関ヶ原の戦いは10万人VS8万人←しょぼすぎる 612年の第二次麗・隋戦争は100万人VS200万人だぞ? もうホルホルはやめろ [856316242]at POVERTY
関ヶ原の戦いは10万人VS8万人←しょぼすぎる 612年の第二次麗・隋戦争は100万人VS200万人だぞ? もうホルホルはやめろ [856316242] - 暇つぶし2ch1:まんn (ワッチョイ 5bbe-KVfn)
16/09/15 22:27:54.99 eaLxizyU0●?2BP(1000)
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東洋経済オンライン 9月15日 6時0分
416年前の本日9月15日は、あの「関ヶ原の戦い」が行われた日だ(ただし旧暦)。戦いに勝利した徳川家康は、ついに幕府開設へと突き進むことになる。文字どおり、関ヶ原は「天下分け目の戦い」だった。
この戦いで、当初「勝利は間違いない」と見られていた石田三成率いる西軍は、わずか1日で敗北した。
一般的には「小早川秀秋による裏切りによって勝敗が決まった」とされているが、その裏切りを後押しした「真の裏切り者」の存在はあまり知られていない。「その戦国武将」は、いったい誰なのか。
「日本史を学び直すための最良の書」として、作家の佐藤優氏の座右の書である「伝説の学習参考書」が、全面改訂を経て『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』として生まれ変わり、
現在、累計15万部のベストセラーになっている。本記事では、同書の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、関ヶ原の戦いの「本当の裏切り者」を解説する。
以下ソース
URLリンク(zasshi.news.yahoo.co.jp)

第二次麗・隋戦争(612年):
第二代皇帝煬帝は607年大部隊を率いて長城地帯を視察し、その帰途東突厥の啓民可汗の帳を訪れた。
たまたまそこに東突厥との連携を図ろうとする高句麗の使節が居合わせた。煬帝はその使節に対して、帰ったら汝の王に来朝するように伝えよ、
もし来朝しなければ、啓民を率いて、汝の国土に攻め入るであろう、と恫喝した。しかし、高句麗の嬰陽王は少しもそれに屈せず、無言でもって入朝を断った。
そのため、612年正月、隋の煬帝は、113万3,800人の兵(200万と号す)の大軍と、それに倍する輜重隊で構成される前代未聞の大部隊を率いて高句麗遠征を開始した。
左右それぞれ12軍に別れて兵を進め、宇文述・于仲文らの9軍30万5千人が鴨緑江の西辺に集い、高句麗に侵攻したが、勝つことができなかった。


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