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さらに済南城内の民家の壁や街路樹に、『反対・日本出兵』『排斥・日本帝国
主義』と書いた反日ビラを貼って回りました。また日本人の住居には、北伐の
とばっちりを避けるために「日の丸」が掲げてあったのですが、それを引き摺り
下ろして破って足蹴にさえしました。
このため日本軍と南軍に衝突が起きましたが、このときは現場の団長(連隊長)が
駆けつけて陳謝したため収まりました。しかし、翌日の5月2日には蒋介石自身が
済南に入城してきます。
蒋介石は「日本軍の撤兵」と「日本人居留区の警備区域の撤去」、そして中国人に
対する日本兵の態度が不遜だとして、日本兵の取締りを要求しました。言いも
言ったりです。これに対して福田第6師団長は、「不遜なのは南軍の方だ」として
その要求を当然拒否しました。
何しろ「田中・蒋会談」が物別れになって(密約の有無はともかく)僅か半年後の
ことです。蒋介石は、田中の山東出兵はもちろん、日本側のやることなすこと全てが
北伐への妨害に見えて激しい敵意を燃やし、一触即発の緊迫した状況が続いていました。