本刀は中国兵の刀を真っ二つにたたき折ってしまうくらいの精度だった。


137:名無し三等兵
07/11/13 08:40:41
臣従しないと朝貢貿易出来ないんじゃ

138:名無し三等兵
07/11/13 11:48:38
『懲毖録』
賊(日本軍)は歩兵で、打ち振る刀は、三、四尺におよび、鋭利無比のものであった。
賊はその鋭い刀を左右にはげしく打ちふるい、人馬の区別なく斬り伏せた。
全くその勢いには抗すべき道がなかった。


139:名無し三等兵
07/11/13 13:22:12
>>119

君こそ西欧中心史観におかされとるぞ。
当時の西欧はド田舎だったんだ。

せめてイスラム教圏や、中国などの先進地域と比べろよ。

>鎌倉時代の日本は大国で農業先進国で工業先進国でもあった。

そこまですごくないぞ。地域大国かもしれんがなw
工業先進国ってのも大嘘だ。中国の宋って鉄の生産量(質は別として)は、
産業革命がおこるまでイギリスの鉄の生産量をぬけなかったくらい生産してた。



140:名無し三等兵
07/11/13 14:25:13
朝鮮やベトナムとかとも違って強力な外圧がなかったから
割と好き放題できたのも大きいよね。
倭冦やバイキングみたいなのもそれほど来なかった。
元寇の時は北条氏による中央集権もだんだん進んできてたし
飢饉、内乱といった国情不安もあまりなかった。

141:名無し三等兵
07/11/13 15:05:30
>>139
下三行がちょっとよく意味わかんないんだけど、日本と宋とイギリスの生産量が
それぞれどうだって?

142:ちと調べてみた
07/11/13 19:43:05
手もとの本、
「大国の興亡」(ポールケネディ著 草思社)と
「概説西洋経済発達史」(荒井政治、竹岡敬温編 有斐閣選書)によれば
宋の時代、11世紀末頃の中国の鉄鋼総生産高が
だいたい十二万五千トン(主な用途は軍事)で
英国がこの水準を超えたのは1790年代
日本がこの水準を超えたのが1910年代となってます。
ただし
宋のは何のデータをもとにして算出された値なのかいまいち不明瞭だった、
という点は考慮に入れつつ参考にして下さい。

143:東条大将
07/11/13 20:26:31
足利氏も細川氏も大内氏も心底臣従する気がなく、実利を重んじた見せ掛けだけの臣従である事は分かっている。
そして明の皇帝もそれを知っていて朝貢貿易を許している。
明としては形だけでも臣下の礼を取らせれば良い訳だろ。
がっ!しかし!それでは聖徳太子に申し訳無いではないか?

144:名無し三等兵
07/11/13 20:57:13
室町時代に明に輸出された日本の主な物品は「刀」
一説によれば最も盛んな頃は年間三万七千本も輸出されとったらしい
そして明の軍人や支配階級だけではなく個人にも
大量の日本刀が行き渡ることになる。
これらの大量の武器は倭冦が猛威を振るう一因となり
タタール,後金の跳梁、秀吉の朝鮮出兵等と並んで明の軍事財政圧迫と
衰退を招く一大要因を成した。
秀吉の刀狩りに代表される人民の非武装化って実は大事な事だったんだネー。
そして明は日本の朝貢は認めない方が長生きできたかもしれない


145:名無し三等兵
07/11/13 21:06:17 wLIfABEa
>>139
例が西欧では悪いな。
チムール帝国の皇帝チムールが明の大遠征に率いたのが20万。
オスマントルコのスレイマン大帝のウィーン包囲の親征も20万。
中世においては大帝国でもこんな感じ。
だから鎌倉幕府の承久の乱の10万以上は中世では相当なもの。
しかも鎌倉幕府はこの承久の乱後初めて西日本を実効支配できるようになった。
南宋を滅ぼして旧南宋兵中心に編成した弘安の役でも総勢14万だから、
日本には兵力は充分対抗できた。
工業先進国は確かに表現が悪いけど工業技術は進んでいた面はあった。


146:名無し三等兵
07/11/13 21:12:46
今時チムールって・・・
ティムールだろ、常識的に考えて・・・

147:名無し三等兵
07/11/13 21:16:02
軍板は平均年齢高いからな

148:名無し三等兵
07/11/13 21:20:38
同時代だと、守勢側でモンゴルと戦ったホラズムが40万てところか



149:名無し三等兵
07/11/13 21:26:59
重複だと言ってるだろうが。

【文永】元寇の軍事分析【弘安】
スレリンク(army板)

150:名無し三等兵
07/11/13 21:27:51
>>148
ホラズムの方は国王が軍に信をおかず
各地の都市や拠点に分散配置されていました。
そのためホラズム攻略戦は野戦よりも
都市攻囲戦がメインだったそうで

151:名無し三等兵
07/11/14 07:38:44
>>149
馬鹿じゃねーの?

152:名無し三等兵
07/11/14 09:13:23
>>149
バカじゃねーの?

153:名無し三等兵
07/11/14 11:13:32
>>149
ちょっと黙っといてくれない?

154:名無し三等兵
07/11/14 13:15:43
>>1が必死w


155:名無し三等兵
07/11/14 13:59:40
今、元寇が熱い!

156:名無し三等兵
07/11/14 14:02:27
結局その後は明の属国になっちゃうってのもどうかと

157:名無し三等兵
07/11/14 14:48:05
>>156
なってないじゃん

158:名無し三等兵
07/11/14 15:27:49
【文永】元寇の軍事分析【弘安】
スレリンク(army板)

159:名無し三等兵
07/11/14 16:38:08
「動員可能な兵力」と「国力」が問題になってますが、
この時代は古代王政が崩壊して絶対王政が確立する前で、
中央政権が弱体で地方の封建領主が割拠する形態の国が多かった。
従って一概に「動員可能な兵力」=「国力」とは言えないかと。

牧畜を基盤とする遊牧国家モンゴルの生産性が高かったとは言えず、
むしろ北方遊牧民族は南方の豊かさを目指して侵入を繰り返して来ました。
定住しないが故に技術力や文化も農耕国家と比べると発展し難いです。

160:名無し三等兵
07/11/14 16:50:21
「統一の度合」と「常備軍」も国の強さですので、
技術や文化、生産性が低くても強国と成り得る訳ですね。

左巻きが「日本は弱かった!」と言って来たら、
「統一国家権力が弱いと、国も弱くなって戦争で負ける!」と、
こう返してやるのが一番良いわけですね。

「鎌倉武士」達を上手く一つにまとめていくと、
明と朝鮮を相手に戦える秀吉軍のような強さになり、
更にもっと強力に「国民国家」としてまとめていくと、
米英中を相手に真っ向から戦える大日本帝国が出来る理屈。

161:名無し三等兵
07/11/14 17:22:06
ただ問題は、傾向として「強力な中央集権国家」をやると、
「富」が強烈に吸い上げられてしまうために「個」が貧しくなる。
崩壊したソ連然り北朝鮮然りで、全体として成長性が阻害される。
(全部税金かと思ったら、そりゃ皆やる気無くなる罠)

「平和が一番」ってのは確かにその通り。

だが逆に「豊かさ」を求めてまとまれなかった為に、
カルタゴや宋は滅亡し、オランダは弱体化し、
富裕を誇った都市国家群も征服され飲込まれた。


結局「適切な抑止力が必要である」という軍事板的な結論になったw

162:名無し三等兵
07/11/14 17:48:30
>米英中を相手に真っ向から戦える大日本帝国

さすがにここまで行くと酷使様だ

163:名無し三等兵
07/11/14 19:24:41
>>162
真っ向から戦ったじゃないか。
負けただけで。

164:名無し三等兵
07/11/14 21:48:40
この場合、国力という概念だから戦ったかどうか
じゃなく、「戦える国力の国家」ととらえるべき
で、そうすると、さすがにそれはちょっと・・・
という事になるな。

165:名無し三等兵
07/11/14 22:45:04
重複スレですので、移動をお願いします。

【文永】元寇の軍事分析【弘安】
スレリンク(army板)

166:東条大将
07/11/14 23:08:24
↑だまれっ!白熱の議論が展開されているのに水を差すな。

167:名無し三等兵
07/11/14 23:34:21
>>165
早く死ねよお前きめぇw

168:名無し三等兵
07/11/15 00:51:00
定住農耕民族と遊牧騎馬民族では国力と総兵力の関係がいくぶん異なります。
農耕民族の場合兵力を増やし、遠征を繰り返すほどその影響は
軍事費の増大、人民への増税という形で国政に跳ね返ってくるため
総人口に対する兵士の比率がある一定をこえると
国力がどんどん低下していきます。

一方騎馬民族はその人口や生産力において農耕民族に
圧倒的に劣りますが、
乗馬、騎射、家畜の追い込み等といった戦争にも容易に転用できる技能が
生存のために必須のものとなっている、
定住民族や他の騎馬民族に対する戦争。略奪という行為自体が
生活の一部を成しているため平時、戦時の境目が無いに等しい、

といった要因により総人口に対する動員可能な兵力の割合を
農耕民族より遥かに高く設定でき、遠征の連発も
国力に悪影響を及ぼしにくいという特徴があります。


169:名無し三等兵
07/11/15 06:38:30
>>162
なんの脈絡もなく登場する左巻きと脳内幻魔大戦を始めた時点で酷使様だろ

170:名無し三等兵
07/11/17 00:06:11
玉川大学の元寇サイトもひどいな

171:名無し三等兵
07/11/18 01:56:55
>1
元軍の作戦は、

・朝鮮半島方面から別動隊(東路軍)が九州北部に上陸して、日本軍を引き付ける。
・中国本土から出発した本隊(江南軍)が、沖縄経由でぐるっと迂回して日本軍の背後に上陸し、
 日本軍を包囲・殲滅する。

というものだった。

しかし、事前の準備不足や、元軍の実態が旧高麗軍、旧南宋軍などを寄せ集めた多国籍軍
だったことによる指揮統制の不備、10万人を超える大軍に対して海路で補給を維持することが
当時の航海・造船技術では困難だったことなどから、作戦は失敗。
後退した日本軍との間で、塹壕戦になってしまった。

塹壕にこもって弾幕射撃で応戦する日本軍の防衛線は、いかに元軍の得意とする騎兵隊の
突撃であっても突破することはできなかった。当時は、まだ戦車や装甲車はない。
まったくの消耗戦が数ヶ月続き、結局台風シーズンになって海路が荒れて補給切れ。
元軍はやむなく撤収した。

172:名無し三等兵
07/11/18 03:36:17
>10万人を超える大軍に対して海路で補給を維持することが
当時の航海・造船技術では困難だった

兵糧に関しては船団の中に必要な分だけ積んで来る、て感じだったな。
弘安の時なら兵糧を3か月分は搭載してただろう。
そもそも「海路による輸送で補給を維持する」という発想は当時あったんだろか。

>塹壕にこもって弾幕射撃で応戦する日本軍の防衛線は、
いかに元軍の得意とする騎兵隊の突撃であっても
突破することはできなかった。

野戦での元軍側の戦い方も歩兵による弓矢の射撃を中心としたものだったよ。
日本側と同じく大きな盾をたくさん並べて置き、矢で弾幕を張る。
資料からすると彼等は騎兵隊も同伴してきてたようだけど
元軍の騎兵部隊の主力は専ら弓矢の射撃で戦う軽騎兵で、
敵に突撃を行うような重装備の騎兵はあまり数多くは居なかった。

