08/01/01 20:04:26 xQiCeZdH
斎藤旅団長は、上司の福田彦介中将(第6師団長)の許可を取らず、現場の
独断でこれを受け入れました(>>540も参照)。警備区の土嚢、拒馬(きょば:
柵などの障害物)、鉄条網、その他の防御設備を取り除いてしまいます。
斎藤少将はあくまで無用の衝突を避けるために「宥和的な態度」を取った
訳ですが、これは結果的に仇となりました。支那の土人相手に「こちらが
妥協したから向こうも…」あるいは「こちらが善意なり誠意を見せれば…」
と見返りを期待するのが根源的な大間違いなのです。
防御設備を撤去したおかげで、支那の土人兵どもが日本軍の警備区域内に
入り込んできて、かえって摩擦が強くなりました。そして翌3日の午前、
ついに武力衝突が勃発した訳です―。
その当時、支那側の異常な「対日敵愾心」にヒートアップするかのように、
日本側も異様に殺気立っていました。若い将校の中には佐々木に、●「なぜ
革命軍のために世話を焼いているのか!?」と詰め寄ってくる者もいたと云います。