08/01/14 22:49:37 VKfPTywH
>>661 >>もっと早く、できれば満州事変前に外交を指導したかったのが、
>>松岡の本音ではないでしょうか。
さて満州事変です。日本が満州国を建国するなか(1932年9月15日正式承認)、
国際連盟は1932年12月に「満州事変問題」を特別総会にかける事になりました。
同じ年の9月にはリットン調査団から報告書が提出され、その「対日勧告案」が
ジュネーブ特別総会での採択を待つ状況だったのです。翌10月には、松岡が
日本側の首席全権として送り出されました。
日本国内の状況もゴタゴタで、第2次若槻礼次郎内閣が満州事変の処理をめぐる
閣内不一致で総辞職(1931年12月)、後を継いだ犬養毅内閣も金解禁の後始末を
したはいいが「5・15事件」で海軍将校に暗殺されました(ちなみに井上準之助も
同年に血盟団によって射殺されています)。
その後を継いだのが元海軍大将の斎藤実内閣ですが、問題の外相が内田康成でした。