ただ・・・

173:名無し三等兵
07/11/18 03:56:57
文永の時に元軍が持ってきた軍隊がどういうモノだったかは
もっと慎重に考える必要があるな。
同じ元軍といってもモンゴル軍本体と、朝鮮で戦ってた部隊、
南宋で戦ってた部隊とかでは編成が異なるはずだ。

URLリンク(www.lib.kyushu-u.ac.jp)

この図の一番左側に陣を張る元軍が描かれている.
この兵士たちを装備によって分類すると・・・
(1)弓矢を装備した歩兵
(2)槍を装備した歩兵
(3)銅鑼を持った歩兵
(4)弓矢を装備した騎兵
(5)槍を装備した騎兵
これくらいに分けられる。
(一番右側の3人は後世の加筆である、という点に注意!)
図には3頭しか元側の騎兵が書かれとらんので歩騎の比率とかは分からんけど
概ね弓矢、槍を装備した歩兵が主力で
それに同じく弓矢、槍装備の少数の騎兵がつく、て感じだ。
まあ少なくともこの図をちゃんと見てりゃ
「元軍の戦法は騎兵突撃」なんて考えは出てこないだろ


174:名無し三等兵
07/11/18 05:15:42
>>171
モンゴル軍の征服戦争は全部「寄せ集めた多国籍軍」によっておこなわれてる。
「寄せ集めた多国籍軍」だから「指揮統制の不備」があったなどと言い出したら、
モンゴル軍はモンゴル高原から一歩も外に出ることは出来なかった。

そもそも10万以上の大軍の長距離侵攻に船舶以外の方法で補給を行うことは、
当時の技術では不可能。
元軍の艦隊は数カ月分の食料を輸送する能力があり、現地調達に頼るしか無い
陸上侵攻に比べたら遥かに有利。

弘安の役で日本軍は塹壕にこもって戦ったことなどない。
日本軍は志賀島に上陸した元軍を、自分たちの方から攻撃して撃破。
元軍が壱岐に後退すると追撃してこれも撃破。
更に鷹島、平戸へ逃亡し、塹壕にこもって応戦する元軍を攻め立てているうちに
台風が来たんだよ。

あと、元軍で撤収できたのはごく一部。
元軍のほとんどは日本軍によって殺された。

175:名無し三等兵
07/11/18 06:16:25
>日本軍は志賀島に上陸した元軍を、自分たちの方から攻撃して撃破

撃破、ってのはちとニュアンスが違う気もする。
志賀島での戦闘は六月六日~十二日にかけて行われたんだけど
その間、日本と元軍双方の決戦はおこらず、
(というか志賀島は大軍の機動にも物資の揚陸にも地形的に適さない
URLリンク(www.kkc.co.jp)
志賀島東岸。このように山と岩場だらけで砂浜や平地は存在しないのだ)
この戦いは人員と物資をなんとか揚陸しようとする元軍と、
それを海と陸(当時の志賀島は干潮時だけ本土から徒歩で行けた)
からゲリラ的な襲撃を反復して妨害する日本軍、という図式で
行われた。
そして最終的に戦闘で1000人、疫病で3000人あまりを失った元軍は
上陸を諦め、東路軍との合流のため壱岐、さらに平戸まで退いていく。

経過を見ると「撃破」よりは「撃退」の方が適切なんじゃないかしら。


176:名無し三等兵
07/11/18 06:40:26
>>175
高麗史にはこの戦闘について元軍が「敗績」したと書いてあるよ。
「敗績」ってのは「戦争で大敗する」って意味ね。

177:名無し三等兵
07/11/18 07:34:52
>>176
別に元軍側は
この戦いでは負けてないとか、負けを認めてないとか
そういう事を言おうとしてるわけじゃないよ。
「撃破」だろうが「撃退」だろうが結局元軍側の負けにゃ変わりはないし。

ただ「攻撃して撃破」という表現が
どうも戦闘の様相とは剥離してるんじゃないか?と考えたんだ。
志賀島での戦いで元軍側が継戦能力を喪失するほどの
決定的な打撃を受けたのなら「撃破」でいいと思うけど
実際は損害に耐えかねて壱岐に退いた、ということで
戦闘力はまだ保持してたでしょ
(江南軍の増援が無けりゃこの時点で撤退してた可能性は大いにあるけど)

178:名無し三等兵
07/11/18 17:00:38
>>175
当時の日本には上陸側が圧倒的に不利という戦訓が無かっただろうから、
今で言う一般的な「撃退」を、敵方の大敗北と記したとしても不思議はない。

数で言えば陸戦での大敗北に匹敵するだけの打撃を与えた、という意味に
解釈するのが自然ではないか。

179:名無し三等兵
07/11/18 17:47:09
>>178
いや、元軍側の史料である高麗史に「大敗北」と書いてあるんだよ。
それと、上陸側が圧倒的に不利だというなら、壱岐に退いた元軍に追い討ちかけ、
更に鷹島までの後退を余儀なくさせた日本軍は、上陸側の不利にもかかわらず
元軍に勝利したわけで、滅茶苦茶強かったってことになるよな。


180:名無し三等兵
07/11/19 02:43:02
壱岐での戦いは上陸戦ではなく水上戦だ。
少弐経資の指揮のもと、
元軍の艦隊泊地に日本軍が櫓漕ぎの小舟で大挙して殴り込みをかけるという
倭冦を先取りしたような内容の戦闘だった。
この戦いで日本側が壱岐へ着上陸を行った、て話は聞かないから
元軍側が戦力を壱岐に揚げて無かったか
既に上陸してた元軍戦力は無視して船だけ襲ったんだろう。
この件に関してもっと詳しいこと知ってる人いたら教えて。

この戦いは六月二十九~七月二日まで続き、最終的にここも支えられなくなった
元軍は東路軍との合流のため平戸へ退いていく。

181:名無し三等兵
07/11/19 08:06:11
そういえば壱岐に上陸した高麗軍はこのとき徹底的な殺戮を行い、生存した島民は47名しかいなかったそうですね

182:名無し三等兵
07/11/19 15:41:40 r2aijxIo
このとき?
それって博多湾に行く途中、最初に壱岐に上陸したときでないの?>殺戮

183:名無し三等兵
07/11/19 16:46:02
その話って、たしか眉唾だって研究もあるよね。

184:名無し三等兵
07/11/20 16:22:12
その話ってどの話かしら?

185:名無し三等兵
07/11/20 18:17:36
最初から兵站が続かない時点で蒙古軍の敗北はほぼ決まっていた。

仮に今、日本がどこかへ上陸したとしても、
補給も補充も一切無しでどれだけ戦えるだろうか?

蒙古帝国が強かったのは遊牧民族であるために、
「遠征」しても兵站が維持されるからだ。

ハマチか何かを養殖しながら船上生活する民族だったら
ひょっとしたら日本も征服されていたかもしれない。

186:名無し三等兵
07/11/20 18:49:02
現地調達ですむと考えてたんだろ
アジアの無人の大草原じゃなくその辺中に人が住んでるとこ侵略するんだから

187:名無し三等兵
07/11/20 20:26:28
兵站物資の大部分が糧食だからな。
それでも日本側が焦土戦術取ってれば戦わずして楽勝できたろうが、
当時の封建社会ではそれやるの絶対無理だし。

臣下といえど実質は地方豪族なのだから現地の意向は無視できん。
残さず根こそぎ持っていくのは侵略側だけに許される自由なんだな。

188:名無し三等兵
07/11/20 20:49:08
昔の戦いは補給の概念がまずちがうからなー

モンゴルみたいな遊牧騎馬民族はまず「奪うために戦う」
自分達が飢えれば他の騎馬民族から羊を奪い、
農耕定住民族からはお宝、穀物、人(奴隷)と何でも奪う。
略奪そのものが彼等の戦争の目的であり生活の一部でもあった。
そして遊牧民族である彼等は
自分達の食糧であり財産でもある家畜たちを軍事遠征でも常に同伴しており、
干し肉やチーズといった形でそこからダイレクトに補給を受けていた。
それ故彼等の軍隊はケタ違いに広い行動範囲と高い機動力を得られたんだ。
だから現代の軍隊で言うとこの補給の概念がどこまであったかはちと怪しい。

ちなみにこいつが悪名高い牟田口の「ジンギスカン作戦」の元ネタになった。

漢人のような定住民族型の軍隊だと現代の軍隊の如き補給の概念が存在し、
馬匹による策源地からのピストン輸送で兵站を支えるシステムになる。
モンゴルも漢人を兵士として使い出すようになってからは
部分的にこちらのシステムに切り替えていったんじゃないかなあ

元寇の場合だと当座は船に積んだ兵糧を使い、占領地域ができた後は
そこでの現地調達でまかなう、という腹づもりだったんじゃないかと思う。
作戦の規模と期間を考えるとそこらへんの見積もりが
ちと甘かったんじゃないか? とは思うけど。


189:名無し三等兵
07/11/20 21:36:58
元の立場から見れば
日本を占領しても利益ないべ

騎馬民族にしてみれば大陸の広い大地は利益になるが
馬を養うのが難しい山だらけの日本占領して何の利益がある。

1回目の目的は偵察
2回目の目的は支配下に置いた宋の残党の厄介払いが目的で、やるきなし。

どっちにしろ外交上(元の覇権を認めろ、元の内政上のご都合)の問題で、戦争が目的じゃないべ。
戦争が目的なら、元の支配本土が打撃受けたわけじゃないんだから、何度でも来るべ。

日本の政治家連中が何を勘違いしたのか、勝利なんてうたうから。

日本がうまみを持つのは、1945年以降 ソビエト連邦を背後から牽制する状態だけ。
アメリカ以外が日本を占領してどんなうまみがある。

190:名無し三等兵
07/11/20 22:14:40
>1回目の目的は偵察
趙良弼の偵察活動は無視ですか。

>馬を養うのが難しい山だらけの日本占領して何の利益がある。
馬を養うのが難しい山だらけの南宋占領して何の利益がある。

>日本の政治家連中が何を勘違いしたのか、勝利なんてうたうから。
その政治家というのは具体的には誰のことですか?

