10/05/21 23:22:09 W//uSbOl0
>>606
この「恩」や「忠義」にセンシティブな感性がはぐくまれた人種は、
例外なく自分以外の他者に寛容だ。
あの「人は寛容」という表現をする時の人間のメンタルロジックには
明確な規則がある。
それは自分が投入した労よりも大きな報酬を返してくれるか否か?という
各個人の定量的な計算があるんだな。
見ず知らずの信徒の悩みと懺悔を聞きいれ、神の代弁として「許し」を
授けてくれる司教などが器が大きく、寛容な風情であるのはその為。
彼ら司教には共通した特徴があって、信心生活のなかで、聖書や他の司教
に「許し」を与えられ、人生を宗教に捧げるほどの感銘を受けた経験を
持っているという事だ。そして、そういう只の「言葉」にすら心を奮わせる
センスを持っている。
その後、自身が司教となった時にそれらの貯金を信徒に分け与えるのだな。
只の言葉にそれだけの報酬を得るセンスを持っているのだから、他の人が
なんの感謝も恩も感じない事にも彼らは反応しているもので、同じ人生を
歩んでも、残飯の君らとは貯金の量が違うのだな。
これは単純に目に見える形では、同じような家庭に生まれ同じように育てら
れたのに親を大事にする子供と、親に逆らってばかりいる子供という現象で
説明ができるな。センスが悪い子供は「恩知らず」なわけだよ。
娘の場合、嫁入り前に残飯となるし、結婚しても旦那のあら探しという
誠に傲慢で心の卑しい女となる。君らのことだな(笑