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菊田組(的屋・元岐阜芳浜会)菊田吉彦 昭和45年直系若衆
瀬古安会・鈴木康雄(安璋煥) 昭和46年直系若衆
昭和37年、横浜の錦政会(現・稲川会)が岐阜に進出して来た時に、地道行雄の舎弟になる。
昭和39年、瀬古安組安璋煥組長は拳銃密輸で逮捕され第一次頂上作戦の真っ最中もあって、40年4月
引退を声明、幹部野田弘治を二代目に指名し刑務所入りした。
この襲名で内紛がおこり、ゴタゴタが絶えなかった。46年6月、安璋煥は出所する。
二代目野田弘治に詰め腹を切らせ三代目に返り咲いて瀬古安会と改名する。
いっぽう菊田組も組長は"あぐらかき"の異名の通り、組内実力者の稼ぎの上であぐらをかき、下の評判が
よくない。瀬古安会会長は自宅を新築し子分から多額の祝儀をせしめていた。
53年6月、菊田組長も豪邸を新築し披露宴を開き、子分から祝儀三千万を持参する。
金額を見ると不機嫌になり五千万用意しろと怒鳴った。菊田組の幹部は反撥する。
瀬古安会と菊田組は岐阜の山口組系団体として幹部たちは親睦の「兄弟会」をつくり交流していた。
菊田組のクーデターは瀬古安会に伝染する、反乱の下地は充分にあった。
瀬古安会では野田弘治副会長(前二代目)をはじめ5人の最高幹部、菊田組からは実力者近藤慶文舎弟頭を
はじめ4人の幹部らが合流して脱退集結した。脱退者は両組あわせて五百人、全体の約九割となる。
子分たちは親分に引退を願い出て、二つの組を合併し、親分を顧問として面倒をみると申し入れる、代表
が同時に神戸に出向き若頭山本健一に、事情を陳情し、本家に弓をひくものでないことを説明した。
7月11日夜、首領が撃たれる。造反九組長は心配したが、若頭山本健一の決定は7月28日に下った。
二人の親分は不祥事を起こしたと除籍処分となる。山健組直系の名古屋の組長が後見役をつとめ、岐阜の
勢力は山健の支配下に入ってしまった。
昭和53年8月8日、岐阜市に近い関市の料亭に九組長は参集「山心会」を発足させる。
新親分を選出することなく、九人の組長で組織する合議制で組を運営し上納金はなし。