191:名無し三等兵
07/11/20 22:42:38 7UhmH5lm
鎌倉殿(いわゆる鎌倉幕府)の幹部たち
それを綴った『吾妻鑑』を参考にした鎌倉以降の武家や公家

明治期の政治家や学者

192:名無し三等兵
07/11/20 22:55:01
>馬を養うのが難しい山だらけの日本占領して何の利益がある。

 ジンギスカンが金を滅ぼした時にいいました「農民はヌっ殺して畑は牧草地にしてまえ」

 耶律楚材「もちつけ!!農民と畑は生かしとけば毎年年貢をおさめてくけれるぞ」


 馬を養うことの重要性の段階はとっくにおわっトル

193:名無し三等兵
07/11/20 22:57:40
>>189
>馬を養うのが難しい山だらけの日本占領して何の利益がある。

馬を養うに足る地かどうかについて述べているわけじゃないが、
趙良弼も「山水多く、耕桑の利無し」って言ってるな

>>191
>それを綴った『吾妻鑑』を参考にした鎌倉以降の武家や公家

吾妻鏡の記述は1266年までだから、これは当てはまらないかと

>>192
耶律楚材・・・、ね・・・

194:名無し三等兵
07/11/21 03:30:42
元寇ってチョソ語のWikipediaに載ってないな
チョソが日本に侵略した歴史を隠蔽してるのか

195:名無し三等兵
07/11/21 09:04:13
そうでしょうね、彼らにとって自分たちが日本を侵略しようとして失敗したことなどは
消さねばならぬ歴史なのでしょう
九州北部沿岸は何度となく朝鮮人による侵攻を受けています、そのたびに多くの九州人が虐殺、拉致されました
刀伊の入寇なども朝鮮人によるものではないでしょうか
上陸した賊どもは犬を襲って喰っていた、という記録もあります



196:名無し三等兵
07/11/23 15:36:48
94 :日本@名無史さん:2007/11/14(水) 11:04:59
>>92
威力偵察はありえない
恫喝というのはざっくりしすぎだがそっちのほうがまだ該当する
大宰府落せばそれで日本がしっぽ振って朝貢すると思ってたんだろう

ようは自分らに有利な条件で制限なく貿易させろ邪魔すんなよということだよ
なのでモンゴルの軍事力を見せ付けるというのが目的といえば目的
返り討ちにされて全く目的を果たせなかったが

国書の内容
天の恵みを受けたモンゴルの皇帝が日本の国王へ手紙出すよ
俺、おもうんだけどおまえんとこみたいな小国はさ国境を接する国とは仲良くしたほうがよくね?
ましてや俺達モンゴルってば天に世界の頂点約束されてるわけなんよ
隣国どころかすげー遠い国でも俺にぺこぺこしてんぞ?
そういえばさ俺が即位してすぐお隣の朝鮮と講和したらさ
あいつら超しっぽふってきたぞw
おまえらも当然おれの子分になるよな?
俺の代になってからおまえらおれんとこあいさつきてねーけど
きっとおまえら世の中の変化を知らないだけだよな?
しかたねーから俺から手紙だして教えてやったのよ
おれみたいなイケメンはさ全世界を俺の家族だと思ってるんだよねスイーツ(笑)
今から仲良くしようぜ?な?
ちなみに親交をむすばないってんなら家族じゃねーな
俺も軍事力はつかいたくねーからよw
じゃあな!


197:名無し三等兵
07/11/23 19:37:29
フビライはDQNだったのか

198:名無し三等兵
07/11/23 19:56:00
犠牲出してまで占領するほどじゃないってことでしょう。

農業生産なら大陸の南方のほうがおいしいし

民族は従わなそうだし。目ぼしい資源(蚕や生糸や木材なら、大陸で作っているし)なさそうだし。

元の政治権力の鼓舞したいけど、
裏目に出て元の中央で反乱起こされてもたまらないし。

元の視点から辺境にあたる島々に時間兵力、軍備取られて
元の中央や陸続きの南であるベトナムや北であるロシアで反乱起こされたほうが損。

植民なら他にも候補(インドシナ半島、中央アジア、シベリア、ロシア)があるから、採算割れの日本から撤退。

宣伝したい宗教勢力や政治勢力が、
寺社「神風だ」
幕府「幕府は強い。~以下、政治営業発言~~」。

ただまぁ、産業革命以前の木造船&風任せ・海流任せで海渡るのは、別に元じゃなくても困難な作業。
平和な状態でも船が沈むし、病気は起きるし、んな状態で軍備まで回せといわれても、どこの人間でも厳しい。

199:名無し三等兵
07/11/23 20:41:06
>>198
白村江やら朝鮮征討で数万の軍を送った日本は最強ということで

200:名無し三等兵
07/11/23 23:19:14
白村江の戦いで大敗北

別に日本や元に限らず

産業革命以前の船舶で戦争するってかなり無理があるぞ。

帰国分の物資のことも考えつつだから、現場の兵隊が使う物資は更に限られてくるし。

むしろ、よく日本にたどり着けたなと思う。

201:名無し三等兵
07/11/24 00:28:57
>>200
産業革命以前の船舶でだって渡海侵攻による征服なんか何度もおこなわれてる。
イングランドなんか征服されまくりだっただろ。
元寇の艦隊は3ヶ月分の物資が与えられていて、現場の兵隊が使う物資は豊富だった。
元軍は普通に日本軍よりも弱かったから負けただけ。

202:名無し三等兵
07/11/24 03:40:06
>>201
イングランドと日本の気候風土や各種条件の違いを考慮せずに
同列に並べるのは危険だ。
イングランドにゃ台風来ねえしノルマンコンクエストの時は
英軍の主力は上陸したノルウェー軍と戦うためヨークにいたから
ノルマンディー公の軍は無傷で楽々と上陸できたんよ。

元寇レベルの大規模な渡海侵攻作戦が大変なのは
まず第一に船員とか船舶とか、陸戦で同規模の遠征を準備するのに比べて
大量の資本投入が必要になること。
船作るとこから始めると準備に年の単位で時間がかかるし
常備海軍はすげえ金食い虫だ。
元寇の場合はその船や船員を朝鮮側が手配してくれたことでだいぶ
実行へのハードルが下がったわけだけれど。


203:名無し三等兵
07/11/24 03:54:44
あとは兵士がおかれる劣悪な環境の問題。
多数の人間が木造の船に所狭しと積み込まれて、
何日も昼夜を問わず波に揺られながら過ごさないといけない。
海に慣れない将兵は当然船酔いに悩まされたろう。
弘安の時は船内での疫病の発生で3000人も死んでるし。

その上でやっと上陸したと思ったら自分達の見知らぬ土地で
即殺る気まんまんの武士たちと戦わにゃならんわけだ。
こうした要素が将兵の士気に大きく悪影響を及ぼしたことは容易に想像できる


204:名無し三等兵
07/11/24 04:50:05
>>202
文永の役では台風来なかったし、弘安の役でも台風が来たのは侵攻から2ヵ月後。
元からの使者も全員無事に対馬海峡を往復している。
それに比べて、ウィリアム征服王の艦隊は悪天候で一度海峡越えに失敗しているし、
ハロルド二世も海峡で難破した経験がある。
ノルマンコンクエストの方が、元寇よりも気候風土などの条件は厳しかったんだよ。

それにイングランドはノルマンコンクエスト以前にも海外からの侵攻で征服されてるだろ。
991年にはノルウェーのオラーフ・トリッグヴァサンが93隻の船団に兵1万数千を乗せて
エセックス海岸に上陸し、迎え撃ったエセックス伯ビルフトノースがモルドンの戦いで戦死。
1015年にもデンマークのクヌートの侵攻で征服されてる。

渡航侵攻の成否を決定するのは軍の強さ。
元軍はこの部分で武士に劣っていたから敗北した。

205:名無し三等兵
07/11/24 06:07:32
>ノルマンコンクエストの方が、元寇よりも気候風土などの条件は厳しかったんだよ
天候の件は自分の不勉強でした。
>渡航侵攻の成否を決定するのは軍の強さ。
この点に関しては部分的に反論しときたい。
>迎え撃ったエセックス伯ビルフトノース
この時モルドンで襲撃を迎え撃った兵士は200人ぐらいだそうだ。
どーやって勝てっつうんじゃい。壱岐や対馬の戦闘と同レベルじゃないか。

この前後の時期のバイキングの攻撃は基本的に戦術的な奇襲が多い。
敵の防備の薄い部分に船で素早く戦力を集中させ、敵側がそれに
対応する前に目標を達成する、というのが基本的な戦い方で、
襲われる側が防備をがっちり固めていた場合はパリの戦いのようにこう着、
あるいは撃退されることも多かった。

元寇の場合、海軍自体が服従した国家から接収したもので元軍自体は典型的な陸軍。
その点でいわば全員が海兵のようなバイキングとは性質が異なる。
また、渡航侵攻のノウハウの蓄積もあまり多くはなされなかった。
この当時なら三別抄鎮定を初めとする朝鮮半島での戦闘くらいか。
そして元寇に参加した元軍側の将兵はこれほど長距離かつ大兵力での
渡航侵攻は初めてで、改めて遠征用の船を造らせるところから
準備を始めなければならなかった。
そして長期の渡洋侵攻による将兵の士気の磨耗や必要な兵力、兵糧の準備など
未経験である故に見積もりの甘い部分も多かった。

遠征に参加した兵自体は大元ウルスの精鋭も含んでいたし文永では当初
数の面でも圧倒してた。文永の場合は純粋な強さ以外の要素で
決着が付いたんだと考えてるよ。


206:名無し三等兵
07/11/24 06:13:56
ええい!もっと手短に分かりやすく書けないものか。

要するに
「元軍は日本への渡洋侵攻に関する根本的なノウハウを欠いてたから
二度とも失敗したんじゃないか?」ということで
軍隊そのものの強さの差よりもそちらの要因の方が
大きかったんじゃないか、と書きたかったんだ。

207:名無し三等兵
07/11/24 06:51:50
>>205-206
例えば第4次十字軍と比較してどうなの?
第4次十字軍も全員が海兵のようなバイキングとは性質が異なり、主力のフランス騎士たちは
典型的な陸軍。
第4次十字軍も改めて遠征用の船を造らせるところから 準備を始めなければならなかった。
それでもちゃんとコンスタンティノープルを攻め落としてるじゃん。

あと、元寇で長期の渡洋侵攻が将兵の士気に悪影響を及ぼしたというのも疑問。
金方慶は「千里の県軍、其の鋒当たるべからず」という兵法を引用し、 長期の渡洋侵攻によって
将兵の士気が高まってると言ってるよ。

208:名無し三等兵
07/11/24 06:52:41
韓国人には、このとき高麗が日本のためにわざと手抜きした船をつくったおかげで日本は救われたのだから
日本人は子々孫々にいたるまでこの恩を忘れてはならない、と言う人がいますね
在日の「歴史学者」の著書にもそういう記述があり、とても不思議な感じがしました

209:名無し三等兵
07/11/24 07:58:07
>>207
第4次十字軍の遠征を手配したのはベネチアだったな・・・
あん時の攻防戦は8か月の長さに渡ってるから渡洋侵攻作戦というより
普通の攻城戦の性質の方が大きいんじゃまいか。
最大の敵はビザンツの野戦軍ではなく城壁だったわけだし。
初期のイスラム軍に攻められたときゃまだ小アジアの軍管区も、ビザンツ海軍も
健在だったから陸上の補給線を絶つことで撃退できたけど
今回は制海権無いから十字軍側はベネチアによる海上の補給ルートを
普通に使えたろうし、ビザンツ側は既に四方に敵を抱え
後詰めも期待しにくい状況になっていた。

あと金方慶の言葉はあまり鵜呑みにしちゃならんと思う・・・
対馬で配下の高麗兵がよけいな虐殺を働いて本土への上陸をおくらせ、
日本側に防衛の準備を行う時間的余裕を与えちゃってるし
このまま戦っても不利になる一方なのに
「船を焼いてでも戦いを続けよう」とか進言してたりとどうも
状況を読めてないんじゃないかと思える部分がある。



210:名無し三等兵
07/11/24 08:28:22
>>209
作戦が長期に渡ったことや、城壁を乗り越えなければならないことは、
元寇では全部元軍に不利な要素として説明されてきたことじゃん。
比較すれば、元軍の方が第4次十字軍よりも圧倒的に条件面で恵まれてる。
第4次十字軍ではピザンツ軍が十字軍より弱かったから征服された。
元寇では武士は元軍より強かったから撃退できた。
こういうことじゃないの?

