09/10/12 01:32:13 TJtuWgu1
>>283
> いうなれぼ、師団長の方針、命令に違反して捕虜として収容したことになる。
> そして後日、何のとがめもなかった。
この解説は、児玉氏の証言(>>268)と師団長日記にある記述との整合性を解釈する上では、
まるで的外れで頓珍漢な主観的意見なので、少しはまともな執筆者が書いている「南京戦史」
の文章とは俄に信じられないのだが、板倉由明当たりだとこんなこじつけ解釈もやるかも知れないな。(笑)
いずれにしても、普通に解釈すれば、12月14日に捕縛した投降兵数千人(7200人全部ではない!!注)
を一旦「捕虜として」どこかの施設に一時的に収容したのは間違いないが、彼等がその後殺害されなかった
という証拠はナニもない。むしろその多くは日本軍の規定方針に基づけばそのまま別な所に移されて(下関)
処刑された可能性が圧倒的高いと考えるのが自然である。
中島師団長の陣中日記との整合性で言えば、7200人を一片に片付けるには「相当大ナル壕」が「見当ラ」
無かったに過ぎず、その場で即刻殺さないで場所を移動させた、と解釈すれば、全然無理がなく、従って捕虜
の護送に当たった(?)児玉義雄第38聯隊副長が師団側から「命令違反」で「咎め」を受ける理由も全く
なかったわけである。(笑)
(注)第16師団 歩兵第30旅団
>歩兵第38連隊戦闘詳報 第12号附表
>昭和十二年十二月十四日
>[俘虜] 将校70、准士官・下士官7130
>[備考] 俘虜7、200名は第十中隊堯化門附近を守備すへき命を受け同地に在りしが十四日午前八時三十分頃数千名の
>敵白旗を揚げて前進し来り午後一時武装を解除し南京に護送せしものを示す