村上春樹「日本の兵士は消耗品として、きわめて効率悪く殺されていった この効率の悪さ、非合理性こそがアジア性だ」 [511393199]at POVERTY
村上春樹「日本の兵士は消耗品として、きわめて効率悪く殺されていった この効率の悪さ、非合理性こそがアジア性だ」 [511393199] - 暇つぶし2ch1:的井 圭一
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著者は、冒頭近くで、自分がノモンハン事件に強く惹かれる理由を考察している。
少し長いが引用しておこう。
『それは、この戦争の成り立ちが「あまりに日本的であり、日本人的であった」からではないかと。
(中略)にもかかわらずそれは、日本人の非近代を引きずった戦争観=世界観が、ソビエト(あるいは非アジア)という新しい組み替えを受けた戦争観=世界観に完膚なきまでに
撃破され蹂躙された最初の体験であった。
しかし残念なことに、軍指導者はそこからほとんどなにひとつとして教訓を学ばなかったし、当然のことながらそれと同じパターンが、今度は圧倒的な規模で南方の戦線で繰り返されることになった。
(中略)そしていちばん重要なことは、ノモンハンにおいても、ニューギニアにおいても、兵士たちの多くは同じようにほとんど意味を持たない死に方をしたということだった。
彼らは日本という密閉された組織の中で、名もなき消耗品として、きわめて効率悪く殺されていったのだ。
そしてこの「効率の悪さ」を、あるいは非合理性というものを、我々はアジア性と呼ぶことができるかもしれない。
戦争の終わったあとで、日本人は戦争というものを憎み、平和を(もっと正確にいえば平和であることを)愛するようになった。
我々は日本という国家を結局は破局に導いたその効率の悪さを、前近代的なものとして打破しようと努めてきた。
自分の内なるものとしての非効率性の責任を追及するのではなく、それを外部から力ずくで押しつけられたものとして扱い、外科手術でもするみたいに単純に物理的に排除した。
その結果我々はたしかに近代市民社会の理念に基づいた効率の良い世界に住むようになったし、その効率の良さは社会に圧倒的なな繁栄をもたらした。
(中略)でも、そうなのだろうか?表面を一皮むけば、そこにはやはり以前と同じような密閉された国家組織なり理念なりが脈々と息づいているのではあるまいか。
僕がノモンハン戦争に関する多くの書物を読みながらずっと感じ続けていたのは、そのような恐怖であったかもしれない。
この五十五年前の小さな戦争から、我々はそれほど遠ざかってはいないんじゃないか。』
僕には、著者のこの文章がいまだによく理解できないでいる。
敵の兵力や当時の情勢を無視した無謀な作戦を立案し、実行しようとした関東軍の参謀たちを「効率の悪さ」(あるいはアジア的)という言葉で語り尽くせるのだろうか…。
僕には、それが「アジア的」というより、あるいは「日本的」というより、人間の精神の根っこの部分に存在している「悪霊のようなもの」ではないかと思う。
「悪霊のようなもの」がやってくるところ。
今回、本書を読み直してみて、僕は、こんな風に思った。
著者がノモンハン事件にわけもなく惹かれたのは、そこに、日本人の精神の深層に潜む「悪霊のようなもの」の存在を感じとったからではないか?
 奥泉光の「東京自叙伝」の主人公であった「地霊」のように、「悪霊のようなもの」は、その時代の最も典型的な人物に取り憑き、人々や国家を破滅に導いていく。
「悪霊のようなもの」が属する世界は、僕らの住む日常のすぐそばに存在しているが、普段は隔てられ、行き来することはできない。その

続き・詳細はそーす
村上春樹「辺境・近境 ノモンハンの鉄の墓場」
URLリンク(nightlander.hatenablog.com)


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