211:名無し三等兵
07/11/24 08:40:25
渡洋侵攻して8ヶ月も野戦より兵站に負担のかかる攻城戦をやってたのか
十字軍スゴw

212:名無し三等兵
07/11/24 09:16:21
奇しくもほとんど同年代に行われた戦争だな。
これは以外といい比較対象になるかも
>>210
十字軍が8か月も攻城戦を続けられたのは制海権を握る
ベネチア海軍の補給面でのバックアップがあったからだけど
元寇とちと比較してみよう

・元軍は船の輸送による補給で橋頭堡を維持しようという発想がそもそも無い
 当面必要な物資を全て最初の船団に積み込んで行く、という方式をとった。

・十字軍側はベネチア海軍により制海権を確保していた
 一方元は弘安のときには制海権も日本側に握られがちになっていた

・当時の幕府の統治体制はコロコロと皇帝が変わり、四方に多くの敵を抱えた
 ビザンツ帝国よりはずっと安定したものだった。

・文永以後日本は使者を斬り殺していたため日本側の防衛体制に関する情報が
 元側に入らなくなっていた。
 一方十字軍側は前年に一度コンスタンティノープルに入城しており
 より敵側の防衛体制を良く把握できていた。

・そもそもダーダネルス海峡に神風は吹かない。

・コンスタンティノープル内に多数いたベネチア居留民も十字軍側について抵抗
 
ビザンツ側が有利な点は大城壁とギリシャ火くらいのもんだな。
何より補給面での十字軍側の優遇ぶりがたまらんなー
仮に元寇に関してもベネチア級の海軍が遠征を手配し補給と増援を行ってたら
えらいことになったろうな。

213:名無し三等兵
07/11/24 09:52:13
ベネチアを味方に付ける→勝利
高麗を味方に付ける→敗北

って言いたいんですね

214:名無し三等兵
07/11/24 09:57:15
>>212
補給面で十字軍が恵まれていたというのは間違い。
十字軍も当面必要な物資を全て最初の船団に積み込んで行く、という方式でその後は略奪による現地調達。
常にギリギリの状態で、物資が大量に残っていることを理由に踏み止まった弘安の役の元軍の方があきらかに
恵まれてる。

215:名無し三等兵
07/11/24 11:12:08
>>212
コンスタンティノープル内に多数いたベネチア居留民は、1171年に全員逮捕投獄され、
そのことがベネチアとの対立の原因だったはずだが

216:名無し三等兵
07/11/24 15:28:35
>>215
この戦闘は1204年の話だ
ヴェネツィア人達がコンスタンティノープルにあるイスラム教徒の居住区を襲い
モスクを荒らしたことが戦闘の発端の一つになってるので
逮捕投獄したマヌエル1世が死んだ後いずれかの時点でまた居留地が
作り直されたんだろう。

217:212
07/11/24 16:02:06
ちっと調べ直してみたけど第四回十字軍の
第二次コンスタンティノープル攻囲は1204年4月12日、
都市内の有力な貴族がこぞって逃げ出したことで
攻囲が始まってたった一日でカタがついてるな・・・
8か月てのはなんだったんだwikipediaめ。

あと十字軍の補給体制も>>214のいうような形式だった可能性の方が高いな
適当なこといってすまんかった・・・


218:名無し三等兵
07/11/24 16:30:33
つーわけで
>船の輸送による補給で橋頭堡を維持しようという発想がそもそも無い
というのは当時の渡洋侵攻作戦全般に云えることだったのか。

また、この第二次攻囲で
ビザンツ海軍は高さ十数メートルに及ぶ大城壁に乗り移るため
帆柱の上に「攻撃用の橋」を作り、甲板に
投石防御用の板を立てておくなど攻城機材の準備に余念がなかった。


219:名無し三等兵
07/11/24 17:02:42
>>217
8ヶ月ってのは第一次攻撃と第二次攻撃を一連の戦争として書いてるんだと思ってた。
今考えると少し計算合わないが・・・
wikiの「12月になり遂に城壁への侵入に成功し」は、恐らく「12月」と「12日」を
勘違いして書いてるな。

220:名無し三等兵
07/11/24 18:34:32
元寇と第4回十字軍との比較で言えることは、
第4回十字軍は元よりうまくやった、
日本はビザンツよりうまくやった、ってことであって、
日本が元より強かったという結論にはならんさ。
”文永、弘安の役で”日本が勝ったという事実に変わりがあるわけでもないがな。

221:名無し三等兵
07/11/24 19:49:06
>220
第4回十字軍>元
日本>ビザンツ
は成り立つが
日本と元では比較できない
って変じゃね?


222:名無し三等兵
07/11/24 23:39:17
たとえば、元がヘタしたから日本が勝った、
という場合、日本がビザンツよりうまくやったとイコールではないのでは?

223:名無し三等兵
07/11/25 03:06:57
国書の内容
天の恵みを受けたモンゴルの皇帝が日本の国王へ手紙出すよ
俺、おもうんだけどおまえんとこみたいな小国はさ国境を接する国とは仲良くしたほうがよくね?
ましてや俺達モンゴルってば天に世界の頂点約束されてるわけなんよ
隣国どころかすげー遠い国でも俺にぺこぺこしてんぞ?
そういえばさ俺が即位してすぐお隣の朝鮮と講和したらさ
あいつら超しっぽふってきたぞw
おまえらも当然おれの子分になるよな?
俺の代になってからおまえらおれんとこあいさつきてねーけど
きっとおまえら世の中の変化を知らないだけだよな?
しかたねーから俺から手紙だして教えてやったのよ
おれみたいなイケメンはさ全世界を俺の家族だと思ってるんだよねスイーツ(笑)
今から仲良くしようぜ?な?
ちなみに親交をむすばないってんなら家族じゃねーな
俺も軍事力はつかいたくねーからよw
じゃあな!


224:名無し三等兵
07/11/27 22:01:56 TdoXek0z
皆、元寇について真面目に考察している。いいスレだなあ。

225:名無し三等兵
07/11/28 16:20:02
>220
普通に考えれば、”文永、弘安の役で”日本が勝った以上、
日本が元より強かったという結論になるだろ

226:名無し三等兵
07/11/28 16:28:20
>>225


227:名無し三等兵
07/11/28 21:05:31
こと戦争において、結果的に「うまくやった」ことを「強かった」と称することに
私はそれほど違和感を感じないのですが、感じる人もいるのでしょうか

228:名無し三等兵
07/11/28 21:38:54
勝ったもん勝ちでしょ

229:名無し三等兵
07/11/29 07:57:24
戦争は、勝ったもんが強いとしか言い様がないな、
負けた方が弱いでも良いけど。

230:名無し三等兵
07/11/29 18:58:34
>227
そこは政治の問題

勝ちを宣伝しすぎる。
すると
負けた(と日和見の第三者に解釈される側)が

「弱点と見られて内部や周辺国から革命起こされると迷惑だなぁ。革命抑止と武威威嚇を目的に進軍するか?」
「採算が取れないから撤退しただけで、負けたわけじゃない。証拠に進軍しようか?」


いらない報復を招く。

231:名無し三等兵
07/11/29 20:17:06
終わってから10年とか100年程度しか経ってなくて、まだ歴史になりきってない戦争なら分かりますけど
700年以上前の戦争で「勝利を宣伝しすぎたことによる弊害」を気にしないとならないものなのかなあ

232:名無し三等兵
07/11/29 21:02:29
半島なんか

1200年前という1000年以上前の
白村江
をひきずっていますが。
中東なんかユダヤ・アラブ双方がそれ以上だし。
Chinaも1000年かけて、王朝の分裂・統合を繰り返しているし。
イタリアなんか800年前の1200年あたりの分裂都市国家(ナポリ王国、ミラノ公国、ヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国、中には1000年近く前)のまま、2001年の現世をつっぱしていますし。

京都では一部の人の間(公家や神官)では戦をさすと応仁の乱(1467-1477)のこというし。

あくまで、(700年前なのにー)は日本側の価値観
気持ちは内に秘め、用心にこしたことはないかと。

政治の世界は、何が言質・口実になるかわかりませんから。

233:名無し三等兵
07/11/29 21:14:34
近隣諸国に対する配慮から、>>1の教師みたいな嘘八百を学校で教えることの方が
遥かに弊害が多いと思うけどな

234:名無し三等兵
07/11/30 00:08:18
>>230
実例は?

235:名無し三等兵
07/11/30 15:12:40
>>234
隋の高句麗遠征でどうよ?
服属したはずの高句麗が勝利宣言するから3度も攻めた
採算が取れないから撤退ってのもあてはまるし

ともかく、>>230のいいたいことは
元寇は台風のおかげで勝ったと教育しないと中国が攻めてくるってこと

236:名無し三等兵
07/11/30 15:32:04
中国がそんなアホな国なら、日本には戦争する以外の選択肢はないな。。。

237:名無し三等兵
07/11/30 16:17:00 5ps4sXcU
>>235
実は明の朱元璋も、日本に対して武力侵攻をちらつかせ、脅迫をしてきたことがある。
しかし、それに対する日本からの返答は、

「天下は天下の天下であって誰か一人の天下ではないのです。
我が国には、水沢の地や山海の洲にも
備えがあり、明の武力侵攻を恐れたりはしません
(来るなら来いよwwwボコボコにしてやんよwwww)」

という挑発的なものであった。
当然、朱元璋は激怒したが、あの強大なモンゴル帝国を返り討ちにするほどの日本に、
自分が攻め込んでも勝算は無いと考え、泣く泣く矛を収めるしかなかった。

明史・卷三百二十二列傳第二百十外國三
「帝得表慍甚、終鑒蒙古之轍、不加兵也。」

238:名無し三等兵
07/11/30 16:56:50
>>235
そりゃ内容が伴わないのに勝利宣言するからだよw

239:名無し三等兵
07/11/30 17:08:02
陸続きじゃなくて本当に良かったな

240:名無し三等兵
07/11/30 17:33:17
陸続きじゃなくて良かったのは元の方
陸続きなら日本の方が元を征服していた

241:名無し三等兵
07/11/30 18:09:57
んなわけねーだろ

242:名無し三等兵
07/11/30 18:21:40
モンゴル軍は2回とも鎌倉武士の集団戦法に全く歯が立たなかった
陸続きなら当然あっさりと日本に征服されていたはず

243:名無し三等兵
07/11/30 19:27:53
アジアの大平原で日本の重装備+木曽馬の騎馬武者が勝てるかな?

