09/01/09 22:00:41 0
ノエイン
まなざしというのは、ある価値に従って、評価するという面を含んでる。近代というのは、
価値がいわばピラミッド状になってたわけ。その価値のピラミッドに人々は囚われていた。
まなざしの地獄というのは、いってみれば、近代そのものといえる。パノプティコンみた
いなもの。こういう考えが七十年代に見られたというのは、ある断絶があって、近代が終
わったのかどうかは知らないけど、近代とは何かが見えるようになったからであろう。今
は、近代を支えた価値が崩れ、まなざしもフラットになった。ぱっと見が全てなのだ。萌
え~。先生といわれていたような人たちは、軒並み冷たい目に晒されている。もちろん、
新聞という近代的なメディアもだけど。ああやって、近代の価値を個人にまで浸透させて
いたわけだ。
理想、夢、虚構というのは、近代の進行そのものです。近代の価値というのが、だんだん
磨り減って行く。しかし、急ピッチなんだよね、この国では。ここまで急に崩れていく(?)
というのは、どうしてなんでしょうか。脱構築的風土のなさる業か。虚構というのは、世
界が、同時に入っていったともいえるけど。
プレ近代のコミュニティにもまなざしはあっただろうけど、まなざしの地獄というより、
黒木和雄「祭りの準備」(注)なんかを見れば分かるけど、人と人との距離が近くて、大変
そうです。もちろん、今みたいに、人と人の距離が遠くても、つらいものがあるけど。
(注)日本のプレ近代を捉えた数少ない映画と思う。多くは、やたらと美化されるか、や
たらと反措定みたいにされて、ちっともリアルでない。