08/01/31 00:04:14 o4dY1pe1
もうお気付きの方もいると思いますが、広田の進学年齢はかなり遅いものです。
東京帝国大学に入学したのが「24歳」ですから、現代の感覚ですと大学院まで
卒業できてしまうような年です。
大学在学中に、前述の山座円次郎(福岡出身。当時、外務省政務局長)と運命の
出会いを果たす訳ですが、これも「玄洋社の頭山満」の紹介によるものです。
山座は既に述べたとおり小村寿太郎外相の腹心的存在で、日英同盟成立にも
関わるほか、孫文がシンガポールに脱出するための資金を秘かに工面してやる
など、玄洋社の国士ばりの行動もありました。
その一方で、●「彗星の尾を貫くやほととぎす」など優れた俳句や格調高い
文章を書き、幼いころ玄洋社の教育機関で漢学や漢詩を学んでいた広田とは
意気通じるものがあったでしょう。広田にとっては山座は自分が目標とする
「理想の外交官」像だった訳です。そして山座も広田の面倒をよく見ました。
812:イナゾウ一等軍曹 ◆FU/OcfTlfM
08/01/31 00:33:11 ccjfx8Z7
山座円次郎が広田弘毅に残した言葉に、以下のようなものがあります。
●「外交官は自分の行なったことで、後の人に判断をしてもらう。それについて
弁解めいたことはしないものだ」
東京裁判で広田が一切の自己弁護を拒否し、絞首刑の判決を受けて従容と死を
選んだのは、山座の教訓が効いているのかもしれません。まあ、のちの話です。
>>810 >>幼馴染が自分の所に押しかけてくるなんて、どこのエロゲーか(核藁)と
>>一瞬思ってしまいますが、
押しかけ云々は誇張ですが、後の広田の妻となる月成静子は『玄洋社幹部の娘』です。
父親は月成功太郎と云いますが、来島恒喜と共に大隈重信暗殺計画にも関わっています。
実行直前になって、来島に「お前は妻子ある身だから」と月成は制止された訳です。
史実の来島は、大隈に爆弾を投げつけて片足を吹き飛ばし、その後自決しています。
813:祀られる風の人間 東風谷早苗 ◆FU/OcfTlfM
08/01/31 00:57:06
>>812 >>後の広田の妻となる月成静子は『玄洋社幹部の娘』です。
_
_....(゚ー゚)
, ´ ⌒ヽi)
i|(( ) )) )iリ
(リ,i;゚ ヮ゚ノョ' 少し訳ありの彼女さん、という訳ですねw。
゙,ヘi_i][i,l\ []
<_/ノ:;:;:;ヽ>ij^)
`¨i.ラi.ラ'´ (
 ̄  ̄
814:イナゾウ一等軍曹 ◆FU/OcfTlfM
08/01/31 01:09:04 ccjfx8Z7
まあ、「福岡人で玄洋社と関係皆無の人間などいない」と言われますが、
広田弘毅は一体「玄洋社社員」そのものだったのか、一定の距離を置いて
「単に近しい存在」だったのか、文献によって、てんでバラバラで他県民は
判断に困りますw。しかし幼馴染の奥さんの例を見ても分かるとおり、
「全く無関係」とは決して言えないでしょう。
そしてGHQが「玄洋社」を目の仇にしていたことは、広田の死刑判決にも
少なからぬ影響をしています。
815:三途の水先案内人 小野塚小町 ◆FU/OcfTlfM
08/01/31 23:36:05
>>809 >>ただ東京裁判で収監中、「親が付けてくれた名前を変えたのは少し悪かった」
>>という心境を述べていました
,>ッ-ヘ。__。ヘ
. / ,レ, '´゚ `,〉
( (( i ハ)))ハ))ノ)
` ,)).イオi ゚ ヮ゚ノヘ もうすぐ親父殿や母上殿に会いにいくんだから、
(( .,ぐ`i盃、ツぅ 神妙になってくるのは当然さね。
,メ∪イ-i、ゝ. \
゙'ーi_'ォ_ァ"
816:イナゾウ一等軍曹 ◆FU/OcfTlfM
08/02/01 00:07:49 j2HSOJSs
>>811 >>大学在学中に山座円次郎(福岡出身。外務省政務局長)と運命の出会い
東京帝国大学在学中、広田弘毅は山座の指示で『休暇旅行』の体裁を取りつつ、
シベリアや満州へ調査旅行を行ないます。これは日露戦争が始まる前年の1903年
のことで、学生の身分を隠れ蓑にした『半分スパイ』みたいなものです。
余談ですが「東亜同文書院」が上海に設立されたのが1901年で、日露戦争を目前に
控えて、外務省は根津一院長に対して支那西北地方におけるロシアの浸透状況の
調査を依頼します。結局、第2期生の卒業生5人が派遣され、その報告書の謝礼金を
もとにして、卒業論文のための支那調査旅行―『大旅行』が制度化されることに
なりますが、まあ別の話です。
いずれにせよ、学生の広田弘毅(25歳前後)が日露戦争を直前にして同様の
情報収集活動に駆り出されたのは事実です。そして外交官としての素質を計る
ために、山坐が広田に課したテストだったことは明らかです。
817:イナゾウ一等軍曹 ◆FU/OcfTlfM
08/02/01 00:49:49 j2HSOJSs
そして広田の調査報告書は「出色の出来」で、日露戦争開戦の判断材料にも
実際に使用されたと云います。当然の事ながら、外交官としての素質を計る
山座のテストには合格な訳で、今に喩えてみれば企業のOB訪問に大成功した
ようなものでしょうか。しかも広田の場合は、自身が希望していた外務省です。
しかし前述したように広田は東京帝国大学を卒業後(27歳)、外交官試験を
受けますが、ものの見事に落っこちますw。一説には英語が基準に満たなくて
切られたようです。東京裁判中、板垣征四郎は●「巣鴨で英語ができるのは
広田だけ」と日記に書き残していますので、その後は克服しているでしょう。
失意の広田弘毅は、在日アメリカ公使館付武官の通訳として働き、生計を立てます。
そんななか、幼馴染の「玄洋社社員の娘」月成静子と結婚しまして、江ノ島へ新婚
旅行に行きました。●「いつかダイヤの指輪を買ってやるから」と照れて笑いながら
広田は「貝細工の指輪」を静子に与えます―。
その後、朝鮮総督府の外務省属官として静子とともに京城に渡り、辛うじて外務省との
繋がりも維持していくのでした。