244:名無し三等兵
07/11/30 19:47:15
木曽馬はまったくハンデにならないよ。
モンゴル軍の蒙古馬と木曽馬は遺伝的にかなり近い種で馬格も同じくらい。

245:名無し三等兵
07/11/30 20:00:49
海越しというハンデを今度はこっちが負う訳だが

246:名無し三等兵
07/11/30 20:08:54
>>245
白村江や朝鮮征討ではハンデになってないが

白村江は当時世界最強の唐水軍にガチで負けた
海越えは日唐両軍とも同じ

247:名無し三等兵
07/11/30 20:22:55
それ以前の391年に海越しで新羅と百済を征服したこともあるね

248:名無し三等兵
07/11/30 20:26:28
時代も状況もまったく違うではないか

249:名無し三等兵
07/11/30 22:38:03 dlpnXbqM
>>223 ドキュ語なんだろうけどスイーツってどういう意味?

250:名無し三等兵
07/11/30 23:10:34
>249
223ではないが


スイーツ=菓子
お前かわいいな、俺の手の上で従ってればかわいいから守ってやるが、逆らえばお菓子のように食うよ?

どうとでも解釈できる、食おうか食うまいか微妙な感情を表した、褒めてるようにもけなしているようにも感じる、政治でよくある政治言語。

政治言語に正式な意味もとめる方が無理がある。
無視するか、意味を考えず書き換えず転載するのが政治答弁に対する処世術。

政治言語には政治言語で返すがよろしい。

251:名無し三等兵
07/12/01 11:55:29 DaiB2gRb
>>249
スイーツ(笑)
にかんしては恋空関連のスレ見てみれば概略理解できると思う
多分その女の文章が発祥だろうな
>>250は意訳として間違ってるわけでもないけど別に政治とは関係ない

252:名無し三等兵
07/12/01 12:03:09
>>1はこのスレ印刷して、授業で配ってみろよ。
これだけ高度な軍事学的知見から、頭の悪い馬鹿左翼教師の嘘が明白に誰にも理解できるだろw

253:名無し三等兵
07/12/01 12:21:58
>>243
蒙古馬やイリ馬も結構小さいから大丈夫と思うよ。
わしは,イリ馬を持っているが100kg以上の人間を乗せても
結構走るし…。
木曽馬も似たようなものではないかな。

254:名無し三等兵
07/12/01 12:28:10
>>253
うらやましいなー
在来馬は消化器官と骨格が頑丈で西洋馬にくらべて怪我に強いらしいね
蹄鉄がいらない理由の一つにそういう身体的頑健さもあるようだね

255:名無し三等兵
07/12/01 12:37:06
>>237
支那涙目だな

256:名無し三等兵
07/12/01 12:44:30
食い物スレだと思って見たみたら
エライ良スレでびっくりした。
お前らすまんかった

257:名無し三等兵
07/12/01 14:35:54
>>194

韓国では「元寇」の事を、「日本征伐」と呼んでいる。

こういう傲慢さはあの国の特徴。

征韓論も日本の「皇」を認めない対応が「無礼」として巻き起こった。
(未だに韓国は日本の「天皇」は「日王」と呼称している。)

話は逸れるが、朝鮮でも開国時に日本の様に攘夷運動があり、
フランス人宣教師9人と8000人ものキリスト教徒を処刑、
アメリカのジェネラル・シャーマン号の乗組員を虐殺した。

報復を恐れた朝鮮は、江戸幕府に救援を要請しているが、
この際に幕府の返礼使節が「大軍」で来ると疑心暗鬼になり、
今度は幕府使節を拒否するという訳の解らない対応をしているw
(ちなみに仏・米は個別に江華島へ報復攻撃を行っている。
米国の侵攻「辛未洋擾」では、戦死者は朝鮮が約350名、米3名だったが、
この惨敗でも、韓国では「撃退・米国に勝利」なんだそうだ…w)


比較して、幕府軍約4万と博多周辺の20㎞の大防塁で元軍14万人と戦い、
元軍11万人を戦死・溺死させる勝利をしても「台風のお陰だよ!」か…
「歴史」って怖いね。

258:名無し三等兵
07/12/02 02:39:43
>>237
そういう他板からのイタイコピペはしなくていいです

259:名無し三等兵
07/12/02 12:58:43
>>258
支那涙目だな

260:名無し三等兵
07/12/02 15:43:36
元寇=韓国大敗戦w

261:名無し三等兵
07/12/02 18:24:40
>>257
征伐されちゃったのは蒙古軍なのにねぇ

262:名無し三等兵
07/12/02 18:48:25
辛未洋擾、丙寅洋擾は米仏が目的を達せないままに引き揚げてるし
李氏朝鮮側の勝ちと言っても良いんじゃないか?
目的の達成のために許容できる損害、とか、そもそも敵の目的不達成が利益となったのかってのはあるけどね
朝鮮半島の黄海側は潮の満ち引きが激しい
そこいら辺の情報を集めてなかった米仏の手抜かりがあった
李氏朝鮮の批判されるべき点は、それについて勝った、と言ったことよりも、
その勝利を欧米列強への侮蔑に繋げて欧化を拒否したことにある、と言える

263:名無し三等兵
07/12/02 18:56:30
>>257
征伐の理由は何と設定してるんだ連中?

264:名無し三等兵
07/12/02 19:53:43
そりゃ倭寇じゃね


中の人の比率はともかく

265:名無し三等兵
07/12/02 20:08:50
>>263
理由なんかいるか常考

266:名無し三等兵
07/12/02 20:12:04
元寇の理由は厨劣王が故郷に帰りたかったから日本征伐を元に吹き込んだからだろう

267:名無し三等兵
07/12/02 20:13:56
そもそも倭寇が活性化したのは文永の役のせいなわけだが

268:名無し三等兵
07/12/02 20:27:42
まあ戦争の大義名分にそんな細かいこと気にするわけが無い

特に時代が時代、国が国だし

269:名無し三等兵
07/12/03 08:22:25
>>263
元の第二次日本遠征に際し、高麗の定慧寺の禅僧冲止(1226~1293)が
日本遠征の威容をマンセーする「東征領」の中で述べたもの↓

皇帝(フビライ)が天下を統御するに
神功は放勲(帝堯)より越えた
徳は寛大で断折を包容し
広い恩沢は隅々にまで及んだ
車は千途の轍と共にし
書は天下の文章と共にした
ただ醜い島夷だけが残り
仮に鼎魚のように群れをなして生きていた
ただ滄溟を隔てていることを頼りにして
よって領域を分けることを図った
苞茅(朝貢のこと)はかつて入ったことがなく
班瑞(朝貢のこと)もまた聞いたことがない
そこで帝がこれに怒って
そのとき我が君に命令した
千隻の龍鵲(軍艦カ)の船と
十万の勇敢な軍兵で
扶桑(日本)の野において問罪し
合浦(馬山)の水辺で軍師を興した
鼓声が大海に鳴り響き
旗は長い雲を揺さぶった
(以下略)

偉大な元皇帝の属国にならないから「征伐」ということらしいよ。

270:名無し三等兵
07/12/03 10:24:16
なるほど時代主義で奴隷根性が骨の髄まで染みとおった朝鮮らしい論理展開

271:名無し三等兵
07/12/03 10:38:47
事大主義だった

272:名無し三等兵
07/12/03 14:38:15
>>270
違うね。
新羅や高麗前期の政権は事大主義といいながら巧みにシナ王朝の動静を利して
国益につなげていた。
それが元の侵攻で三別抄や各地の義軍に加わったような気骨ある高麗人は死滅し
奴隷根性の持ち主だけが生き残ったんだよ。
その後は李氏朝鮮が清に受けた扱いのように、朝貢国というよりは属国として徹底的
に搾取されるだけで、そのしわ寄せがすべて庶民に回ってくる「李朝五百年の腐敗」
が始まるわけで。
文禄・慶長の役で再び数少ない国士が斃れてますます腐敗濃度が濃くなったし。

273:名無し三等兵
07/12/03 16:10:17
>>272
>三別抄や各地の義軍に加わったような気骨ある高麗人

三別抄も裏では元に対して「朝鮮半島南部の支配権を認めてくれるのなら元に直接臣従したい」
とか申し入れていた卑怯者だけどな

274:名無し三等兵
07/12/03 16:58:13
「卑怯」ってのと、「巧みに強者の動静を利して国益につなげる」ってのは
言い方が違うだけでかなり似たようなものなんじゃないかと思うの

275:名無し三等兵
07/12/05 08:25:01
>>274
三別抄のやろうとしたことは国益に反する行為でしょ。
自分たちの利権を守るために、高麗の国土を切り売りしようとしたんだから。

276:名無し三等兵
07/12/05 08:46:52
鎌倉が三別抄を支援していれば元が日本に侵攻する余裕を奪うことができた
という意見があるようですが、どんなものですかね?

277:名無し三等兵
07/12/05 10:55:38
>>275
自分たちの利権のためだろうと、世界最強の蒙古に立ち向かったのは大したもんだと思わんか?
後の「大清国属国」の時代を考えると特にw
日本みたいに大陸の情勢がわからずにうっかり開戦しちゃったのとは違うんだし。
19世紀末にアメリカやフランス相手に交戦したのは明らかに世界情勢を把握していない夜郎自大
だったけどなw

278:名無し三等兵
07/12/05 15:51:40
>>277
三別抄は蒙古に立ち向かうつもりなんか最初からないの。
反乱前、高麗では王族と武臣たちの対立が続いていた。
王族側が上手くフビライに取り入ることに成功し、モンゴル軍をバックに武臣たちを
弾圧しようとしたから、それに反発した三別抄の乱が勃発。
三別抄は南下して半島南部に勢力を築くと、それを取引材料にフビライに直接臣従
しようとした。
つまり、三別抄の立ち向かった相手は高麗王朝で、ようするに国がモンゴル軍に征服され
ようとしてる時に、お互いモンゴル軍の威光を利用して権力闘争していただけなんだよ。

それから、日本が大陸の情勢がわからずにうっかり開戦しちゃったというのは嘘。
日本側は最初から大陸情勢を正確に把握していた。

『外記日記』文永4年11月25日条
「二十五日戊申、高麗の牒状、到来す。蒙古国、高麗を打ち取る。また日本を打つべしとの由と云々」

『元史』にも、元軍を朝鮮半島南部の金州に配備したところ、来日した元の使節が日本側から
抗議されたという記事がある。
当時の日本は、朝鮮半島内の元軍の配備状況まで把握していたってこと。

279:名無し三等兵
07/12/05 15:54:04
>>276
それも間違い。
日本に救援要請してきた時には既に三別抄は壊滅状態だった。

280:名無し三等兵
07/12/09 17:48:25
>>278
>日本側は最初から大陸情勢を正確に把握していた。

が、直接見聞してそれを記録に残していない以上、
どこまで大陸情勢に通じていたか疑問と言わざるを得ない

281:名無し三等兵
07/12/09 18:08:24
>>280
何で?
日本、元、高麗、全ての関係国の文献が鎌倉幕府が正確に大陸情勢を把握してたことを示してるじゃん。

282:名無し三等兵
07/12/09 18:34:35
>>281
なんでそれだけの記述から、最初から大陸情勢を正確に把握していた、ってことになるんだよ
無知ではなかった、と言えるくらいだろ
詳細な記録を残してるんなら、正確に把握していた、と考えてもいいかもしれんが

283:名無し三等兵
07/12/10 17:39:45
相手の事がわからずにうっかり開戦しちゃったのは、ボロ負けしたフビライの方だったな

284:名無し三等兵
07/12/11 08:32:02
元をそそのかして日本侵攻を企てた高麗の愚かさは普通ではないですね

285:名無し三等兵
07/12/11 09:48:12
宋とは存外関係が深かったのであるが。

平家なんかドップリと漬かっていたし、
武家の棟梁は「利権」の大親分の意味合いが濃い。
誰でも「利権」は欲しいが「血統」と「武力」で、
実際にそれを確固としたものにする大義名分が源氏。

鎌倉幕府も正式には交流していないが、
鎮西奉行を中心に宋・高麗との貿易交流は行っていた。
勿論情報も存外大量に集まっていたと推測できる。

それに北条得宗家は禅宗の保護者として名高い。
禅僧から学問を学び長じても相談役として繋がっていた。
その禅僧も中国からの渡来僧・留学僧が沢山いたから、
鎌倉幕府はかなり高いレベルで中国情報を持っていたと思う。

286:名無し三等兵
07/12/11 15:05:21
博多にはかなりの情報が集まっていたでしょうね
博多自体、宋から逃げてきた商人たちによって大きく発展を遂げたわけですから
宋の商人たちも何とか元に一矢報いたいとさまざまな情報を積極的に鎌倉に流したようです
鎌倉側がその情報を十分に活かしたかどうかは議論のあるところでしょうが






287:名無し三等兵
07/12/11 15:28:08
鎌倉幕府は元に対して正確な対応を続けていたのに、これ以上何の不満があるの?

