日中戦争(支那事変)10 参謀本部第二部支那課at ARMY
日中戦争(支那事変)10 参謀本部第二部支那課 - 暇つぶし2ch797:イナゾウ二等軍曹 ◆FU/OcfTlfM
08/01/28 23:49:22 jhUQviyh
さて広田弘毅は、一高を卒業して「東京帝国大学法学部」に進みます。外交官で
キャリア(最主流)になるためには理想的な学歴ですが、これは他の官庁に進む
場合でも同じですね。本来なら「小卒」で終わってもおかしくない貧困家庭の
広田弘毅ですが、やはり福岡(博多)のサポートシステムは恐るべしです。

松岡洋右は「農作業などの重労働」で学費を稼いで、オレゴン大学を卒業しましたが、
大違いですw。ちなみに広田の学力レベルがどの程度だったかというと、中学校の
修猷館では4番目くらい、一高に入るときの成績が10番目だったと云います。まあ、
天才レベルとまでは行きませんが、秀才の中でも上位には入るでしょうね。

さて広田は帝大卒業後の進路として「外務省」を選びます。このバックには、同じ
修猷館(中学)の先輩に当たる『山座円次郎』の勧めがあったとされます―。

798:イナゾウ二等軍曹 ◆FU/OcfTlfM
08/01/29 00:16:31 uT8uKUyw
>>798 >>修猷館(中学)の先輩に当たる『山座円次郎』の勧めがあったとされます。

この山座円次郎もビッグな外交官で、広田の16歳年上です。福岡藩の藩校(修猷館の前身)に
学び、上京して共立学校(開成中学・高校の前身)・東京大学予備門(一高の前身)を経て、
東京帝国大学法科を卒業します。要するに「広田の学歴ルート」とほとんど同じで、先駆者
とも云えます。まあ、広田を「同郷の先輩」が引っ張り上げてくれた訳です―。

ちなみに山座円次郎の東京大学予備門の同期には、夏目漱石、正岡子規、南方熊楠、秋山
真之などの壮々たるメンバーがいます。ちなみに山座が外務省に入った理由も、これまた
修猷館の先輩である栗野慎一郎(外交官・駐米公使・駐伊公使・駐仏公使・駐露公使を歴任)
の引きです。もう延々と同郷の先輩繋がりで辿れそうですが、これも時代でしょう。

自分が大学生の頃は、「47都道府県」の県人会がありました。まだまだ「お子ちゃま」
でしたので、「なんで上京してまで地元の人と必要以上に付き合い直す必要があるのか?」
と思っていましたが、全然間違ってましたねw。やはり単身上京して、もっとも頼りに
なるのは同郷の人間なのです。広田が大学生だったのは、まだ1890年代です―。

799:イナゾウ二等軍曹 ◆FU/OcfTlfM
08/01/29 00:40:17 uT8uKUyw
>>798 >>この山座円次郎もビッグな外交官で

ちなみに山座は、若干34歳で外務省の政務局長に抜擢され、あまりの
有能さで●「山座の前に山座なし、山座の後に山座なし」とまで言われ
ました。

ヒデキの師匠である「日本陸軍の至宝」永田鉄山(軍務局長)にも、
●「永田の前に永田なし、永田の後に永田なし」の謳い文句が残って
いますが、山座は永田の「外務省版」とも云えるでしょう。

山座は小村寿太郎外相のもとで、日英同盟締結、対露開戦外交(宣戦布告文を
起草)、ポーツマス講和会議随員などに携わり、辛亥革命後の支那に特命全権
公使として赴きますが客死―。一説には、袁世凱による暗殺とも言われます。

さて余談が過ぎましたが、広田弘毅は帝大卒業後、そんな山座円次郎の引きで
外交官試験を受けますが、結果はものの見事に落っこちた訳です―w。

800:イナゾウ二等軍曹 ◆FU/OcfTlfM
08/01/29 00:49:47
>>798 >>広田が大学生だったのは、まだ1890年代です―。

◎広田が大学生だったのは、まだ1900年代初頭です―。

に修正しますw。

801:名無し三等兵
08/01/29 01:16:11
イナゾウさんこんにちは.いつも楽しく読ませてもらってます.
お話が,廣田弘毅に及んだので,楽しみにしていましたが,詳しいですねー.
実は,その後輩なのですが,知らんかったことも多々.

