09/10/31 00:41:43 GFFqY6tc0
私が住んでいた集落はたしか20世帯くらいだったと記憶しているが、たしか
に環境は悪く、共同井戸と共同便所があり、近くの公園の水飲み場からよくヤカン
を持って水くみもしていた。電気はきていた。しばらくして水道が敷かれたら
家(バラック)の横にドラム缶の風呂を造った世帯もあった。ドラム缶風呂から
友達と3人で顔を出しているモノクロ写真が今でもアルバムにあるが、それは
すべて悲惨な過去ではなく、私にとっては楽しい思い出になっている。便所のカメ
桶がすぐにいっぱいになって困ったものだった。プロパンガスはあったが、夕方
になると皆、家の前で七輪で煮炊きをしていた。家とはいっても長屋だったので
隣の声や音は筒抜けだが、夫婦仲の悪い世帯はなかったようだが、子供のいない
家庭のほうが多く、私と同世代の子供は集落の中で5人しかいなかった。戦後に
いったん朝鮮に引揚げたが、38度線で子供を死なせてしまい、また日本に来た
(密航)夫婦や、親日と罵られ戻れない私の一家や、済州出身の年齢のはなれた
夫婦や、片足の無い一人暮らしのオジサン、日本人の一家など、記憶している
だけでも様々な人々がいたが、当時は北だ南だの感情は無かった。そのうちに
各戸で赤ちゃんが生まれると、皆でモチ米をふかしてお祝いしたりしたが、そこ
で生涯を終える人もいた。葬式がどのようなものだったかは記憶に無い。その
うち帰国船で朝鮮に帰る人が出始めた時期から感情の亀裂が生じ出した。朝鮮に
帰る帰るなで言い争いがあったことは覚えている。子供同士でも同じで、互いに
罵りあったりしたのは思い出したくない記憶だが、今考えても心がいたむ。集落
は東京オリンピックのころに消滅した。いまでは跡形も無い。私はそのころから
自分はいったい朝鮮人なのか韓国人なのか日本人なのかわからずに今まで生きて
来た。