288:864
07/12/11 17:50:04 HhTQKCN6
>>287
>>222>>269

289:288
07/12/11 17:55:09
スマン。途中誤爆だ。アンカーも打ち間違ってるorz
>>287
それについては、>>223,>>269
要するに、日本人から見たら誤りのない対応でも、向こうさんとしては面子を潰されたということになるわけだよ。

290:名無し三等兵
07/12/11 18:02:09
>>289
そういう国に対しては日本も面子を守るために戦うしかないじゃん。
何で戦えば勝てる国の属国にならなくちゃいけないの?
元の属国になり、侵略戦争の尖兵となってこき使われるのが正しいことなの?

291:名無し三等兵
07/12/11 18:07:41
まったく
相手は勝てもしない相手に向かって脅しつけてるわけだよ
アホなのはどっち?

292:288
07/12/11 18:08:50
>>290
待て待て。悪いが、オレは難癖をつけてるわけではないぞ。
別に、元の味方でもない。
小国が属国になるのを拒否して、大国の勘気に触れる。
ありがちだよな、と言いたいだけだ。

293:名無し三等兵
07/12/11 19:30:29
別に元は属国になれと言って来たわけではないし
戦争には勝ったが、慎重に外交してれば避けられた無用の帥で
いらん被害出して、鎌倉幕府滅亡の遠因になっただろ

294:名無し三等兵
07/12/11 20:41:09
>>223で国書の内容が超意訳されてるけれど
これを「属国になれと言ってきた」という内容と見なすのかそうでないのかって
議論があるところなのどうなの

295:名無し三等兵
07/12/11 21:04:35 6SSZbMku
>>292
鎌倉時代の日本は世界でも相当な大国の部類に入る国。
まず小国史観、後進国史観から脱却しましょう。
明治維新まで日本はいつの時代も後れていて小さい国だったという考えに凝り固まっていると真実が見えなくなるよ。

>>293
元の国書はまさに属国になれといってきたもの。
大体、自分を大蒙古皇帝とし日本国王より一段高く書いているくらいだから
完全に日本を臣下扱いだった。
こういう国とは当然対等な外交関係など成り立つはずがないし、正式に臣例を取れば南宋との戦争に借り出されることは必定。
まともに外交なんかしたらそれこそ無用な被害を出さなければならなかった。

あれだけ領土を拡大したモンゴルが日本とだけは対等で健全な外交関係を結びたがったなんて阿呆なこと本気で思っていますか?


296:名無し三等兵
07/12/11 22:03:54
モンゴルと対等で健全な外交関係を結んだ国ってあるの?

297:名無し三等兵
07/12/11 22:06:16
>>295
>大体、自分を大蒙古皇帝とし日本国王より一段高く書いているくらいだから
そんなもん歴代の中華帝国だって全部同じだろw 
「属国」と「冊封・朝貢国」の区別つけろ
モンゴルが中華帝国である「元」になる前に占領された高麗は完全な属国
だったけどな

>正式に臣例を取れば南宋との戦争に借り出されることは必定。 
南宋と断交して元と通交しろ、という国書だと思ったが
どこからそんな妄想がw

298:名無し三等兵
07/12/11 23:05:55
このスレ全部読んですごい参考になった。ありがとう。

299:名無し三等兵
07/12/12 00:12:12
>>297

この時代の、宋の主要貿易相手国ってのが日本なんだっけ?
元側は最初に宋と日本の関係を遮断して、宋の孤立化を計るつもりで最初に日本に使節を派遣したんだろな。


300:名無し三等兵
07/12/12 00:13:58
元の弓と日本の弓の違いによる有利さはどうなの?

301:名無し三等兵
07/12/12 07:19:39
元寇防塁は海岸から約50メートルのところに築かれましたが
それは当時の日本の弓の射程に合わせたものだったと言いますね


302:名無し三等兵
07/12/12 08:11:58
>>297
元は最初から日本の征服が目的だったよ。
だから使者を送るのと同時に日本征服用の戦艦の建造を開始している。
「慎重に外交してれば避けられた無用の帥」なんてのは当時の世界情勢を無視した空想平和主義。

303:名無し三等兵
07/12/12 10:13:44
>>302
使節派遣と同時に艦船建造開始したのは日本が二度までも国書を黙殺した後の
はずだが?

304:名無し三等兵
07/12/12 10:42:21
>>303
艦船建造開始したのは最初の使節の日本滞在中。
つまり日本の対応とは無関係に日本侵略の準備が開始されたってこと。

305:名無し三等兵
07/12/12 19:01:19
何しろ馬王来訪者には苦しめられたからな

306:名無し三等兵
07/12/15 16:52:31
朝鮮が大国の手先になって日本に攻めてくるってのはまさしく明治日本が恐れてたこと
ま戦後はタブー扱いされるわな

307:名無し三等兵
07/12/18 15:25:10
>>306
手先というか場所が悪かったというべきか、それに認識方法がその事大先の位置という
救い様のない思想の賜物というのがなんとも・・・・・・。

308:名無し三等兵
07/12/18 16:42:13
>>306
まあアホすぎれば勝手に潰れて、中国や露西亜の手先になりかねないし
こっちが併合したり保護国にしたりするのは御免被る、つかもう懲りた
適当に援助してホルホルさせとくのが次善の策だったかも知れないが、アホ杉てそれでも潰れそうだし
ホルホルしすぎて勘違いして餌をやる手に噛みつく始末・・・
本当に救いようのない連中だ

309:名無し三等兵
08/01/01 12:26:04
>>297
占城はモンゴルが中華帝国である「元」になった後の「冊封・朝貢国」だけど、
完全な「属国」扱いで東南アジア諸国との戦争に借り出されそうになったから
反乱を起こしたんだよ。
モンゴル帝国と他の歴代の中華帝国とを同列に考えちゃダメね。

310:名無し三等兵
08/01/06 19:45:44
hosyu

311:名無し三等兵
08/01/13 14:11:06 EzpYpo/9
日本軍のモンゴル軍に対する勝利は全世界の戦史に燦然と輝く偉業

312:名無し三等兵
08/01/13 23:52:45
案外、護衛艦がタイムスリップして大暴れしたとか。

313:名無し三等兵
08/01/14 02:05:39
タイ風

314:名無し三等兵
08/01/14 10:27:32 y8KVOgDE
世界中の国がモンゴル軍相手にヒーヒー言ってた時代に、日本だけは楽々とモンゴル軍を粉砕。
大陸の興亡なんて日本から見れば数段レベルの低い争いだったということだ。

315:名無し三等兵
08/01/14 13:38:30
そんなことないだろう

316:名無し三等兵
08/01/14 14:21:34 y8KVOgDE
>>315
何を根拠に「そんなことないだろう」なんて言ってるの?
現実に大陸で圧倒的な強さを誇ったモンゴル軍が鎌倉武士には全く歯が立たなかったんだから、
当時の日本は同時代の大陸より数段進んだレベルだったってことじゃん。

317:名無し三等兵
08/01/14 17:10:16
対馬や壱岐の部隊は蒙古軍が来襲して1~2日程度で玉砕。
伊松に上陸した蒙古軍にも現地部隊が撃破され、
博多湾から上陸した高麗軍にまで現地部隊を撃破される始末。

鎮静軍主力が到着してやっと蒙古軍の進出を停止することが出来たが、
戦場となった百道原は湿原地帯で蒙古軍の機動力が発揮できなかったことが大きな要因と考えられる。

結論
 どちらかというと歯が立たなかったのは鎌倉武士の方であった。


318:名無し三等兵
08/01/14 17:43:01 y8KVOgDE
>>317
対馬や壱岐や博多湾上陸地点を守っていた兵力なんて元軍よりも二桁以上少ない数なんだから、
撃破できるのはあたりまえ。
むしろ対馬制圧に約一週間、壱岐制圧に丸二日もかかってることの方が異常。
あきらかに戦闘力はモンゴル軍よりも鎌倉武士の方が遥かに上。

博多湾から上陸した後だって、鎌倉武士の方はしっかりと騎馬の機動力発揮してモンゴル軍を
圧倒してるのに、地形のせいだなんて言い訳は通用しない。

だいたい、敗北したのはモンゴル軍の方なのに、「歯が立たなかったのは鎌倉武士の方」なんて
結論になるわけないだろ。

319:名無し三等兵
08/01/14 17:52:32
勝つだけなら核で皆殺しだから簡単なんだよ
それで最強名乗っておもしろいかね?

320:名無し三等兵
08/01/14 18:20:34
>>318
>対馬や壱岐や博多湾上陸地点を守っていた兵力なんて元軍よりも二桁以上少ない数なんだから、

現代じゃないんだから、対馬や壱岐をそんなすぐに制圧できるわけ無いだろう常識で考えて。
対馬上陸、撃破、制圧、そして次の目的地への進出準備を1週間で終わらせている。
これはこの時代の軍事レベルからしたら驚異的な速度だぞ?

>博多湾から上陸した後だって、鎌倉武士の方はしっかりと騎馬の機動力発揮してモンゴル軍を

箱崎、今津じゃ蒙古軍に正面撃破されているよ。
博多、百道原方面はよく言って引き分けだよ。両軍戦場から引き上げる結果になってるからね。
鎌倉武士が蒙古軍を圧倒していたならなぜ追撃を行わなかったのか?ということになる。

>だいたい、敗北したのはモンゴル軍の方なのに、「歯が立たなかったのは鎌倉武士の方」なんて

正面戦で勝てなかったのだからまぁ少なくとも「」モンゴル軍が鎌倉武士には全く歯が立たなかったんだか」は否定されるね。


321:名無し三等兵
08/01/14 18:42:08 Ry5NXp3h
武士団は昼過ぎには蒙古軍を海岸まで押し戻してるんじゃないの?