お礼と言っては何ですが,修猷館高校(旧制中学)の館歌をご紹介しましょう.

一,西のみそらに輝ける 星の徽章(しるし)よ永久(とことわ)に
光栄(はえ)ある成績(いさお)飾らんと 海の内外陸(くが)の涯(はて)
皇国(みくに)の為に世の為に 尽くす館友幾多(そばく)

よくGHQに,駄目出しくらわなかったものだ.


あと,福岡のサポート体制は,戦前は確かにすごいです.
学校もそうですが,玄洋社,柔道あたりもキーです.




802:名無し三等兵
08/01/30 00:16:21
頭山満が死ななかったら連合国が共同謀議の妄想を無理やり膨らませて
広田の替わりにA級戦犯で死刑になってもおかしくないと思ったりする。
だけど不謹慎ながら一番難儀な裁判になって面白そうだ。

803:イナゾウ二等軍曹 ◆FU/OcfTlfM
08/01/30 00:45:17 wZufWiqe
>>801 >>あと,福岡のサポート体制は,戦前は確かにすごいです.

毎度どうもでございます。自分は九州には昔、北九州市に数時間いて
トンボ帰りした経験ぐらいしかありませんので、地元の方の実感では
どれぐらいのものなのか?、本当のところはよく分かりません。

>>学校もそうですが,玄洋社,柔道あたりもキーです.

福岡出身の著名人と「玄洋社の絡み」だけで小テーマが出来てしまいそうです。
まあ奥が深すぎて、とても他県民には理解が及ばないでしょう。修猷館(中学)は
玄洋社の運動家を数多く輩出し、広田弘毅以外にも中野正剛、緒方竹虎、ついでに
山崎拓wなどなど……。

玄洋社は「柔道の明道館」と「剣道の一到館」を設立し、文武両道の青年の育成を
図りますが、前述のとおり広田弘毅は柔道に打ち込み(明道館)、緒方竹虎は剣道
(一到館)の方です。

804:イナゾウ二等軍曹 ◆FU/OcfTlfM
08/01/30 01:01:27 wZufWiqe
>>お礼と言っては何ですが,修猷館高校(旧制中学)の館歌をご紹介しましょう.

HP見ましたら、学校の歴史が1600年(慶長5年)から始まっていますねw。

>>802 >>頭山満が死ななかったら連合国が共同謀議の妄想を無理やり膨らませて

まあ、GHQは玄洋社のことを●「日本の国家主義と帝国主義のうちで最も気違い
じみた一派」として1946年に解散させていますから、さもありなんでしょうw。
頭山満が1944年に死んでいなかったら、第何次になる分かりませんがA級戦犯の
訴追メンバーには入っていた可能性は高いでしょう。でも90歳超になりますよ、
南次郎の70歳を遥かに上回りますw。

805:イナゾウ二等軍曹 ◆FU/OcfTlfM
08/01/30 01:09:10 wZufWiqe
まあ、ついでに頭山満の言葉で主だったものを挙げますと……。

●「人間は魂さえ磨いて居ればよい。ほかに何も考えることはいらん。
  国も人も魂じゃ。魂の無い国、魂の無い人は、国でも人でもない」

●「人間は火のついた線香じゃ。それに気がつけば誰でも何時かは
  奮発する気になるじゃろう。老若真に一瞬の間じゃ、気を許すな」

●「天下の諤諤(がくがく)も君が一撃に如かず」(大隈爆弾事件の
  来島恒喜葬儀の弔辞)

また頭山満が24歳のとき(1880年前後)、西郷隆盛の旧宅を突然訪ね、
「西郷先生に会いに来ました」と言いました。家人が「西郷先生はもう
亡くなったよ」と答えると、頭山は●「いえ、西郷先生の身体は死んでも
その精神は死にません。私は西郷先生の精神に会いに来たのです」と―。

806:801
08/01/30 01:33:54
>>802
頭山は,たぶん蒋介石が守ってくれたかなと思います.
彼の日本亡命時代の庇護者でしたから.
まーでもその難儀な裁判見てみたい気は私もしますね.
検察側証人にハーバート・ノーマン希望.

