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>>674 >>同時に松岡の日本人離れした気質
1941年の太平洋戦争開戦直前に松岡が失脚したあと、軍務局長の武藤章は
佐藤賢了(陸大卒業後の海外駐在で米国へ)に対して、
●「松岡は協調性がない。あれでは一定の地位に長く留まることはできない。
彼はトルコかどこかで参事官か何か勤めたのを最後に外務省から消えたが今に
してその理由が分かった。彼が何を考えていたのか俺には結局分からなかった」
と答えています。しかしトルコ云々は正確ではありません。松岡の外務省での
最終ポストは、大連総領事です。松岡は一旦はベルギー勤務を命ぜられましたが、
「これからの日本には大陸が大切だから」として中国勤務を望んだと云います。
松岡の職歴を挙げると、はじめは領事館補として中華民国の上海へ。その後、関東
都督府に赴任して後藤新平(初代満鉄総裁)や三井物産の山本條太郎の知遇を得ました。