07/09/17 22:14:52 asAj8s07
まあ、ヒデキが人事権をにぎる陸軍大臣になると(1940年7月)、そう時を
置かずして多田駿は予備役に編入です(1941年9月)。それでも2ヵ月前に
『大将』の栄誉には付いている訳ですから、骨肉の争いの幕切れとしては上々の
締め括りではないでしょうか。
ちなみに多田駿は、1945年12月「A級戦犯」の容疑で逮捕。1948年
12月下旬には釈放される事になっていましたが、僅か1週間前に胃癌で死去
しています―。
失敗に終わった「トラウトマン工作」で多田は唯一の和平継続派だった訳ですが、
蒋介石にとってみれば『十把一絡』だったのでしょうか。数少ない支那事変の
『不拡大派』であっても、経歴の「満州国軍政部最高顧問」「支那駐屯軍司令官」
「北支那方面軍司令官」などが相殺として効いていたかもしれません。
更に余談ですが、1939年8月成立の阿部信行(陸軍大将)内閣では、
多田駿が「陸軍大臣」に決まりかけていました。