頭山は,日中和平工作もいくつかの筋でやっており.
「最後はワシが蒋介石と会う」と言っていたそうです.

>地元の方の実感では
>どれぐらいのものなのか?、本当のところはよく分かりません。
母校の柔道部OBのつながりは今でもけっこう強いものがありますね,

あと,廣田弘毅は,福岡出身の学生向けに「浩々居」と言う寮を東京
に作ってます.場所は変わってますが,今でも杉並区にあるようです.


807:イナゾウ二等軍曹 ◆FU/OcfTlfM
08/01/30 01:44:49 wZufWiqe
>>799 >>さて余談が過ぎましたが、広田弘毅は帝大卒業後、そんな山座円次郎の引きで
>>外交官試験を受けますが、結果はものの見事に落っこちた訳です―w。

少し時系列を整理しておきましょう。広田弘毅は1905年に帝大を卒業し、
外交官試験を受けますが、ものの見事に落っこちます。そして翌1906年に
再チャレンジして合格、外務省に採用されました。このとき同期入省だったのが
広田と同い年の吉田茂で(1878年生まれ)、ちなみに『一発合格』ですw。

さらに前述したように、松岡洋右は1880年生まれですから、広田と吉田よりも2歳年下
になります。しかし松岡の外務省入省は1904年の『首席合格』で、年次的には逆転
している訳です。まあ広田は、松岡と比べて「2浪2留」のようなものかとw。

よく松岡洋右の外務省入りが「日露戦争」の徴兵忌避と批判されることがありますが、
時期的には広田弘毅もほとんど同じです。とはいうものの、日露戦争は1905年に
終わってしまいますから、松岡は1年の差ですが入省の年があまり良くなかった
(後世の批判の対象になる)ことになります。また広田弘毅を外務省に引っ張った
山座円次郎が、支那で客死したのは1914年です―。

808:名無し三等兵
08/01/30 10:28:06
むしろ日本では名乗りは自分でやるのが普通だったんだが・・・
それと、庶民風云々は筋違いですね。
例えば金さんなら、遠山左衛門尉金四郎景元。
このうち金四郎が通称(もしくは幼名)、景元が忌み名。左衛門尉は官位。
自ら忌み名をつけることを名乗りをあげると言う。

809:イナゾウ一等軍曹 ◆FU/OcfTlfM
08/01/30 23:09:44 o4dY1pe1
>>806 >>頭山は,たぶん蒋介石が守ってくれたかなと思います.
まあ、頭山満も支那問題を考えるうえで、いつか取り上げなければならないテーマです。

>>808 >>むしろ日本では名乗りは自分でやるのが普通だったんだが・・・

まあ、その辺の明治での感覚はよく分かりません。広田の両親は、ただ「丈夫に
育って欲しい」という素朴な願いから「丈太郎」と名前を付けました。広田が
改名を決意したきっかけは中学時代に日清戦争が始まり、その後の『三国干渉』
による屈辱が忘れられず、「外交の重要性」を痛感したからと云います。そして

>>788 >>『論語』の「士不可以不弘毅」(士はもって弘毅ならざるべからず)から採って
>>「弘毅」に変名したのです。ちなみに「弘」は広い見識、「毅」は強い意志を表します。

