09/10/11 02:11:19 1ynfrWJw
【まとめレス:中島氏団長日記記載について・・・(´・ω・`)】
肯定派が『藁にもすがる想い』で引用する中島師団長日記が以下・・・(´・ω・`)
★URLリンク(wiki.livedoor.jp)
大体捕虜はせぬ方針なれば・・・此七、八千人之を片付くるには相当大なる壕を要し中々
見当らず、一案としては百、二百に分割したる後、適当のカ処に誘きて処理する予定なり。
上記を読むと、『捕虜を取らず、すべて殺害していた』かの様な印象を受け、肯定派が好んで
ミスリード用ソースとして引用しているが、、この中島師団長の言に対して、第38連隊副官児
玉義雄氏が猛烈に反対している・・・(´・ω・`)
■URLリンク(wiki.livedoor.jp)
師団副官の声で、師団命令として「支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ」と電話で
伝えられた。私は、これはとんでもないことだと、大きなショックを受けた。
結局、中島師団が捕らえた捕虜は殺害されず、護送されている・・・(´・ω・`)
■URLリンク(wiki.livedoor.jp)
また歩兵38連隊は12月14日、7,200人の投降兵を武装解除して収容し、捕虜として
後日南京城内(第一監獄所)へ護送している。
では、何故、中島師団長が『捕虜はせぬ方針』と解釈していたのか?・・・こんなソースがある・・・(´・ω・`)
■URLリンク(www.geocities.jp)
「南京戦史」
中央部は「捕虜と呼ぶな」といい、現地軍の最高司令官は「釈放せよ」といい、
参謀長は「俘虜を作れ」と言っているのである。
これと全く反対に「捕虜を取るな」といっているのが中島師団長であった。
中島師団長の十二月十三日の日記には「捕虜にはせぬ方針なれば片端より片付くることとなし・・・」
がある。この方針が次官通達の「捕虜と呼ぶな」を「捕虜を取るな処分せよ」と誤って解釈したものか、
或は師団長独自の見解をもって決心したものかは判然としない。
(「南京戦史」P341)
要するに、単なる中島氏団長の勘違いだった可能性が高い・・・(´・ω・`)