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そして広田の調査報告書は「出色の出来」で、日露戦争開戦の判断材料にも
実際に使用されたと云います。当然の事ながら、外交官としての素質を計る
山座のテストには合格な訳で、今に喩えてみれば企業のOB訪問に大成功した
ようなものでしょうか。しかも広田の場合は、自身が希望していた外務省です。
しかし前述したように広田は東京帝国大学を卒業後(27歳)、外交官試験を
受けますが、ものの見事に落っこちますw。一説には英語が基準に満たなくて
切られたようです。東京裁判中、板垣征四郎は●「巣鴨で英語ができるのは
広田だけ」と日記に書き残していますので、その後は克服しているでしょう。
失意の広田弘毅は、在日アメリカ公使館付武官の通訳として働き、生計を立てます。
そんななか、幼馴染の「玄洋社社員の娘」月成静子と結婚しまして、江ノ島へ新婚
旅行に行きました。●「いつかダイヤの指輪を買ってやるから」と照れて笑いながら
広田は「貝細工の指輪」を静子に与えます―。
その後、朝鮮総督府の外務省属官として静子とともに京城に渡り、辛うじて外務省との
繋がりも維持していくのでした。