322:名無し三等兵
08/01/14 19:14:45
ご存知だとは思いますが
文永の役のとき戦闘が行われたのは鳥飼、別府、赤坂といった内陸ですよ
百道浜から上陸してきた高麗・元連合軍は一気に西新の南、祖原山へと進出しました
蒙古襲来絵詞で有名な竹崎李長はこのとき自身を含めたわずか五騎で祖原山に奇襲をかけています、当時29歳ですね
鳥飼から西新にかけては湿地帯で騎馬での戦闘には支障があったでしょうね
弘安の役のときは防塁によって上陸を阻まれた高麗・元連合軍は一旦志賀島に集結しましたが
このとき鎌倉側はボートで高麗船を奇襲したり、海の中道から志賀島へ進軍して攻撃したりしていますね
地の利があったとはいえ鎌倉武士たちの活躍ぶりは見事だと思います


323:名無し三等兵
08/01/14 19:36:19
>>320
>対馬上陸、撃破、制圧、そして次の目的地への進出準備を1週間で終わらせている。
>これはこの時代の軍事レベルからしたら驚異的な速度だぞ?

全然速くない。
1019年の刀伊の方が速いし。

>箱崎、今津じゃ蒙古軍に正面撃破されているよ。

それを裏付けるような信用できる史料は存在しない。
モンゴル軍は攻撃目標の大宰府に到達できないまま僅か一日で敗退したんだから、
当然正面の戦闘では鎌倉武士に手も足も出なかったと考えるべきだろ。

324:名無し三等兵
08/01/14 19:39:59
>>316
つか、モンゴル軍の撃退に成功したのは日本だけじゃないし。

325:名無し三等兵
08/01/14 19:59:33
>>324
マムルーク朝がアイン・ジャールートで勝ったモンゴル軍は僅か1万2千程度の兵数。
文永の役のモンゴル軍の約三分の一、弘安の役だと一割にも満たない兵数。
北ベトナムの陳朝だって攻め込まれる度に首都征服され、ゲリラ戦でやっと撃退だろ。
比較すれば、14万もの大軍を九州に橋頭堡を築かせないまま壊滅させた日本の凄さが際立つだけ。

326:名無し三等兵
08/01/14 20:06:51
>>323
>モンゴル軍は攻撃目標の大宰府に到達できないまま僅か一日で敗退したんだから、

敗退?
鎮西軍も策源地まで下がってるだろうが。

>当然正面の戦闘では鎌倉武士に手も足も出なかったと考えるべきだろ。

というのだったらなぜ追撃が行われなかったの?
つまるところ痛みわけだったからではないか。


327:名無し三等兵
08/01/14 20:23:30
なんか、現状を正確に認識しようというよりも、「負け」と言われたくなくて
必死になってるように見えますが。。。

328:名無し三等兵
08/01/14 20:24:58
必ず追撃しないといけないか?

329:名無し三等兵
08/01/14 20:29:15
勝敗はついたけど、敗走する敵を追わなかったという戦闘はいくらでもあるよね。

330:名無し三等兵
08/01/14 20:34:22
「痛み分けだから追撃しなかった」と「追撃しなかったから痛み分けだった」
言葉が逆でも意味は大きく違うわな。

331:名無し三等兵
08/01/14 20:43:33
>>326
日本の史料にも元の史料にも高麗の史料にも「元軍が戦って負けた」と書いて
あるんだから文永の役は「痛みわけ」ではなく明確に「元軍の敗退」。

332:名無し三等兵
08/01/14 20:47:49 2k933+n2
追撃をしない理由がないのに追撃をしない馬鹿はいない
理由がないのに追撃をしなかったとしたら、追撃を出来なかったと考えるのが妥当
では、何故追撃が出来なかったのか?と考えるのがロジック

333:名無し三等兵
08/01/14 20:51:26
>>332
日本軍はしっかりと追撃してるけど。。。
「蒙古襲来絵詞」には敗退する元軍を追撃する武士の様子が描かれている。

334:名無し三等兵
08/01/14 20:53:06
敵戦力が定かではない時は追撃しないという選択もあると思うが・・・。

335:名無し三等兵
08/01/14 20:56:35 2k933+n2
追撃が出来なかったとしたら、ハード面で出来なかったのか?ソフト麺で出来なかったのか?
損得勘定から敢えて追撃をしなかったのなら、それによって何を得たのか?
僕はこう思う!!みたいな小学生みたいなおおざっぱな意見なんかいらない、そう思うに至った過程を端的かつ明確に書け書け

非建設的すぎる

336:名無し三等兵
08/01/14 20:59:45
>>335
だから追撃してるって

337:名無し三等兵
08/01/14 21:05:44
>>335
小学生みたいな癇癪もいらない。

338:名無し三等兵
08/01/14 21:07:53
>>332
>追撃をしない理由がないのに追撃をしない馬鹿はいない

一般的な話だけど、戦闘の目的が敵を退却させる事であって、全滅させることでなければ、追撃はしないよね。
追撃しなかった理由を考えるのは止めないけど、「痛み分け」に短絡するのは良くないよ。
まあ、台風の後に日本に残った元軍の人たちは、掃討・虐殺されたみたいだけど。。

339:名無し三等兵
08/01/14 21:18:10
元軍というより高麗軍ですね
高麗は元の力をバックに日本を侵略できると喜び勇んで出撃したのでしょうが
結果は悲惨なことになりました

340:名無し三等兵
08/01/14 21:19:51
>>335
>ハード面で <--- これは正しく変換できているのに、
>ソフト麺で <--- その直後のこれが変換できないのは興味深い。

給食を食べてる人なのかな?
というか、古い戦闘を分析する上で、何の定義づけもせずに
ハード面、ソフト面という言葉を振り回す人も珍しい。

もちっと冷静になってくれ。

341:名無し三等兵
08/01/14 21:33:38
>>335
>損得勘定から敢えて追撃をしなかったのなら、それによって何を得たのか?
追撃というリスクの回避

342:名無し三等兵
08/01/14 21:35:11
>>335
蒙古襲来絵詞・詞書
「武房に、凶徒赤坂の陣を駆け落とされて、二手になりて大勢は麁原に向きて退く。
小勢は別府の塚原へ退く。塚原より鳥飼の汐干潟を大勢に成り合はむと退くを追ひ
駆くるに馬干潟に馳せたばして、その敵を延す。凶徒は鹿原に陣を取りて、いろいろ
の旗を立て並べて、乱鐘暇なくてひしめきあふ。季長馳せ向かふを、藤源太資光申す。
御方は続き候らん。御待ち候ひて、証人を立てて御合戦候へ、と申すを、
弓箭の道先を以て常とす。ただ駆けよ、とて、をめいて駆く。凶徒麁原より鳥飼潟の
塩屋の松のもとに向け合はせて合戦す。一番に旗指馬を射られて跳ね落とされる。
季長以下三騎痛手負ひ、馬射られて跳ねしところに、肥後国の御家人白石六郎通泰
後陣より大勢にて駆けしに、蒙古の軍引き退きて麁原に上がる。馬も射られずして、
夷狄の中に駆け入り、通泰通かざりせば、死ぬべかりし身なり。思いの外に存命して、
互ひに証人に立つ。筑後国の御家人光友又二郎、首の骨射通さる。同じく証人に立つ。」

元軍は赤坂で日本軍に敗北。
その後、日本軍は麁原まで敗走する元軍を追撃してる。
納得した?

343:名無し三等兵
08/01/14 21:41:39
>>332, >>335 ID:ID:2k933+n2
どうした? 他人の分析と書き込みを心待ちにしているようだけど、
元寇のレポートでも書いてて、提出期限が迫って困っているのか?

344:名無し三等兵
08/01/14 22:08:57 7irO0Uyh
憲法9条のお陰です。

345:名無し三等兵
08/01/14 22:13:40
ここまでのレスで幾つか気になった点を指摘したい。
先ず、南宋は海洋国家の一面も持ち、その交易圏は広大で、
遠くインド洋にまで及んでいた。また、造船技術も
高く、欧州に先駆けること800年、既に密水構造を
完成させていた。(当然、竜骨も備えている)
その南宋が滅亡した崖山の戦いは海戦史上、初めて
火砲が使用された戦いだが、この戦いの南宋側の戦術的な敗因は
1南宋軍の司令官張世傑は船団を連結したため、機動性が損なわれた。
2水場を元軍に知られ、之を断たれた為、脱水症状を
起こす者が続出した、等である。
バイパルスに負けた事と鎌倉幕府にそれぞれ敗北した事を
比較し、バイパルスが勝ったのは一万数千と比較的少数だが
鎌倉幕府が勝ったのは14万だから鎌倉幕府の強さが
際立っているとの趣旨のレスがあったがこれは決定的に
間違っている。そもそもバイパルスが破ったのはイルハン国の精鋭
であり、鎌倉幕府が破ったのは、二線級の戦力であるが
そういった瑣末な点よりも根本的な違い、即ち戦略的状況と
地政学的な相違がある。よって比較するのは無意味である。
またモンゴル軍は決して無敵ではなく、日本やエジプト以外にも、
東南アジア等でも敗北しており、モンゴルに勝利し得たから
と言って日本が格別優れていたとは言えない。ただし、
当時の日本が先進国の一つであった、というのはあながち
間違いではなく、GNPでは上位10カ国に入っている。
さらにモンゴルはその覇業の当初から多民族国家の性格を持ち、
(所謂、バルジュナトもモンゴル人だけではない)殊に経済面
ではウイグル人に実権があった。また南宋掃討戦においても
その司令官(都元帥)は漢民族の張弘範であり、副司令官は
西夏の王族出身の李恒であった。
尚、南宋の残党の一部は南宋滅亡後、ベトナムに亡命し、
対モンゴル戦で奮戦している。


346:名無し三等兵
08/01/14 22:27:29
>>345の補足
中国における密水構造の発見は南宋代ではなく、唐代。

あと言い訳になるけど、只今外出中につき、ちと見辛いかも・・・。
ソースも挙げられないので、その点は御容赦頂きたい。
(手元に無いんですよ。)

347:名無し三等兵
08/01/14 23:04:46
>>345
>バイパルスが破ったのはイルハン国の精鋭であり

これ間違い。
バイパルスが破ったのはフレグ率いるイルハン国の精鋭ではなく、留守を任された
二線級の戦力。

あと、歴史学の基本的な方法論は「比較」。
東南アジアにもモンゴル軍に対して日本ほど圧倒的な勝利を収めた国はない。
だから東南アジア諸国は、日本と違って最終的には元への朝貢を受け入れてる。
元と戦いながら最後まで独立を保ったのは日本のみ。

348:名無し三等兵
08/01/14 23:09:43 o/Wmaut5
蒙古襲来絵詞を見れば解る様に元軍はろくに馬を連れていない。
地に足を付けて戦っている蒙古兵の絵は世界的にも珍しいのではなかろうか?
更に、そもそも軍勢の主力は奴隷たちである。
蒙古兵は見張りとして少数存在しただけ。仮に馬を連れて来ていたとしても、大規模な騎馬戦などは生起しない。

349:名無し三等兵
08/01/14 23:27:59
>>348
ちゃんと蒙古襲来絵詞を見れば騎兵はたくさん描かれてるよ。
それからね、モンゴル軍に蒙古兵が少数で後は征服した民族で構成されてるなんて
ことは当たり前なの。
ヨーロッパに攻め込んだモンゴル軍も、中東に攻め込んだモンゴル軍も、
中国に攻め込んだモンゴル軍も全部同様。
例えば中東に攻め込んだモンゴル軍だと、蒙古兵は見張りとして少数存在しただけで、
軍勢の主力はトルクメン人やタジク人だったんだけど、タジク人ってペルシア系の
都市定住民。
つまり歩兵なのね。

350:名無し三等兵
08/01/14 23:33:39 H+wghIY+
仮に元側が博多に拠点を確保して長期戦になったら、日本側の戦術を把握したり、
日本側からも寝返りがでて危なかったんじゃ?

