08/01/30 01:44:49 wZufWiqe
>>799 >>さて余談が過ぎましたが、広田弘毅は帝大卒業後、そんな山座円次郎の引きで
>>外交官試験を受けますが、結果はものの見事に落っこちた訳です―w。
少し時系列を整理しておきましょう。広田弘毅は1905年に帝大を卒業し、
外交官試験を受けますが、ものの見事に落っこちます。そして翌1906年に
再チャレンジして合格、外務省に採用されました。このとき同期入省だったのが
広田と同い年の吉田茂で(1878年生まれ)、ちなみに『一発合格』ですw。
さらに前述したように、松岡洋右は1880年生まれですから、広田と吉田よりも2歳年下
になります。しかし松岡の外務省入省は1904年の『首席合格』で、年次的には逆転
している訳です。まあ広田は、松岡と比べて「2浪2留」のようなものかとw。
よく松岡洋右の外務省入りが「日露戦争」の徴兵忌避と批判されることがありますが、
時期的には広田弘毅もほとんど同じです。とはいうものの、日露戦争は1905年に
終わってしまいますから、松岡は1年の差ですが入省の年があまり良くなかった
(後世の批判の対象になる)ことになります。また広田弘毅を外務省に引っ張った
山座円次郎が、支那で客死したのは1914年です―。