となります。ただ東京裁判で収監中、「親が付けてくれた名前を変えたのは少し悪かった」
という心境を述べていました。

810:イナゾウ一等軍曹 ◆FU/OcfTlfM
08/01/30 23:35:45 o4dY1pe1
>>807 >>少し時系列を整理しておきましょう。

話は前後しますが、割と重要なところなのでもう少し補足しておきましょう。
広田が「弘毅」に改名して中学校を卒業したのが「17歳」です。その年に
第一高等学校へと進み、寮に入ります。やがて仲間の5人で小さな家を借り、
「浩浩居」と名付けて共同生活を始めました。

ここで重要なポイントは、のちの広田の妻となる「月成静子」が弟2人と共に
「浩浩居」に移り住み、炊事洗濯の世話をしながら自身は女学校に通い始めた
ことです。月成静子は、広田の隣町に住んでいた幼馴染の少女でした―。

幼馴染が自分の所に押しかけてくるなんて、どこのエロゲーか(核藁)と一瞬
思ってしまいますが、弟2人のこぶ付きと仲間との共同生活なのが玉に瑕ですw。
まあ、前の方で、さも広田弘毅が福岡のサポートシステムのお陰で、松岡洋右と
比べて苦労していないかのように書きましたが、間違いでした。結構、苦労して
います。でも広田の周りには、いつも福岡の同郷人が身近にいたことでしょう―。

811:イナゾウ一等軍曹 ◆FU/OcfTlfM
08/01/31 00:04:14 o4dY1pe1
もうお気付きの方もいると思いますが、広田の進学年齢はかなり遅いものです。
東京帝国大学に入学したのが「24歳」ですから、現代の感覚ですと大学院まで
卒業できてしまうような年です。

大学在学中に、前述の山座円次郎(福岡出身。当時、外務省政務局長)と運命の
出会いを果たす訳ですが、これも「玄洋社の頭山満」の紹介によるものです。

山座は既に述べたとおり小村寿太郎外相の腹心的存在で、日英同盟成立にも
関わるほか、孫文がシンガポールに脱出するための資金を秘かに工面してやる
など、玄洋社の国士ばりの行動もありました。

その一方で、●「彗星の尾を貫くやほととぎす」など優れた俳句や格調高い
文章を書き、幼いころ玄洋社の教育機関で漢学や漢詩を学んでいた広田とは
意気通じるものがあったでしょう。広田にとっては山座は自分が目標とする
「理想の外交官」像だった訳です。そして山座も広田の面倒をよく見ました。

812:イナゾウ一等軍曹 ◆FU/OcfTlfM
08/01/31 00:33:11 ccjfx8Z7
山座円次郎が広田弘毅に残した言葉に、以下のようなものがあります。

●「外交官は自分の行なったことで、後の人に判断をしてもらう。それについて
 弁解めいたことはしないものだ」

東京裁判で広田が一切の自己弁護を拒否し、絞首刑の判決を受けて従容と死を
選んだのは、山座の教訓が効いているのかもしれません。まあ、のちの話です。

>>810 >>幼馴染が自分の所に押しかけてくるなんて、どこのエロゲーか(核藁)と
>>一瞬思ってしまいますが、

押しかけ云々は誇張ですが、後の広田の妻となる月成静子は『玄洋社幹部の娘』です。
父親は月成功太郎と云いますが、来島恒喜と共に大隈重信暗殺計画にも関わっています。
実行直前になって、来島に「お前は妻子ある身だから」と月成は制止された訳です。
史実の来島は、大隈に爆弾を投げつけて片足を吹き飛ばし、その後自決しています。

813:祀られる風の人間 東風谷早苗 ◆FU/OcfTlfM
08/01/31 00:57:06
>>812 >>後の広田の妻となる月成静子は『玄洋社幹部の娘』です。
         _
       _....(゚ー゚)
     , ´  ⌒ヽi)  
     i|(( ) )) )iリ
      (リ,i;゚ ヮ゚ノョ'   少し訳ありの彼女さん、という訳ですねw。
      ゙,ヘi_i][i,l\ []
     <_/ノ:;:;:;ヽ>ij^)
      `¨i.ラi.ラ'´  (
        ̄  ̄

