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「やがて同期の宇治田直義らの奔走で北京に渡り、朝日新聞にいた中山優の
居候となり、同窓の世話で天津の邦字紙『京津日日』の経済記者となった。
そのころ北京には、朝日新聞に大西斉、毎日新聞に波多野乾一といった
大物が特派員として健筆を振るっていた。
1923年、波多野が毎日新聞を辞めて『京津日日』の北京版、『北京新聞』を
主宰すると里見は請われて編集長となった。当時の中国の邦字紙は、切り抜き
記事を取り扱うのが常道であったが、両名は中国研究のための邦字紙とする目的
で、電報以外はほとんど書き下ろしで全紙を埋めた。人手が少ないため一人で
数百行を書いたという。
波多野が『時事新報』の特派員となって転出すると、里見が代わって主幹と
なったが、社の財政事情が苦しくなり里見は満鉄の嘱託となった―」(続く)