351:名無し三等兵
08/01/14 23:37:13
>>347
指摘サンクス。
しかし、置かれた戦略的な状況、地政学的な相違を無視するのは
史学のとるところではないと思う。
史学の真価とは、思想や善悪の彼岸から離れた、科学的論理的な
思考と分析にあるのであり、決して単純な比較を以て良しと
するのでは無い。
比較するならば、置かれた戦略状況、地理(軍板的には地政学的な、
と表現したがよいと思う)、文化、政治状況、経済状態、外交関係
・・・そういった全ての把握し得る限りの情報を資料から得て
論理的に思考しなければならない。

確かに、攻撃された東南アジア諸国は朝貢はしたが、実際には
その影響力の排除に成功しており、戦略的に勝利を
得ている点は日本と変わらない。中国諸王朝における
朝貢には文字通りの属国にする場合もあるが、形式に
止どまる例も多く、後者の場合、『独立を失った』とまでは
言えない。

352:名無し三等兵
08/01/14 23:40:28 o/Wmaut5
>>349
あまりにも「蒙古=騎兵」と言う書き込み多かったんでな。


353:名無し三等兵
08/01/14 23:59:31
>>347
それと>>351で書き忘れた事があった。
キト・ブカが率いていた軍勢が留守を守ったのは確かだが、
元々はシャーム(シリア方面)地方をフレグが征服した時の
先鋒隊であって、二線級とは言えないと思うが。(ただし、
規模は変えて無くとも中身を変えた可能性あり)
集史にも『強兵数千の騎兵』と言う表現があった筈。

354:名無し三等兵
08/01/15 00:19:44
蒙古襲来絵詞って、後世の加筆があるとかってしばらく前に話題になっていなかったか?
確かに貴重な史料ではあるが、あれだけに頼るのもどうかと思う

355:名無し三等兵
08/01/15 00:53:41
>>354
本当に疑念を提示したいんなら、
 >しばらく前に話題になっていなかったか?
みたいなうろ覚えをひけらかすのはやめとけ。

356:名無し三等兵
08/01/15 01:04:58
>>354
蒙古襲来絵詞は元寇で実際に戦った人物が残した唯一の史料。
それに、元軍が戦って負けたと書いてある史料は蒙古襲来絵詞だけじゃないし。

『高麗史』八十七巻
「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人。」

『鎌倉年代記裏書』
「十月五日、蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北、」

『帝王編年記』
「六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々。」

357:名無し三等兵
08/01/15 05:01:37 9ixSPqci
>>341
撃退はしたが撃破しての潰走ではなく、追撃隊を伏撃出来る余裕がある状態での後退だった
ということだな
ようするに、分が悪くなったら勢力を保ったまま軍を退いたわけだな

野戦で撃破した潰走する相手を追撃しない理由はないからな
近代以前の戦争での死人なんて大多数が正面戦闘ではなく追撃戦で出てるわけだし

“撃退はしたが追撃出来る余力はなかった”でも我彼差を考えると大戦果なのに、完全勝利厨は何を根拠に敢えて追撃をしなかったなんて言ってるの?
鎌倉武士達は男気溢れるナイス兄貴な集団だったって主張したいわけ?ここ軍板だよ?
追撃すら出来ないのに一方的な勝利のわけねーだろ

358:名無し三等兵
08/01/15 05:25:11
>>357
追撃そのもののリスクを言っているのだろ?
追撃=無敵・一方的な攻撃じゃないわけで。


359:名無し三等兵
08/01/15 07:04:18
川船多数だったという話も。

360:名無し三等兵
08/01/15 07:06:26
>349
んで騎兵の割合はどのぐらいなのよ。
まず数字を出してくれ。
絵図からじゃ元軍も乗馬した将兵がいたということしかわからんよ。

361:名無し三等兵
08/01/15 08:45:49
鎌倉武士は執拗かつ狡猾ですよ
元寇は侵略してきた軍勢を撃退した時点で勝利でしょう
リスクを背負って追撃する必要はありません、鎌倉が朝鮮侵略を考えていたのならば別でしょうが
今まで戦ったことのない戦法をとる軍勢を相手にこれを一日で撤退させた
文永の役での武士たちの戦いぶりは見事です、この戦いから学んで防塁など軍備を整備し
後の弘安の役でも高麗・元軍による日本侵略を許さなかった、これらの戦役はもっと研究されるべきでしょうね
内輪での戦闘ばかりしてきた日本人が「日本」という国家を初めて意識するきっかけにもなったのではないでしょうか

362:名無し三等兵
08/01/15 08:58:48
>>357
史料ではっきりと鎌倉武士が追撃してるんだから、日本軍の一方的な勝利じゃん

363:名無し三等兵
08/01/15 15:33:56
>>357
例え遅滞戦術の末の撃退で追撃戦を行なっていなくても、
最終的に敵に凄まじい損耗を強いたケースは多々ある。
気象条件は確かに大きいが、気象が影響しない戦争などありえない。
また当時の戦況から、「台風が無ければ蒙古軍に日本は占領されていた」
=「蒙古勝利・日本敗北」という展開も、まず考え難いであろう。

「勝敗の判定」は見方によって変わる為に確かに難しい所ではある。
損耗率で敵を上回っても、敵の戦争目的を挫けば勝利と言えるし、
逆に敵に凄まじい損耗を与えた場合だけ、勝利とされる事もある。
しかし「追撃戦」をもって勝敗の判定を行うのは寡聞にして聞かない。
まさか「カンネーの包囲殲滅戦」を敗北とみなしてしまうのか?!

彼我の損耗率で圧倒し、彼の戦争目的を阻み、我の戦争目的を達成して、
「勝利」でないなら、これはもう戦争の議論の範疇から逸脱している。

364:名無し三等兵
08/01/15 16:25:44
追撃されるソフト麺www

365:名無し三等兵
08/01/15 17:02:06
>>345
文永の役の副司令官の劉復亨は、キト・ブカがフレグの先鋒として中東遠征に参加していた時、
モンケ・ハーン直属の武将として萬戸を率いて南宋遠征に参加し、釣魚山攻めで手柄を立てた人物だよ。
元寇の元軍が二線級の戦力なわけないでしょ。
それからキト・ブカが率いていた戦力については、集史に『五千の騎兵と歩兵』と言う表現もある。

366:名無し三等兵
08/01/15 17:04:39
・元軍は「機動力が発揮できなかった」=機動力が発揮できれば日本より強い

地政学上の有利不利や地形もその国の戦力です。
攻め込まれやすい地形と攻め込まれ難い地形で差があるのは当たり前です。
イギリスが島国だから弱かった事になるでしょうか?

「大陸」が島国型の兵備に負けたら「平原機動戦なら勝てる!」
「島国」が大陸型の兵備をしなかったら「平原機動戦なら勝てまい!」
こんなダブルスタンダードは有り得ません。


・元軍は「台風で負けた」=日本に負けた訳ではない

気象条件があるのが当たり前です。
突然の暴風雨や水不足・寒気の所為でどれだけの軍が滅んだか。
偶発性の「台風」でなくとも、日本では荒天は必然だった筈です。

元軍が九州制圧にどれだけの期間を見込んでいたのかは判りませんが、
「夜襲を恐れて船に戻る」戦況が続くとなれば来寇しなかった筈ですので、
短期間で九州を制圧可能と見込んでいたのは間違い無いでしょう。

この見込み違い(見込み違いを生じさせた高麗)が元軍の敗因であり、
更に言えばその見込み違いを生じさせたのは鎌倉幕府軍です。

「夜襲を恐れて船に戻る」戦況が短期間で大きく動いたでしょうか?
(短期間で終わらない限りは、必ず荒天が来るはずです)
台風の損害が船だけに限定され、地上兵力の損害が軽微だったとしても、
船が沈み補給が絶たれた状態で、九州を制圧可能だったとは思えません。

367:名無し三等兵
08/01/15 17:27:23
>>366
元軍が「夜襲を恐れて船に戻る」というのは史料の裏付けがまったくない俗説。
文永の役の元軍は「撤退するために乗船した」と明確に史料に書いてある。
弘安の役でも元軍は日本軍に連戦連敗で台風が来るまでの2ヶ月間逃げ回ってただけだし。
実際、台風の損害は船だけに限定され、地上兵力の損害は軽微だったけど、元軍10万以上は
日本軍の掃討戦で皆殺しにされちゃったのね。

368:名無し三等兵
08/01/15 19:50:15
>>365
文永の役の時、元の精鋭の大半は対南宋戦に投入されている。
問題なのは指揮官よりも率いていた兵力の内容じゃないかな?

集史の表現についてはサンクス。

369:名無し三等兵
08/01/15 20:10:38 Y/wjMWBD
>>368
それは事実だ。高麗征服は主力を南宋戦に派遣して一部を高麗に遣わし、
高麗はその一部にやられた。
だから韓国人の学者がほざいているような高麗人の抵抗でモンゴルはへとへとに疲れて日本が救われたなんていうのは全く事実無根。
しかし俺は中学時代教師にこの韓国人の大嘘を教わった。


370:名無し三等兵
08/01/15 22:47:34
>>354
そのしばらく前のレスを見て貰えれば分かると思うが
後世の加筆がなされてるのは、よく教科書等に取り上げられる部分

従って、元軍の集団戦法、鎌倉武士の一騎打ち、台風による勝利
という教科書どおりの解釈をしている解説は眉に唾をつけて見る必要がある

371:名無し三等兵
08/01/15 23:07:09 Y/wjMWBD
モンゴルは世界帝国で世界史にも大きな影響を与えただけに『蒙古襲来絵詞』は世界中の学者が研究対象にしている。
そしてイルハン国の史書「集史」の挿絵と細部にまで渡って一致している点が多く極めて価値が高い史料という形で史料批判はなされた。
しかし教科書に登場する3人の元軍兵士は他の鎌倉武士の集団騎馬攻撃に逃げ惑い、中には矢が刺さって死んでる兵士たちと色彩や冑など異なっているのでこの3人は後世の加筆で史料としての価値なしと判断された。

ひどいもんだよ。戦後の歴史教育。
世界中の学者の史料批判を経た史料の中で価値が高い部分を全部カットして無価値なところだけ載せて子供に嘘教えるんだから。



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