814:イナゾウ一等軍曹 ◆FU/OcfTlfM
08/01/31 01:09:04 ccjfx8Z7
まあ、「福岡人で玄洋社と関係皆無の人間などいない」と言われますが、

広田弘毅は一体「玄洋社社員」そのものだったのか、一定の距離を置いて
「単に近しい存在」だったのか、文献によって、てんでバラバラで他県民は
判断に困りますw。しかし幼馴染の奥さんの例を見ても分かるとおり、
「全く無関係」とは決して言えないでしょう。

そしてGHQが「玄洋社」を目の仇にしていたことは、広田の死刑判決にも
少なからぬ影響をしています。

815:三途の水先案内人 小野塚小町 ◆FU/OcfTlfM
08/01/31 23:36:05
>>809 >>ただ東京裁判で収監中、「親が付けてくれた名前を変えたのは少し悪かった」
>>という心境を述べていました

   ,>ッ-ヘ。__。ヘ
. / ,レ, '´゚   `,〉
( (( i ハ)))ハ))ノ)
 ` ,)).イオi ゚ ヮ゚ノヘ    もうすぐ親父殿や母上殿に会いにいくんだから、
  ((  .,ぐ`i盃、ツぅ    神妙になってくるのは当然さね。
     ,メ∪イ-i、ゝ. \
      ゙'ーi_'ォ_ァ"

816:イナゾウ一等軍曹 ◆FU/OcfTlfM
08/02/01 00:07:49 j2HSOJSs
>>811 >>大学在学中に山座円次郎(福岡出身。外務省政務局長)と運命の出会い

東京帝国大学在学中、広田弘毅は山座の指示で『休暇旅行』の体裁を取りつつ、
シベリアや満州へ調査旅行を行ないます。これは日露戦争が始まる前年の1903年
のことで、学生の身分を隠れ蓑にした『半分スパイ』みたいなものです。

余談ですが「東亜同文書院」が上海に設立されたのが1901年で、日露戦争を目前に
控えて、外務省は根津一院長に対して支那西北地方におけるロシアの浸透状況の
調査を依頼します。結局、第2期生の卒業生5人が派遣され、その報告書の謝礼金を
もとにして、卒業論文のための支那調査旅行―『大旅行』が制度化されることに
なりますが、まあ別の話です。

いずれにせよ、学生の広田弘毅(25歳前後)が日露戦争を直前にして同様の
情報収集活動に駆り出されたのは事実です。そして外交官としての素質を計る
ために、山坐が広田に課したテストだったことは明らかです。

817:イナゾウ一等軍曹 ◆FU/OcfTlfM
08/02/01 00:49:49 j2HSOJSs
そして広田の調査報告書は「出色の出来」で、日露戦争開戦の判断材料にも
実際に使用されたと云います。当然の事ながら、外交官としての素質を計る
山座のテストには合格な訳で、今に喩えてみれば企業のOB訪問に大成功した
ようなものでしょうか。しかも広田の場合は、自身が希望していた外務省です。

しかし前述したように広田は東京帝国大学を卒業後(27歳)、外交官試験を
受けますが、ものの見事に落っこちますw。一説には英語が基準に満たなくて
切られたようです。東京裁判中、板垣征四郎は●「巣鴨で英語ができるのは
広田だけ」と日記に書き残していますので、その後は克服しているでしょう。

失意の広田弘毅は、在日アメリカ公使館付武官の通訳として働き、生計を立てます。
そんななか、幼馴染の「玄洋社社員の娘」月成静子と結婚しまして、江ノ島へ新婚
旅行に行きました。●「いつかダイヤの指輪を買ってやるから」と照れて笑いながら
広田は「貝細工の指輪」を静子に与えます―。

その後、朝鮮総督府の外務省属官として静子とともに京城に渡り、辛うじて外務省との
繋がりも維持していくのでした。


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