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足りずに海水浴客が民家の軒先を借りるほどの人出があった海水浴場としての賑わいは過去のものと
なった[19]。 尚、三崎港の干上がり現象は、1703年12月31日(旧暦11月23日)の元禄大地震でも発生
した。復旧費用は江戸幕府の援助のみでは足りず、旗印を掲げた船で沖を通る船から寄付を集めたと
される。馬ノ背洞門 侵食によって岩がメガネ状に繰り抜かれたアーチ状の岩(海食洞門)で、赤羽根
崎の突端にある。1923年以前は洞門下を小船で通航できたが、関東地震による隆起で陸化した。地震に
よる隆起現象を今に伝える存在である。稀に上部を歩く観光客がいるが、幅が狭い上既に亀裂が
入っており、崩落の可能性があるので危険である。電灯 三崎には1913年に電灯が点灯したが、城ヶ島
はその後もランプを使用していた。1928年1月25日、三崎町議会は城ヶ島電灯敷設工事負担金5000円の
うち、2000円の町費補助を決定。これにより、三崎に遅れること15年にしてようやく城ヶ島に電灯が
点灯した。同時に、アセチレンガスを光源としていた城ヶ島灯台の光度が2万燭光[20]から一気に12万
燭光へ引き上げられた。城ヶ島の大火 城ヶ島では1808年と1936年に大火が発生しているが、本稿では
1936年2月2日に発生した大火について述べる。1936年2月2日午前2時30分頃、城ヶ島の集落西端から
出火した。出火当時、風速10メートルを越える西風が吹いており、炎は藁葺き屋根を伝って瞬く間に
全集落に広がった。当時の三崎~城ヶ島間の交通は舟のみであったが、三崎から消火救援に漕ぎ出た
船は波をかぶって転覆、警官や電灯会社員は泳いで島に辿り着いたという。また桟橋がなかったため、
ガソリンポンプを運ぶ舟がポンプを降ろし終えた時には既に出火後30分以上が経過しており、手が
付けられない状況であった。要塞施設も延焼の危険があったが、午前6時頃になってようやく鎮火。
被害は全島119戸中、焼失106、半焼大破3、被災者591人というもので、文字通りの焦土と化した。
尚、三崎消防組小頭の藤井助次郎、筒先の石橋三郎の2名が放水中に3,300ボルトの電灯高圧線に触れて
感電、殉職している。被災者に対する支援として白米72俵の炊き出しが行われ、女学校生徒が交代で