08/01/01 20:57:48 xQiCeZdH
>>576 >>そして翌3日の午前、ついに武力衝突が勃発した訳です―。
日本軍と衝突したのは、日本の陸士留学組で35歳の軍長・賀輝祖が率いる
第40軍の兵士だったと云います。
衝突の原因は、満鉄の機関紙的存在だった『満州日報』の販売店で革命軍兵士が
掠奪を働いた(日本側言い分)とも、その販売店の近くに反日宣伝ビラを貼ろう
としたら日本人が妨害した(支那側言い分)とも云いますが、どちらでも良い
でしょう。要するに、似たような衝突が同時発生的に各所で起こった訳です。
そして同日には上記のように、双方の軍使の役割を急遽担っていた佐々木が
リンチに遭います。職務からとはいえ、「自分で蒔いた種」と言えなくもない
でしょう。翌4日までの戦闘で早くも支那側の死傷者は1000人を超えたと
云います。日本側は、軍人の戦死者が10人、民間居留民の死者が13人でした。